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全てはカサブランカに


事実を知ることができた。それによって私の気持ちは随分と軽くなったし、少なからずホッとしている部分もあった。彼が私と別れたのは本意ではない。それが真実かどうかは別として、それなりの理由があったのであれば仕方がないと、自分の中で整理をすることができるからだ。
とは言え、事実を知ったからといって私にできることはなかった。だって、私と彼にはもう何の接点もない。1ヶ月前に赤の他人になってしまったのだ。彼の決めたことにとやかく口を挟むのは大人としてどうかと思うし、今更どう声をかけたら良いのかも正直よく分からない。
そんな感じでうじうじ悶々と悩んでいるだけで何もできぬまま、また1週間が経った。いつの間にか私の住む地域は梅雨入りしたらしい。そういえばここ最近はどんよりとした曇り空が多かったような気がするけれど、私は天気のことなんて気にしていられるほど心に余裕を持ち合わせていなかったので、梅雨入りなんてどうでもいい情報はインプットされていない。
仕事は相変わらず順調。彼と付き合っているから調子が良い、というわけではなかったらしく、単純に私のスキルが上がっただけのようだ。お陰様で任される仕事も増えてしまったけれど、その分給料もちょっぴり増えたから目を瞑ることにしよう。
私はいつも通り取引先企業からのメールを数件チェックしてから時計を見遣る。今日は確か新しい取引先の担当者が来る日になっていたはずなので、会議室を片付けておかなければならない。私は席を立つと会議室に向かった。
今回の取引先はかなりの大手企業らしく、確かに会社の名前にも聞き覚えがある。どんなコネクションを使ったのかは分からないけれど、うちの会社にとって大切な契約であることは間違いない。だから上司は朝から、粗相をしないように気を付けてくれ、と私に何度も言ってくるほどピリピリムード全開。ちなみに今までの商談において私が粗相をしたことは一度もない。
先方が来るのは10時と聞いているので、その時間に合わせてコーヒーを準備する。資料も人数分コピーしてまとめたものをセッティングしたし、いつでもおもてなしできる状態だ。そこへちょうど絶賛ピリピリムード全開中の上司がやって来て、準備はできたか?と確認してきた。いつでも大丈夫だと伝えれば、ちょうど到着したらしいからと出迎えと案内を頼まれて、小さく嘆息。まったく、人使いが荒い。
私は渋々ながらも受付ロビーへ向かいつつ、顔に笑顔を張り付けた。けれどもその笑顔はすぐに引き剥がされることとなる。それもそのはず。今日の取引先の担当者は、あの黒尾さんだったからだ。あちらはまだ私の存在に気付いていない。
私はと言うと、今まで見たことのない彼のスーツ姿に釘付け。そして見つめ続けること数秒、その視線に気付いたらしい彼がこちらを向いて、そこで漸く私を認識した。目が合う。まさかこんな形で再会することになるとは思わなかったので、私も彼も目を見合わせたまま固まってしまう。しかしそこはお互い社会人。周りの目もあるので仕事モードに切り替えて、当たり障りのない挨拶を交わす。


「本日は宜しくお願い致します」
「こちらこそ、宜しくお願いします」


久し振りの彼の声音にうっかり泣きそうになってしまったけれど必死に堪える。会議室に案内するまでの間、彼とは特に言葉を交わさなかった。エレベーターの中でも2人きりというわけではなかったし、何か話ができる雰囲気ではなかったのだ。ただ、ずっと背後から彼の視線だけは感じていた。それはもう痛いほどに。
会議室まで案内しコーヒーを人数分席に置いたら私の役目は終了だ。一礼して部屋を出る直前に彼と視線が絡み合ったのは偶然か、それとも。会議が終わるのは昼前だときいているので、それまでの間は自分の仕事をこなさなければならない。というのに、私は分かりやすく動揺してしまっていて、ほとんど仕事が捗らなかった。
思えば、短期間とは言え恋人同士という関係だったのに、私は彼に自分の勤めている会社の名前を教えたことはなかったかもしれない。会社主催の飲み会の後、二次会の場として団体であのお店を利用することはあったけれど、その時も会社名は出さずに代表者名で予約を取っていた。勤め先の会社名だけじゃない。お互いの出身地も、家族構成も、血液型も、誕生日ですら知らない。そういう薄っぺらい関係だったのだ。


