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おかえりまであと何秒?

 帰って来て第一声「人んちで何してやがんだテメェ!」と怒鳴られた時は、シンプルに驚いた。妻に向かって不法侵入女と罵声を浴びせてきたことにも、戸惑いはした。けれど、私を前にして完全に戦闘モードになっている彼を見て、すぐに察知する。きっと何らかの“個性”事故に巻き込まれたせいでこうなっているのだろう、と。
 どんな“個性”事故に遭ったのか、どれぐらい持続するものなのか、情報がないので何一つわからない。けれどもこの状況で彼と夜ご飯を共にすることが不可能だということは明白。そこで私は、ひとまずほとぼりがさめるまで実家に帰るという決断を下したのだった。
 プロヒーローとして活躍している彼だから、何かしらの事故に巻き込まれることは日常茶飯事。いちいち慌てふためいていたら身がもたない。どんな“個性”であっても、持続時間はおよそ丸一日が限度だろう。明日になればいつもの彼に戻っているはずだから大丈夫。そう楽観的に考えていた私は、翌日、仕事帰りの彼を自宅で出迎えた時の反応に愕然とした。

「なんでテメェがまたうちに入り込んどんだ!」
「まだ戻ってないの……?」
「何わけわかんねェこと言ってやがんだこの不法侵入女! どんな“個性”使いやがった?」

 彼の様子からして、ドッキリを仕掛けているわけではなさそうだ。そもそも彼はドッキリ企画なんて大嫌いだし、何かの手違いでどうしてもその手の企画に参加しなければならなくなったとしても、私に向かってここまでの罵声を浴びせてくることは有り得ないと言い切れる。
 彼のこの対応は、まるで私のことを初対面の女だと認識しているかのよう。……もしかして、いや、ここまできたらもしかしてではなくほぼ確実に、

「私のこと、わかんないの……?」
「テメェみたいな女、俺が知るわけねェだろうが!」

 彼の返答により、私の仮定は百パーセント事実となった。彼は私のことをすっぽり忘れている。妻だということはおろか、私の存在そのものをまるっきり。
 どうしてこんなことに? 仕事には普通に行ったようだから、自分がプロヒーローであることは忘れていないのだろう。彼の事務所から連絡がなかったところをみると、仕事中にトラブルはなかったようだ。つまり仕事関係の人のことは忘れていないということだろうけれど、だとしたら私のことだけを忘れてしまったのだろうか。なぜそんなにピンポイントで? どんな“個性”による影響?
 考えている間にも目を吊り上げた彼がジリジリ詰め寄ってきており、私はいまだかつてない危機感を覚えた。まるでヴィランになったかのような気持ちで彼と相対するなんて、とんだ拷問である。私に彼の爆破による攻撃は効かないけれど、物理的に両腕を捻り上げられたら終わりだ。今の彼ならその程度のことは躊躇せずしてきそうで恐ろしい。
 どうしよう。また思考を巡らせようとした時、スマートフォンの着信音が鳴り響いた。私のものではなく彼のもの。しかも個人用ではなく、出動要請の時など緊急時用に事務所から持たされているものの方が鳴っている。彼は短く舌打ちをすると、私に鋭い視線を向けたまま素早く通話ボタンをタップした。

「なんだ? あ? 緊急? ヴィランか? 違う? なら…………は?」

 会話の内容は聞こえない。ただ彼の不機嫌そうな相槌と怪訝そうに顰められた顔からして、彼にとってよろしくない事態が発生していることは読み取れる。そして私に向けられている眼光がわずかに揺らいだのも見逃さなかった。
 電話を切った彼が、再び盛大に舌打ちをして私に大股で近付いてくる。戦闘態勢ではないので、とりあえず危害は加えられないと信じたい。ていうかどうせ逃げられないし。目の前に仁王立ちとなり私を見下ろしてくる冷ややかな視線に、初対面の時よりも人相が悪いかもなあ、なんて場違いなことを考えたのは、現実逃避したかったからかもしれない。

