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「もう眠くなってしまったのか?」
「んー……」
 先輩のピロートークはいつだってとにかく長かった。
 たとえば、彼の隣で眠くなってうとうとし始めたりなんてしたら。
 爪の甲で私の頬をくすぐりながら、延々と「ああ、かわいいなあ」なんて猫かわいがりしてくる(なぜか時には彼の下半身の凶悪なモンスターが元気を取り戻し、再戦する羽目になることさえあった)。
 セフレ相手に気を使うこともないのに、と私は思うけれども。
 なにはともあれ、配慮が行き届いているのが煉獄先輩流なのだろう。
 私としては、正直もうちょっと手心を加えてほしかったけれど。期待しそうになってしまうから、困るのだ。
 だけど想いは届かず、今日もうつらうつらし始めた私に、先輩は砂糖を吐きそうなくらい甘い台詞を繰り返している。
「眠そうな君も魅力的だ。今度の学園祭で『眠れる森の美女』の舞台をやるクラスがあるんだが、もし俺たちが学生だったらきっと君を主人公に推薦していただろうな」
「……美女なんて柄じゃないですよ、私」
「そんなことはない。こうしているだけで俺は君に目を奪われているんだ。君には才能がある」
 なんの才能??
 よくもまあそんなにいろいろなパターンの口説き文句がするすると出てくるものだと、いっそ感心する。
 もしかして、いつか本当に好きな人に囁く時のための語彙力と表現力を磨いているのだろうか。
 その考えは、なかなか的を射ているように思われた。
 だけど、私としては聞けば聞くほどみじめになるものだ。
 想いがそこにないとわかり切っている愛の言葉なんて、芝居の台本以下だから。寝物語なら、桃太郎のほうが幾分マシなくらいだった。
「眠いなら、寝てもいいぞ。朝になったら俺が起こそう」
 いたずらっぽく笑う彼は、キスでもして起こしてくれるつもりなのかもしれない。
 茶番だ。ハッピーエンドを迎えられるはずもないのに、おとぎ話の真似事なんて。
「……先輩って、もう先生なんですよね。煉獄先生って呼んだほうがいいですか」
 話を逸らした私に、先輩はきょとんとした後になぜか頬を赤らめた。
「からかわないでくれ。君に先生と呼ばれると、いけない気持ちになる」
「…………ヘンな先輩」
「ヘンじゃない!」
 先輩は硬派だと思っていたけれど、意外と肉食派だった。
 今まで何人の女の子を勘違いさせてきたのだろう。
 彼の腕の中にいると、二番目の女だとわかっていても本当に愛されているのだと錯覚してしまう。
 だからこそ毎度これで最後にしようと思っているのに、弱い私は別れを切り出せないまま今日まで過ごしてしまったのだ。
 彼の顔を見ると、どうしても好きだという気持ちが溢れて別れの言葉が出てこなくて。
 いつか後悔する日が来ることに怯えて過ごすばかり。
「ねえ先輩、先輩の好きな人って誰なんですか」
「無論、君だぞ」
 今日も先輩は軽口をたたいて私のこめかみに口づけた。
 乾いた気持ちを誤魔化したくて、私は布団に潜りこむ。それで私が寝るのだと、先輩は勘違いしたらしい。とんとんと子供を寝かしつける時みたいに、背中を叩き始めた。
 それから、ふと思い出したように切り出す。
「もうすぐ君の誕生日だな」
 暗鬱とした気分に浸っていたのに。そのたった一言で舞い上がってしまう、単純な私。先輩、私の誕生日なんて覚えてたんだ。
「ほしいものを考えておいてくれ」
「……いえ。ないです、なにも」
「君はいつもそればかりだ。たまには貢がせてくれてもいいじゃないか」
「それじゃ私が悪い女みたいじゃないですか」
「悪い女だったらよかったんだがなあ。控えめすぎて困っているんだ。もう少し、我儘を言われたい」
「……本当に、いらないんです。物欲ないほうみたいで」
 もらってはいけない。形に残ったら、未練になってしまう。
 だけど、先輩は食い下がってくる。
「もう少し考えてくれ。俺など、君にもらう誕生日プレゼントはもう決めているんだぞ」
「え、先輩の誕生日来年なのに?」
 思わず布団から顔を出してしまった。
 準備が早すぎる。さすが先輩。
 だけど私、それまでそばにいられるのかな。
 そんなことを思いながら「なにがほしいんですか」と聞いてしまうのが、惚れた弱みなのだろう。
 だって気になる。先輩のほしいもの。時計か、財布かな。もしかしたら歴史書かもしれない。
 食いついた私に、先輩はにやりと笑った。
「知りたいか」
「はい」
 では、ここだけの秘密だぞ。そんな風にもったいぶって、先輩は声を潜めた。
「名前で呼んでもらいたい」
 ……なんで?
