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 ――なぜ、こうも話がもつれたのか。
 泣きじゃくる彼女を抱いて考えていた。
「もうやです、離して……」
「無理だ」
「なんで……? 私……先輩に憐れまれて、慰められたいわけじゃないんです」
 そんなのはいやだ、それこそ本当にあさましくなってしまうと繰り返す姿に、胸が苦しくなる。
「あさましいなどと、思わない。誤解があったんだろう」
 だが、俺の暴言は彼女を深く傷つけたのだと今更ながらに思い知る。
 誤解があったからとて、腹に据えかねたからとて、彼女を辱めてよい理由にはならないというのに。
「すまない」
 声をかけただけで、びくりと震えた小さな身体。
「ひどいことを言った。怖かったろう。辛かっただろう」
 何を言われるのかと身構えて、腕の中で怯えるように身を固くする彼女。
 その身を抱く手を、決して俺には伸ばさない姿。
 目の前の全てが、俺を自責の念にかりたてる。
「だが、やっと手に入れたんだ。……手放したくなかったんだ、どうしても。だから話をしてくれ、もう一度……今度は余すことなく」
 力の限り抱きしめると、拒絶するように彼女は身をよじった。
 もう俺に愛想を尽かしてしまったのかもしれない。あるいは強引に組み敷いたことに怯え、嫌悪を抱いているのかもしれない。
 逃れようと躍起になって俺を押す細腕。
 その非力さにはいっそ哀れみすら覚えるほどだったが、離してやれそうになかった。

 初めて彼女を見かけたのは、大学二年の春、文明学の授業だった。
 どのような授業であれ教卓の目の前――最前列に座る生徒はそう多くない。
 俺は空いている最前列に陣取るのが常だった。
 一年遅れて入学してきた彼女も、同じだった。珍しく最前列に座って、背筋を伸ばして教授の話に聞き入っている。
 真面目な後輩だというのが、最初の印象だ。
 いついかなる時もブレることのない、熱心な姿勢が好ましかった。
 そんな彼女も、とある講義では初回以降は後方の席へ移動していた。
 板書の際、筆圧が強すぎてチョークの粉を巻き散らし、さらには親の仇のように黒板消しを黒板にたたきつける教授の授業だったためだろう。
 彼が行動を起こす度、ノートや服、時には顔まで容赦のない量の粉が飛んでくるのだ。
 チョークの粉というものは実に目に染みる。そろって目に粉が入った俺たちは、初回の授業ではほとんど目を開けていられなかった。
 共に苦難を乗り越えた仲――というわけでもないが、彼女のことは印象に残っていた。
 そのためだろうか。とある雨の日に外を見つめて立ち尽くす彼女が目にとまったのは。
 傘を忘れたのだろうと察して、声をかけた。半ば強引に傘に入れて、駅までの道のりを何気ない話をして歩いた。
 あの日のことを俺は今もよく覚えている。
「――君、文明学の授業で席を変えただろう」
「えと、それは教授が……色々飛ばしてくるので」
「うむ、あれには俺も参った!」
「……先輩はずっと同じ席ですよね。何か理由があるんですか?」
「さしたる理由はない。ただ、チョークを見ていると、粉が飛んでくるタイミングがわかるようになったので、都度、目を閉じれば問題ないと判断した!」
「でも……、ノートとか袖とか、白い粉がこびりつきません?」
「落とせるものだからな」
 最前列は視界を遮るものもなく、集中できる(この授業に限って言えば、チョークの粉という驚異はあったが)。定位置のようなもので、落ち着くのだ。
 メリットとデメリットを天秤にかけて、俺は最前列に座り続けることを選んだ。
 彼女は不思議そうに俺を見つめた後、その視線を街並みに戻す。
「……でも、教授は嬉しいでしょうね」
「なぜそう思う?」
「だって、一番前で熱心に聞いてくれる生徒がいるんですよ。私が先生だったら、絶対嬉しいです。みんな後ろのほうに座っちゃったら、ちょっと寂しいと思いますし」
 その言葉に、教師の立場で考えてみる。いつか自分が教鞭を執ったら、生徒にはしっかり学んでもらいたい。授業と学習に楽しみを見出してもらいたい。教師というものは、そのように努力をしなければならない。
 ならば、彼女の言葉は正しいのかもしれない。
 何より、それならいいと感じたのだ。自分の都合で最前列に座った俺の存在が、少しでも教授の喜びになっていたらと。
「……では、次は君も最前列に戻ってくるといい! チョークの粉が飛んでくるタイミングを教えよう」
「それは……善処します」
 目指す駅には、ささやかな提案をしている間に辿りついてしまった。
 コンビニで売れ残った傘を買った後、わざわざ改札まで送ってしまったのは別れるのが惜しかったからだろうか。
 はっきりした理由はもう覚えていない。もしかしたら、理由らしい理由などなかったのかもしれない。それでも、もう少し話していたいと願ったのはたしかだ。
 ……とはいえ、よもや彼女の家までついていくわけにはいかない。
 改札で別れることにした俺は、遠ざかる背中を見送り、ややあって踵を返した。
 なので、改札の向こうに立ち去ったはずの彼女が声をあげてくれたのは予想外だった。
「あのっ、そういえば先輩のおうちってどこですかっ?」
 答えを告げれば、目が真ん丸になった彼女の愛らしかったこと。
 きっと、俺がこの駅を使わないことに気づいたのだろう。鳩が豆鉄砲を食ったような顔に、思わず笑顔がこぼれた。
 もっといろいろな表情が見たい。彼女を知りたい。そう思った。
 どうやら俺はいつの間にかどうしようもないほど彼女に惹かれていたらしい。

