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私にはデニッシュ・メアリーがお似合い


聞き間違いであってほしいと願った。むしろ、そうでなければおかしいとすら思った。そんな急に、本当に何の前触れもなく別れてほしいだなんて、聞き間違いじゃなければ、冗談だよ、って、本気にした?って、いつもみたいにおどけて笑って見せてほしいと、縋るような思いで彼を見つめた。
けれども彼の表情を見る限りそんなことは言ってくれなさそうで、そもそも彼は冗談をよく言うけれどこんなタチの悪い冗談を言うほどデリカシーがない男じゃないことは私が1番よく知っている。だからこそ私は、いまだに上手く呼吸ができずにいた。今の今までお互いの熱を求めあっていたのに。始めたのは、彼の方だったくせに。こんなにもあっさりと別れを告げてくるなんて。


「なんで…、」
「俺は元々こういう気分屋なヤツなの」
「違うよ…黒尾さんはそんな人じゃない」
「残念。そんな人でした」
「だって、一目惚れだったって」
「勘違いだったのかも」
「本命は大事にするタイプだって…ちゃんと私のこと、大事にしてくれてたし、」
「そりゃまあ一応カノジョだったからね」


どうにかして先ほどの言葉を撤回してほしくて、彼を繋ぎ止めておきたくて、みっともなく食い下がる。けれども彼は飄々と、それこそいつも通りにするすると私の言葉を躱してしまう。


「私のこと、好きじゃ、なかった…の?」
「…ごめんね、こんなヤツで」


残酷な一言を落としてへらへら笑う彼に、怒りは湧いてこなかった。あるのはただ、虚無感と絶望感と妙な違和感だけ。何が面白いのか分からないし分かりたくもない。理由を尋ねても「なんとなく」って、ただそれだけしか答えてくれなくて、そんな理由とも言えない理由で私が納得できるわけがなかった。
嫌な予感がしたとは言え、数時間前まで、なんならほんの数分前まではいつも通りだった。今日だって今から、散々熱を分かち合ったくせにまだ足りないって言うみたいにお互いを求め合って、疲れたら狭いベッドでぎゅうぎゅう身体を寄せ合いながら眠りに落ちて、昼前にどちらからともなく目を覚まして、ベッドの中で視線を交わらせておはようって囁き合って、お昼ご飯をのんびり食べて、他愛ないことで笑い合って。そういう、くだらないけれど愛おしくてふわふわした時間を過ごすはずだったのだ。それなのに、何がどうなって、いつどのタイミングで道を踏み外してしまったのか。それを知っているのは彼しかいない。


「黒尾さん、」
「何?」
「鍵くれたのも、私の物を置かせてくれてたのも、全部、気紛れだったの、」
「まあ…そういうことになるかな」
「今、私を抱いたのも、気紛れだったの?」
「俺男だもん。そういう生き物なんですよ」


淡々と返される言葉達に、温かみは感じられない。私は自分の質問によって自分を追い詰めてしまった。けれども、仕方ないじゃないか。もしかしたらどこかのタイミングで、気紛れなんかじゃないよ、って言ってもらえるんじゃないかと、どうしても期待せざるを得なかったから。この期に及んで、これは悪い夢だって、心の片隅で信じたい気持ちに苛まれているから。
でも、もう駄目だ。これ以上、彼に確認できることは、ない。


「大事にしてくれてたわけじゃ、なかったんだ、」
「…、」
「幸せだったのって、私だけだったんだ…っ、」


言葉にすればするほど苦しくて悲しくていまだに受け止めきれなくて、吐きそうなぐらい気持ちが悪い。色恋沙汰でこんなになるのは初めてのことで、そういえばこんなに好きになったのも幸せだなって思えたのも初めてだったなあって思ったらもっともっと息苦しくなって、嗚咽が漏れた。
胡散臭い男だと思っていた。口から出てくる言葉はいつも手を離せば飛んで行ってしまいそうな風船みたいに軽くて、私に触れてくる手も同様に軽々しくて、けれどもきちんと愛されていると感じていた。でもそれは私の勘違いだったんだ。1人で浮かれて、騙されて、ほんとに馬鹿みたい。
彼の顔はもう見ることができなかった。俯いて肩を震わせ、あんなに暖かかった昼間が嘘みたいにひんやりと感じられる室内で、彼の声が凛と響く。


「だから言ったじゃん。俺はやめといた方が良いよって」


大好きなその声で、彼は容赦なく私にとどめの一言を突き刺す。痛い。心臓が。この上なく。たらりたらり。実際の私から流れていくのは血ではなく涙で、手で顔を覆っていてもぼたぼたと指の隙間から零れ落ちてシーツにシミを作っていく。そんな私に、彼は言う。ベッド使って良いよ、って。それはそれは優しい声音で。
けれどもその優しさとは裏腹に、今のセリフには、俺はもうお前と一緒に寝るつもりはないからね、という意味が隠されているということを悟り、本当に終わりを告げられたんだと実感する。彼の体温が完全に離れて、ごそごそと身形を整える衣擦れの音がきこえた。おやすみ。その後はいつも当たり前のように身体のどこかに唇を寄せてくれていたのに、今日は当然のことながらそれもない。
ガチャリ、パタン。彼が寝室から出て行ってひとりぼっちになった私は、どうやっても止まることを知らぬ涙とともにいつのまにか眠りに落ちていた。


◇ ◇ ◇



目を覚ました私は隣に彼がいないことを確認して、絶望から今日を迎えた。使っていいよと言われていたベッドで泥のように眠っていたらしい私の身体にはそっと布団がかけられていて、彼の気遣いを肌で感じてしまう。昨日突然私をフった男の取る行動にしてはやけに親切すぎてイライラした。どうせならとことん冷たく突き放してくれたら良いのに、中途半端に期待を持たせるようなことをして、酷い男にもほどがある。けれども私は彼のそういうところも含めて惹かれたのだから、これは自業自得なのかもしれない。
寝室を出て鉛のように重たい身体を引き摺ってリビングに行ってみたけれど、彼の姿はなかった。まだ昼前だから仕事に行く時間ではないはずだけれど、昨夜あんなやり取りをしたのだから顔を合わせたくないのは当然のことだろう。
私は洗面台に行って酷い顔を洗う。歯磨きを終えてから歯ブラシを元の位置に戻そうとして手が止まったのは、もうこの場所に私のものを置いておくことはできないのだと気付いてしまったからだ。歯ブラシだけじゃない。私専用の洗顔もメイク落としも、置きっ放しにしてある寝間着や下着や着替え一式も、箸もコップも全部、もうここには必要ない。あってはいけないものになってしまったのだ。その事実を目の当たりにして、せり上がってくる熱いもの。ごしごし。元々酷い顔だったのに目元を擦ってしまったせいで更に状態は悪化しただろうけれど、そんなことはどうでも良かった。
私は無心で適当な袋に自分の物を突っ込んでいく。自分が惨めで可哀想で、いまだに納得できない現実。それでも、私がもうここに足を踏み入れられる人間ではないという事実だけは、きちんと受け止めるしかないから。受け止められなくても、そうするしかないから。私は必死に手を動かし続けた。
着替えを済ませ、酷すぎる顔色をギリギリ誤魔化せる程度の化粧を施して家を出る。鍵をかけて、その鍵はポストの中へ入れておいた。最近もらったばっかりだったのに、あんなに嬉しくて幸せで、彼もそう思ってくれていると信じていたのに、なんて。何を思ったところで今更どうしようもない。未練タラタラの私は再び込み上げてきそうになったものを押し込めるように唇を噛み締めると、後ろ髪引かれる思いで一歩を踏み出した。

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