「名字さーん。会議終わったって」
「あ、はい。すぐ行きます」


呼ばれて会議室に向かい、全員が出払ったところを見計らって後片付けをしようとしていた私は、上司に引き留められた。先方をお見送りしてきてくれ、と。そういうのは女性の役目だ、と謎の古典的な押し付けをされて、本来だったら腹が立って然るべきなところなのに、私の意識は完全に「取引先の担当者」に向かっていて怒ることを忘れてしまっていた。
行きの時と同じようにエレベーターに乗り込む。今回も2人きりにはなれない。無言。一瞬で1階に辿り着き、自動ドアを開けた先まできっちりお見送りをする。どうしよう。彼が話しかけてくる気配はない。じゃあこれで終わり?取引先ということはこれからも仕事で顔を合わせることはあるだろうけれど、その度にこうして赤の他人でいなければならないの?赤の他人。そう、確かにそうなのだけれど、そういう意味じゃなくて。
もはや勢いだけだった。気持ちが勝手に言葉となって出てきてしまっただけ、みたいな。そんな言葉を彼の背中に投げつけてしまった。


「スーツ、似合わない」
「……そ?結構評判いいんだけど」


先ほどの仕事上の会話を抜きにしたら1ヶ月以上ぶりのやり取り。それなのに彼を非難するようなセリフしか吐き出せなかった自分を呪いたい。普通に考えればかなり失礼な物言いであったにもかかわらず、嫌な顔ひとつせずにこちらを振り返って軽口を叩く彼は、私がよく知る彼のままで苦しくなる。
少なからず緊張している私とは違って平然と笑みを浮かべる彼が憎くて、けれどもそれが彼らしくて。スーツも似合ってるよ、腹立つぐらいに。でも私は、スーツ姿でバリバリ働くサラリーマンの黒尾さんなんて見たくなかった。そう思ってしまったらもう止めることはできなくて、私は彼に尋ねていた。問題の答え合わせをするみたいに。


「どうしてあのお店、辞めちゃったの?」
「ん?あー…まあ俺もイイ歳だし、折角いい会社に声かけてもらったから安定した職業につくのも悪くないかなーって」
「…うそつき、」
「うそじゃないって」
「マスターから、きいたよ」


言っていいのか分からなかったけれど、彼の口から飛び出す嘘に耐えられなくて真実を口にする。しかし彼はそれほど驚いておらず、むしろ分かってたよ、みたいな顔をしていて、こちらが驚いてしまう。


「まあそんな気はしてたけど」
「じゃあ、なんで、」
「うそじゃねぇんだって。ほんとに」
「だって黒尾さん、あんなに楽しそうに仕事してたじゃない」
「名前さん、」
「…っ、」
「これは俺が決めたことだから」


眉を八の字にして困ったような表情を浮かべる彼は本当に困っているのだろうか。私の名前を呼んでくれた。忘れられていなかった。それは喜ぶべきことなのかもしれない。けれどもその呼び方は、恋人だった頃のそれとは程遠い。私達が出会った頃の、まだあまり温度を感じられなかった頃のそれと同じ。これ以上は踏み込んでこないでね、と暗に言われているような、そんな呼び方だった。
私との会話を断絶して、彼は颯爽と歩き出す。その後姿を眺めながら自問自答。私が本当にききたかったのはこんなことだった?話すべきことはもっと他にあったんじゃないの?彼に会って1番最初に確認したかったのは違うことじゃなかった?仕事のことも勿論気がかりだった。けれど、私が最も彼の口からききたかったのは。


「黒尾さん!」
「…なに?俺忙しいんだけど」
「新しい彼女さんとは、どう…?」
「……仲良くやってるよ」
「そう、なんだ…」


違う。そういうことが聞きたいんじゃない。なんでこんな時でも素直になれないのか。足を止めていた彼が再び歩き出す音が聞こえて、何か言って引き留めなければと思う反面、これ以上はもう困らせるべきではないという思いもあって頭の中はミキサーでかき混ぜたみたいにぐちゃぐちゃで。
そんな私に影が落とされた。俯いていた私の視界に入ってきたのはまだあまり汚れていない皮靴。遠ざかるはずの足音はこちらに近付いていたのだ。


「ね、それ、ほんとにききたかった?」
「…黒尾、さん、」
「俺はできれば言いたくなかったんだけど」
「私のこと、嫌いになった…?」


彼の優しい声につられて漸く尋ねることができた。最も確認したかったこと。彼の私に対する気持ち。声は震えている。けれど私は、意を決して顔を恐る恐る上げた。涙はまだ、流れていない。


「……ごめんね」
「なにが?」
「色々。全部」


答えにならない答えを返す彼は緩やかに笑う。全部って、あなたはそんなに私に謝らなければならないことをしたの?だとしたらそれは何?食い下がりたいのに、彼の手がそれを許してくれない。頭をひと撫で。そして、じゃあね、と。美しく踵を返す。優しいのに有無を言わさず突き放す。そんな手付きだった。
別れを告げてきた時と同じだ。いや、その時よりも遥かにひどい。これじゃあ私、あなたのことを忘れられないよ。嫌いになれないよ。諦められないよ。遠ざかる彼の背中。動かない足。俯く。つう、ぽたり。頬に一筋伝ったそれが、地面にまあるい模様を作った。

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