真っ赤なアリスの王子様

目の前の幼馴染の姿を取った『何か』を突き飛ばして、彼女は一目散に駆けだした。
運が良かった。180オーバーの彼から逃げられたのは逃げるという選択肢が恐らく、想定外の物だったからであろう。バランスを崩して尻もちをついた彼を尻目に、走って、走って、走った。

極彩色の木々や草木、遠近がおかしくなったのかと一瞬思ってしまう巨大なキノコや花々、めちゃくちゃとしか言いようがない森を我武者羅に走った。風に揺れるエプロンドレスに蝶々結びのリボンの冠は正しく『アリス』そのものだが、色は彼女が知るアリスの色とは真逆の赤に黒、アクセントは金色の金具細工だ。深い紺色の髪に緑の瞳のアリスなんて存在しない、だからきっと『アリス』の象徴たる衣装も青と白が反転したこの色なのだろう。

「帰れないよ、お前は。だってお前はこの世界の『アリス』なんだから」

鶯茶の髪。同じ色の、切れ長の瞳。
彼を見上げる角度も、その声音も、口元にある色っぽい黒子の場所だって、記憶の中に在る幼馴染と、――宗司と。何一つ、変わらないのに。違う、違う、違うと頭の奥が、胸の鼓動が警鐘を鳴らす。あれは、あれは、宗司じゃない!!
幾ら元バドミントン選手で、体力持久力に多少自信があるとはいえ永遠と走り続ける事は無理だ。ほぼ全速力で駆け抜けてきたからか何時もより呼吸が荒い。手ごろな木に手を付いて息を整える千歳の瞳にはじわりと涙が浮かぶ。酸素不足で悲鳴を上げる身体と、突然訳の分からない世界に迷い込んだ不安と、幼馴染たちの姿を取った『何か』に対する恐怖で、心身ともに限界がひたひたと近付いていたのだ。

「――ここは、『アリス』の居ないワンダーランド。物語が始まらない、ワンダーランド」
「っ、」

枯葉を踏む音がした。何時もなら安心する、穏やかな低音がここまで恐ろしく聞こえた事は一度も無かった。
錆びついた機械のようにぎこちなく千歳の首が音の主を見る。落ち着いた黄色の燕尾、黄色のシルクハット。帽子屋。宗司の姿で、帽子屋に扮した『何か』が、そこに居た。あれだけ全速力で走って来たのに、息切れ一つ見せないその姿は彼女に恐れと絶望を抱かせるには十分すぎる程だった。

「『不思議の国のアリス』は、アリスが白うさぎの後を追ってワンダーランドに迷い込む事から物語が始まる。いわばアリスは物語の要だ。アリスが居なければ、『不思議の国のアリス』は成り立たない。ただの『ワンダーランド』のままだ」

けれどこの物語のワンダーランドには、何時まで経ってもアリスが白うさぎを追って現れる事は無かった。
物語の要、軸となり得る主人公が現れない。それはこの世界の停滞を呼び起こし、そして物語の死、即ちこの世界の死を招いているのだと帽子屋は語る。もう随分前の事のようにも思えたが、確かに事務所の資料室でこんな所にある筈がない絵本を見つけた時のタイトルは確か、『LOST of Alice in wonderland』だったような――

「ほら、見て見ろよ。本来死ぬはずの無い森が枯れ始めている。アリス、お前が知るワンダーランドの物語に枯れた森はあったか?無いだろ?つまりは、そういう事なんだよ。始まらない物語に価値はない、ってね」
「……だから、貴方たちは考えを改めた。何時までも現れないのなら呼び寄せてしまえばいい、と?」
「賢いな、俺達のアリスは。聡い娘は好きだ」
「……悪いけれど、貴方たちのアリスになるつもりはありません」

だから私をもとの世界に帰して、という言葉は呑み込まれた。
枯草を散らしながら千歳の目の前に歩み寄った帽子屋は、アリスにとっても悪い話じゃない筈だ、と笑う。にこりと。宗司の笑い方ではない。ぞわりと背中に悪寒が走った。

「寂しかったんだろ、『ちぃ』」
「……!」
「お前がこの世界に踏み入れた瞬間、ワンダーランドの主要人物は皆、お前の記憶に依る人間に置き換えられている。ワンダーランドに迷い込んだアリスを歓迎し、もてなすお茶会のメンバーは皆、アリスにとって特別な人間が宛がわれている。そうだろ?」

