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きみのかけらで白線を引いた

 どうにもすっきりしない日が続いていた。最近雨ばかりだからとか、雑魚ヴィランの相手ばかりで鬱憤が溜まっているからとか、そういう小さなことが理由じゃないのはわかっている。しかし、どうすることもできないのもまた、わかっていることだった。だから余計にイライラするのだろう。
 あの女とは事務所で会って以降会っていない。記憶をどうにかする方法が見つからない限り、会う理由も話すこともないからだ。むこうからの接触もないところを見ると、もしかしたらもう俺との関係を清算する準備をしているのかもしれない。それならそれでいい……はずなのに、無性に胸糞悪くなるのはなぜなのか。これほどまでに自分の心身の状態が把握できなかったことはいまだかつてない。もっともそれは、今残っている記憶の限りでの話になるのだが。

「爆豪じゃねぇか」
「あ?」

 夜の七時過ぎ。定時はもう過ぎていたが、帰る途中で爆発音がしたので現場と思わしきところに急行した。緊急招集はかかっていないが、何かしら事件があったのだとしたら見て見ぬフリをして帰るわけにはいかない。
 そうして現場に到着するなり俺の名前を呼んだのは、半分野郎……轟だった。俺の顔を見てあからさまに驚いた顔をしている。プロヒーローになってから同じ任務にあたったことはあるが、それは数えるほど。こうして現場でイレギュラーに鉢合わせるのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。だからこうもわかりやすく驚いているのだろうか。

「緊急招集はかかってないだろ」
「招集されてなくても騒ぎがあったら駆けつけんのは当然だろうが! 何があった!」
「え、あれ……かっちゃん?」

 ちょうど轟を怒鳴りつけていたところに、またよく知った声が聞こえてきたので振り向けば、そこにいたのは案の定、鬱陶しいもさもさ緑髪の幼馴染だった。次から次へと、今日はよく知り合いに会う日だ。
 轟がいることには驚かないくせに俺がいることには驚いた様子で「なんでこの時間にいるの?」と腑抜けたことを尋ねてきたそいつに、つい先ほど轟に言ったセリフをもう一度吐き出す。こいつら二人は俺がプロヒーローだということを認識できていないのだろうか。

「定時過ぎたら緊急招集がかからない限り来ないって聞いてたから珍しいなと思って……」
「は?」
「自分で言ってたじゃねぇか。“雑魚ヴィラン共の相手は俺じゃなくてもできんだろ”って」
「俺が? いつ?」
「先月だったっけ、みんなで集まったの。基本的に定時で帰ってるんだよね。奥さんのお迎えに行ったり、一緒に夜ご飯食べに行ったりしてるって聞いて、相変わらず仲が良いんだなーって思ったよ」

 尚も「だから今日ここにいることにびっくりしちゃって。奥さんはまだ仕事中?」などと言う声が聞こえてくるが、右から左にすり抜けていく。頭がクラクラしてきた。つまり俺は自分のプロヒーローとしての仕事を放り出してまであの女に入れ込んでいた、と。ヴィラン共の制圧よりもあの女のことを優先していた、と。どうやらこいつらはそう言いたいらしい。
 こいつらが俺に嘘を吐く必要はない。ということは、今言われたことは全て事実ということになる。信じられなくても、信じたくなくても、俺とあの女の関係性が現実として突きつけられているのだ。
 仲が良い? 冗談はやめろ。俺が何のためにプロヒーローになったと思ってんだ。女にうつつを抜かすためじゃねえだろうが。過去の自分のことが心底理解できなくて気分が悪い。

「金輪際あの女の話はすんな」
「あの女って……」
「夫婦喧嘩でもしてんのか?」
「テメェらには関係ねェ!」

 どいつもこいつも、俺があの女のことを「あの女」と言うだけで目を丸くして驚いた後、怪訝そうな、不安そうな、もっと言うなら心配そうな眼差しを向けてくる。俺はこれが通常運転なのに、まるで異常をきたしているかのような反応をされるのだ。怒鳴りたくもなる。
 俺が記憶の一部を失ったことは、事務所関係者と一部の警察関係者しか知らない。市民の混乱や新たな犯罪を助長する恐れがあるからだと言われたが、その対応には納得している。しかし知り合いに会うたびにこいつらのような反応をされるのかと思ったら、心的ストレスが半端ではなかった。先が思いやられる。
 二人は顔を見合わせて何か言いたそうな様子だったが、他のヒーローに呼ばれて行ってしまった。気付けば爆発音は聞こえなくなっており、俺たちがくだらない雑談をしている間に事態は収束したらしい。まったく、これでは何のためにここに来たのかわからないではないか。

 単身で駆け付けた俺には周りから声がかかることもないので、静かにその場を後にする。またあのだだっ広い家に帰って一人で飯を食い、風呂に入り、寝るのか。そう考えると足取りが重くなった。
 いくら写真立てを伏せて見えないようにしても、靴や服やその他諸々の生活雑貨を見えないところに隠しても、玄関の扉を開けて中に入った瞬間、あの女の気配がする。そこにいるわけではないのに、どの部屋に行っても見えない痕跡が残っているのだ。
 自分の家なのに居た堪れない。落ち着かない。しかしそれでも、ホテルを取るわけでも事務所で寝泊まりするわけでもなく、俺は帰る。何かを求めるみたいに。あの家はただ飯を食って風呂に入って寝るだけの場所で、俺の求めているものなんて何もないはずなのに。