「オイ」
「何」
「…………あー! クソが!」
「何?」
「テメェ! 逃げたらブッ殺す!」
「お好きにどうぞ」

 何かを言いかけて、やめて、叫んで、頭を掻きむしって、負け犬の遠吠えみたいなセリフを吐き捨てて出て行って、まったくもって忙しい人だ。おまけに玄関のドアを乱暴に閉めて出て行くものだから、うるさくて近所迷惑。勘弁してほしい。でも、なんとか助かったらしい。
 助かった、と頭で理解した途端、足の力が抜けて座り込む。彼に怒鳴られてもできる限り堂々と、毅然とした態度で言い返したつもりだけれど、彼にはそれがどう映っただろうか。生意気な不法侵入女? 頭がおかしいクソ女? まあ何でもいいや。今の彼は私のことなんてこれっぽっちも覚えていないのだから、良い印象を持ってもらおうなんて無理な話だ。
 先ほどの電話はどういう内容だったのだろう。出動要請ではなさそうだった。しかし緊急事態だから彼は私を置いて出て行ったに違いない。今の状況で彼にとって最大の緊急事態といったら私の存在を忘れてしまったことだと思うのだけれど。
 ……ああ、違うな。「彼にとって」じゃない。彼が私を忘れてしまったのは「私にとって」緊急事態なのだ。

 詳細は不明だけれど、彼は私のことを何も覚えていない。それは確定事項だ。他のことは覚えているのに私のことに関する記憶だけがすっぽり抜け落ちているのだとしたら、そこまでピンポイントで作用する“個性”攻撃を食らったということになるわけだけれど、果たしてあの彼がそう簡単に攻撃を受けるだろうか。
 そこで思い出したのは、およそ一ヶ月前の出来事。私に接触してきた一人の女性。彼女は私に何かを仕掛けてきたようだったけれど、失敗して逃げて行った。もしかしてそのことと何か関係があるのだろうか。
 ……わからない。何も。憶測でしか考察できないことに歯痒さが募る。現状がわからなければ打開策も見出せない。私はそのことに焦りと不安を膨らませていた。

 もしもこのまま思い出してもらえなかったらどうしよう。いくら戸籍上結婚しているとしても、周りの人たちが「お前たちは夫婦なんだぞ」と言ってくれても、彼は納得しないだろう。
 根気強く彼に関わり続けて無理矢理にでも思い出してもらう? どれぐらいで思い出してもらえるかもわからないのに? 昨日や今日のような態度を取られても平気なフリをし続けて?
 そんなの無理だ。だって私には、彼と出会って、好きになって、お互い気持ちが通じ合って、付き合い始めて、結婚して、幸せに暮らしてきた記憶がしっかりある。それをなかったことにして「初めまして」の状態からもう一度……なんて、どうやっても気持ちが追いつかない。
 きっと辛く当たられる数が増えれば増えるほど、逃げ出したくなってしまう。泣きたくないのに、泣いたって彼の心はちっとも揺らがないとわかっているのに、泣いてしまう時がくる。その光景が目に見えるようだ。
 こんなことになるぐらいなら私が忘れてしまいたかった。……いや、それも嫌だな。彼に関することは何一つ忘れたくない。
 逆の立場だったら彼はどうするだろう。何が何でも思い出せって詰め寄ってきそうだなあ。「お前は俺に惚れてんだろうが!」って、怪訝そうな顔をする私に何度も同じことを言ってくるかもしれない。そういう、はちゃめちゃで真っ直ぐで、私のことをどこまでも大切に想ってくれる人だから。絶対に諦めたりなんかしない。

 冷えたフローリングの床を見つめたまま座り込んでいた私は立ち上がった。そうだ。私は爆豪勝己の妻。こんなところで挫けている場合ではない。
 彼に忘れられているとしても、そしてもし今後思い出すことがないとしても、私たちが永遠の愛を誓い合った事実は消えない。周りの人たちだって、私たちの関係が強固なものだということはわかってくれているはずだ。だから、私が諦めちゃいけない。諦めたりするもんか。
 自然と滲み始めていた涙を拭う。泣き言を言っている暇があったら行動しよう。だって私はまだ何もやっていないじゃないか。今の彼に向き合って、ぶつかって、それでも駄目ならその時に考えればいい。
 リビングの扉を開ける。彼がいつも美味いと言って食べてくれる麻婆豆腐はすっかり冷めているけれど、食欲をそそるいい香りだけは部屋の中に充満していた。
 帰って来たら食べてくれるかな。昨日作ったものも捨てられていないようだったし、食べてくれるかも。私の手料理を食べて、何か思い出してくれないかな。そんなことで思い出してくれるならこんなことにはなっていないだろうけれど、それでも、気休めだとしても希望を持っていたかった。何かに縋り付きたくて堪らなかった。

 だって私はもう、一人でも生きていけると思っていたあの頃には戻れないんだよ、勝己。だから、ねぇ、