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「#総受け」のBL小説を読む
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右手を救う戦士に愛を

「なまえ、」

 それは、彼の口からもう二度と聞くことができないと思っていた自分の名前だった。いまだかつてない弱々しさで聞こえた声とは対照的に、私の手を掴む力はとんでもなく強い。
 ベッドに横たわる彼を見つめ続けている間に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。だから目覚めた瞬間に名前を呼ばれて、もしかしたらこれは私の望みをリアルに再現したタチの悪い夢なのではないかと疑った。そしてそれと同時に、夢なら残酷すぎるから現実になればいいのにと思っていた。
 しかし、時間の経過とともに「現実」がじわじわと私に染み込んできて理解する。これは夢ではないのだと。彼は私を、私との記憶を、私との繋がりを、思い出してくれたのだと。
 信じていた。彼ならいつか思い出してくれるはずだと。もしかしたら信じていたというより、願っていた、という方が正しいかもしれない。「絶対に思い出すことはできない」と聞いた時からずっと、いつか、ほんの一瞬でもいいから私のことを思い出してください、と願っていたから。何にせよ結果的に、信じる者は救われた、ということか。
 ……いや、信じていたから救われたのではない。彼が苦しみを乗り越えてくれたから、それこそ文字通り「死ぬほど」努力してくれたから、奇跡みたいなことが起こったのだ。私はただ、彼に救われただけ。
 いつだって彼は「無理だ」と思うことを成し遂げてきた。今回もそう。「俺に不可能はねンだよ」という彼の口癖は、はったりでも見栄を張っているだけの虚勢でもなく、紛れもない真実だ。

 彼が倒れて眠っている間、彼が無事ならそれでいいと思っていた。目を覚ましてどんなに罵られても突き放されてもいいから、彼がまたヒーローとして輝けるなら十分だと。そう思っていたのに、彼は私のことを思い出してくれた。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。驚きと嬉しさが一気に押し寄せてきて、涙は滲んでいるのに流れていかない。
 いつもの彼ならそんな私の心中を見透かしてくれるはずなのだけれど、今回ばかりは違った。泣きながら「ごめん」と。口にしなくて良いことを吐き出して、縋り付くように私の首筋に顔を擦り寄せてきたのだ。これほどまでに弱りきった彼を見るのは初めてで、正直戸惑う。
 責任感が強くてやさしい彼のことだから、記憶を失っていた間のこととはいえ、私に罵声を浴びせたことや突き放すような行動をとった自分を責めているのだろう。記憶を失ったのはどう考えたって彼のせいじゃないのに。
 ここで私はどう動くべきなのだろうか。何と声をかけたら正解なのか、模索する。「大丈夫だよ」って抱き締める? それとも「泣かないで」って頭を撫でる? はたまた「気にしないで」って背中をポンポン叩いてみる? どれも正解かもしれないけれど、全て間違いな気もした。どうもしっくりこない。
 確かに私は、彼に忘れられてしまって悲しかった。辛かった。苦しかった。しかし、その思いを抱えているのは私だけだろうか。そんなわけない。現に彼は記憶を思い出したというのに、喜ぶより先に悲しさと辛さと苦しさに押し潰されそうになっている。そんな彼に私が投げかけられる言葉なんて、ひとつしかなかった。

