は、と思わずため息がこぼれた。
早急にセドリックをこの場からホグワーツへ帰したことは、咄嗟のことにしては最善の判断だっただろう。この重く苦しく張りつめた空気の中で指一本動かすこともままならないのだ、この判断があと十秒でも遅れていれば、彼を逃がすことはできなかっただろう。
ざり、と墓場の砂利を踏む音に、ハリーとライジェルは音のした方向へ視線を向ける。そちらには、こちらに向かってくる人影が一つ。何かをそれはそれは大事そうに腕に抱えるその人影に、ハリーが杖を握る力を強める。しかし、鋭い痛みが襲ったのだろう、ハリーは額の傷跡を押さえ、その場に崩れ落ちた。ライジェルもそれを視界の端にとらえていたが、言い知れぬ恐ろしさが全身を駆け抜け、声を出すこともままならない。ただその人影の抱える何かから視線を離すことができないまま、身体を硬直させていた。
その人影の正体はペティグリューであった。先ほど切羽詰まった表情を浮かべていたが、今はそれよりもひどい。今にも死んでしまいそうな顔をしている。そっと腕に抱える何かを地面に置き、まっすぐにハリーへと歩を進めるペティグリューを認知しながらも、やはり視線は小さな包みへと縫いとめられている。
あの、薄汚れた布の中身は何なのだろう。いい物でないことは嫌というほどに理解できる。考えろ、考えるんだ。このどこかもわからぬ墓場で、闇の帝王のしもべであるピーター・ペティグリューが行動し、ライジェルとハリーが呼び寄せられた。これから此処で、何が起こるのだろう。頑張って考えようとしても冷静になどなれるはずもなく、頭もうまく回ってはくれない。
その間に、ペティグリューはハリーを墓石に入念に縛りつけていた。その厳重さはライジェルの身体を封じる縄のそれとは比較にならないほどである。何があろうともハリーをこの場から逃がすまいという強い意思が感じられる。

「お前だったのか!」

先ほどライジェルはペティグリューを見ていたためにひとの正体を知っていたが、ハリーは今ようやく把握したらしい。この状況でよく声を出せるものだ。ハリーの叫びに反応を返さないペティグリューはようやく気の済むまでハリーを縛り終えたのか、最後に布をハリーの口に突っ込み、先ほど用意していた大鍋の方へと歩いていく。
ライジェルにはこの先何が起こるのか皆目検討もつかない。ペティグリューが大鍋をライジェルとハリーの前まで押してきて、火をつけてもわかるはずもない。否、発狂せずにすむ自己防衛本能が、この先の未来を理解することを拒んでいたのかもしれない。

「早くしろ!」

もぞもぞとうごめく布の中身が叫ぶ。この世の生き物が出せるとは到底思えないような、子供にも老人にも聞こえないおぞましい声だ。身体の芯まで恐怖に凍りついたライジェルは悲鳴すら上げることはできない。その声に応えるかのように、ぐつぐつと煮えたぎる大鍋から火花が飛び散る。

「準備が整いました、ご主人様」
「さあ……」

ペティグリューが地面に置いていた包みの布を外していく。ペティグリューの身体の陰に隠されてライジェルはそれの本体を見ることができなかったが、結果的にはそれは良かったのだろう。布の中身が見えてしまったらしいハリーが、口に布を詰められているせいでくぐもった悲鳴をあげる。
静寂が統べるこの墓場の中、ぼちゃんと大鍋の中に包みの中身が入る音がやけに大きく響いた。めらめらと燃えて大鍋を焼き尽くさんばかりの炎、唯一の光源ともなりえるそれが墓場を照らし出す。
そうして、ライジェルとハリーは動くことができないまま、その目で一部始終を目撃することとなった。墓の下から取り出した“父親の骨”、ペティグリュー自らが短剣で耳をつんざくような叫び声をあげながら切り落とした“しもべの肉”、そして、“敵の血”。ハリーのここに連れてこられた理由はこれであったのだろう。墓石に縛られたハリーの腕を切り裂きその血をペティグリューが鍋に落とした途端、鍋の中に並々と入っている液体がまばゆく白に輝いた。視線をそらすこともできずただただその光景を見ていたライジェルはその光に思わずまぶたを閉じて顔を背ける。光が煌々と輝き、そして収まった後もライジェルは目を開けられないでいた。眩しさはとうになくなっている。それでもぎゅうとかたくなに目を閉じ続けているのは、見なくともわかる、目の前の明らかな存在ゆえだった。
何かがいる。肌を凍てつかせるような冷気、自分とハリーとペティグリュー以外に増えた呼吸音。強大な存在感。もはやライジェルにもそこに何が在るのか明白であったが、現実から目を背けようとまぶたはぎゅうぎゅうと開こうとしない。

