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 いつの間にか、部屋は静まり返っていた。
 無言のうちに握られた手は温かくて、少しずつ私を落ち着かせてくれる。
 ――学生時代に私達の間で憶測を呼んだ黒髪の女性は、お母さんだと先輩は断言した。
 どうやら私は、ずっと勘違いをしていたらしい。
 冷静になって考えてみれば、先輩がセフレなんて作るはずがない。学生時代に不倫説が浮上した時だって、彼はそんな人じゃないと満場一致で納得したのに。
(勝手に疑って、勝手に不安になって……)
 信じられなくて、先輩にひどいことをしてしまった。
 私だけが、ちゃんと先輩に向き合えていなかった。
 この人は、いつだって私をまっすぐ見ていてくれたのに。
「ごめんなさい……」
「謝罪など不要。俺がほしいのは、君だけだ」
 今も変わらず、先輩の言葉は私にはもったいないくらいの愛に溢れている。
 だけど本当に、まさかこの人が私を好きなんて夢にも思わなかったのだ。
 学生時代だって、それほど接点があったわけでもない。私が先輩に親切にしてもらったみたいに、私から何かを返せたこともない。そんな私を、どうして先輩が想ってくれていたのか、まだわからない。
 何も言えなくなった私に、先輩は苦笑した。
「君もなかなか、慎重だな」
「だって私からしたら先輩は雲の上の人で……。……なんで、私なんですか?」
 今更ながらに、これまで先輩が口にした愛の言葉を思い返す。
 あれが全部、自分に向けられていたものだと思うと、心臓がばくばくと騒ぎ始めた。
 そわそわとなんだか落ち着かなくなって、変な汗すらかいてしまう。
「色恋に、理由が必要か?」
 そんな私に、どこか困ったように微笑した先輩が目を伏せた。
「……とはいえ、俺としても今回の行き違いは想定外だった。ここは念を入れておきたい」
「念」
「念書だ」
 先輩はベッドの上であぐらをかいたまま、ローテーブルの引き出しに手を伸ばす。そして、そこから一枚の書類を取り出した。
「これって……」
 結婚届だった。
 しかも、丁寧なのに勢いを感じる少し大ぶりな先輩の字で、すでに彼の名前が記載されている結婚届。
 片方は空欄で、誰かの名前が記載されるのを待っているようだった。
「本当は、君の誕生日にサインしてもらえないか尋ねるつもりでいた」
「……旅行先で?」
「そうだな。俺は君を妻にしたいと思っていた。それが俺の気持ちだ」
 つい先ほど先輩に誘われた温泉旅行を思い出す。
 思い描いたのは、貸切露天風呂で星空を見ながらの甘いプロポーズだった。
 今の私たちは先輩の部屋にいて、服はお互いに着崩れてなかなか悲惨なことになっている。
 ロマンチックにはほどとおい、――だけど愛しいプロポーズ。
「これだけ誤解があったんだ。すぐに籍を入れたいとは言わない。だが、せめてもう一度やり直させてもらいたい。恋人として、君と同じ時間を共有したいんだ」
「……でも……」
 いいのかな、と思う。さんざん疑って、彼の言葉を信じもしないで、先輩と向き合うことから逃げてきた。そんな私が、また先輩の手を握り返すなんて。
 ……やっぱり申し訳ない。先輩にはもっといい人がいるんじゃないかと思ってしまう。
 ためらう私の手を掴む力を、先輩が強めた。引き寄せられた指先に、彼が口づける。
「今はただ、君が惚れた男の言葉を信じてくれないか。悪いが、俺としても……君がどうあがこうが、逃がしてやれそうにない。諦めて、これは君が持っていてくれ。そしていつか心が決まったなら、今度は君から応えてほしい!」
 焦がれる想いが紡がれる。
 胸にこみあげてくる感情につられて、目頭が熱くなった。
「……はい」
 彼の言葉を信じたい。報いたい。
 なにより今は、先輩の名前を呼ばせてもらいたかった。
「杏寿郎さん」
 これから、新しい一歩を踏み出すために。
 目を丸くした彼の手を握り返して、私はもう一度大好きな人の名前を呼びかけた。
 この先も彼の名前を口にできる日が続くことを祈りながら。
 これまで与えてもらった愛を、これからは私も返せることを願って。
「私、あなたがずっと大好きでした」

 酔っ払って口走った一度目の告白とは違う。今度はたくさんの希望を持って、その言葉を口にした。


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