「ありがとう」

 抱き締めることも頭を撫でることも背中を叩くこともせず、私は簡素な言葉だけを落とした。たっぷりの愛情を込めて。そうしてやっとのことで上げてくれた彼の顔は珍しくちょっぴり情けなくて、可愛くて、わざと皮肉を込めて「勝己でも泣くんだねぇ。私はまだ泣いてないのに」と言ってみたら、彼の顔が怒りたいのか泣きたいのか驚きたいのか、よくわからない表情に変わる。
 彼のこんな顔を見ることができるのは、世界で私だけに違いない。情けなくて、弱くて、そんな「大・爆・殺・神ダイナマイト」を見せてもらえるなんて光栄なことではないか。それもこれも、全ては彼が私を思い出してくれたおかげだ。彼が死ぬほど苦しんでまで思い出そうとしてくれたから、私はまだ彼の妻でいられる。隣にいられる。そのことにもう一度感謝した。「思い出してくれてありがとう」と言葉に出して。
 しかし彼は、私がこんなにも幸せな気持ちでいっぱいだというのに納得してくれず、どうしても私に責めてほしいらしかった。責めることは容易い。「どうして私のこと忘れちゃったの?」「ひどいことを沢山言われてすごく傷ついたんだよ」「今更謝られたって遅いよ」彼を責める言葉は山ほどある。
 しかし私がそれらを口にすることはなかった。だって私は、既に傷ついている彼をこれ以上傷つけたくない。もう十分だ。私も彼も、十分傷ついた。だからこれからは、傷の舐め合いをしたいと思ったのだ。
 彼の涙を拭いながら、気付いたら私も泣いていた。もらい泣きというより、やっと気持ちが流れ出してきたのだろう。抱き締めてもらえたことで気持ちの流れは止めることができなくなって、私は彼にしがみついて子どもみたいに泣いた。彼も静かに泣いていた。私たちってこんなに涙を流すことができたんだなあって、他人事のように思うぐらい泣いた。たぶんこの先の人生で私たちがこれほど泣くことはないだろう。

 それからお互い落ち着いてからようやく先生を呼んで全身に異常がないことを確認してもらい、彼は早々に退院の運びとなった。久し振りに二人で家に帰るからだろうか。ほんの少し緊張してしまう。
 いつもどんな話をしてたっけ。どれぐらいの速度で、どれぐらいの距離感で歩いてたっけ。感覚が思い出せない。とりあえず彼の半歩後ろを歩きながら、何か話をふらなければ、と考える。すると急に彼が立ち止まり、反応が遅れた私は彼の左半身にぶつかった。鍛え抜かれた彼の身体にぶつかるとまあまあ痛い。

「なんで急に、」
「違ェ」
「……何が?」
「位置。そこじゃねーだろ」
「そうだっけ?」
「お前が忘れんな」
「ごめん……」
「違ェ」
「今度は何が、」
「そのセリフも顔も、全部」

 彼は不機嫌そうに吐き捨てて「ん」と左手を突き出してきた。これはもしかして私の手を重ねても良いということだろうか。彼の方から手を繋ぐことを提案してくるなんて初めてのことで、戸惑いが隠しきれない。
 時々あまり人目につかないところで私の方からふざけて手を絡めることはあったけれど、それに対してやや微妙な反応をしていた彼が、まさか自分から手を差し出してくる日が来ようとは(差し出すというほど丁寧な動作ではないけれど、それはまあいいとして)。嬉しくないわけではない。けれどもこれが私に対する無意識の贖罪なら、それこそ「違う」と思った。

「気を遣ってるの?」
「誰が、誰に」
「勝己が、私に」
「……そう見えンなら、いい」

 彼は静かにそう呟いて左手を下ろすと、私に背中を向けて歩き出した。その後ろ姿を見なければ気付けないのだから、私は大馬鹿者である。
 気まずい空気にしているのは私の方で、変な気を遣っていたのは私の方で、彼は不器用ながらも歩み寄ってくれたのだ。いつも通りを取り戻すために。今まで通りに戻るために。私はそんな彼の手を取らず、背中を見つめているだけでいいのだろうか。そんなわけ、ない。
 小走りで彼に近付いて、つい先ほど差し出された左手を掴む。決して肌触りがいいわけではない彼の手は、初めて触れてもらった時よりゴツゴツしているように感じた。それだけこの手を使って誰かを救けてきたということだろう。私も幾度となくこの手に救けられてきたからわかる。この手はこれからの未来でも沢山の人を、そして私を救けてくれるに違いない、と。

「気ィ遣ってんのかよ」
「そう見える?」
「……わかんね」

 そう言いながら絡めた指先を解かない彼に安堵した。どうやら私の行動は間違っていなかったらしい。

「今日の夜ご飯はカレーにしよっかな」
「退院したばっかの人間に食わせるメニューじゃねえだろ」
「じゃあ甘くする?」
「はァ?」
「胃に優しいかなって」
「だったらカレーにすんなや」
「カレーの気分になっちゃったんだもん」
「……いつもの」
「うん?」
「いつもの辛ェやつがいい」
「……了解」

 きゅ、と。お互いの指先に力が入った。帰ってきた日常を噛み締めるみたいに。