未練がましくて鬱陶しい女。そう思われても仕方がないことをした。彼からしてみれば、自分の中では記憶にない女が留守中に家に入り、冷蔵庫の中に手料理を置いて行ったという状況だ。メモを見て「気色悪ィ」とかなんとか呟きながら顔を顰めている様子が容易に想像できる。
もしかしたら今頃、冷蔵庫の中に入れておいた料理たちはゴミ箱の中で泣いているかもしれない……とネガティブなことを考える反面、彼のことだから食べてくれているだろうなという妙な自信もあった。私のことを思って……ではなく、食材に罪はないし捨ててしまうのは勿体ないからという、シンプルかつ真っ当な理由で。彼は感情的なタイプだけれど、客観的なものの見方や考え方もできる人だから、食べ物を粗末にはしないと思うのだ。
彼がそういう性格だと知っていてわざと冷蔵庫に手料理を押し込んできた私は、ただのいやらしい女である。あわよくば私の作った料理を毎日食べることで何か思い出してくれたら。何も思い出せないとしても、一日のうちで数分、数秒でいいから私の顔を思い浮かべてくれたら。そんな下心をたっぷり含んでいるくせに、メモ書きには彼を気遣うような文面を残した。少しでも彼にいい女だと思われたくて。結局のところ、私はいつも自分のためにしか動けない。
彼の活躍をテレビで見るたびに、遠い存在になってしまったなあと思いしらされる。こうなる前にも考えていたことだ。彼のように世間で必要とされているスーパーマンが私の夫だなんて、夢なのではないか、と。何度もそう思って、何度も現実なんだと実感させてもらった。
その結果がこれだ。夢から覚めただけだと思ったらちょうどいい。この一年、いい夢を見させてもらった。そう言い聞かせて彼を解放してあげられたら丸くおさまるのかもしれない、けれど。
それはどうしてもできなかった。何度思い直そうとしても、ありとあらゆるパターンを考えて彼を諦めようとしてみても、ダメなのだ。この先の未来で隣に彼がいないビジョンを、私には想像することができない。
「相変わらずの大活躍ですが、最近のダイナマイトは昔のような荒々しい戦闘スタイルですよね。何かあったのでしょうか?」
つけっぱなしにしていたテレビから聞こえてきたコメンテーターの一言にどきりとした。何かあったと勘付かれたら彼に迷惑がかかるのではないだろうか。胸をざわつかせながらテレビ画面を見つめ続けていたけれど「基本的に彼は攻撃的な立ち振る舞いが持ち味ですからねぇ。波があるんでしょう」と別のコメンテーターが発言したことにより、私は胸を撫で下ろした。
冷静に考えてみれば、そりゃあそうだ。まさか妻のことを綺麗さっぱり忘れてしまったせいで結婚する以前の戦闘スタイルに戻ったのかもしれない、なんて、普通なら誰も思わない。しかしそれがわかっていても過敏になってしまうのは仕方のないことだった。今の私には、この状況が世間にバレてしまったらどうなるのだろうという不安が、常に付き纏っているのだから。
「なまえ、まだ帰らないの?」
「あー……うん」
「勝己くん忙しそうだし、家のこととか大丈夫なのかしら」
「勝己は何でもできちゃう人だから。私がいなくても上手くやってると思う」
「もしかして喧嘩でもしたの?」
「……うん、実はそう、なんだけど……大丈夫だから心配しないで」
嫁いだ娘が一ヶ月も実家に入り浸っているのだ。母もさすがにおかしいと思ったのだろう。彼の仕事の都合で、という言い訳もそろそろ限界で、話の流れから喧嘩をしたという新たな嘘で取り繕う。こんなことをいつまでも続けているわけにはいかないとわかっていても、母に真実を伝える決心はまだできていなかった。
彼がうちに押しかけてこないのは幸いだけれど、いつどのタイミングで現れるかわからない状況ではある。そうなる前に自分の口から伝えなければとは思っているのだけれど、なんせ一ヶ月も経ったのにまだ自分の心の整理ができていないものだから、「勝己はもう私のことを覚えてないの。思い出すことはないんだって」と口にすることを想像するだけで苦しくて、もし言えたとしてもその後で泣き崩れてしまいそうで、立ち直れなくなりそうで、怖い。
「私ちょっと用事があるから出かけてくるね」
「そうなの? じゃあついでに買い物お願いしていい?」
「うん」
母と二人きりの時間が長いとボロが出てしまいそうで、逃げるように家を出た。父は律儀に私のお願いをきいてくれていて、私の口から伝えるまで彼のことは黙っていてくれる様子だ。表面上はいつもと変わらないように見えるけれど、父だって私のことを気にかけているはず。だからこそ、これ以上心配をかけないためにも早く私が母に真実を伝えて「大丈夫だよ」と言わなければならないのに。私はダメな娘だ。