「君はいつも、先輩としか呼んでくれないから」
「それは……」
 だって私にとって先輩は先輩だった。
 他の呼び方なんて、考えたこともなかった。
 なんと答えるべきかわからずに黙り込んだ私に、先輩はゆるりと微笑する。
「つまり、ものでなくともいい。難しく考えることもないんだぞ。何かないのか、我儘は。食べたいものや、行きたい場所は?」
「うーん、先輩の希望は?」
 自分では答えられずに、先輩の意見を求める。
「俺は君と旅行に行って存分に甘やかしたい!」
「旅行?」
「二人で遠出をしたことはなかっただろう。俺がよく行く旅館があるが、どうだ。老舗ではないが落ち着いた日本建築でな。温泉は源泉かけ流しなので女性にも好まれると聞いている。食事もうまい。きっと気に入ってもらえると思う」
 先輩のプレゼンを聞きながら、ふわふわと、彼の行きつけの旅館に泊まる想像してみる。
(温泉旅行なんて、なんだか恋人みたいだなあ)
 お昼は旅先で遊んでからお宿にチェックイン。温泉に入って館内着の浴衣を着て、夜はおいしい懐石料理に舌鼓を打ったり、寝る前にもう一度貸し切り露天風呂に入ったり。
 つき合いの長いカップルなら、夜空の星を見ながらプロポーズとかするのかも。
 そんな甘い恋人との旅行に憧れがないわけでもないけど、どうも私には過ぎた望みのようだ。
 それもこれも先輩の誕生日プレゼントが安上がりすぎるせいだ。私の誕生日に旅館に泊まるのは不釣り合いに思われた。
 セフレとの旅行に求められるものなんて、甘い恋人同士の時間ではなく、せいぜい夜のおつき合いくらいのものだろうし。
「旅行なら、私はビジネスホテルとかでいいですよ」
「温泉は嫌いか?」
「そういうわけじゃないですけど。温泉旅行とかは本当に好きな子と行ったほうがいいと思います。行きつけなら、仲居さんに顔覚えられても困るでしょうし」
 いつか本当に好きな子と行った時。私の顔を忘れられていて、彼女に「いつもありがとうございます。先日は楽しんでいただけましたか」とか言われてしまう可能性はある。
「それに、やっぱり二番目と行っても空しくなるだけの気がしません?」
 先輩はガバッと起き上がった。
 ひやり、布団が剥がれて背中が秋の空気にさらされる。
 強いまなざしにつられて、私も布団の上でひじをついて彼を見上げた。
「それは……どういう意味だ」
「どういうって……先輩、好きな人いますよね。別にごまかさなくたっていいですよ」
「ごまかすも何も、俺は君を好いているから提案した」
 好いている。誰が、誰を?
 困惑して眉をひそめた私に、先輩も顔をしかめる。
「君の他に好いている人間などいるものか。第一、俺は何度も言っているはずだ。君が好きだと。忘れたとは言わせないぞ」
「でも、それはリップサービスで」
「なぜ、俺が君にリップサービスを言う必要がある」
「……だって私たち、セフレですよね?」
 至極単純な疑問を投げかけるなり、先輩は険しい面持ちでぐっと唇を引き結んだ。
 すかさず向けられたのは、彼の怒気。激しい憤りの気配に、ぞわりと肌が粟立った。
「なるほど、わかった。つまり、君は俺をセフレだと思っていたわけなんだな」

「先輩……? なんか怒ってます?」
 聞かずともわかっていたけれど、何か話さずにはいられなかった。
 これまで一度だって無理やりに組み敷かれたことはなかったのに、今、私は先輩に容易く抑え込まれていたから。
 両手は頭の上に固定されて、柔らかな枕に食い込んでいた。
 彼の手を振りほどくこともできないまま私はもがく。
 だけど結局、先輩にのし掛かられると、その重みでささやかな抵抗も封じられてしまった。
 先輩は足のもげたバッタでも眺める子供のような目で、私の抵抗を見おろしている。
「や、先輩? なに……」
「君は俺が愛してもいない女に手を出して、そのたびに睦言を囁く男だと思っていたんだな」
「そこまで言ってませんっ」
「同じことだ。セフレなどと……。いや、もういい。もうわかった。君に言葉は無意味だ」
 いつもの甘さが削げ落ちた、冷徹な獣じみた視線に本能的な恐怖を覚える。
「もう、無意味な愛など語らない」
「ちょ……っと、待っ……!」
「待たない」
 耳朶をくすぐる低い声を遮るように、耳に彼の濡れた舌が入り込んでくる。ぬちゅ、と濡れた音が響いて、脳を犯されているような気分になった。
「ひゃっ、ぅ」
 とっさに顔を背けようとするも、顎を抑えられてしまう。
「君はここが本当に弱いなあ」
 ほの暗い情欲を漂わせた、低く甘い声に肩が震えた。
 吐息を絡めた艶めかしい声に、もう何度も繰り返した行為を思い出した下腹部がうずく。
