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信じる者は救われますか?

 いつかは思い出してくれるはず。何度そう言い聞かせたかわからない。私は毎日、何十回も(もしかしたら何百回かもしれないと大袈裟なことを思うぐらい)同じ呪文を唱えている。「早く思い出してくれますように」。「悪い夢が終わってくれますように」。しかし残念ながら、この一週間、私の呪文が効力を発揮する気配は一ミリも感じられない。そしてそんな私に追い討ちをかけるように、彼の事務所の人から連絡がきた。
 彼が私のことを思い出す方法は今のところ見つかっていない、と。そして私のことを忘れさせる“個性”を発動した女いわく「忘れさせた記憶を思い出すことは二度とできない」と。ただでさえ気が滅入っている私をこれ以上どん底に突き落としてどうするつもりなのかと、いるかどうかもわからない神様に問いかけたくなるほど絶望的な状況だ。きっと神様なんていないのだろう。だってもしいるのなら、ここまでひどい仕打ちはしないはずだから。
 私のことを忘れている彼と同じ家で暮らすことはできないので、この一週間は実家に戻っている。両親にはいらぬ心配をかけたくなくて「彼の仕事の都合でしばらく離れておかなければならないと言われた」と説明してあるけれど、その苦し紛れの嘘にも限界がきてしまうだろう。というか、そろそろ父の耳には何かしらの情報が入ってきそうな気がする……と思っていた矢先のことだった。

「なまえ。話があるんだが」
「何?」
「勝己くんのことで……と言ったらわかるか?」

 警察の上層部というポジションにいる人だ。捉えた犯罪者の情報なんてすぐさま入手できるのだろう。この一週間、何も尋ねられなかったことの方がおかしかったのかもしれない。
 もともと表情が豊かではない父の顔が、いつも以上に険しく見える。私を彼とお見合いさせ結婚まで持ち込んだのは、私の安全を確保するため。それが父の思惑だったことは知っている。しかし彼と結婚してから、父が彼を「娘の用心棒」ではなく「娘の夫」「義理の息子」としてそれなりに信頼をおいて接している姿を目の当たりにしてきた。だからだろう。今回の件で少なからずショックを受けている様子の父を見て、もともと傷心中の私の胸の傷は更に深くなったような気がする。
 彼がそれだけ父に認められていたことは嬉しいけれど、今は素直に喜んでばかりいられる状態ではない。なんせ彼に発動された“個性”を解除する方法はないらしいのだ。今から父が何を言い出すつもりかはわからないけれど、私に答えられることなどないような気がする。

「勝己くんは本当にお前のことを忘れてしまったのか?」
「……うん」
「思い出す方法は……」
「ない、って、聞いたんでしょう?」
「……もう知っていたのか」

 父の部屋で向かい合わせに座って二人きりで話をするのは随分と久し振りのことだ。少なくともこの一年はなかった。私の隣には、常に彼がいたから。
 何の前置きもなく本題を切り出したくせに、父は珍しく次の言葉を悩んでいる様子だった。私の気持ちを慮るようなことをする人ではなかったはずなのだけれど、それだけ今回の件が私に大きな影響を及ぼしていることがわかっているのかもしれない。

「これからどうするつもりなんだ」
「どう、って?」
「お前のことを思い出す可能性がないのに、このまま勝己くんと夫婦を続けていくのか?」

 遅かれ早かれ、誰かに指摘されるだろうとは思っていた。しかし、まさかこんなに早い段階で決断を迫られることになるとは思っておらず、私は口籠る。自分の中で、まだ決心できていないからだ。
 本当は間髪入れずに啖呵を切ってやりたかった。「勝己は必ず私のことを思い出してくれるはずだから、もし逆の立場なら勝己は絶対に諦めないはずだから、私もいつまででも待つよ」と。けれども実際には、何一つ口にできず目を伏せている。

 彼のことを信じていないわけではない。きっとどうにかして私を思い出してくれるはずだと、何かキッカケがあれば記憶を手繰り寄せる糸口を見つけ出せるはずだと、ちゃんと信じている。しかし、明確な手段がない以上、それがいつになるかわからないという不安は付き纏う。
 だって、もしかしたらこれから何十年も思い出さないかもしれないのだ。私はその間、どんな気持ちで過ごしていたらいいというのだろう。彼のことを待っていたらいいのだろう。たった一週間でこの有様なのだ。一ヶ月、半年、一年、それ以上の期間この状態が続くなんて、少し想像しただけでぞっとする。それに彼の方だって、私のことを思い出す気配がない以上、このままの状態を放置しておくとは考え難い。あまり考えたくはないけれど、今この瞬間にも離婚届を書き殴っているかもしれない。

