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「……ずいぶんと飲んでいたが、大丈夫か?」
 いつの間にか飲み会は終わっていて、なぜか私はブランコに腰かけていた。
 心もとないわずかな街灯に照らされた夜の公園。目の前には、煉獄先輩の姿。
「あれ、先輩……? 先輩だ」
 私の前に片膝をついた先輩に、自然と笑みが零れていた。
 やっぱり、好きだ。何年経っても、忘れられたと思っても私はきっと一生この人が好きなのだろう。
「だいぶ酔っているな。とりあえず飲むといい。水分を取らないと明日に響くぞ」
「明日はー、なんとお休みです!」
「仕事でなくても、体調を崩す。飲みなさい」
 ずいっと目の前に差し出されたミネラルウォーター。お礼を言って受け取って、冷たい水を飲み干す。
 あれ、そういえばなんでみんないないんだろう。たしか、二次会に行くという話になって、私は帰宅組と一緒に解散しようと思って……。
(……ブランコが見えて、酔った勢いで乗りに来たんだった)
 しかもひとりで。ふらふらと群れから離れて。誰にも気づかれず。
 先輩はきっとそんな私を見かねてついてきてくれたんだろう。なにしてるんだ、私。引率が必要な子供じゃないんだから。
 あまりにも恥ずかしすぎて、酔いも醒めてきた。
 私が無言でペットボトルの蓋をしめるのを待って、先輩は問いかけてくる。
「君、家は?」
「電車でぱぱっと1時間です……」
「……もう電車はないぞ」
 そんな馬鹿な。腕時計を見おろす。先輩の言葉は間違いなかった。
 時計の針が指し示すのは、すでに終電がなくなっている時間だ。なぜならつい最近、終電が繰り上げになったものでして。
 とはいえ、給料日前のタクシー代は手痛い出費(ビジネスホテル代も、同じく)。
 それでも野宿なんてできないので、せめて安いほうを選ばなければ。
 だけど、ああまだ酔っているのかな。
 頭がうまく働かなくてフリーズした私に、先輩は笑みをひっこめた。
 そして、蜘蛛の糸を垂らすのだ。
「うちが近い。……君さえよければ、来るといい」
 いつか、傘がなくて困っていた私に手を差し伸べてくれた時のように。


 教師という仕事は残業や持ち帰りの業務が非常に多いそうで、先輩は職場近くに宿泊用のマンションを借りていた。
「普段は実家暮らしなんだが、週末や期末は日付をまたぐことも多い。帰宅のたびに家族を起こすのが忍びなくてな」
 濃紺のカーテンの向こうに夜景を締め出しながら、先輩は苦笑した。
 部屋にあるのは二人掛けのソファ、ローテーブルに乗ったデスクトップパソコンと数冊の歴史小説、ベッド。
 余計なものはなにもなくて、ちょっとしたビジネスホテルみたいに部屋は片付いていた。テレビもないところが、なんだか古風なところのある先輩らしいと思う。
「つまらない部屋だが、好きにくつろいでくれ」
 実家の私室は和室だったそうで、物が多いと落ち着かないのだと彼は言った。
「なにか作ってやりたいんだが……。すまない、生憎冷蔵庫は空なんだ。俺は料理をしないから」
「いえ、お腹いっぱいなので……。お気遣いありがとうございます」
「そうか。では、シャワーを浴びてもう休むといい」
「いえいえ、先輩が先に」
「君が先だ。客人だからな。タオルはそこの棚に入っている。寝間着は悪いが、俺の服を使ってくれ」
 ……いたれりつくせり。なにからなにまで、申し訳ない。
 押しに負けて、私は寄り道したコンビニで買ってきた歯ブラシと化粧落としからはじまるお泊まりセットを片手に、お先にお風呂をお借りする。
 さらにはタオルと寝間着まで借りて、寝支度を整えた後、私は先輩がシャワーを浴びている音をなるべく意識しないように部屋の隅で正座して待った。
 しばらくしてお風呂から上がった先輩は、正座する私を見てはっとした。
「すまない、先に伝えておくべきだったな。うちは来客用の布団がないんだ。今夜は、俺のベッドで我慢してくれ」
「我慢なんて。先輩は?」
「俺はソファで寝るから安心してくれていい」
「駄目ですよ、私がソファで寝ます!」
 泊めてもらって、なおかつ家主のベッドの強奪なんて許されない。
「ほら、私のサイズならソファもジャストフィットですし。先輩は身体大きいからソファで寝るのは無理がありますよ。腰痛めちゃいます」
「客人をソファに寝かせるわけにはいかない」
 話し合いは平行線をたどる。
 ややせっかちなところのある先輩は、すぐに実力行使に出た。さっさとソファに転がって、「このソファは俺のものだ。話はこれで終わりだな。さあ、君も早く寝るといい!」と言い放ったのだ。