 混乱と恐怖と羞恥がないまぜになって固まった私を見おろして、先輩はくっと侮蔑するような笑みを浮かべた。
「これまで幾度となく、恋人でもない男の手で乱されて、啼いて、あさましいとは思わなかったのか」
 なんで。どうしてそんなこと言うの。そんなことは思えなかった。
 だって私はいつか、いつかはこんな日が来るとわかっていた。
 高潔な彼に愛想をつかされて、嫌われる日が来るって。
 覚悟だって決めていたはずなのに、実際にその時が来たら胸は引き裂かれるように痛んだ。
「これまで君は何を思って俺に抱かれていたんだ」
 ひゅっとうまく吸い込めなかった息が喉に張りついた。
「君は最初、俺ならばいいと言った。……あれは、どういう意味だった? 本当は、誰でもよかったのか。俺である必要は、なかったのか」
 そんなはずない。そんなことないのに。
 絞り出すような、うめきにも似た囁き声に問い詰められて、答えることができなかった。
 胸が痛んで浅く呼吸を繰り返すだけで精いっぱいだった。
「他にも男がいるのか? 恋人はよそにいるのか。可哀想になあ。君がこんな女だと知らずにそばに置いているその男に同情する。それとも、知っていて寝取られたい願望でもあるのか? ならばいっそ連れてくればいい。目の前で抱いてやろう」
 彼はどうやらひどく腹を立てているらしい。
 ただ、その理由として思い当たることなんて……。
(セフレって、私が言ったから?)
 彼が怒り出したのは、その後だ。だけど、どうして怒るのか。
 まさか、先輩は本気だった? それじゃあ、先輩と歩いていたという黒髪の女性は誰? 彼が学生時代から焦がれていた人は?
 思考回路はぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。
 なにより、こんな先輩を見るのは初めてで嫌な汗が全身に滲んだ。
 怖いのだ。怒りを、激情をあらわにした彼にいいようにされるのが。片手で暴れる両手を抑え込まれてしまえば、――腿の間に割って入られてしまえばもう、私の抵抗なんて無意味に等しくて。
 知らず知らずのうちに、体が震えた。
「……怯えるふりがうまいな」
「ちが、違う」
「何が違う」
「他に男の人なんて、いな……っ」
 先輩は無感情な目で私を見おろしている。信じてくれるかはわからないけれど、それでも言わずにはいられなかった。
「先輩が好き、先輩だけ、です。でも、先輩には他に好きな人がいるって、……大学の時からみんな言ってて……! 二番目でいいからそばにいたくて」
 一番になれなくても、……特別になれなくても。
 誰かの代わりでもよかった。そう思い込もうとしても本当はずっと苦しくて、胸が痛くて、それでも。ただ、そばにいたかった。
「セフレでいいから、そばに、いたかったんです」
 最初は思い出がほしかった。次は薄い関係を求めた。それだけで、満足すべきだったのに。
 いつの間にか、この関係が苦痛になっていた。重荷になっていたなんて、どこまでも勝手な自分に嫌気が差す。
 ああ、本当に潮時なんだ。
 堰を切ったように流れだした涙は止まらない。
 先輩は息を飲んで、私の腕を掴む手を離した。
「ごめ、ごめんなさ……っ。先輩の優しさにつけこんで、無理やりこんな関係を持って迷惑かけて、怒らせて」
「違う、俺は迷惑だなどと……」
「もうしません、会いに来たり、しないからどいて。帰ります」
 言ってしまった。いつかは言わなければならないとわかっていて、先延ばしにしていたお別れ。
 涙が滲んで、先輩の顔も見えなくなってしまう。
 こんな子供のように泣くところを見られるなんて、最悪だ。先輩にはせめて、きれいなところだけ見せたかったのに。
 それが叶わないのなら、かかわるべきではなかった。
 もっと早く、……それこそ最初から彼の手を取らなければよかった。大学時代の秋のあの日、雨に濡れて帰ればよかった。再会した飲み会の夜、終電を逃しても、夜道を一人で帰ればよかった。
 彼の優しさに甘えて、つけこんだ結果がこれだ。
 もう、これ以上この人のそばにいてはいけない。
 私は上にのしかかる先輩の身体を押して、ベッドから逃げ出そうとした。その肩を彼に掴まれる。
「待て、落ち着いてくれ。君と会えなくなるのは困る」
「うそ、困るわけないです。その場しのぎの言葉で気を遣わないで。みじめになるだけです……!」
「君は、みじめなどではない!」
 先輩に声を荒げられ、びくりと震えてしまう。その隙に、彼は私を固く抱きしめた――


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