母から夕食に使う食材の買い出しをお願いされたので、とりあえず商店街の方へ向かう。梅雨の季節は晴れていてもじめじめした空気が纏わりついてくるのが気持ち悪い。私はインドア派だから本当は仕事に行く時以外部屋に引きこもっていたいのだけれど、休みのたびに引きこもっていたらこれもまた母に妙な心配をされるのでそれもできない。
とりあえず適当にどこかで時間を潰しながらこれからどうするか頭の中を整理して、それから買い物をして帰ろう。そう決めたはいいものの、いきつけの喫茶店があるわけでもないし、土曜日の昼前ということもあり、商店街はどのお店も人が多くてゆっくりできそうになかった。
さてどうしたものか。移動の時に多少重たくて邪魔にはなるけれど、幸いにも買い出しを頼まれたものの中に生鮮食品はないから、先に買い物をすませてしまってもいいかもしれない。私は予定を変更してスーパーに足を向けた。この予定変更が、私の運命を大きく変えることになるとも知らないで。
行きつけのスーパーで醤油のボトルをカゴに入れた時だった。女性の「きゃー!」という悲鳴が聞こえてきて振り返る。
振り向いた先にいたのは、床に倒れている女性とその女性にじりじりと近寄る男の姿。よく見ると男の腕は刃物のように鋭くとがっている。おそらくそういう“個性”の持ち主なのだろう。ヴィランか、はたまた狂気的な一般人か。どちらにせよ、恐怖でその場から動けない様子の女性が危険であることは明らかだった。
店員さんはいないのだろうか。おそらく警察に通報はしている……もしくは今から通報するはずだけれど、すぐには到着しないだろう。誰かが女性を守ろうと動く気配はない。それなら私はどうするべきか。
考えるより先に身体が動いていた。ヒーローでもなんでもないただの女が行ったってどうにもならないかもしれない。警察やプロヒーローに「余計なことだ」と思われるようなことをしているとも思う。しかし、何もせず黙って誰かが傷付けられるところを見ているなんて、私にはできなかった。
走って女性に駆け寄り、男の前に立ち塞がる。何かを言おうとしているようだけれど、恐怖のためか声が出ない女性に「落ち着いて。ここから離れて」と、できるだけ冷静な口調で指示を出しながらも、視線は男の方へ向けたまま。背後で小さく「ありがとう」と聞こえた後、ゆっくりと人の気配が遠のいていくのを感じて、少しだけ緊張の糸が解れた。これで彼女がこれ以上傷付けられることはない。
あとは警察やプロヒーローが来るまで、この男を引きつけておけばいいだけ。大丈夫。私の“個性”の性質上、この男の攻撃は効かないはず。相手が近接戦の素人なら、合気道を嗜んでいる私の方が有利だ。上手く対処すれば制圧することができるかもしれない。
「なんだお前? ヒーロー気取りか?」
「あなたの方こそ、買い物中の女性を襲うなんてヴィラン気取り? 何が目的なの?」
「なんだと? あのなあ! むしゃくしゃしてんだよこっちは! 会社はクビになるわ家を追い出されるわ、俺が何したってんだ!」
「あなたがどれだけ不運でも、人を傷付けていい理由にはならない。こんなことをしたってすぐに捕まるだけよ」
「はあ?」
「なんのためにヒーローがいると思ってるの? あなたみたいな人を野放しにしないためよ」
言いながら、いつかも同じことを言ったなあ、と。ヴィランを相手に今のように生意気な啖呵を切ったなあ、と。そっと懐古する。危機感をもって相対しなければならない状況なのに、その時のことを思い出したら笑いそうになって、泣きそうにもなった。
今は過去に思いを馳せている場合ではない。思い出を振り返っても虚しいだけだ。だから何も思い出さなくていいのに、思い出したくないのに、私に襲いかかろうとしてきた男が右側に吹っ飛ぶのと同時に聞こえてきた声が、嫌でも過去の記憶を鮮明に呼び起こさせた。
「テメェは死ぬつもりか!」
颯爽と現れる黒とオレンジ。ベージュの髪が揺れている。ああ、彼は何も変わっていない。記憶があろうがなかろうが、初対面だろうがそうじゃなかろうが、無条件で人を救ける。そういうところが好きだなあって、改めて思う。
ドラマや映画じゃあるまいし、私のことを忘れているのに駆け付けてくれるはずがない。そんな都合のいい展開あるわけないじゃないか。そう思いながらも、彼ならもしかしたら来てくれるんじゃないかって、ドラマや映画の主人公みたいに登場してくれるんじゃないかって、心のどこかで期待していた。……違う、信じていたのだ。
だって爆豪勝己は、何があっても私のヒーローだから。信じずにはいられない。