この十数年もの間、何の違和感も音沙汰もなかった左腕に闇の印が現れたのはレギュラスにとって信じられないことだった。

一時レギュラスが闇の帝王に心酔し、崇拝し、心から望んで従属していた時もあった。だがそれは遥か遠い過去のこと、それも学生時代のことだ。あの人は誰かの家族をも捨て駒にできるのだ、という今思えば当然の事実を改めて突きつけられ、急速に心が離れていった。その数年後、守るべき存在ができたのが決定打となった。
十数年前からレギュラスは闇の帝王を裏切り続けていて、現在までそれが発覚してはいないのだが、発覚した時には死は確実だ。自分自身が殺されるだけならば、それはそれでいい。その覚悟はとうに固めている。
だが、ライジェルを関わらせることだけは何としてでも阻止しなければならない。

過去、最盛期にはかなりの勢力を誇っていた闇の帝王だが、まだ赤ん坊であったハリー・ポッターが彼を退けるという出来事により、闇の帝王は人の形を保てないほどにまで力を落とし、一気に闇の勢力は失墜していった。
内心で闇の帝王を恐れていた者は逃げ、強者に従う性の者は知らぬ存ぜぬを決め込む。闇の勢力に属する前から親交のあったルシウスも、闇祓いらにもかつての同志達にも尻尾すらつかませることなく陣営を去り、何事もなかったかのように優雅に日々を過ごしているようだった。
レギュラスにとっては好機以外の何でもなかった。闇の帝王への心酔はとうに消え去り、できることならばさっさと離反してしまいたいと思っていたため、さも自身は潔白であるというかのような毅然とした態度で翌日も朝から仕事に励んでいた。同じ魔法省勤めの闇祓いらにいくら睨まれようとそ知らぬ振りを決め込んで、疑わしきを罰することができずに悔しがる彼らの顔にも気づかない振りを決め込んでいた。

そして闇の帝王が失脚した数日後、レギュラスは人生を変える存在と出会った。

シリウスの娘であるライジェルは血縁で考えれば姪にあたるのだが、それでもレギュラスは、ライジェルの父親であるのは間違いなく自分自身であると思っている。
最初は厄介なものを押しつけられてしまったものだと思っていたが、それが消えたのとライジェルが物心ついたのはどちらの方が先だっただろうか。男手ひとつで四苦八苦しながら育てている期間が長くなればなるほどに情のようなものが湧いてしまった。
いけないことだ、これはシリウスの娘であって自分の娘ではないというのに。そう自分自身に言い聞かせていても、どうしたって兄によく似たライジェルを自身の娘のように扱ってしまう。他人の子供なんて適当に機嫌をとってやればいいだろうに、レギュラスはそうしなかった。
そんなレギュラスの思いを知ってか知らずか、ライジェルは彼を実の父のように慕った。レギュラスが実の父でないと知ってからも、シリウスへ向けていた負の感情がなくなった後でさえ、ライジェルはレギュラスを父と呼ばなくなることはなかった。父様、の呼び方はレギュラスだけのものなのだ。
レギュラスはライジェルを愛していて、またライジェルも同じだけの愛をレギュラスへ向けていた。直接の血の繋がりはなくとも、彼らの有りようは正しく父と娘のそれだった。

そのライジェルが今レギュラスへと向けている目は、彼が初めて見るものだった。

その目をレギュラスは知っていた。かつてレギュラスが実兄に向けていたものと同じものだ。信じていたのに裏切られた、絶望の目。
ライジェルは、死喰い人がどのような集団か正しく知っている。純血主義をかかげて残虐な行為を行う闇の帝王の思想に賛同する、忌むべき者どもだ。そうレギュラス自身が教えたのだから当然である。かつてレギュラス自身が犯してしまった間違いを犯してしまわないように、正しく教育してきたのだ。一度死喰い人になってしまえば、抜けることは死以外には許されない。レギュラス自身はもはやどうにもならないところまで身を落としてしまったが、どうか、どうかライジェルにだけは、同類になってしまってほしくはなかった。
ベラトリックスのように本心から闇の帝王へ敬愛を捧げている者にとっては死喰い人になるということは誇るべきことなのだろうが、それは間違いなのだと。純血主義という前時代の大義名分をかかげてマグル生まれを蔑み、弄ぶように残虐で卑劣な行為を嬉々として行ってのけるテロリストなのだと。そう、教えてきた。
だからこそ、ライジェルが自分に幻滅するのは全くもって当然なのだ。
今までライジェルにとっての父親としての理想を裏切らないようにしてきた。だが、ライジェルが生まれてくる前からレギュラスはライジェルを裏切っていた。この日が来るのは決まっていたのだ。ライジェルが今日ここに連れてこられることがなかったとしても、きっといつか薄氷の上に成り立っていた張りぼての絆は壊れてしまう日が来ていただろう。



