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I

Xの決意

 彼が林間合宿中ヴィランに連れ去られたと聞いて真っ先に思ったのは、冗談でも「物騒な事件に巻き込まれたりするかも」などと言わなければ良かった、ということだった。別に私の言葉が引き金となったわけじゃないことぐらい分かっている。けれどそれでも、私は後悔しかできなかった。
 たったの三日。されど三日。夏休み期間中でも雄英高校に通い、明ちゃんと一緒にアイテムの開発に明け暮れていた私は、その三日間、何も手につかなかった。正直、どうやって過ごしていたのかもあまり覚えていない。それほどまでに衝撃的なことだったのだ。
 昔から彼は、どんなに大怪我をしても平気だと強がる男だった。なんだかんだで彼以上に強い人はそうそういなかったし、命の危険にさらされることはないと高を括っていたのかもしれない。中学時代のヘドロ事件の時だって、心配はしたけれど、彼なら大丈夫だとどこか信じ切っていたような気がする。
 だから今回のような、もしかしたら命が危ういかもしれない、という状況に陥るのは初めてのことで、そりゃあ生きていてそんな窮地に立たされる人間なんてほとんどいないだろうけれど、彼ほどの“個性”を有していればいつかはこういう日が来るかもしれないことは大いに予想ができたはずなのに、私は気付かぬフリをしていた。
 事件発生から三日目の夜。私は彼が無事に帰って来たことを知らされた。彼のお母さんからうちにわざわざ連絡があったらしい。その一報を受けて、私は漸く息の仕方を思い出したような気分だった。
 絶対にそこにいると思っていた人が、突然いなくなるかもしれないという恐怖。当たり前にあったものが失われるかもしれないという不安。全て初めての感情だった。だから彼が帰ってきたと聞いた時、本当は一刻も早く彼に会いたくて、事件の直後だから会えないとしても声ぐらい聞きたくて、兎に角「爆豪勝己」という存在を感じたくてどうしようもなかったのだけれど、どうすることもできなかった。
 彼を心配していた人間は山ほどいる。ご両親、雄英の先生、A組のみんな。他にも同じ雄英高校の生徒なら「大丈夫かなあ」と思う人はいただろうし、事件とは全く無関係であろう一般市民だってニュースを見て「無事だったらいいな」ぐらいのことは思っていただろう。
 じゃあ私は、その大勢の人と何が違うのだろうか。彼のことを心配していた。けれども何度も言うように、それは私だけじゃない。デクくんと数人のクラスメイトは、彼を救けるために文字通り身体を張ったとも聞いた。家で何もできずに彼の無事を祈っていただけの私より、よっぽど彼のことを思っているような気がする。
 つまり私は、理由を探していた。彼に会いに行けるだけの理由を。「心配してたんだよ」「無事でよかった」そう伝える資格を与えられるだけの理由を。
 そんなことを悶々と考えている間に、全寮制になるということで先生がうちに来て荷造りやら何やらに追われ始めた私は、彼に会いに行くタイミングをすっかり逃していた。家はすごく近いのに、そこまでの道のりは途轍もなく遠い。夏休みに入る直前までは隣を歩くことも家に遊びに行くことも何とも思わなかったのに、今はそんなことできそうになかった。私は、彼の傍にいることの特別さを知ってしまったのだ。

「なまえ、なまえ、」
「なぁに…?」
「爆豪くんが来てるんだけど」
「ふーん…え、まっ、かっちゃんが…!?」

 あまりの驚きで椅子から転げ落ちそうになった私はギリギリのところで持ち堪え自分の部屋から飛び出すと、急いで玄関に向かった。あの事件以来、彼の家には警察の人が頻繁に出入りしていて、きっと自由に外出ができなくなっているんだろうなあと思っていた。だから、私から出向かない限り、彼には会えないものだと思っていたのに。
 玄関に彼の姿はなかった。代わりに、リビングから「こっちだ」というどすのきいた声が聞こえてそちらに向かう。そして私は、人様の家のソファに随分とリラックスした状態で座っている彼を目に映した。当たり前のことだけれど彼の姿は何ひとつ変わっていなくて、そのことにひどく安心する。どこも傷付いていない。彼が彼のまま帰ってきた。その事実を、漸くこの目で確認する。
 お母さんはこのタイミングで「お茶菓子がないから何か買ってくるね」と呑気に買い物に出かけてしまって、私と彼は広い家に二人で取り残された。沈黙。彼が「座んねえのかよ」と声をかけてくれるまで、私は突っ立ったまま放心状態だった。彼の斜め前のソファに腰を落ち着ける。そしてまた沈黙。訊きたいことも言いたいことも腐るほどあるはずなのに、何も音にならない。

「荷造りは」
「え?」
「寮。入んだろ。荷造りは終わったんかってきいとんだ」
「もう終わって送った」
「そうか」
「かっちゃんは?」
「終わった。明日入る」
「そっか。私は明後日だ」
「へぇ」

