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罪名は「あいしてる」

 騒つく店内で、彼が近付いてくるのがスローモーションで再生されているかのように、ひどくゆっくり見えた。声を聞いて、目の前で救けてもらったにもかかわらず、彼が今ここにいるということがいまだに信じられない。
 通報を受けて仕事を片付けにきただけ。そこにたまたま私がいただけ。「私がいるから」救けにきたわけではない。それでもこの偶然を、私は都合よく捉えようとしていた。運命じゃないか、って。まるで夢見る乙女みたいにメルヘンな思考すぎて、我ながら気持ち悪いなと思う。しかし、何でもいいから彼との繋がりを見つけたかった。それぐらい私は、彼を失わないために必死なのだ。
 一般人である私が、危険を回避するどころか自分からその危険に飛び込んでいきそうな勢いだったことに怒っているのだろう。彼は当然のように鬼の形相で私を睨み付けていたけれど、もちろん怖くはなかった。むしろ懐かしかった。こういう顔、昔はよくしてたもんなあって。
 結婚してからは、彼が隣にいることが当たり前で、何かあっても今のように私が出る幕はなかった。だから必然的に、彼から睨み付けられるような事態は発生しなかったのだと思う。もっとも、もし今と同じシチュエーションで同じ展開になっていたとしても、彼は睨み付けてきたりしなかっただろうけれど。
 私のことを覚えている時の彼なら、血相を変えて私に駆け寄り、無事を確認して安堵の表情を浮かべるだろう。そしてきっと不機嫌そうな顔で言うに違いない。「俺がいねえとこで無茶すんな」と。
 睨み付けられたことで、懐かしさとともにちくちくとした胸の痛みが生じる。ついでにちょっぴり涙腺も緩みかけていることに気付き、慌てて瞬きをして誤魔化した。私は、爆豪勝己の妻は、こんなことでいちいち泣くような弱い女じゃない。自分にそう言い聞かせる。
 彼は私との出会いも、出会ってからの出来事も、何も覚えていない。思い出していない。だからホテルディナーの時の騒動のことも全く記憶にないはずだ。だからこそ、あえて「何度もごめんね」と言ってみようか。「また無茶なことしちゃった」って。彼はきっと、眉間の皺を深くして怪訝そうな顔をするだけだろうけれど。
 目の前まで来た彼は、私を見下ろす。その目に見つめられると、つい三秒前まで考えていたはずの茶化すような発言は喉の奥に引っ込んでしまった。

「なんで逃げねンだよテメェは」
「私には“個性”関連の攻撃は効かないの。だから、」
「“個性”以外の攻撃なら普通に食らうんだろーが!」
「……合気道、習ってるから、それなりに護身はできるかな、って……、」

 同じこと言うんだなあって、やっぱり彼は変わっていないんだなあって、それが嬉しくて、苦しくて、切なかった。自分にだけ残っている記憶と今が重なって、せっかく引き締めたはずの涙腺がまた緩み始める。世界が滲む。それにつられて声が詰まる。弱い女の典型的なパターンだ。
 彼はそれをどう捉えたのだろう。危険な男を前にして無茶したことが今更怖くなって震えているとでも思ったのかもしれない。まるで私を安心させようとしているかのように、声音を柔らげた。彼はやっぱり変わらずやさしい。だから、困る。強くありたいと思う心が簡単に揺らいでしまうから。

「ンな甘ェもんじゃねえわ」
「銃、相手じゃない、し、」
「そういう問題じゃ……」

 不自然なところで言葉が途切れてどうしたのかと思い、俯かせていた視線を上げる。すると、彼が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。私に対する感情によって、ではなく、おそらく何かしらの痛みに対する苦痛で。
 そこで私は事務所での出来事を思い出す。確か彼はあの時、私と話をしている最中に突然蹲った。そして頭が痛そうな様子だった気がする。
 もしかしたら今のやりとりで何かを思い出しかけているのかもしれない。となると考えられる仮定は、私との記憶を思い出そうとすると頭が痛くなる、ということだった。考えてみれば至極当然のことだ。忘れたことを無理矢理思い出そうとしたら脳が拒絶反応を示すのは、自然な反応といえる。
 もしここで事務所の時のように蹲るほどの頭痛が彼を襲ったら、警察やヒーローたちだけでなく一般の人たちも、何があったのだろうかと心配するに違いない。それは避けた方が良いだろう。
 私の考えが彼にも伝わったのか、頭の回転が速い彼の方が私より先にその考えにたどり着いたのか。彼は私の腕を掴むと近くの警察に「コイツは後で連れて行く」とだけ伝えて店を出た。そして人気のない店の裏手まで来たところで手が離れた……と思ったら、その場で蹲ってしまったではないか。
 きっと頭痛がひどくなったに違いない。周りの人たちに何も悟られぬよう、歩くのがやっとの状態だったかもしれないのに平然とここまで歩いてきたのだろう。強がりで、見栄っ張りで、本当に強い彼らしい。

