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思い出にさえできない

 俺は昨日から混乱し続けていた。見ず知らずの女が自分の家にいたことはもちろんだが、その女がおそらく俺の飯を作っていたことも、俺に威嚇されたにもかかわらず怯むことなく何食わぬ顔で出て行ったことも、全てが混乱の種だ。
 飯は毒でも盛られていたらたまったもんじゃないので最初は捨てようと思ったのだが、女から全く殺意を感じなかったことと飯を捨てることに抵抗があり、結局全て胃袋におさめた。結果的に毒は盛られていなかったし、腹が立つことに美味かった。それも混乱を悪化させている要因だ。
 そして更なる混乱の原因は、家の内装である。何の迷いもなくこの家に帰ってきて表札も確かに「爆豪」だったのに、一人暮らしをするにしては広すぎる間取り。家具もインテリアも到底俺が選んだとは思えないものが整然と並んでいて落ち着かない上、食器やカトラリーは完全に男女セットのものが揃えられていて気味が悪い。
 極めつけは寝室に鎮座しているクイーンサイズのベッドと幾つも飾られている写真たちだった。ほとんどの写真が先ほどの女と自分が仲睦まじく写っていて意味がわからない。しかも、俺の目がおかしくなったわけでないとすれば、その写真の格好はあろうことか自分と女が結婚しているかのように見えるのだ。
 俺が結婚? まさか。絶対に有り得ない。たとえ仕事で短時間だとしても家族以外の人間(しかも女)と同じ空間に二人きりなんて苦痛でしかないと思っている俺が、結婚? そんなのもってのほかだ。これはあの女の“個性”による幻術か何かなのだろうか。もはやそうとしか考えられない。それならこの“個性”はいつ解除されるのだろう。寝て起きたら元に戻っていたら良いのだが。
 そう思って一人では大きすぎるベッドに寝転がってみたはいいものの、どうにも落ち着いて寝られない。何かが足りなくて、しかしその足りないものが何なのかモヤがかかったようにはっきりしなくてイライラする。ついでに頭も痛くなってきた。それなのに、シーツや布団から微かに香る自分の知らぬ何かの匂いが妙に俺の気分を和らげるから、昨日は結局そのまま眠りに落ちてしまった。

 願いもむなしく、今朝目が覚めても状況は何も変化していなかった。昨日のことは覚えているが、寝ている場所も家の内装も変わりはない。こんなに長続きする“個性”があるだろうか。何も解決はしていないし釈然としないが仕事には行かなければならないので、俺はいつも通り事務所に向かった。
 事務所の人間に昨日からの不可解な出来事を相談するべきだろうか。女がヴィランだとしたら放っておくことはできないし、事件性があるかどうかは別として、仕事終わりにでも報告しておくべきかもしれない。
 そんなことを考えながら更衣室でヒーローコスチュームに着替えている時、俺は自分が何の気なしに左手の薬指から指輪を外していることに気付き驚愕した。左手の薬指に指輪を嵌めることの意味を知らないほど無知ではないが、自分には無縁の話だと思っていた。それなのにどうして何の違和感もなく身に付けているのか。昨日寝る時も今日の通勤中も嵌めていることに気付かないぐらい身体の一部と化していた、そして着替える時に何も考えず習慣としてそうしていると言わんばかりに外した銀色の輪っか。
 ここまでくれば信じたくはないし理解したくもないが、寝室に置かれていた写真の通り、俺が結婚しているのは本当だと思わざるを得ない。……いや、しかし結婚というのはお互いに好意があってするものではなかったか。万が一女が自分に惚れているとしても、俺が女に惚れるなんてことは天地がひっくり返ってもあり得ないと言い切れる。
 何者かの策略にハマった? もしくは結婚しているフリをして潜入捜査をしている? 指輪を付け外しするのが習慣化するほど長期にわたって? それを過去の俺が良しとしていたというのだろうか。わからない。というより、わかりたくないことばかりだ。

「ダイナマイト、今日も忙しくなりそうだから頼むぞ」
「ああ」
「どうした? 妙な顔して」
「……何でもねェ」

 何でもなくはない。が、今言うべきことでもない。自分の問題は後回しにして、俺はいつも通り仕事をこなした。

 仕事が終わったら上司に報告しよう。そう考えていたが、そういう日に限ってクソヴィラン共のせいで死ぬほど忙しく、現場から直帰することになってしまった。まあいい。また明日にでも……と思いながら家に帰ったら、またもやあの女がいた時の俺の気持ちがわかるだろうか。
 女は俺に「まだ戻っていないのか」「自分のことがわからないのか」と尋ねてきたが、俺には女についての記憶が一ミリも存在していないのだから、女が本当にヴィランではないという確証がもてない。写真のことや指輪のことから察するに“そういう関係”だったのかもしれないが、その状況証拠だけで「はいそうですか」と受け入れるのは不可能だ。つまり、女への警戒心を解くわけにはいかなかった。
 何にせよ、今度こそ逃げられるわけにはいかない。俺は女に鋭い視線を送り続けながら追い詰めていった。が、あと少しというところで事務所からの電話が入り、その電話の内容に動きが止まる。