 普通の会話だった。“神野の悪夢”と呼ばれるあの事件のことはまるで夢か幻だったんじゃないかと思うほど、平凡すぎる会話。彼もいつになく落ち着いていた。お母さんが用意してくれたのだろう。グラスに入った冷たい麦茶をごくごくと飲んでいる彼をぼんやり見つめていた私は、急に滲み出した視界にぎょっとした。自分でもぎょっとしたのだから彼の方はもっと驚いたようで「おま、なんで…」と珍しく狼狽えている。
 けれども、自分にもどうしてこんなことになっているのか分からなかった。止めようと思ってもぽろぽろぽろぽろ涙が溢れてきて、悲しくも悔しくもないのに、むしろ凪いだ海のように心は穏やかなのに、どうやっても止まってくれない。
 私は人前で泣くのが嫌いだ。自分の弱みを人に見せるのが嫌いだからだ。それゆえに、幼い頃から泣くのは決まって一人の時だった。親にも見られたくなくて部屋に閉じこもったこともある。勿論、彼の前でも泣いたことは一度もなかった。それなのに、今日、私は彼の前でみっともなく涙を流して鼻を啜っている。ティッシュで顔を拭いても、この不細工な顔は隠しきれない。

「……どうした」
「どうも、してないんだけど、」
「どうもしてねえのに泣くのかよてめえは」
「そうだよね、おかしいよね、おかしいのは分かってるんだけど…」

 彼の顔を見たら、声を聞いたら、止まりかけていた涙がまた込み上げてくる。私は慌ててティッシュで目元を押さえた。これ以上、彼に不甲斐ない姿を見せたくない。そう思うのに、彼が「悪かった」なんて言ってくるものだから、遂に涙腺は崩壊した。
 彼は何も悪いことなんてしていない。私が勝手に心配して、勝手に安心して、勝手に泣いているだけ。この涙は、圧倒的な安心感からくるものだった。目の前に彼がいる。ずっと求めていた「爆豪勝己」という存在を感じることができている。それだけのことに、泣くほど安堵している。だから彼が謝らなければならないことなんてひとつもないのに。

「…無事で良かった」
「当たり前だろうが」
「そう、かも、しれないけど、」

 当たり前。無事なのは、当たり前。本当にそうだろうか。当たり前が当たり前じゃないと知ったから、私は恐怖と不安で押し潰されそうになっていて、その反動で泣くほど安心しているんじゃないのか。
 上手く言葉にできない感情が溢れてきて、また、頬が濡れる。めそめそ泣く女は彼が最も嫌いなタイプのはずなのに、彼は「泣くな」とか「うぜえ」とか、そういうことは一切言わなかった。そういえば今日は一度も怒鳴られていない。彼は彼なりに思うことがあってここに来てくれたのかもしれない。そんな不器用な優しさに、ちょっと笑ってしまう。泣きたいのか笑いたいのか、もう自分自身の感情が分からなくなってしまって、私の顔面はぐちゃぐちゃだ。みっともないなんてもんじゃない。
 だからもう、みっともないついでに言ってしまおうと思った。“神野の悪夢”があってからの私のみっともない思考を、全てぶち撒けてしまおうと思った。「何考えとんだてめーは」と呆れて笑ってもらうために。そうやって日常を、「当たり前」を取り戻すために。

「かっちゃんがこのまま帰ってこなかったらどうしようって、怖かった」
「…馬鹿かよ」
「帰ってきたって聞いた時、すぐに会いに行きたくて、声が聞きたくて、でも私にはそんな資格ないんじゃないかって、ずっと思ってて」
「なんだよその資格ってのは」
「みんな、かっちゃんのために何かしようとしてたでしょう? デクくんだって、クラスのみんなだって、先生達だって。でも私には何もできなくて、だから、」
「心配、してたんじゃねえのか…俺を」
「それは…そりゃあ…みんなそうでしょ…」
「それで十分だろ」

 心配されることが何よりも嫌いなはずの彼が、心配していたことを肯定してくれた。それがどれだけ嬉しいことか、他の人にはきっと分からない。伝わらない。
 ずっと心配だったよ。心配で心配で何も手につかなくなるぐらい。あなたのことで頭がいっぱいになるぐらい。寝ても覚めてもあなたのことを思い出すぐらい、心配だったよ。ずっとずっと。きっとあなたじゃなかったらこんなに心配してなかった。ただの幼馴染だけど、それだけじゃなくて、きっと私は。

「おかえり」
「…ただいま」

 残りの感情は飲み込んだ。この感情は、私達を壊してしまう。だから彼には伝えるべきじゃない。そう思ったからだ。その代わりに、ずっと言いたかった一言を伝えた。彼はその言葉にきちんと答えてくれて、それからティッシュで私の顔をごしごし擦った。だいぶ痛かった。痛くて涙が出た。うそ。彼の優しさに涙が出た。

「もう泣かさねえ」
「……うん、そうして」
「だからてめーもごちゃごちゃ考えんな」
「それは約束できないかも」
「じゃあ考えるだけ考えて、俺んとこに戻って来い」
「…うん、そうする……」

 昔々「付いて来んな」「あっちに行け」「女は邪魔だ」と散々罵ってきたはずの彼は、いつの間にか私の帰る場所になっていた。そのことに、また飽きもせず涙が溢れる。
 彼が立ち上がって、私に近付いてきた。がしがし。乱暴に撫でられた頭。それだけでも随分と奇怪な行動だったのに、ついでと言わんばかりにそのまま彼の硬いお腹に顔を押し付けられたので、私は戸惑いながらも「涙と鼻水ついちゃうよ」と離れようとした。すると返ってきたのは「黙って泣いとけ」という難しい注文。気付けば後頭部を撫でられているし、なんだかもう逃げようがない。
 だから私は言われた通り、静かに泣いた。縋り付いて、初めて彼の体温の高さと甘い香りを知った。好きだなあと、思った。自覚した。だから絶対に、この気持ちは表に出さない。そう、決めた。
 取り戻すはずだった日常が、遠退く。彼が近付けば近付くほど「当たり前」が「当たり前」じゃなくなる。そのことが何よりも怖かった。