原作では三月ウサギと帽子屋、眠り鼠で開かれるはずの狂ったお茶会。確かにあの場に居たのはそのメンバーに更に二人追加された、5人でのお茶会だった。

望くんの姿を得たチェシャ猫。
廉くんの姿を借りた眠り鼠。
宗司の姿を取った帽子屋。
モリ先輩の姿をした三月ウサギ。
そして、空くんの姿で出迎えたハートのトランプ兵。

「ここに居れば寂しい思いなんてしなくていい。望むのなら直ぐに会える。狂ったお茶会は終わらない――」

徐に頭にのせたシルクハットのつばを握った帽子屋はゆっくりとそれを外した。帽子が邪魔で彼の顔が見えなくなった次の瞬間には、髪のセットもフェイスペイントも無くなった、千歳が一番よく知る『神楽坂宗司』が、そこには居た。ひゅ、と喉が鳴る。思わず後退した分、帽子屋は距離を詰める。背中に幹の感覚がして、逃げ場が無くなってしまった。

「俺達はお前の記憶そのままに映し出された存在。いわば、『帽子屋役』と『神楽坂宗司役』との兼任だな。でもただの役柄と一緒にしちゃいけない。だって俺達には記憶がある。お前の記憶に紐づいた、言わば本物の彼のコピー、とでも言うべき存在なんだから」

彼らが居ない世界だからこそ、彼らは本物に成り代わる、いいやなり得るとでもいう事なんだろうか。
幼少期の記憶も、小学校のあの気まずいような苦い思い出も、再会した時の何とも言い難い感情も、全部彼は知っているのだと言う。本物の神楽坂宗司と寸分変わらない存在。コピー。生き写し。クローン。本物が居ない故に、本物になれる。だから、千歳に利があるというのだ。現実の彼らと違って、アリスが此処に残る選択をすればずっと共に在れるから。高校で一緒に居る事が多かった6人の内、たった一人千歳は川越に残って、彼らは東京で華々しい世界で活動をしていて。千歳もアルバイトのお手伝いとして事務所に赴く事はあるが、それでもタレントとアルバイトだ。そこに線引きがあるし、女の自分がSOARAのメンバーの内二人と幼馴染で片方と付き合っている、なんてそんなことを微塵でもバレるわけにはいかない。だからこそ千歳は何時だって、彼らと線を引いていた。その線引きを踏み越えられるのは、彼らが帰省して帰って来る数日間だけだ。
寂しくなるのも、今まで通りの関係では無くなる事も、全部全部承知の上だ。ソウにだって謝られた。また我慢をさせると。笑って大丈夫だと言って見送ったけれど、どうしたって寂しいという感情も、会いたいという感情も、消そうとしたって消せるものではない。――確かに、千歳にとってそれは、甘い囁きであった。

「……」
「ほら、アリス。いや、『ちぃ』と呼ぶべきか?帰ろう。今頃モリが茶を淹れ直してる頃だろうから」
「……じゃ、ないんですか」
「ん?」

俯いていた千歳が勢いよく顔を上げる。彼女にとって一番魅惑的な提案をしたと思っていた帽子屋は、その行動にぎょっとして咄嗟に仰け反る事で頭突きを回避する。

「馬鹿じゃないんですかって言ってるんです!!」

帽子屋が持つ『常盤木千歳』という少女の情報に在る言動に、此処まで苛烈な物は存在しなかった。

「貴方は宗司じゃない!あなたは宗司に成り得ない!この世界に宗司がいないから姿声記憶を取って神楽坂宗司になるなんて馬鹿じゃないんですか!?だって、貴方はもうこの時点で『宗司』の真似さえ出来てない!!」

