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きらきらした殉愛をください

「爆豪さん」
「はい」

 呼ばれてすぐ、返事をして振り向く。最近になってやっと「爆豪」という苗字に慣れてきて、呼ばれてからの反応がスムーズにできるようになった。それが嬉しかった。彼の妻になったことをちゃんと自分の日常にできたみたいで。

「旦那さんがお見えらしいんですけど」
「え?」
「今はあちらの事務所との仕事はないはずですし……終業時間でもないのに来られるの珍しいですね」
「そう、ですね、」

 ぎこちない私の返事を聞いて「どうかされたんですか?」と尋ねてくる同僚に「何でもないです」と愛想笑いを浮かべる。彼女は、彼が私に関する記憶を失っていることなんて知る由もないのだから、私の戸惑いを察することができるはずもない。そして私は、その事実を誰にも話すことができず抱え込み続けることしかできなかった。

 結婚会見後、彼はわざわざ私の勤務先に挨拶をしに来てくれた。「妻を宜しくお願いします」と、ただそれだけを言うために。私の職場での(主に女同士の)人間関係がそれほど良好ではないことを知っているから、あえて来てくれたのだろうと思う。私が“爆豪勝己の妻”と知って嫌がらせをしてくる人なんて、そうそういないだろうから。
 そのお陰か、私は職場で働きやすくなった。“個性”関連のことでネチネチ言われることがなくなったのはもちろんだけれど、それまであまり話すことがなかった事務所の人たちと普通にコミュニケーションが取れるようになったのだ。それはもしかしたら、私自身、結婚してから変わった部分があるからなのかもしれないけれど、何にせよ、今の職場環境には大変満足している。
 結婚後、彼は仕事の終業時間が近くなると私を迎えに来ることがあった。最初は驚いていた事務所の人たちも回数を重ねるごとに慣れてきて「お迎え来てますよ」とにこやかに声をかけてくれるようになった。稀ではあるけれど仕事関連の話をするために来ることもあるから、事務所に彼が来ること自体は珍しいことではない。問題は、今の彼が私についての記憶を失っているにもかかわらず事務所に来た、ということだ。

「応接室ですか?」
「はい」
「……行ってきてもいいですか?」
「もちろん。ごゆっくり」

 何も知らない同僚はいつも通り爽やかな笑顔で私を送り出してくれたけれど、私の心中は穏やかではなかった。私のことを赤の他人だと思っている彼がわざわざ私の職場まで会いに来たのだ。嫌な予感しかしない。
 しかしここで「仕事が忙しいから」と適当な理由をつけて逃げたとしても、仕事終わりに捕まるのは目に見えている。遅かれ早かれ彼とは面と向き合って話をしなければならないのだから、ここはもう彼の方から出向いてくれたことを喜ぶぐらいの気位でいこうではないか。
 応接室の前で大きく深呼吸。吸って吐いて、それを何度か繰り返し、意を決して彼の待つ室内へ。すると、扉を開けてコンマ一秒ぐらいの素早さで彼の鋭い眼光に捉えられた。
 本当は、怖いと思っている。またどんな罵声を浴びせられるのか。今度こそ力ずくで捻り上げられてしまうのではないか。そんな不安にも襲われている。しかしここで怖気付いていたら何も解決しない。私は気合いを入れて真正面から彼を見つめ返した。

「……テメェは、俺の何なんだ」
「信じてもらえないかもしれないけど、妻、です」

 意外にも、彼は冷静に話をするつもりのようだった。もしかしたら昨日の夜の電話の後、事務所で何か言われたのかもしれない。今日はその事実確認、といったところだろうか。
 私の返答を聞いて苦虫を噛み潰したような顔で溜息を吐く彼を見て、そっと傷付く。私とのことは全て忘れているから仕方がないのはわかっている。けれど、私と結婚したことを心底後悔しているかのような素振りを見せられたら、それが彼の本当の気持ちだったのではないかと思ってしまう。

「それが嘘じゃねェって証拠は?」
「役所に行って確認してきたらすぐにわかると思うけど」
「チッ」
「そんなことしなくてもわかってるんでしょ? 信じたくないだけで」
「うるせェ!! 俺に喧嘩売るような口の聞き方しやがって……どうなってもいいってことか? あ?」
「いいよ。それで気がすむなら。好きにしたらいい」

 手をプスプスさせている彼を前にしてここまで平然としていられるのは「レジストクワーク」という“個性”のお陰だ。彼に出会うまでは忌々しいと、なければいいとばかり思っていたこの“個性”が、今は少しだけ、あって良かったと思う。だって、この“個性”があるから、彼に気にかけてもらうことができた。色んな自分を知ることができた。そして今も、こうして怖気付くことなく彼に近付くことができる。
 彼は私の生意気な態度を見て固まっていた。それからしばらくこちらを凝視して、顔を顰める。頭をぐしゃぐしゃと掻きむしっているけれど、あまりにも腹立たしい態度を取られすぎて頭がおかしくなりそうなのかもしれない。まあどんな風に思われたって、今の私にはどうすることもできないのだけれど。

「……テメェはなんで俺と結婚したんだよ」

 短いようで長い、長いようで短い沈黙を破ったのは、彼の一言だった。そして私はその問いかけに反射で答える。だってそんなの、

「好きになっちゃったから」

 理由なんてそれだけしかないのだ。迷いようがない。彼は目を見開いて、また固まっている。半分は驚愕、半分は呆れ、といったところだろうか。今の彼には私の答えを理解することなんて到底できないだろう。しかし残念ながら、この答えは真実でしかなかった。

