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カラフルの方舟は左手から

 世界が暗くて何も見えない。身体も重たくて鉛のようだった。自分の身体だというのに思うように力が入らず、腕どころか指先を動かすこともままならない。お陰で目を開けることも億劫で、目覚めるのに随分と時間を要した……のではないかと思う。それでもどうにか目を開けた。開けなければならないと思った。本能的に。
 いまひとつ意識がはっきりしない間、ずっと左手に温もりを感じていた。懐かしい感触と温度。その温度に誘われたのかもしれない。ゆっくりと目を開けて真っ先に左手の方へ視線を向けた俺は、俺の手を握ったまま静かな寝息をたてている女を視界にとらえて鼓動を早めた。

「…………なまえ、」

 身体も声も震える。久し振りに声を発したから、というだけでこうはならない。全てを思い出した。だから俺は震えているのだ。
 全てを思い出した。文字通り“全て”を。なまえのことを二度と思い出せないと言われたことも、記憶を奪われていた間に自分が何をして、何を言ったのかも、何もかも。もしかしたら時間の経過とともにあの忌々しい女の“個性”の力も少しずつ弱まっていたのかもしれない。どんな理由にせよ、思い出せて良かった……と。単純に喜ぶことはできなかった。喜べるはずもない。
 思い出したくてたまらなかった。どんなことをしてでも思い出さなければならないことだった。だからなまえに関わるあらゆる記憶を思い出せたことは、結果的に見れば“良かった”のかもしれない。しかし、自分がこれ以上ないほどなまえを傷つけたことだけは、一生思い出したくなかった。忘れたままでいたかった。そしてできることなら、なまえの頭の中からも永遠に葬り去ってほしかったと切実に思う。
 だがそんなに都合よく記憶をいじる方法などあるわけがないことぐらいわかっていた。どんな理由であれ、俺がなまえを傷つけて泣かせたことは、紛れもない事実だ。消すことはできない。
 今すぐに起こして「思い出したぞ」と伝えたい気持ちと、起こしたとして、どのツラ下げてそんなことを意気揚々と伝えるつもりだという自虐的な気持ちがせめぎ合う。まだぼうっとした頭で考えていても決断できず、うじうじ悩むなんてらしくないと思いつつも結局動くことができぬまま、時間だけが無駄に経過していく。
 そうして数分が経った頃。ぴくりと左手に力が伝わってきた。もしかしたら無意識になまえの手を握る力を強めていたのかもしれない。もぞりとなまえが頭を起こす。それからゆっくりと俺を見つめたかと思ったら、目を見開いて俺に飛びつかんばかりの勢いで距離を詰めてきた。

「勝己……! もう大丈夫? どこか痛む? 先生を、」
「……手」
「あ……ごめん、嫌だったよね」
「なまえ、」
「え……、な、んで、名前……、」

 離そうとした手を慌てて握り直して引きとめた。その行動と名前を呼ぶ俺の声のトーンで察したのだろう。なまえが激しく動揺しているのがわかった。そりゃあそうだ。俺だってまだ現実味がなくて、どうしたらいいかわからないぐらいなのだから。
 しばらくじっと見つめ合って固まっていた。というより、そうすることしかできなかった、というのが正しいか。もともと馬鹿ではない。むしろ頭の回転が早く冷静ななまえは、その沈黙の間に何が起こったのか整理し、自分の中で消化したのだろう。口元を手で覆いながら目元を潤ませた。

「思い、出したの……?」
「……ああ」
「本当に? 私のこと、わかるの……?」
「ああ」
「身体は? 動く? とりあえず先生……ッ、」

 喜ぶより先に俺の身体を気遣うなまえを自分の方に引き寄せた。泣くのを堪えているのは、ひとたび泣き始めてしまったら止められなくなるとでも思っているからかもしれない。その気持ちはよくわかる。俺も今、全く同じ状態だから。

「なまえ」
「……勝己、」
「ごめん」

 先に堪えられなくなったのは俺の方だった。目からどんどんこぼれ落ちていくものを止める術はない。なまえの身体を抱き締める力もなく、首筋に額を擦り付けて縋り付くように、とんでもなく情けない格好で絞り出した声は、なまえの耳に届いただろうか。
 何度も言うように、たとえあのクソ女の“個性”によるものだったとしても、この世で一番大切な妻を忘れていたという事実は消えない。クソ“個性”に振り回されてしまった不甲斐なさと、幸せにすると誓った相手を最も不幸な状態にさせてしまったことに対する自分への怒り、何より、記憶が失われていた間の自分の言動となまえの悲痛な表情や声を思い出したら、いくら謝っても許されるものではなかった。
 今は思い出せたことを喜んでくれても、冷静になったらどうなるかわからない。たとえ記憶が戻ったとしても「今更だ」と突き放されて、別れを切り出されるかもしれないのだ。俺はそれだけのことをした。それなのに今俺が一番恐れているのはなまえを失うかもしれないことだなんて、矛盾以外の何ものでもない。

