人ならざるエトワール

少女は、夜を駆けていた。
星空なんて見えないスモッグの掛かった東京の夜空を落とし込んだような、凸凹した道を。街灯の薄暗い灯火だけが頼りの、夜空の下を駆けていた。吸って吐いてを繰り返す口から零れる声は小刻みで、地面を蹴る音は段々と遅くなっていく。足が震えて、悲鳴を上げている。もう無理だという泣き言は何回も呑み込んだはずだが、今度こそ本当に本当に限界だった。もうここが何処なのかは全く見当がつかず、最後の気力を振り絞って曲がった角の先でふらふらと少女は二歩、三歩進んだ後にしゃがみ込む。
「……なんで、」
こんなことに、と続くはずの音はひゅーひゅーと鳴る喉で掻き消された。
今日は、運が無かった。潰れた授業の振り替えで7限まであった授業、帰宅時間は何時もより2時間近く遅い。その上進路担当の講師に帰り際に捕まって更に30分近く学校を出るのが遅くなった。授業の振り替えは今日知ったし、同居人というか居候というか……まあ同じ家で暮らす彼に伝える連絡手段は諸事情により無し。きっと、めちゃくちゃ怒ってるだろうなあという申し訳なさと、抱えた白い箱の中身はきっと見る影もなくぐちゃぐちゃになっているであろうという悲しみが胸を突く。こんなつもりじゃあ、無かったのに。
「!」
屈みこんでいた彼女は何かに勘付いたように栗色の髪を跳ねさせて周囲を咄嗟に見渡す。住宅街のど真ん中と思わしき道は、今来た道と目の前に広がる道の二択だ。逃げるならば、目の前の道。右に曲がるか左に曲がるか、痛む太腿を必死に叱咤して立ち上がった彼女は走るには至らなくとも歩を進めようと覚束ない足取りで前へ前へと進む。逃げ切らなきゃ、帰らなきゃ。今頼りに出来るのは自分だけなのに――

