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やっぱりカーディナルだった


スプリングコートさえもいらないほどぐんぐん気温が上昇し、間もなく傘が大活躍する季節がやってくる。オフィス内で仕事をしていたら忘れてしまいそうになるけれど、この時期はとてもじめじめしていてじっとりと嫌な汗をかくほど暑い。日焼けはしたくないけれど暑いのも嫌。そんな我儘はまかり通らないので、私は暑さを我慢して薄手のカーディガンを羽織っている。すっかり日が長くなったとは言え、夜の8時を過ぎればさすがに世界は真っ暗だ。
私と黒尾さんが別れてから1ヶ月が過ぎようとしていた。彼に別れを告げられた直後は、このまま死んでしまうんじゃないかと思うほど気分が落ち込んでいて、信じられないことに体調を崩して仕事を休むほどの重症だった。今まで体調不良で仕事を休んだことなどない私が、初めて休みをもらった理由が失恋のショックで体調を崩してしまったから、だなんて。笑えることではないがもはや笑うしかない。ちなみに、不健康な方法ではあるけれど、ちょっぴり体重が減った。それだけは不幸中の幸いだったかもしれない。
別れてからというもの、彼に会うために何度もあのお店の前まで足を運んだ。けれど、中に入ることはできなかった。そして今日。私はまた性懲りも無くお店の前に立っている。すぅ、はぁ。1度、2度、深呼吸をしてから意を決して扉に手をかけて開けば、カラン、という乾いた音が懐かしい。約1ヶ月という時間をかけて漸くここに踏み入ることができた。それは私の中で、彼に関する心の整理ができたということなのだろうか。どんな大恋愛であっても色褪せる時はやってくる。つまりはそういうことなのだろう。
店内の雰囲気は当たり前のように変わっていない。落ち着いていて物静かで、心が凪ぐ。私は、以前までは週に何度も腰を下ろしていたカウンター席の椅子に、久々に座った。そしてそこから、彼のいるであろう方向へ顔を向ける。しかしそこに、彼の姿はなかった。
ご注文は?と問いかけてきたバーテンダーさんは彼ではない。もしかしてテーブル席の方にいるのだろうかと不審がられない程度に確認してみるがやっぱり彼の姿はなくて、それまでの緊張が急に全身から抜け落ちていった。なんだ、いないんだ。それに安堵しているような寂しさを覚えているような、自分でもよく分からない感情が渦を巻く。
私はとりあえず適当なお酒を注文してからぼんやり考えた。この時間に休憩を挟むことはないはずだから、今日は恐らく休みなのだろう。ということは明日ここに来れば彼は出勤しているだろうか。どちらにせよ、出直す必要があることは間違いない。どうぞ、とお酒を出してきたバーテンダーさんに、私は何の気なしに尋ねてみる。黒尾さんは今日お休みですか?と。ちょっとした確認のつもりで尋ねただけだった。というのに、そのバーテンダーさんのさらりとした衝撃的な返事に、私は顔を強張らせるハメになる。

「黒尾さんなら2週間ぐらい前にやめましたよ」
「え?」
「それが何か…?」
「いえ…ちなみに理由は?」
「さあ…僕は特に聞いていませんが」
「そう、ですか……」


恐らく黒尾さんより若いであろうそのバーテンダーさんは、お知合いですか?と続けて話を振ってきたけれど、私は適当な相槌を打つのみで完全に上の空だった。やめた。あの黒尾さんが。バーテンダーとしての仕事をあんなに楽しそうにしていた、あの黒尾さんが。やめた。このお店を。バーテンダーという仕事を。そんなの、何か特別な事情があるとしか思えない。
別れてから連絡をすることはなかったし、そもそもそんな勇気もなかった私ではあるけれど、このお店を辞めたときいてしまったら躊躇していられなくて、連絡をしてみようかと携帯を取り出す。まだ繋がるだろうか。連絡先変えたりしてないかな。着拒とか、そういうことされてたらさすがにヘコむな。まあ1ヶ月前に散々ヘコんだからこれ以上ヘコまされたってどうでもいいんだけど。
そうやって、彼の連絡先を表示してある携帯と睨めっこしている時だった。すみません、と声をかけられて顔を上げる。そこに立っていたのは年配の、確かマスターと呼ばれているこのお店のオーナーさんだった。