「勝己、」
「……」
「ありがとう」
「は……?」

 絶望に身を投じかけていたところで耳を疑うようなセリフが聞こえてきて、思わず顔を上げる。そして俺の目に飛び込んできたのは、目を潤ませながらも微笑んでいるなまえの姿だった。俺の頬の涙を優しく拭いながら「勝己でも泣くんだねぇ。私はまだ泣いてないのに」などと笑えない冗談を言っているが、なぜこんなにも穏やかな表情をしているのか、俺には到底理解できなかった。
 呆然としている俺に向かって、なまえは追い打ちをかけるように言う。「思い出してくれてありがとう」と。それはそれは幸せそうな笑顔を添えて。その顔を見て、俺の視界はまた滲んだ。嬉しくて。悔しくて。腹立たしくて。情けなくて。愛しくて。何が最も大きなウェイトを占めているのかわからないほど、俺の内部では多くの感情が渦を巻いている。
 そして出てきたのは、

「なんで責めねンだよ……ッ」

 この期に及んで尚もなまえを傷つけるようなセリフだった。責められなければならないのは俺の方なのに、まるでなまえを責めているかのような一言しか出てこないなんて、我ながら辟易するほど腐った人間である。
 しかしなまえは、俺を見捨てない。突き放さない。責めない。泣くほど辛い仕打ちを受けたというのに、穏やかな海のように、全てを飲み込む。

「だって、私のことを忘れちゃったのは勝己のせいじゃないでしょう?」

 確かに、それはその通りだ。しかしだからといって、ここでそう簡単に許されて良いのだろうか。なまえに何もかもを押し付けて、消化させて、受け入れてもらって、俺は拒絶されなかったことを安堵するだけで良いのだろうか。そんなわけねえだろ。行き場のない感情が溢れ出す。

「それでも! 俺は! 散々ひでェこと言っただろーが! 傷つけただろーが! お前を!」
「……そうだね」

 怒鳴りたいのはなまえの方だろうに、俺は自分の気持ちを抑えられずに吐き出すばかりだ。そしてなまえは当然のように、ぶつけた言葉を静かに包む。

「でも、勝己もすごく辛かったでしょう?」
「な……、」
「自分のこと、責めてるんでしょう? だから泣いてるんでしょう? もう十分だよ」
「十分じゃねえだろ……」
「もし逆の立場だったら、勝己は私のことを責めるの? 自分が傷ついたから傷つけてやろうって思う? きっと同じこと言うよ。ありがとう、って」
「それは……!」

 それはそうかもしれないが、でも。何かを言い返そうとした俺は、そこでようやくハッとした。なまえが泣いているのを見て、急にクリアになる思考。
 記憶を取り戻して、まず俺がするべきことは何だ。後悔なら幾らでもしてやる。償いが必要だと言うのならこれから一生かけて喜んで償おうではないか。だがなまえはきっと、そんなことは望んでいない。それなら俺が今するべきことは、何だ?

「絶対に思い出してくれるって、信じて待っててよかった」

 頬の涙を拭う手の暖かさに救われて、そして。俺はその細い手に自分のゴツゴツしたボロボロの手を重ねた後、なまえを強く抱き締める。後頭部と背中をぎゅうぎゅうと、潰してしまわないように気を付けることすらできず力任せに。
 俺の震えた掠れ声の「ごめん」に同じような震える掠れ声で「うん」としか返さないなまえが俺にしがみついてくる力は、弱くて強い。物理的には弱いが、俺から離れないという強い気持ちが伝わってくる。
 俺は改めて思った。この世で唯一愛する相手がなまえで良かった、と。好きだ。愛してる。それ以上の言葉があるなら教えてほしい。この気持ちは言葉なんかじゃ到底足りない。それでも言いたかった。伝えたかった。今までは言葉で伝えることにどれほどの意味があるのかちっともわからなかったが、今ならわかる。この気持ちは伝えなければ苦しくなるほど溢れてくるものなのだ。

「好きだ」
「うん」
「愛してる」
「うん、私も」
「……ありがとう」
「どういたしまして」

 途中で諦めて離れていかず記憶が戻ると信じて待っていてくれたこと、今も変わらず愛してくれていること、隣で笑っていてくれること、全てに感謝した。それから俺たちは二人でまた泣いて、泣いて、泣き尽くして、汚い顔で美しく、わらいあう。
 俺の世界が、ようやく色付いた。