 ……離婚。離婚、かあ。考えたことなかったなあ。頭に思い浮かべてみてもいまひとつピンとこない。彼と離婚する。すなわち、彼と離れて生きていくということ。別々の道を歩むということ。それが今の私にできるだろうか。
 できないことはない、と思う。彼に出会うまでは一人で生きていくつもりだったし、私自身が何か危害を加えられたわけではない。職を失ったわけでもなければ、住む家がなくて路頭に迷っているわけでもない。事情が事情なだけに、仮に私が離婚して実家に戻ってくるようなことになったとしても両親は何も言わないだろう。
 しかし、果たして私の心は耐えられるだろうか。彼がいない世界に。私は彼のことを忘れたわけじゃないのに。全部、覚えているのに。彼との記憶を大切に心の奥底に閉まって、思い出にする。そんなことができるだろうか。考えなくたってわかる。そんなの無理だ。

「私の方から別れを切り出すことはないよ」
「勝己くんの方から言われたら?」
「……すぐには頷けないと思う」
「お前にとって勝己くんが唯一無二の存在になっていることはわかっている。だからこそ、今の状況には耐えられないんじゃないか?」
「それはつまり、別れた方がいいって言いたいの?」
「選択肢の話だ。お前にそうしろと言いたいわけじゃない」

 父は父なりに、親として私が一番傷付かなくてすむ方法を考えてくれているのだと思う。それは有り難いことだ。しかし、父は根本的に間違っている。私が最も傷付いているのは、彼に忘れられてしまったことではない。私を忘れたことで、彼が私を見るたびに苦しむこと。今はそれが一番辛い。
 きっと思い出そうとしているのだ。そのせいで彼は苦しんでいる。私の存在が、彼を苦しめている。先日の出来事を機に、それを確信してしまった。
 それならば彼を想って二度と会わないのが最善だと見切りをつけるべきなのだろうけれど、弱い私はどうしても彼を手放す勇気が出ない。たとえ一パーセントでも望みがあるのなら、奇跡を信じたい。みっともないけれど、どれだけ惨めでも縋りついていたい。まさに、藁にもすがる思いというやつである。

「もう少し気持ちの整理をしてみようと思う」
「そうか……」
「お母さんにはまだ言わないで。かなり心配すると思うから」
「わかった。このことは勝己くんの事務所関係者と警察上層部の一部の人間しか知らない。緘口令も敷くと聞いたから世間で勝己くんの記憶に関することは何も報道されないはずだ」

 彼は有名なプロヒーロー。記憶の一部が欠如した、なんて報道をされたら不都合なことがあるのだろう。それに、自分で言うのは少々照れ臭いけれど、今の彼は世間で愛妻家として定着してきている。そんな状況で「妻に関する記憶を失った」「しかもその記憶は二度と戻らないらしい」なんて知れ渡ったら、報道陣が彼の事務所に押しかけて大変な騒ぎになることは避けられないだろう。もしかしたら報道陣の相手に時間を取られてヒーロー活動にも支障をきたすかもしれない。そういった懸念材料を考慮しての緘口令なのだとは思うけれど、私個人にとっても有り難いことだった。それほど親しくもない人から彼に関することを訊かれたくはないからだ。
 とはいえ、いつまでも秘密を隠し通すことはできないだろう。いつかはバレる時がくる。その時、彼は、私は、周りの人たちは、一体どうするだろう。どうすべきだろう。答えは今のところ見つからない。

「なまえ、今回の件はお前が悪いわけじゃない」
「……うん」
「勝己くんもそう言うはずだ」
「“記憶が戻ったら”そう言うかもね」

 我ながらなんとも皮肉めいた言い方だと思った。父は僅かに視線を落として表情を曇らせていて、事の深刻さを物語っている。
 状況は最悪。しかし逆を返せば、これ以上落ちることはない……と思うことにした。今は無理矢理にでも気分を上向かせる方向に考えなければ前に進めない。立ち止まっていたら彼に置いて行かれてしまうから、少しずつでも進もう。どこに向かえばいいのかわからなくても、私の向かう先には必ず彼がいる。そう信じて。