「……なんで」
「うーん……なんでだろう」
「は?」
「わかんない」
「テメェふざけてんのか?」
「気付いたら好きになってた。勝己がいないと駄目になってた。それだけ」

 改めて尋ねられると、自分でもよくわからなかった。どうして彼のことを好きになったのだろう。落ち着いて振り返ったらもう少しまともな返答ができるのかもしれないけれど、即座には答えられない。これでは本当に妻なのか、結婚しているのかと疑われてしまう。
 そういえばいつもの癖で「勝己」と呼んでしまったけれど大丈夫だろうか。今の彼なら「馴れ馴れしく名前呼んでんじゃねェこのクソ女!」ぐらいの剣幕で怒鳴ってきそうなものなのに。
 今更のように彼の顔色を窺う。彼は私の心配をよそにやっぱり固まっていて、少しぼーっとしていた。しかし私に見つめられていることに気付いたのだろう。すぐにハッとして、ふいっと顔を逸らす。なんだかとてもバツが悪そうに。

「お前、頭おかしンじゃねえの」
「うん……そうかも」

 おそらく皮肉をたっぷり込めて言われたであろうセリフなのに、まるで照れ隠しをするみたいな素振りをする彼がおかしくて、ちょっぴり懐かしくて、思わず笑ってしまった。
 私の頭がおかしいなら彼だってそうだ。わざわざこんな面倒な女を選ばなくても、この世界にはイイ女が腐るほどいる。彼なら選び放題だったはずなのに、私を選んでくれた。相当な物好きだと思う。
 ああ、こんな言い方をしたら駄目だ。私が自分を卑下するようなことを言ったら彼はいつも不機嫌になって「お前はこの俺が選んだ女だ。胸はって生きやがれ」と、そう言ってくれた。私のことを私よりも大切に想ってくれていた。

「あのね」
「あ?」
「勝己は私に生きていいって思わせてくれた。私のことを救けてくれたヒーローなの。だから好きになっちゃったのは勝己が勝己だったからだよ」

 そう。彼は世間で有名なプロヒーロー。でも、もしものもしも、彼がプロヒーローじゃなかったとしても、彼が「爆豪勝己」のままでいてくれたら、私にとっては間違いなくヒーローだったと言い切れる。
 率直な気持ちをそのまま伝えた。包み隠すことなくありのまま。すると突然、彼が頭を抱えてうずくまった。何が起こっているのかはわからないけれど、どうやら頭痛がするらしい。
 咄嗟に駆け寄り手を伸ばす。しかしその手は、彼の肩に触れた瞬間、冷たく払い除けられた。大好きな彼の手によって。

「さっきから勝手なことぬかしてンじゃねェ……俺はテメェなんか知らねェし結婚なんかした覚えもねェ! テメェといたら頭がおかしくなンだよ……俺の前から消えろ!」

 ぐ、と。漏れそうになった嗚咽を必死で飲み込む。覚悟していたことだ。何も覚えていない彼からひどい罵声を浴びせられることぐらい。でもこれは、想像していた以上にキツかった。
 私のことなんか知らない。結婚した覚えもない。全てをすっぽり忘れているのだからそれはそうだろう。けれど、私といると、彼が苦しむ。実際に目の前で苦しんでいる。その事実は思っていた以上に深く私の全身を切り刻み、心臓を突き刺した。見えない血がだらだらと流れ出ていくのを感じる。
 それでも私は歯を食いしばり、込み上げてくる涙がこぼれ落ちてしまわないように耐えた。ここで泣いても、彼には何も響かない。そして何も、変わらない。泣いたって、思い出してはもらえないのだ。

「わかった。わざわざ話をしに来てくれてありがとう」

 僅かに声が震えているのは許してほしい。これでも、ほんの二日前まで惜しみなく愛してくれていた彼から「消えろ」とまで言われたショックも、私の存在が彼を苦しめている事実を目の当たりにしたショックも、全部飲み込もうとしているのだ。でも、どうやっても飲み込みきれなくて、溢れてしまう。そのせいで、声が震える。泣きそうになる。これ以上何かを言おうものなら、もっともっと溢れ出てきてしまう。
 だからもう何も言わず立ち去ろうと思って踵を返した。彼に背を向けた。彼はうずくまったままで動く様子はない。まだ立ち上がれないほど頭が痛いのだろうか。これから仕事があるなら無理はしないでほしい。でも今の私には、そんなことを言う権利すら与えられていないから。

「苦しめて、ごめんね」

 何も言わない予定だったのに、口からぽろりと溢れていた。今彼を最も苦しめているのは私だ。そう思ったら、無意識のうちに言葉が口をついて出ていた。
 謝ってどうなるわけでもない。許してもらえるとも思っていない。ただ、私が伝えたかっただけ。彼からは動く気配も何かを言う気配も感じられなかった。それにホッとして、落胆した。

 応接室を出る。すぐに仕事に戻ろうと思っていたけれど、緊張の糸がぷつんと切れてしまった私は、一気に襲いくる感情の波に耐えきれずトイレに駆け込んだ。涙が止まらない。こんなに泣いたことなんてなかったのに。
 忘れられていたこと、罵声を浴びせられたこと、冷たくあしらわれたこと、全部辛かった。苦しかった。ショックだった。けれど、一番辛くて苦しくてショックだったのは、自分の存在が世界で一番愛している人を苦しめていること。
 生きていていいと思わせてくれた彼のために、私は今、消えたくてたまらない。