「ローブを着せろ」

冷ややかな声がライジェルの耳に届いたその瞬間、全身の鳥肌が一気に立った。この世の何ものでもない声色。初めて聞いたこともない声、それなのにもかかわらずライジェルの本能は全てを理解した。理解してしまった。

ここに在るのは、今ここにいる者は。そんな、まさか、有り得ない!

これほどまでに自身の考えを否定したかったことはない。しかし、今まで経験したこともない恐怖は確かなもので、がたがたと震えが止まらない。
ざり、ざり、ざり。足音が聞こえる。とてつもなく恐ろしいそれがライジェルのすぐ目の前まで近づいてきたのがわかった。くつくつと笑い声が聞こえる。冷ややかな笑い声にびくりと身体が跳ね上がった。

「目を開けろ」

その命令が他の誰でもない自分へ向けられたのは明白で、生存本能と恐怖に支配されたライジェルは逆らうことなく目を開き、そして目の前に立つ者の姿を眼に映した。

「怯えているな……無理もなかろう」

ひゅ、と喉が痙攣し、息が止まる。がたがたと身体の震えは止まってくれない。それなのに肺もまぶたも瞳さえも動きかたを忘れてしまったかのようにぴくりとも動かない。
それは、確かに実体を持った人間であった。黒いローブを身にまとい、血が通っていないのではないかと錯覚するほどにその肌は青白い。爬虫類じみた顔の中心に高い鼻などはなく、小さい穴が二つあるだけだ。まさしく蛇のような男である。その男は墓石に縛りつけられたライジェルを見下ろし、動くことも呼吸することすらもままならないその様を笑っている。瀕死の小動物を見る目そのものであった。

「俺がここに招待したのはそこの“生き残った男の子”だけであったはずだが……まあいい。この俺の復活を目撃するとは幸運なものよ」

すうと目を細めた男はそう言い、ライジェルから興味を無くしたように顔を背けてハリーの元へと歩いていく。その瞬間ライジェルはようやく呼吸の仕方を思い出した。空気を吸う喉も、吐き出す呼気も、震えはまだ止まらない。目と目が合うだけでこの様だ。もはやその男が何者であるかなどわかりきっている。自身の考えを否定する気力すら残っていない。
闇の帝王、ヴォルデモート。歴代の魔法界の中でも最も強大な災厄が復活を遂げたのだ。

無理だ、と悟った。生き残った男の子、と世間に評されるハリーだが、よくもまあこの闇の帝王に立ち向かおうと思ったものだ。生まれながらの勇者である、と言うべきだろうか。少なくともライジェルにそんな真似はできない。こうして縮こまってがたがたと震えるだけで、反旗を振りかざすなどできるわけがないのだ。ライジェルは生き残った子供でも何でもない、ちっぽけな十四歳の少女でしかないのだから。
助けてほしい。
内心で何度も何度もそう願った。こんなにも恐ろしい場所から一瞬でも早く逃げ出したい。ホグワーツでも自宅でもどこでもいい、心を落ち着ける場所に行きたい。信頼できる誰かと一緒にいたい。ドラコでもパンジーでも、セドリックでもシリウスでも、信頼できるのなら誰でもいい。ああでも、やはり一番信頼できるのはあの人だ。育ての父親にして、ライジェルがこの世で最も無条件に信頼を寄せている人。シリウスの唯一無二の弟。レギュラス父様。
父様、早く助けに来て。今頃魔法省で勤務しているはずのレギュラスが助けになど来れるはずもないことなど、ライジェルもよくよくわかっている。闇の帝王がハリーに向かって身の上話をしているが、ライジェルがその内容に耳を傾けることはない。深く俯いて再度目を固く閉じ、現実逃避に励む。それがライジェルの徐々に磨り減っていく精神を何とか保たせている方法だった。
それがライジェルの全くもって望んでいない形で叶うとも知らずに。




