「ムーディ教授、授業の内容で質問があるのですが、今お時間よろしいですか?」
「構わん。話は準備室で聞こう、ついて来い」

 四月某日の放課後、二ヶ月後の期末試験に向けて早くも対策を始めたライジェルは、現時点で最も大きな山となっている闇の魔術に対する防衛術から手をつけ始め、その質問のためにムーディの研究室まで出向いていた。ちょうどムーディはいつも持ち運んでいる飲み物──酒だろうか、だがそれにしてはアルコールの臭みは入れ物からはしないのだが──を煽っている時だったが、ライジェルが質問をしたいと知るや快く自身の部屋へ招き入れた。彼の部屋は、にんにくや十字架などのあったクィレルの部屋、自分自身の写真を所狭しと飾っているロックハートのそれとは異なり、強いて言えば最小限の物や服しか置いていなかったルーピンの部屋が一番近いと思った。ムーディの部屋も、スネイプの準備室かと見紛うような何やら瓶に入った液体がずらりと棚に並べられていたり謎の大きな鏡や大きな箱があったりとライジェルにとっては必要なのか首を捻るようなものがいくつかはあるものの、それ以外は非常に質素な部屋だ。

「そこに座れ。で、何が聞きたい」
「あ、はい。まず一月の授業で講義してくださった準許されざる呪文の中の、思考誘導呪文と“偽憶”の呪文についてもう一度概要だけでも聞きたいのですが……」

 教師に質問する手前で手間取るわけにはいかないために質問をまとめたメモを見ながらライジェルが尋ねると、ムーディは了解したと大きく一つ頷き、口を開く。

「うむ、よかろう。まず、思考誘導呪文は今しがたお前の言った通り準禁忌呪文に指定されているものだ。禁忌指定、準禁忌指定の呪文はいくつかの分類に分けられていると前に講義で話したことは覚えているな?」
「はい。思考誘導呪文や服従の呪文などの精神操作型、感覚麻痺の呪いや磔の呪文のような身体苦痛型、“偽憶”の呪文のような記憶操作型、…………そして、」
「そうだ、唯一無二の死の呪いだ。こればかりは例外中の例外だな」

 ライジェルが一瞬口にすることさえ言いよどんだのを知ってか知らずか、その続きの最終にして最悪の呪文をムーディは引き継いだ。

「その中の思考誘導呪文は同じ精神操作型の服従の呪文と非常に、それを専門とする魔法使いでさえ混同するほど似ておるのだ。理論上のそれら二つの相違点はまず、服従の呪文はかけた者がかけられた者の思考の全てを操る。そしてかけられた者が操られている間の記憶は一切残らん。対して思考誘導の呪文は、かけられた者の思考回路そのものを全く変えてしまうのだ。変えられた後の思考回路はもはや元には戻らん。再び同じ思考誘導の呪文で元のような思考回路に戻そうとしても完全に元通りにするのは不可能だ」

 授業ではかなり早口でまくし立てていたムーディも、今はライジェルにしっかりと理解させるためかいつもよりもゆっくりはっきりとしゃべっている。

「これは授業では言っていないが、服従の呪文はかけた者が意識を失った時には解けてしまうのだ。もしくは、かけた者の精神がかなり揺らいでいる時にはかけられた者の状態によってはそれを打ち破る可能性もある。これは一般的には知られとらんことだがな」
「と言いますと、教授自身はそれを見たことがあるんですか?」
「闇祓いなどという職にうん十年も就いておれば許されざる呪文など山ほど見てきたに決まっておろうが。尤も、わし程になればそんなもの法律で使えずともそれを使う闇の魔法使い共など倒してしまえるがな」

 自慢げでも何ともなさげにそう言ってのけるムーディに、やはりこの人はどこか他人と違うのだな、とライジェルは再確認させられた。ロックハートなどのように地位と名声を求めるのが人が持つものとして当然の欲求だ。それなのにそれを持たないなんて、彼は社会的地位や財産以上の価値を闇祓いという職に見出だしているのだろうか。

「だが、思考誘導魔法は違う。一度それをかければ、その誘導後の思考はその者自身のものとなる。つまりは、だ。服従の呪文が一時的に元々の思考に明確な目標を被せ、それを達成した後には思考が元に戻るものだとすれば、思考誘導の呪文は思考回路の根本的な構造から全てを再構築するものだ。思考誘導呪文もある意味では服従の呪文以上に厄介なものでな、非合法の愛の妙薬にもなりかねん。思考誘導の呪文もかけられている者といない者の区別はつけづらいが、マグルの技術を使えばその思考誘導呪文特有の脳波とやらが測定されて異状だと断定できるらしい。よって区別は可能だ」

 だが全く以て厄介な呪文だ、そう難しい表情をしたムーディは、思考誘導呪文については以上だと次の話題に移った。

「次に“偽憶”の呪文についてだ。これも準禁忌指定の呪文で、使用が確認されればアズカバンで二十年は過ごすことになるだろうな。この呪文はその名の通り、かけた者がかけられた者に偽物の記憶を植え付けるものだ」
「その記憶は一時的なものではないんですよね?」
「無論だ。若干その前後の記憶との接合が上手くいかん場合もあるが、それでもかけられた者自身は何一つ記憶の不自然さは感じない。脳が違和を感じないように調整しているからな」
「その調整というのは?」
「うむ、これはわしの専門分野ではないが、自身の記憶が操作されているという事実に気づくと、今まで自身が絶対的な真実であると信じていた記憶が真実ではなかったのだという恐怖や不信感に苛まれて精神が不安定になり、最悪自殺に至る場合がある。それほど心を揺さぶられるのだろうな。その自己防衛のためというのが現在で最も有力な説だ。ただ、唯一、開心術でその者の心を開いて見た者には専門家でなくともそのことがわかる。わしは見たことがないが、記憶と記憶の合間に継ぎ目のようなものが感じられるらしい」