 次の授業から、彼女は最前列ではないものの、一列前の席に移動してきた。移動の理由を知っているのは、恐らくこの世で俺だけだろう。
 その日の授業が終わると、彼女は「先輩。これ、冷めちゃったんですけど」と真剣な顔で俺に焼き芋を差し出した。
「先輩、お芋が好きって聞いて……。校門のところに焼き芋屋さんが来てたので、傘のお礼に買ってきました」
「ありがとう!」
「食堂のレンジで温めて食べてください。じゃあ、私はこれで」
 焼き芋の入った紙袋を俺に手渡し、ユーターンした彼女の手をすかさず掴む。
「せっかくだ、一緒に食べないか。君も嫌いでなければ」
 その日から、彼女と度々目が合うようになった。
 挨拶をすれば花が咲くように笑い、控えめに手を振ってくれる。
 それでも、誘うのはいつも俺からだった。彼女はいつも俺を遠巻きにして近づいてこようとはしなかった。逃げ水のように、近づけば遠のいていった。何かに遠慮しているようなそぶりを見せながら。
 そんな中、たった一度だけ、酔っている彼女に好きだと言われたことがある。
 その一言に浮かれるばかりの俺は、彼女の心中を察してやれなかった。
 その責は、俺が負わねばならない。

「手に入れたと思ってからも、君はいつも一線を引いていた」
 当然だ。やっとわかった。
 彼女にとって俺は恋人ではない。心を預ける相手足りえなかったのだから。
 名前を呼ばれたことすらなかったことこそ、その表れだったのだろう。
 気づきもせずに、一人で舞い上がっていた。その間にも、彼女は俺と関係を築くことを諦めていたのに。
「それでも、俺にとって君はたしかに特別な人だった。誓って言う。俺は君を軽んじていたことは一度もない」
 俺は、たしかに恋をしていた。生涯、この人一人と信じていた。これからも、共に生きていきたいと思っていた。そしてそれは、今も変わらない。
「君の名誉を傷つけるようなことを言ったことは、申し訳なく思っている」
 事ここに至っては、手遅れかもしれないが。
「……もうしないと約束する。だから、どうか俺から逃げないでくれ。離れないでくれ。そばに、いてくれ」
 みっともなく取り縋りながら、嗚咽を漏らすばかりの彼女に訴える。
「俺は君に迷惑をかけられたなどとは思っていない。俺が怒ったのは、……君が俺を信じていなかったからだ。教えてほしい。言葉では駄目ならば、どうすれば信じてくれる」
 しゃくりあげる彼女の背中を軽くたたいてやりながら、答えを待つ。
 随分と経って、ようやく彼女の呟きが漏れ聞こえてきた。
「……私、先輩につきあってほしいって、言われてないです」
「……君を抱いた。君も、俺を受け入れた。関係は成立していると、思い込んでいたんだ。君は、……違ったようだが」
 そっと彼女の頬に手を添えて、顔を覗き込む。
 伏し目がちの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち続けていた。
「先輩には、ずっと……、好きな人がいるって噂になってました。先輩も、学生時代から好きな人いるって言って……」
「君のことだ」
「でも……! 先輩が黒髪の女の人と歩いてるところ見たって何人もいるんです。その人は、……指輪をしてたから既婚者じゃないかって」
「既婚者?」
 寝耳に水の話だった。
 だが、よくよく考えてみれば思い当たる節がないわけでもない。
「……母だな」
 え、と呟いた彼女に、俺はもう一度「思い当たるのは、母しかいない」と念押しした。
 学生時代、俺の身の回りにいて一緒に歩く姿を度々見られた黒髪の既婚者など、彼女以外にいなかった。
 年よりも若く見える人だ。遠目に見られれば、誤解される可能性もある。
「……そもそも、共に歩いていたのが本当に俺かも疑わしい。俺と父はよく似ている。後姿だけを見られたならば、見間違える可能性はある」
「じゃあ……、それじゃ、先輩が学生時代から好きだった人ってホントに……?」
「君だ」
 一つずつ、すれ違ってもつれた糸を解き明かし、答え合わせをしていく。
 きっかけは、ほんの些細なことだったのだと確かめながら。願わくは、新たに糸を結びなおせるように。
 俺は、彼女の手を握った。


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