突如、辺りからライジェルの聞いたことのある音がいくつも響いた。破裂音にも似たこの音をライジェルはよく知っている。
恐る恐る目を開くと、先ほどまでライジェルとハリー、ペティグリュー、それに闇の帝王しかいなかったその場に、いくつもの人影が増えていた。真っ黒な影にしか見えないのは暗闇のせいではない。黒のローブをまとっているからだ。暗くて人数は正確には把握できない。墓石に縛りつけられたライジェルは外に、しかし闇の帝王とハリーを囲むように円状に立っている。

「よくぞ来たものだ、死喰い人達よ」

その言葉に、ライジェルの脳裏に年度始めのクィディッチ・ワールドカップがよみがえる。試合終了後、ライジェルはナルシッサ達と共にさっさと自宅へ戻ってしまったが、その直後に会場で事件があった。闇の帝王の僕、死喰い人達が己の存在を知らしめようと闊歩したというものだ。クィディッチ・ワールドカップの翌朝はマルフォイ家に朝から世話になっていたからか、ライジェルは新聞を読んではいなかったが、後日パンジーからそれについての話は聞いていた。
あのテロとも言うべき事件を起こした死喰い人が、ここにいる。むしろ、テロリストである以前に彼らはライジェルが生まれたちょうどあの頃には幾人ものマグルの命を、虫けらのごとく蹂躙していったのだ。
そのトップに君臨する男がそもそもいるのだからその恐ろしさだけで充分であるというのに、その僕である死喰い人もこの場に現れ、ライジェルの身体はもはや微塵も動かすことなどできない。再びぎゅうとまぶたを強く閉じた。

「我が君よ、私めは決して貴方のなされた偉業を忘れたことはございません。心からの忠誠を貴方へ捧げましょう」
「…………?」

不意に聞こえたその声は、ライジェルが最もそばにいてほしいと願ってやまない人のものによくよく似ていた。
いやな幻聴だ、極限状態にはこの世で一番信頼している人の声が聞こえてきてしまうものなのだろうか。それも、あの人の声で望まぬ言葉を吐くだなんて。

「貴様もよく口が回るものだ。知っているぞ。貴様は俺から逃げ出したかった。恐れをなして逃げ出そうと考えたことが一度や二度ではないはずだ。そうだろう、」

「レギュラス」

闇の帝王のおぞましい声が、ライジェルの父の名を呼んだ。意味がわからなかった。レギュラスの声が聞こえて、あの人も レギュラスの名を呼んで、でもレギュラスがこんな場所にいるはずがないのに。

そんな、まさか。あり得るはずがない。あのレギュラスが、死喰い人だなんて、そんなことがあるはずない。

気づけば影のような男達のほぼ全てが顔の見える状態になっていた。その中にはライジェルの見知った顔もいくつか混ざっている。それは純血貴族の当主であったり、学友の父親であったり。その中でも手入れの行き届いた美しいプラチナブロンドはこの薄暗い墓場では一際目を引く。ああ、あの人も死喰い人だったのか。再従兄弟の父親の姿を視界に入れても、ライジェルの頭の片隅で他人事のように思うだけ。
それよりも、ライジェルの目は闇に紛れそうな黒髪に釘付けになっていた。

そこにいたのは、紛れもないレギュラスその人だった。
レギュラスに助けに来てほしいとライジェルは心の中で願っていたが、こんな形で彼の姿を見たくはなかった。闇の帝王の復活より何よりも、ライジェルにとって一番の悪夢だった。

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