 結局、足取りは重たいまま。途中でコンビニに寄り適当に夕食を買ってから家に着いた俺は、いつも通り鍵を開けて中に入った。そして気付く。家の中の気配が朝とは違うことに。
 もしかしてあの女がいるのではないか。鍵は変えていないから、あの女がまだこの家の鍵を持っているならばいつでも入ることができる。もしいたら何と言おうか。もう不法侵入だの何だのと騒ぐつもりも怒鳴るつもりもないが、声のかけ方がわからない。それでも、あの女の顔を見たら何か言えるような気がした。
 はやる気持ちを抑えてどかどか廊下を進み、キッチンとリビングの方へ向かう。勢いよく扉を開け、ぐるり、見回してみる。が、その空間には誰もいなかった。念のため寝室や浴室なども確認したが、当然のように誰もいない。チッ。いねぇのかよ。俺は一気に落胆し、ソファに身体を沈ませた。

 目元を手で覆い、天を仰ぐ。時間の経過とともに冷静になる思考。家の中の気配の変化を感じ取った瞬間、あの女がいるかもしれないと期待した。会ってもどうしようもないと思っていたくせに、いたらいいのにと、わけのわからない感情を抱いた。そんな自分を否定したいのに、今こうして誰もいなかったことに落胆しているものだからそれも叶わない。
 なんなんだよ、テメェは。いつの間に俺ン中に入ってきた? どうやったら俺にこんなわけわかんねえこと思わせられんだよ。思い出せたら全てが繋がるはずなのに、あの女のことを考え始めると待ってましたと言わんばかりにズキズキと頭が痛み出すから腹が立つ。
 もういい。考えるのはやめよう。飯を食って風呂に入って寝る。いつも通りの生活をすればいい。俺は立ち上がると、テーブルの上に置いたビニール袋の中からコンビニ弁当を取り出した。
 ぱさ。弁当を取り出すと同時に、足元に何か紙切れが落ちた。レシートはもらわなかったはずなのに、と思いながら拾い上げたそれに目をやる。

「なんだよこれ……」

 拾ったのはレシートではなく、俺宛のメモ書きだった。丁寧な字で「勝己へ」から始まる簡素な文章が綴られている。どうやらあの女は俺が仕事で留守の間、この家に来ていたらしい。気配が変わっていたのはそのせいだったのだ。
 “勝己へ 仕事で無理していませんか。ちゃんとご飯食べてますか。冷蔵庫の中に作ったものを少しだけ置いておくので気が向いたら食べてください。 なまえ”
 コンビニ弁当を置いて冷蔵庫を開けると、朝はすっからかんだったそこにタッパーが幾つもあった。少しだけ、と書いてあったくせに、一人で食べ切るには数日かかりそうな量だ。
 俺が食べなかったらどれだけの食材が無駄になることか。食べないかもしれないとは考えなかったのだろうか。気が向いたら、なんて書いておきながら、これでは食えと言っているようなものだ。
 タッパーを一つずつ取り出して中身を確認してみる。大きなタッパーには主菜、小さなタッパーには副菜が入っていて、メニューは日持ちしそうなものばかり。冷たいままでも食べられるものや、皿に食べたい分だけ取りわけてレンジで温めればすぐに食べられるものを選んで作られているのがわかる。
 俺との関係を清算させるための準備をしているかもしれない、などと考えていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。あの女は絶対に俺を諦めない。絶対に思い出せないと伝えられたはずなのに、それでもまだ、俺が思い出すことを信じているのだ。そうでなければこんなことをしたりはしない。
 スプーンを引き出しから取り出し、ドライカレーらしきものを掬って一口、ぱくり。店で食べると辛みが足りないと思うことが多いが、俺好みの辛さに味付けされている。白飯がほしくなる絶妙な辛さだ。

「……美味ェ」

 思わず笑ってしまった。美味い。それ以上に懐かしかった。いつどこで食べたかは覚えていない。しかし間違いなく、俺はこの味を知っている。
 あの女とは夫婦だったのだ。妻の手料理を食べたことぐらいあるだろう。だから俺の舌があの女の手料理の味を覚えていたって何も不思議ではない。だがそれだけが理由ではない……ような気がした。
 他の料理も一口ずつ食べてみる。腹立たしくなるほど美味い。というか、俺の口に合う味付けだった。あの女は確実に俺の好みを知っている。夫婦だったのなら当然だろうか。……いや、夫婦だったとしてもここまで完璧に全ての料理を俺好みの味付けにするのは至難の業だと思う。
 俺が美味いと言うまで試行錯誤したのだろうか。それとも過去の俺があの女に味付けの仕方を教えたのだろうか。わからない。ただここにある料理が俺のためだけに作られたということ以外は、何も。
 食えば食うほどあの女の顔が脳内で鮮明になっていく。このまま何か思い出せるのではないか。そう思い始めた途端、ひどくなっていく頭痛。手が止まる。全身汗でびっしょりだ。
 ああ、クソ! なんなんだよ! なんで思い出せねンだよ! 俺はお前のことが! ……お前のことが、何だ? 俺は今何と叫ぼうとした? 俺はお前のことが「」。その一言がどうしても出てこない。
 整然と並ぶ料理たちを眺める。また自然と、あの女の顔が思い浮かぶ。それに不快感はない。どんな理由や経緯があったのかは知らないが、ここまできたら受け入れるしかないのだろう。
 あの女は、俺が惚れた女。結婚してまで自分のものにしたかった女。そして女の方も同じ気持ちだったから、今こうして俺のことを諦めずにいる。だとしたら俺がやるべきことはひとつしかなかった。これ以上あの女を……なまえを傷付けるべきではない。待たせてはならない。本能が、そう言っている。
 わかってんだよそんなこと。俺だって諦めてねえわ。絶対ェ思い出してやっから待ってろよ。自分のために、としか思っていなかった感情に、なまえのために、が混ざり合う。これでようやくスタートラインに立てた、ような気がした。