「ずるいです、先輩! 私がソファで寝るって言ったのに!」
「こればかりは譲れない!」
「譲ってください、足はみ出してるじゃないですかっ」
 私ははみ出た先輩の足を引っ張った。くすぐったかったのか、先輩が笑って足をひっこめる。
 今度はもう、引っ張っても無駄だった。先輩が力を入れているせいで、びくともしないのだ。
 結局、私も実力行使にでた。先輩のお腹にまたがったのである(冷静になって思い返せば、とても正気とは思えない行動だ!)。
 これにはそれまで笑っていた先輩だって、さすがに笑みをひっこめた。
「こら、退きなさい」
「いやです。先輩がベッドに行くまで、ここから動きません」
 この時はお酒が過ぎて、気が強くなっていたのかもしれない。
 私は先輩の警告を断固として拒否した。
「……今の君は冷静さを欠いている。誘った俺が何を言えた義理もないが、男の部屋にあがりこんで、自らまたがるなど……」
「はしたないですよね」
「そうではない。自分を大事にしてほしいと言っている」
 私の肩を優しく押し返す先輩の手の甲に、血管が浮かび上がっている。
 気遣うような言葉。私を傷つけないようにか、強く拒絶しない態度になぜか物悲しくなった。
 こんなに好きなのに、先輩が私を受け入れてくれることはないから。
「先輩なら、なにされてもいいからしてるんです」
 は、と彼は一瞬息を飲んだ。
「先輩は、いやですか」
 必死だった。
 どうせ、私は先輩の恋人にはなれない。先輩には好きな人がいる。
 それならせめて、最後に思い出が欲しかった。このチャンスを逃したら、もう二度目はないとわかっていた。
「好きなんです」
「……君は」
「酔ってこんなこと言ってるんじゃないんです。本当に、ずっと好きで、……一回だけでいいから、なかったことにしてもいいから……だめですか」
「……いや」
 肩を押す力が、引き寄せるものに代わる。
 バランスを崩してもたれかかった私の唇に、煉獄先輩は食らいつくようなキスをした。
 柔らかく湿った舌が唇をなぞり、無意識に後ずさりそうになる。そんな私の後頭部を大きな手が押さえつけた。睫毛がぶつかりそうなほどすぐ目の前にある瞳はギラギラと情欲の色に濡れている。
 ――あとはもう、なし崩しだった。
 電気を消しもせず、貪るように深いキスを繰り返して。
 頭がふわふわして何も考えられなくなった私に、呼吸の早まった先輩が笑う。
「……夢みたいだ」
 欲しかったプレゼントをもらった子供のような顔をして。
 お酒の匂いと、まだ残る酔いのせいか赤い頬、かすかに汗ばんだ彼の肌に私の体温もさらに上がった。
「好きだ。ずっと君が好きだった」
 胸が壊れそうなくらいドキドキしている。
 もしかしたら本当に、そんな淡い期待を抱くほど、彼は優しかった。
 何度も吐息を絡めた艶やかな声で好きだと繰り返した先輩が、私の全身に甘い口づけを落としていく。
 彼の綺麗な唇から零れる吐息が肌にかかるたび、心臓は壊れそうなくらいに波打った。
 砂糖菓子でも扱うような、優しい手つき。彼は好きな人をこんな風に抱くんだと思った。
 私こそ、夢でも見ているようだった。
 だけど、夢は夢。すぐに現実へ引き戻されることになる。
 太くたくましい腕に腰を抱かれ、揺さぶられ、乱れた髪が頬にかかった。
 その色を見て、浮かれた気分も高鳴る鼓動も一瞬で凍りつく。
 黒髪だ。学生時代、黒髪の女の人への道ならぬ恋に落ちたのだと噂されていた先輩。今は、酔っている先輩。幸せそうに好きだと繰り返す先輩。これはきっと、彼にとって過ちなのだ。そう思い知らされたから。
 手に入らない人の代わりだったのかもしれない。そう気づいてちょっと泣いた。一夜の思い出でも構わないと思っていたのに、一瞬抱いてしまった淡い期待に胸を締めつけられて。
(……自分勝手だなあ、私)
 酔いが醒めたら、先輩はきっと後悔する。
 なかったことにしたいと思うかもしれない。
 全部、私のせいだ。今更後悔したってもう遅い。
 いつかもし、先輩が好きな人と結ばれたら、きっと代わりの私は用無しになるのだろう。
 深みにはまればはまるほど、捨てられたときにつらくなる。それがわかっていたから、全てが済んだ朝、私は逃げ出した。捨てられる前に、全てなかったことにしてしまおうと思った。先輩の、ためにも。
 だけど。
 酔った勢いで交換していた連絡先のおかげで、私は毎週末彼に呼び出されては抱かれた。
 きっと彼が好きな人の代わりに。先輩のセフレになって、気づけば一年が経っていた。
 先輩の恋は、まだ成就しないらしい。


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