常盤木千歳にとって神楽坂宗司はただ一人。
目の前に同じ顔、同じ背丈、同じ声の男が現れたってそれは宗司じゃない。
だってそもそも、千歳の知る宗司は――

「私の宗司は、私の事を『ちぃ』って滅多に呼ばないもの!」

少女の糾弾が響き渡る。
成人男性が口にするには余りに可愛らしい幼少期の渾名を彼が口にする時は、宗司の口が滑った時だけだ。
何か緊急時だったり、何時も余裕な彼が慌てた時にうっかり零れ落ちるその渾名を千歳は彼が普段極力口に出さないようにしているのを知っていた。多分きっと、気恥ずかしいんだろう。滑った後の一瞬の沈黙だったり、ふいとあらぬ方向に視線を避けるその仕草が、視線が、物語っていたから。
しかしあろうことか目の前の偽物は事あるごとに『ちぃ』と彼女を呼んだ。それさえなければ千歳はすっかり彼に騙されていたかもしれない。此方の心理に付け込んできたのをそのままに、本当にアリスになってしまっていたかもしれない。常盤木千歳の幼馴染の姿を借りる上での根本的で、致命的なミスだった。

「私にとってのソウは、あっちのソウじゃなきゃ意味が無いんです。例え貴方が記憶を頼りにその姿で私に何を囁いたって、貴方は宗司じゃない。偽物に何を言われたってもう、気持ちが悪いだけです。本物の宗司じゃなきゃ、意味がない……!」

泣いてばかりの私を守ってくれたソウ兄じゃなきゃ。
銅メダルを見て笑いながらぐしゃぐしゃ頭を撫でたソウじゃないと、
あの日、あの場所、あの時に好きだと言ってくれた宗司じゃなきゃ、何の意味も無い――!

どさりと音と振動がする。
それなりの質量が地面に落ちた事が分かった。どんどんと目の光が、感情が失せていく帽子屋に恐怖でぎゅうと瞼を瞑っていた暗闇の中で、目の前に誰かが居る事を理解した。あ、と笑っていた膝がとうとう力を失って崩れかけたのを誰かの腕が支える。――ああ、やっぱり。もう、大丈夫。

「ったく、駆け付けて早々自分の顔とご対面ってか」
「――なんで、お前がここに」
「ワンダーランドへの片道切符握りしめて来たんだよ」

帽子屋と同じ顔、同じ声、同じ体格の男がそこに居た。
アリスと揃いの、真っ赤なジャケットと黒いシャツとスキニーに身を包んだ青年は冷めた目で、冷めた声で問いかける。

「千歳に何した」
「そう、し、」
「人の顔勝手に借りておいて、人の女に何したって聞いてるんだよ」

確かな苛立ち、確かな怒り。
静かな淡々とした口調に激情を滲ませた『本物の』神楽坂宗司に、偽物の帽子屋は借りた顔のまま怯えを示す。

「ソウ」
「ちぃ、……大丈夫か」
「……ふふ、本物だ」
「この状況でよく笑ってられるなお前……」

思った通りの口を滑らせた後の一瞬の沈黙に笑顔が零れた。本物の証拠。やっぱり本物の宗司は、軽々しく渾名を口にはしないのだ。腰を支えられた状態のまま、胸元に擦り寄るように抱き着く。自分のものとは違うのに、やっぱり嗅ぎ慣れた宗司の、神楽坂家の匂いがしてすごく、すごく安心する。

「助けに来てくれて、ありがと」
「……感動の再会は後回しだ。帰るぞ、千歳。走れるな?」
「うん、もう大丈夫!」
「よし」

笑っていた膝も、悲鳴を上げていた心身も、もう大丈夫だった。地面にしっかり足をついても何ともない。アキレス腱だけはちょっと痛いけれど、こればかりは我慢するに他無い。これからまた酷使するのだし。
呆気に取られていた帽子屋が慌てたように指笛を鳴らして、森の奥が騒がしくなる。追っ手を呼んだのだと判断した青年はさっさと帰るぞと踵を返して、肩越しに振り返る。

「ほら、手」
「うん」
「絶対離すなよ、」
「分かってる!」

彼女の満面の笑みに一つ満足げに頷いて、青年は手を引いて走り出した。大丈夫、絶対に向こうに帰れるさ。
だってプリンセスのハッピーエンドに王子様は付き物。アリスに王子様はいないけれど、このイレギュラーなアリスの元には危険を顧みず此方へと飛び込んできた幼馴染が居るのだから。

待ち構えるのはきっと、元の世界への帰路というハッピーエンド。
それだけじゃ被害者の彼女に申し訳ないから、その後にほんの少しだけ、恋人の為の時間をプレゼントしようか。ね、優しい優しいお姫様。

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