 そう話すムーディ自身もよくわからないらしく、“偽憶”の呪文についての詳細はあまり聞けないな、とライジェルはほんの少し落胆する。彼自身がわからないのならしょうがないことだ。

「わかりました、ありがとうございます。わざわざお時間を割いてくださりありがとうございます」
「学生の本分は勉学だ。ホグワーツで習う程度の勉強ができないようでは社会に出て何の仕事に就こうとも何の役にも立てん。学生の本分が勉学というのと同じように、教師の役目もお前らに知識を植え付けることだ。手間をかけると尻込みするくらいならわからないことを聞け」

 そう言ってちらとライジェルの顔をその魔法の義眼で見てから何を考えたのか、ぽつりと言葉を漏らした。

「……お前はまっこと、まっことあの男に似ておるな」

 今しがた終えたばかりのライジェルの質問とは全く関係のない、その上脈絡すらない呟きだったが、ライジェルにはムーディの言ったあの男というのが誰なのか瞬時に把握できた。

「……伯父、ですので」
「父親の間違いだろうが。わしは魔法省勤めだったのだぞ、それくらい知っておるわ」

 何とかライジェルが絞り出した言葉はムーディによって一蹴される。そういえば前に、魔法省に勤める者の中には自分がシリウスの実子だと知っている者もいるかもしれない、とセドリックが言っていた気がする。ムーディも結構歳をとっている。十三年前に闇祓いに就いていた時にでもその話を聞いたのかも知れない。

「お前は、奴──シリウス・ブラックをどう思う」
「ど、どう思うって……」
「シリウス・ブラックが本当に闇の帝王に使えていたかどうか、だ」

 ぴくり、ライジェルはそれに反応した。闇の帝王に仕える、すなわちその者が死喰人であるということだ。だがシリウスは死喰人では決してない。あるはずがないのだ。ライジェル自身は死喰人の話はレギュラスから全く聞いたことがなく、知ってるものは全て新聞などから得た情報である。特別死喰人を恨んでいるわけでも、逆にそちら側の思考を持っているわけでもないライジェルは絶対にシリウスが死喰人ではないと確信していた。あんなある種のテロ組織じみたものの中に、身内がいるわけがないのだ。

「わしは、奴が闇の帝王に仕えていたとは思わん。そう考えるには無理がある」

 自身ありげにムーディのそう言い切る姿にライジェルは数秒間、自身の目が確かなものか疑った。あのムーディが、闇の魔法使いに対してはこの魔法界一厳しいムーディが、そんなことを言うだなんて。

「……では、教授は、シリウス・ブラックを捕まえる気はない、と…………?」
「奴をとっ捕まえとる時間があれば、本物の死喰人共を追っておるわ。…………あんの逃げおおせた奴らめ、一人残らず見つけだしてくれる……」

 ライジェルから目を離し、何処を見るわけでも無くただ宙を睨めつけながらそうぼそりと吐き捨てたムーディの呟きをライジェルは聞き逃さなかった。心底憎々しげにそう漏らしたムーディは、一瞬だけライジェルを見つめて目を細めて何かを思案した後、今度ははっきりとライジェルに向けて口を開く。

「ブラック。お前は仮に──仮定上の話だが、身内に死喰人がいたとすればどうする?」
「…………仰っている意味が、わかりませんが」
「直球で言わせる気か。もしお前の父親──弟の方が死喰人だったらどうすると聞いているのだ」

 ライジェルは、ムーディの言っていることが本気で理解できなかった。彼は、レギュラスが死喰人だと考えてみろと言うのだ。

「有り得ません。父様があんな、死喰人なんて万が一にも可能性すら無いことですからそのようなこと考える必要がありません」

 あんな、どこかの怪しい宗教にも似た人殺し集団にレギュラスが属しているわけがない。ライジェルにとってレギュラスは唯一無二の自分を育ててくれた親である。そんなレギュラスが死喰人だなんて考えること自体が間違っているのだ。

「失礼します」
「……ふん、闇の魔法使いなぞ何処に潜んでおるかわからんぞ。気をつけることだな」

 レギュラスを侮辱された気になったライジェルは、申し訳程度にムーディに聞こえるかどうかの大きさで一言呟き、足早に彼の研究室を後にした。どうしてもレギュラスが死喰人などという犯罪者集団の仲間なのではないかと問われることが耐えられなかったのだ。彼は、レギュラスを何だと思っているのか。学生時代から優秀で、今もキャリア組という魔法省勤務者の中でもトップクラスの一員であるレギュラスが人殺し集団に入っているだなんて馬鹿馬鹿しい。

「もうあいつに授業内容以外で話なんてするものか……」

 今後無駄話をされそうになったら無視しようとライジェルは歩きながら決意した。レギュラスの根も葉も無い嘘の話を、ライジェルにとってのこの世で一番の侮辱を、黙って聞いていられるほどライジェルは寛容ではないのだから。

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