「失礼ですが、黒尾君とお付き合いされていた方では…?」
「え…まあ……1ヶ月前までの話ですけど…」
「黒尾君からですか」
「はい?」
「別れを切り出したのは、黒尾君の方からですか」


突然話しかけられただけでも驚きだったのに、その内容に更に驚きを隠せない。マスターはなぜそんなことをきいてくるのだろう。別れを切り出したのは彼からか。そうだったら何だというのか。古傷を抉られてじくじくと痛む心臓を落ち着かせるようにお酒を流し込んでみたけれど、私の胸は騒ついたままだ。
恐らく、私は相当気難しい顔をしていたのだろう。マスターが慌てて、突然不躾な質問をしてしまい申し訳ありません、と謝ってきた。そして続けて、とんでもないことを口走る。


「もしも彼から別れを告げたのであれば、それは本意ではないと思うので」
「…どういう意味ですか?」


マスターの言葉を聞いて思わず食い気味に尋ねてしまったけれど、こればっかりはどうしようもなかった。だって彼に関する大切な情報かもしれないのだ。なりふり構っていられない。
マスターはほんの少しだけ答えるのを躊躇っている様子だったけれど、ここまで言ってしまったのならもうはぐらかすことはできないと判断したのだろう。なぜか、申し訳ない、という枕詞をつけてから重たい口を開いてくれた。


「黒尾君がこのお店を辞めたのは私の力不足が原因なんです」
「そう…なんですか…?」
「あなたとの別れを選ばせてしまったのも」
「ちょっとよく意味が分からないんですが…」


そうして話してくれた内容は、私の思いも寄らぬ展開だった。
彼にはかねてから、付き合ってくれないかと迫ってくる女性がいたらしい。私は知らなかったのだけれど、その女性のアプローチは私と彼が付き合っている間も続いていたそうだ。彼はああいう性格だからのらりくらりと躱し続けていたようなのだけれど、ついに女性の方が本気を出した。それがちょうど1ヶ月ほど前のこと。
彼女はこのお店の土地を管理する不動産会社社長の娘だったらしく、恐ろしいことにその権力を振りかざし彼を脅しにかかったのだ。自分と結婚を前提に付き合ってくれなければこの土地を買い占めてお店を潰す、と。どこまで本気だったのかは定かではない。彼女にそこまでの権力があるのか、それは実現可能なことなのか。全ては未知だった。ただの脅しで、そんなことがそう簡単にできるはずがない。
そう思っていたけれど、もしも彼女の発言が本気で、このお店が潰されるようなことになったら?それは防げた事態を放っておいた自分の責任ではないか。恐らく、というかほぼ間違いなく、彼はそう考えたのだろう。マスターは止めてくれたらしいけれど、彼は自分の決めたことを曲げなかった。そうして、つい2週間ほど前にこの店を辞め、彼女の父親が社長を務める会社で働き始めたらしい。勿論、彼女との付き合いも並行してスタート。
マスターの話を聞いた私は、漸く納得した。彼が突然別れを切り出してくるまでの経緯も、それを私に話してくれなかった理由も全て。この話を正直に話したところで、私はきっと引き下がれないし諦められない。彼はそれが分かっていたのだ。けれども彼は守りたいものがあった。だから、私を突き放してでもそちらを選ばなければならなかった。そういうことなのだろう。


「本当は黒尾君から口止めされていたんですが…あなたには言っておいた方が良いと思ったものですから」
「どうして?」
「……黒尾君が女性について話してくれたのは、あなたが初めてだったので」
「え?」
「特別な人なのではないかと、私が勝手に思ってしまったんです」


堰を切ったように、ダムが決壊したみたいに、涙腺が壊れたんじゃないかって疑いたくなるほどに、涙が溢れて止まらなかった。マスターの言うことが本当なのかは分からない。彼が何を思って、どういう決意をしてこの場所を去り、私を捨て、新しい一歩を踏み出したのか。それも推し量ることはできない。
けれども、分かったこともある。彼は私のことを嫌いになったわけじゃなかった。大切に思っていないわけじゃなかった。その事実が、こんなにも、辛い。

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