どうしてここにライジェルがいるんだ。誰にも内心を悟られないように心を閉ざしたまま、レギュラスは誰かの眠る墓石に縛りつけられているライジェルに動揺していた。そして同時に、この場所へ集結した死喰い人の中に父の姿を見つけて呆然としているライジェルの目に、とうとうこの日が来てしまったのか、と悟った。言い逃れをするつもりはない。自分が死喰い人であることはまぎれもない事実であるのだから、何を言っても言い訳にすらならないことはわかっている。そんなどうにもならないことよりも真っ先に優先すべきなのは、どうやってライジェルをこの場から安全な場所へ移動させるか、である。
因縁ともいえる宿敵であるハリー・ポッターに対して、この墓地に眠る忌むべき父親の話を歌うように聞かせる闇の帝王はきっとライジェルのことなど頭の片隅にも置いていないだろう。その間にライジェルを戻せばいいだけの話だ。
今日ホグワーツでは四大魔法学校対抗試合の第三の課題が行われているはずだ。その試合を利用してハリー・ポッターはこの墓地に連れてこられたのだろう。この場にいて、かつ今までのホグワーツにも潜入できていた者は限られる。ライジェルを連れてきた犯人は大方──そう考えて身を縮めて息すら潜めている薄汚い鼠のような男を睨みつければ、その視線を向けられたペティグリューはびくりと身体を震わせた。なぜこの男がハリー・ポッターはともかくライジェルを拉致したのかは知らないが、それ相応の覚悟はできているのだろうか。今はライジェルのことが最優先だが、後々どうしてやろうか。
墓石の間に転がっているトロフィーのようなものは確か対抗試合の優勝杯だったか。なるほど優勝杯をポートキーに改造すれば、姿あらわしのできない領域であるホグワーツ内部からハリー・ポッターを拉致してくることは可能だ。
誰にも気づかれないようにライジェルの元へ向かおうとしたが、そんなレギュラスを引き留めるように肩をつかまれる。振り返れば、そこにいたのはルシウスだった。

「レギュラス、何をするつもりだ」
「ライジェルをここから逃がす」
「今このタイミングでか? 危険すぎる」
「機会を窺っているうちに何かあっては遅い。ルシウス、お前こそここにいるのがドラコだったならどうするんだ」

極限まで声量を落とし、互いに聞こえるのがやっとというほどの声で会話を交わす。ルシウスのいうことも至極もっともである。今このタイミングでライジェルをホグワーツへと帰すのは首をつき出すようなものだ。
しかし、レギュラスにも譲れないものがある。自身の身の安全よりもライジェルの安全の方が優先順位が圧倒的に高い。今まで親交があるゆえにそれをよくよく知っているルシウスも、ドラコに置き換えてみろと言うと苦い顔を浮かべた。結局この男も、レギュラスと同類なのだ。ここに連れてこられたのがドラコだったなら、きっとルシウスは今のレギュラスと同じ行動に出るだろう。

「だがどうするんだ、何かの拍子にあの方の目が向けばどんな目に遭うかわからんぞ」
「あれが死なない限り我が君の興味はあちらにしか向かない。恐ろしいなら何があろうと知らないふりを決め込めばいいだろう」