背後で、犬が吠えた。

「――!」
少女の背中に悪寒が走る。グルルルル、と唸る声は威嚇する犬そのものだが、彼女の背中に向けて敵意を発するその獣は暗黒から這い出たように黒々しかった。スモッグの向こうにある星々を携えた黒い空ではなく、まるで深夜の人気のない歓楽街の脇道、人工の灯さえも届かない暗がりから生まれたような。嫌な黒を纏った、狼のような姿を取った獣がそこには居た。第六感があれは駄目だと警鐘を鳴らして、どっと冷や汗が噴出して、己の直感に従うがままに彼女は必死に逃げて、逃げて、今に至る。
ひゅっと鳴った喉、ついさっきまで全力で駆けてきたからか茹りそうな程暑かったのに冷水を掛けられたかのように肝が冷えた。身体はもう走るのは無理だ。じり、と引いた足が、アスファルトの凹凸に引っかかって爪先が浮く。気付いた時にはバランス制御もままならずに彼女は暗がりに挟まれるようにそこに倒れ込んでいた。
「や、だ、」
見えなくても注がれる視線で分かる。絶好の機会だと獣が味を占めている。さながら今の彼女は皿の上に盛られた料理という事か。食われる。私はこの得体の知れない獣に食われるのだ。夢を追いかけて上京したのに、それを叶える事無く死ぬというのか。何にもなれてないのに。したい事、沢山あったのに。何より今日は、私と彼のお祝いがしたくて――抱えたケーキボックスと、倒れた拍子に服の中から出てきた鎖に繋がれた鍵を握って、祈るように握りしめた。聖母に祈りを捧げる信者のように――そこまで考えて、失笑めいたものが口元に浮かんだ。十字架に祈るように?彼は、十字架に拘束されて糾弾される側の、陰のヒトだというのに。
それでも、願わずにはいられない。陰にヒトだろうが何だろうが、彼にとって私が唯一だと言ったように、私にとっての彼もまた唯一なのだから。
「……助けて、」
続いた彼の名前は、獣の遠吠えによって掻き消された。
ああ、間に合わない。深夜のどこかも分からない住宅街の隅で、私はあの獣に骨の髄まで食い尽くされて変死するのだ。
「――――俺のマスターに手を出すって事は、従者の俺に喧嘩を売ってるって事でいいんだよな?」
奇跡を願った祈りが、届いたらしい。
ぎゅうと瞑った瞼を恐る恐る開けば、ちゃんと景色が見えた。生きている。そして鍵を握った掌から光が零れている事に気付いた。そっと握った手を解けば、何時かのあの時のように、仄かに桃色の光を灯して輝いている。痛む身体を何とか起こせば、同じような、否、もっと強い鍵が発する光と同じそれが頭上から降っていて頭をぐっと上げる。正体は分かっていたけど、ちゃんと確認したかった。本当に、彼なのか、と。
「何でお前が此処に、と言いたげな顔だな。教えてくれたんだよ、こいつが」
街灯の上に立つ影は光を発する光源をちゃり、と金属が擦れる音と共に突き出した。彼女の鍵と同じように鎖に繋がれたそのチャームは、棺の形を模していたものだ。金属の台座に、ぷっくりとしたジュレグミのようなものが乗り、ふんだんにシュガーのようなものが塗された特徴的過ぎるチャームは、彼を棺の中で眠りと封じていたそれそのもの。そして、彼女が握った鍵の対になるもの。
「主と従者は封ずる棺とそれを解き放つ鍵で繋がってる。残念だったな、マスターを……楓を好き勝手にさせる訳にはいかねえんだ、よ!」
街灯を蹴って彼女……楓の目の前に着地した彼は無事だな!?と振り向きざまに主にそう問う。ショウくん!と呼ばれた従者はほっとした表情を浮かべた刹那直ぐに顔を引き締めると同時に、空の色を映した瞳がみるみるうちに変化していく。水に真っ赤なインクを一滴垂らしたように、その青は瞳孔から広がるように赤く赤く染まっていく。口の端から見える刃は伸び、爪も鋭く長く尖っていく。人間社会に馴染むための仮初の姿を投げ捨て従者――嘗て愛に飢え、愛を求めた棺に封じられた吸血鬼としての姿を取り戻した彼の姿に怖気付いたのか、あの獣は今までの威勢は何だったのかと言わんばかりの勢いで尻尾を巻いて逃げ出していく。あの一体以外にも肌が、第六感が感じていた異形の気配も同じように消え去っていった。
「……ありゃ使い魔だな。にしたって誰がこんなことを……あの人じゃあるまいし」
「ショウくん」
「っと。楓、無事か?」
何とか膝立ちになってそう声を掛けた彼女に振り向いた際には、もう青い瞳の仮初の姿に戻っていた。
大丈夫か、怪我は無いかと問いかける彼の声音は先程よりずっと穏やかで。
「心配したんだからな。何時まで経っても帰って来ないし、暗くなって外でも動けるようになったから駅まで行くべきかと思った矢先にこいつは光だすし。何かあったんだなって上から探し回ってたら今度はお前が襲われてるし。肝が冷えたぜ……」
「ご、ごめんなさい。遅くなったのは突然授業が入ったのと、あの狼さん?に突然追いかけ回されて、それで」
「……やっぱ俺、大学とやらについていくべきじゃねえか?」
「ショウくん、昼間は外に出られないから無理だよ……」
ショウ曰く、楓の第六感は間違っていないらしい。闇から這い出た悪しき物。陰属性であるのはショウら吸血鬼たちと変わらないが、あれはもっと質が悪いものだとか何とか。逃げたのは正解だ、と笑って楓の頭をよしよしとした彼はそこで彼女が大事に抱えていた箱に気付く。
「これ……甘い匂いがする。もしかして、ケーキか?」
「流石スイートヴァンパイア様、かな?正解。でも中身、ぐちゃぐちゃで食べられたものじゃないと思うよ」
「ケーキ買って帰って来るなんて珍しいじゃん。なんかあったっけ……ってそうか。楓の誕生日」
「と、ショウくんの誕生日のお祝いに」
俺の?ショウは目をぱちぱちとさせる。
ショウは不死身。永久の年月を生き、もう何回も、何百回も自分の誕生日を迎えている。実際今言われなければ彼は自分の誕生日の事なんて忘れていただろう。態々祝うような物でもないと思うんだけどなあと苦笑を浮かべた彼に、楓は否と告げる。お祝いしないと駄目だと。
「君は確かにもう不死身で、誕生日なんて物は些細な事なのかもしれないけれど。でも、貴方が何百年も前に生まれなければ、こうして私達は一緒に居なかっただろうから」
生命の奇跡として生を受けた事も、吸血鬼として二度目の生を受けた事も、あの館で巡り合ってこうして共に居るのも、数奇な運命の巡り合わせなのだ。その始まりを、ショウという人間だった頃の貴方が生を受けた日を、祝わないなんて選択肢は、楓には無かったのだ。
「何が喜ぶのか分からなかったから、在り来たりにケーキにしてしまったんだけど……この様だし、また今度新しく買って来るね」
「……サンキュな、楓。そう思ってくれるだけで、俺はすっげー嬉しいよ」
だから、お返し。彼は一度は解いたはずのあるべき姿に一瞬で戻ると、よいせと膝立ちだった楓を横抱きに抱え上げる。……彼より楓の方が背が高いのだが、矢張りヒトではないものだからか重さを感じさせない程軽々と姫抱きにするとこれまた軽い掛け声と共に彼は高く跳躍した。ひゃあ、と楓が慌てて彼の服を掴んで唇を噛む。
「俺からは形に残るものはあげられそうにないから、代わりに夜の街の空中散歩をプレゼント。……今の時代は星は見えないけど、人工の星を下に見るのもそう悪くないからな」
遠くの繁華街の灯は、確かに地上の星のようであった。時折無粋にさえ見えるあの輝きは、こうして見ると綺麗だと思えるものだったのか、と楓は彼の腕の中で感嘆する。
「さ、地上の星を眺めながら帰ろうぜ、マスター」
「……うん、お願いね、ショウくん」
任せろ、と従者は街灯の上から家の屋根を伝って繁華街という名の星雲を横目に帰路へと駆ける。
彼らの姿は闇に溶けて、咎める者は誰も居なかった。

2020.06.09 sho Kurusu
2020.06.14 Kaede Hanada
Happy birthday!!

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