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 煉獄杏寿郎。
 彼は大学時代の私の先輩。年は一つ離れていたけど、学部は同じ。
 時折、講義やゼミで一緒になった彼はとにかく派手で目立つ人だった(正直、最初はV系バンドマンかなにかかと思ったくらいだ)。
 なにかと目立つ彼の第一印象は、あまり関わりたくない男の人。なにせ、圧が強すぎるし、押しも強くてちょっと怖い(どこを見ているのかわからないあの目も苦手だった)。
 それなのに、気づけば惹かれていた。
 だって、人柄があんまりにもできすぎていた。
 最初にそれを知ったのは、大学一年の秋。
 天気予報が外れて四限の最中に土砂降りの雨が降り出したことがあった。
 誰も傘なんて持ってきていなかったから、授業が終わるなり、構内のコンビニや学生課に生徒が殺到。あっという間に傘は学校から駆逐され、残されたのは出遅れた私ひとり。
(あー……)
 近所で一人暮らしをしていたなら、濡れて帰るのも我慢できた。
 だけど、私は公共交通機関を乗り継いで通っていたので、そういうわけにもいかない。
 外では相変わらずバケツをひっくり返したような雨が降り続けていて、雨宿りをしていてもあまり意味はないように思われた。
 ……どうしよう。
 薄暗い構内にぽつんと取り残されているのもあって、次第に心細くなってくる。まだだれか残っている友達がいないか、連絡してみようか。
「傘がないのか?」
 その時、声をかけてくれたのが先輩だった。
「折り畳みだが、俺の傘に入っていくといい!」
「でも」
「あまり待ちぼうけしていると、暗くなってしまうぞ」
 そう言うなり、彼は傘を広げて私の背中をそっと押した。
 男の人と肩がぶつかるような距離でひとつの傘に入って歩くなんて、初めてだった。どぎまぎしながら、何を話したのかはもう思い出せない。
 覚えているのは、雨に濡れた街並み。湿気にやられた先輩の癖毛。傘を持つ、節くれだった大きな手。
 ほどなく、私たちは駅に辿り着いた。
 駅前のコンビニで、無事に売れ残った傘を購入した私を先輩は改札まで送ってくれた。
「すみません、傘に入れてもらっちゃって……。助かりました」
「礼には及ばない。気をつけて帰るように」
「ふふ、先輩。その言い方、先生みたいですね」
 なにはともあれ、これで濡れずに帰れる。
 その安堵感に浸っていた私は、和やかに別れを告げて、改札をひとりで通り抜けてようやく疑問を抱いた。
 なんで先輩、改札を通らないの?
 もしかして、もしかして。
「あのっ、そういえば先輩のおうちってどこですかっ?」
 ぐりんと振り返って尋ねた私に、すでにもと来た道へと歩き出していた先輩はいたずらっぽい笑顔を見せた。
「実家通いだ。桜新町に住んでいる」
 桜新町に行くために、この駅は使わない。
 わざわざ普段使わない駅まで送ってくれたんだ。そう気づいたのと、太陽みたいな笑顔に恋に落ちたのはきっと同時だった。
 その優しさが嬉しかった。
 好きになって、彼の様子ばかりを窺うようになって、私はどんどん先輩に詳しくなったと思う。
 授業態度はいたって真面目で成績優秀。身体能力も抜群で、剣道サークルのエースとして全国大会にも出場。
 性格は公正公平で、竹を割ったように清々しい。夏の青空みたいに気持ちのいい彼の、少しせっかちなところはむしろご愛嬌。
 低くて温かみのある声に振り返れば、いつでもひとだかりの中心に先輩がいる。
 どこにいたって、一番に目を引かれた。
 毛先に朱色が入り混じる、黄金色の髪も。吸い込まれそうになる力強いまなざしと精悍な面差しも。笑うととたんに子供みたいな顔になるところも。全部が全部、好きだった。憧れだった。
 だけどあの頃、先輩に夢中だったのは私だけじゃなかった。
 みんな、先輩を見ていたのだ。いつだって、ゼミの女子グループでは先輩が話題を独占していた。
「煉獄先輩、今フリーなんだって!」
「でも、好きな人いるって聞いたよ」
 課題のために集まったのに、いつの間にか話し合いのテーマは太陽系と人類の関係から煉獄先輩の恋に移り変わっている。情報交換に余念がない彼女たちの仕入れてくる噂話が始まると、当人をよそに論争が巻き起こった。
「私、黒髪美人と歩いてるの見たよ!」
「私も見たことある! でもさ、女の人は指輪してたの。年上っぽかったし、既婚者だと思う」
「じゃあ不倫?」
「ないね、ありえない」
 全会一致で否決。私たちの煉獄先輩は、そんな男ではないのである。
「きっと報われない恋をしてるんだよ……」
 今度は全会一致で可決。
(先輩、片思いなんだ)
 私は、彼が報われない恋をしていると知って、勝手に親近感を抱いた。私も、先輩に報われない恋をしていたから。いやなお揃いだけど、先輩と同じと思えばそれだけで嬉しかった。

「――聞いた? 先輩、歴史の先生になるんだって」
 四年生が本格的に就活を始めると、女子グループの話題は先輩の就職先の推測でもちきりになった。
「えーっ。院に進むのかと思った! この間の学会、学部生なのに教授に推薦されて発表してたでしょ? 教授は研究続けさせるつもりだったんじゃない?」
「先輩は先生になりたかったんだって。いいなあ、JK。先輩の授業受けられるんでしょ」
「……ってことは、来年もう先輩いないってことっ? やだ!」
 阿鼻叫喚。地獄絵図。
「ねえ、告白する? 卒業しちゃう前に、当たって砕けようよ」
 飛び交う言葉に、私は先輩とのお別れが間近に迫っていることを実感した。
 何人かはその後、本当に告白したらしい。だけど、誰も先輩の首を縦に振らせることはできなかったようだ。
 意気地なしの私はといえば、何も言えないまま先輩の卒業を見送ってしまった。
 まさか、数年後に先輩のセフレになっているなんて夢にも思わずに。


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