どう抑えようとしてもかたくなにライジェルを助ける決意を揺るがせないレギュラスに、ああもう好きにしろ、とルシウスは思考を放棄した。





「杖を持て、ハリー。決闘のやり方は学んだだろう?」

闇の帝王と決闘することとなったハリー・ポッターがどうなろうがレギュラスにはどうだっていい。しかし、流れ弾ならぬ流れ魔法がライジェルに当たるなんてことはあってはならない。
かつてないほどに上機嫌な闇の帝王によりハリーとの決闘が行われることになり、レギュラスは冷静さを意識しつつ、焦りに心臓の鼓動を早めていた。
しかし、これは好機でもある。ハリーとの決闘の真似事に向かっている間は多少のアクシデントが起こったところでこちらに構いやしないだろう。たとえこの場に不要な少女が一人いなくなったところで、闇の帝王は微塵も興味など向けないだろうから。

そうして、ハリーと闇の帝王との決闘が始まった。二人の杖から魔法がぶつかり合ったその瞬間、レギュラスはライジェルの元へと駆け寄った。死喰い人らはみな決闘の様子に視線を向け、一人別行動をとるレギュラスに注目する者はいない。ルシウスはさりげなく闇の帝王達からライジェルのいる方向を遮るように立っている。
ライジェルはまだ状況が飲み込めていないのか、うつむいて呆然としている。レギュラスが墓石にライジェルを縛りつけている縄を切っても反応を示さない。
近くに転がっていたライジェルの杖をきちんと回収したことを確認すると、レギュラスはライジェルの身体をしっかりと抱え、墓地から姿をくらませた。


「クリーチャー!」

レギュラスが姿を現したのは自身の屋敷内だった。常に冷静さを保つレギュラスが大きな声をあげることはそうそうないため、主人の大声に反応したクリーチャーが慌ててやってくる。

「いかがなさりまし……ライジェルお嬢様!」

レギュラスが両腕で抱えているライジェルを見て驚愕するクリーチャーに、レギュラスは時間がないと手短に用件を伝えた。

「クリーチャー、お前に重要な仕事を任せる。ライジェルをホグワーツにお前の姿あらわしで連れていけ。その際、お前の侵入を誰にも見られないように。今のホグワーツの城の内部ならほぼ誰もいないだろう。……ライジェルを頼むぞ」
「かしこまりました」

魔法使いの姿あらわしではホグワーツに侵入することは不可能だ。しかし、屋敷しもべ妖精の魔法ならばその不可能が可能になる。千里眼のダンブルドアには感づかれるかも知れないが、今あの墓場でハリー・ポッターが闇の帝王と決闘をしている現状が異常事態だ。ライジェルのことなど後回しにされる、はずだ。
クリーチャーにライジェルを預けてから、漆黒のローブをひるがえしてレギュラスは再度姿くらましで墓場へと向かった。左腕にはまだ闇の印が消えずにその存在を主張している。同胞の裏切りは許さない、逃がさないと言うかのように。





あれからどうやって墓場から戻ってきたのかライジェルはあまり覚えていない。ただ、きっとレギュラスが帰したのだろうということは容易に想像がついていた。父が死喰い人に属していたと知ってからも、疑いもしないでそう思えるのはどうしてだろうか。わからない。しかし、そうでなければホグワーツにクリーチャーがいる理由がないのだから、きっとそうなのだろう。

「ライジェルお嬢様、ここがどこかお分かりになりますか」
「……クリーチャー」

クリーチャーの声に辺りを見渡すと、そこはホグワーツ城の廊下の真ん中であった。周りに人の気配はない。第三の課題の観戦でみな出払っているのだろう。

「クリーチャーはすぐに戻らねばなりません。今のライジェルお嬢様を一人にさせてしまうのは心苦しいですが……」
「……いや、大丈夫、だ。一人で戻れる」

大丈夫というのは嘘だった。まだ先ほどのことを受け止めきれず、地に足がついておらず、誰かに一緒にいてほしかった。
けれど、そうもいかないこともわかっていた。

「クリーチャー。……一つだけ、聞いていいか」
「お答えできることでしたら何でもお答えいたします」
「……父様が死喰い人であると、知っていたか?」
「…………はい。クリーチャーは知っておりました」

そう、か。クリーチャーの返事を聞いて、先ほどのあれが単なる悪い白昼夢でないとようやく納得できたような気がした。

そうか。知らないのは私一人だけだったのか。単に私が何も知らずにいただけか。

クリーチャーに返事の一つも返すことなく、一歩、また一歩とライジェルはホグワーツの廊下を歩き出す。
クリーチャーは何も言わない。少し離れてから、背後で姿をくらます音が聞こえた。

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