 今蹲っている彼に、苦しんでいる彼に、私は何ができるだろう。私はどうするべきだろう。頭の中を整理する。
 彼に自分のことを、自分との記憶を、思い出してほしい。前のように柔らかな声音で名前を呼んでほしい。自然に笑いかけてほしい。その気持ちはどうやっても消えない。
 しかしそれ以上に、彼を苦しめたくないという気持ちが強かった。彼のことが大切だから。好きだから。彼のことを心の底から愛しているから。自分のことより誰かのことを想う気持ちを教えてくれたのは彼だから。私はこれから先も、彼のことを一番に想う人間でありたかった。
 蹲る彼に手を伸ばそうとして、引っ込める。また事務所でそうされた時のように、冷たく払い除けられるかもしれない。拒絶、されるかもしれない。消えろと言われるかもしれない。傷付くかもしれない。けれど、私は、それでも。

「いいから。もう、思い出そうとしなくていいから。ごめん……ごめんね、思い出させようとして、ごめん、」

 何もしないなんてできなかった。振り払われても押し退けられても突っぱねられても罵声を浴びせられても良い。私は何度傷付いたっていい。だから彼にはもう、私のせいで苦しんでほしくなかった。だから抱き締めた。かつてもがき苦しんでいた私を、彼がそうしてくれたように。
 彼は私を振り払うことも押し退けることもせず唸っていた。そんなことをする余裕がないほどの頭痛で苦しんでいるのだろう。コスチュームの上からでもわかるほど、彼はじっとり汗をかいている。

「あなたはそのままでいいから。苦しまなくていいから、」

 もういい、と。思い出さなくていい、と。何度も言っているのに、彼はどんどん苦しそうに呼吸を荒げていく。つまり、まだ私のことを思い出そうとしてくれているのだ。
 なんで。どうして。私のことなんて何も覚えていないはずなのに、見ず知らずの女のためにこれほど苦しんでまで記憶を取り戻そうとしてくれているのだろう。彼が負けず嫌いだから? ただの意地で? それとも、もしかして、何か思い出しかけているから?
 ほんの少しの期待が顔を覗かせる。しかし今はそんなことを考えるより、彼の尋常ではない苦しみをどうにかする方法を考えなければ。そう思ったら彼を抱き締める腕に自然と力が入るけれど、どれだけ強く抱き締めたところで彼の頭痛が軽くなることはなくて。
 結局、私は彼を救けることなんてできやしない。無力な女だ。こうして抱き締めること以外何もできない自分に腹が立つ。彼は声を抑えつつも静かに唸り続けていて、時間の経過とともに心拍数が上昇していくのがわかった。
 どうしよう。このまま彼に何かあったら。最悪の未来を想像して、もう一度「もういいから。思い出そうとしないで。お願い」と言おうと思った時だった。彼が私の腕を強く握った。
 何? どうしたの? 大丈夫? そう尋ねる間もなく、彼の手が私の腕から離れて、倒れる。彼は完全に意識を失っていた。ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう。私のせいで、彼が。
 危うく自己嫌悪に陥り思考を停止させてしまうところだったけれど、ここで私が思考を止めたら彼はどうなってしまうのだと、どうにかこうにか冷静さを取り戻す。そしておそるおそる、彼が呼吸をしていること、彼の心臓がきちんと動いていることを確認した。
 大丈夫。彼はいなくなったりしない。死んだり、しない。心の中で唱えた言葉は、自分に言い聞かせるためのものだった。

 そこからの記憶は、あまりない。誰か助けを呼びに行こうと思ったけれど、一秒たりとも彼の傍を離れたくなくて、スマホで直接救急隊を呼んだことは覚えている。救急隊が駆け付けてくるまでの時間は生きた心地がしなくて、彼を膝に抱えたまま、ただ彼の呼吸と心拍を確認し続けながら固まっていたと思う。救急車で運ばれる彼に付き添って病院に行って、それから何時間も待合室で過ごし、次に彼を見たのは、白いベッドの上。
 医師から「命に別状はないが、いつ目を覚ますかはわからない。脳にかなりダメージを受けている状態であり、目覚めたとしても今まで通りに動いたり話したり、ヒーローとして活動できる保証はない」と説明を受けた時の私の心境は、かなり複雑だった。
 一命はとりとめた。それは本当に良かったと思う。しかしもしも、何らかの脳の後遺症が残ったら? ヒーローとして活動できないなんてことになったら? 彼は生きていて良かったと思えるだろうか。答えは決まっている。
 こんな目に合わせてしまった私が、これ以上彼の傍にいることは許されないのかもしれない。今すぐこの場を去って、二度と彼の前に現れないようにした方が良いのかもしれない。しかしどうやっても彼のことを愛している私は、離れることができなかった。
 これが罪だというのならどんな償いでもする。私との記憶なんか、もはやどうだって良い。彼にとって大切なものは、他にもっと沢山ある。だから、どうかお願いです。このまま永遠に私のことなんて思い出さなくてもいいから、彼から何も奪わないでください。穏やかな顔で眠る彼の手を握りながら、私はひたすら願った。願うぐらいしか、できなかった。