「ダイナマイト、昨日何かおかしなことはなかったか? 昨日保護した女性が妙なことを言ってるらしくてな、ダイナマイトはもうあの女のものじゃない、とかなんとか……あの女って、たぶん奥さんのことだろ? “個性”のことは何も話してくれなくて詳細はわからないんだが……」

 奥さん、というフレーズを耳にして自然と女を見てしまったことに鳥肌がたった。自分の頭の中で「奥さんイコールこの女」の等式が成立していることが信じられない。
 電話を切ってから冷静に考える。電話の内容を加味すると、今ここでこの女を捕まえて事務所に連れて行っても、おそらく俺の「奥さん」として処理されるだろう。それでは何の解決にもならない。
 不法侵入したなら警察に突き出せるが、もしも何らかの理由で婚姻関係があって一緒に暮らしているのだとすれば当然のことながら罪を問うことはできないので、かなり不本意ではあるが、俺にできるのは「逃げるな」と釘を刺すことぐらいだった。昨日俺が凄んでも怯まなかったから普通の女ではないことはわかっていたが、だからといって俺と結婚していることまで認められるわけではない。
 この場はひとまずそのままにしておくべきか、念のため縛り付けておくべきか、それとも事実確認のため事務所まで引き摺って行くべきか。自分の中で数秒の葛藤を繰り広げた結果、俺は事務所の人間に現状を話してから決めるのが無難だと判断した。
 まだ女のことを信じきったわけではない。が、少なくとも盗みを働いたり俺に害が及ぶことはしないだろうと、その部分だけは信じることにした。なんせ昨日、人の家で(結婚しているのだとしたら人の家ではないのかもしれないが)呑気に飯を作っていたぐらいだ。悪党なら最初から何かしらしているだろうし、連日に渡ってのこのことうちに来たりはしないはずだ。

 そうして気持ちの整理もできぬまま女を残して家を後にし、急ぎ足で事務所に戻った俺を待っていたのは、先ほど電話をかけてきた上司だった。

「悪いな。あの女性を保護したのがお前だから何かわかるかと思って電話しただけなのに来てもらって」
「その女に訊きてェことがあンだよ」
「奥さん家で待ってるんだろ? いいのか?」
「……その“奥さん”ってのに身に覚えがねーんだよこっちは」
「え?」

 上司は、それはそれは驚いた顔をした。そして直後「お前があの奥さんを?」と、確認までしてくる始末。そこまで大袈裟に驚くことか? 俺からしてみれば、自分が結婚している(らしい)ということの方がよっぽど驚きなのだが。

「ちょうど一年ぐらい前かな。結婚するからって、自分から会見をしたいと言ってきたじゃないか。本当に覚えてないのか?」
「微塵も」
「信じられない……」

 それはこっちのセリフだ。俺が自分から結婚したいと言ったなんて、それこそ信じられなかった。当時の俺は頭がおかしかったとしか考えられない。眩暈がする。が、昨日からの一連の流れを振り返り、状況証拠と上司からの情報を全て合算させると、非常に信じ難いことではあるが、あの女と自分が結婚していることは間違いないと認めざるを得なかった。
 上司から「結婚会見の時のVTRを見るか?」と提案されたがキッパリ断る。今の精神状態でそんなものを見たら、テレビ画面を破壊してしまうことは必至だと思ったからだ。今の俺にはそんなことに時間と労力を割いている暇はない。

「それじゃあ、保護した女と話をするか?」
「……する」
「じゃあこっちに、」
「今じゃねえ。先にあっちの女と会ってくる」
「……奥さん、か?」
「違ェけど、そうなんだろ」
「本当に覚えてないんだな……」

 上司の残念そうな言い方にモヤモヤが募った。覚えていないのは俺のせいなのか? 俺が悪いのか? そもそも記憶が失われたのが保護した女の“個性”のせいだとして、発現時間が長すぎやしないだろうか。何も思い出せないということはその女と自分の関係自体があり得ないものだったということではないのか?
 考えることが多すぎて頭がズキズキと痛む。しかし、やらなければならないことははっきりしていた。家に残してきた女と、保護した女。両方と話をすること。冷静に話せる自信はないが、ここまで情報を与えられておいて存在を無視することはできない。
 保護した女はこちらの監視下にあるので逃げられることはないはず。となれば、自由に動けるもう一人の女を確保しておいた方がいいだろう。もしかしたらもう家にはいないかもしれない。
 ……いや、あの女は逃げてねえだろうな。確証はない。けれどもなんとなくそう思った。何も覚えていないはずなのに、俺の無意識の領域の中に女の情報が染み込んでいるかのような感覚。不愉快で気持ち悪いのに、拒絶できない。それならいっそ、どんな記憶だとしても思い出せたらいいのに。