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(現パロ夫婦。リクエスト。月のものの心配をしてくれる煉獄さんの話)

 甘いココアの香りに導かれて、ゆらゆらと微睡む意識が覚醒していく。

「むう、目が覚めたか。起きられそうか?」
「んん……?」

 かけられた声に重いまぶたを開くと、目に飛び込んできたのは眩い蛍光灯のあかり。そして、その光を遮ってわたしの顔を覗き込む、杏寿郎さんの端正な顔だった。

(……なんで、杏寿郎さん……?)

 見つめあうこと、五秒。わたしはガバッと上体を起こす。

「えっ? 杏寿郎さん?」
「うむ、俺だ!」
「お、おかえりなさいっ。あれっ、時間……」

 さっと目をやった窓の外はすっかり暗くなっている。
 壁にかけられた時計の短針は、横になった時は二時を示していたはずなのに、とっくに九時をとおり過ぎていた。
 そしてとどめが杏寿郎さんだ。

 連日、教師として忙しなく働くこの人が帰宅しているのだ。
 わたしがのんきに寝ている間に、夜の帳がおりていたのはもう疑いようもない。

(どうしよう、ご飯の準備できてないっ。お風呂掃除も、洗濯物も畳んでない……)

 ほんの少し横になるつもりが、思った以上に寝入ってしまっていたようだ。杏寿郎さんに家のことを任されていたのに、不甲斐なさすぎる。

 ダメ嫁の文字が、ズシンと頭の上に落ちてきた。

「すみません、すぐにごはんの支度します……!」
「いい!」

 キッチンに飛び出そうとしたわたしの肩をすかさず掴んで、ソファに座らせた杏寿郎さん。彼は空いた手で湯気の立ちのぼるカップをローテーブルに置いた。

 中身はココアらしい。
 チョコレート色の水面が、揺れている。

「休んでいなさい。君がこんな時間まで眠っているなど珍しい。体調が優れないのだろう」

 隣に腰かけた杏寿郎さんの指先が、すり、とわたしの頬をくすぐるように滑っていった。

「顔色も悪い。心配せずとも、洗濯物は取り込んで、風呂の支度も済ませておいた! 家事は問題ないはずだ。食事だけはすまないが、レトルトにさせてもらうが。二日続けて火災報知器に仕事をさせるわけにはいかないからな」

 落ち込むわたしを哀れんでか、朗らかに杏寿郎さんが冗談を言って笑いを取ろうとしてくる。

 彼は昨夜、オーブンの機嫌を損ねて大量の煙を生み出したばかりだ。その結果、働き者の火災探知機が作動し、ちょっとした騒ぎになったのだけど……。

「洗い物は後で済ませておくとして、これで今日やるべき家事は全て終いだな!」

 何も焦る必要はないと、彼は改めて言い切った。
 だけど、杏寿郎さんが今あげた仕事は本来なら、家を任されているわたしの仕事だ。

「……すみません……、杏寿郎さん、お仕事で疲れてるのに」
「俺は元気だぞ。そして誰であれ、本調子でない時に無理をすべきではない。だから謝らないでくれ。……そんなことよりも、病院にはもう行ったのか?」
「いえ……、お昼に薬飲みましたし」

 そもそも、病院に行くほどのことでもなかった。

「ただの……その、毎月のあれなので……」

 動くに動けなかったほどの痛みは、薬を飲んでだいぶ緩和されている。
 ただ、残された抗いがたい眠気と倦怠感に襲われて、ソファで休んだ結果、寝坊したというだけだ。

 正直に懺悔したわたしに、杏寿郎さんはゆるゆると表情を緩める。

「そうか! 病気でないのならよかった」
「はい。だから、やっぱりごはん作ってきます。杏寿郎さん、レトルトじゃ足りないですよね。カレーとかなら……」
「いや、実は君と食べようと、竈門ベーカリーでパンを買って帰ってきた! 足りなければそれを食べる。だから、くれぐれも無理はしないでくれ。耐えられる痛みは人それぞれだ。その顔色の君をこきつかう薄情な夫に俺をしないでもらいたい」
「……ありがとう、ございます……」

 労わるように、そっとわたしの頬を包み込んだ大きな手が温かくて気持ちいい。

 あまりにも優しくて。愛しくて。ちょっと情緒不安定になるこの時期も余裕で乗り越えられると確信するほどの安心感。

 おかげでたっぷり寝たはずなのに、なんだかまた眠たくなってきたみたいだ。

「あの……もうちょっとだけ、こうしててもらってもいいですか? 杏寿郎さんの手、温かくて気持ちいいです……」

 薬を飲んでからだいぶ時間が経っているせいか。じりじりとお腹の痛みが復活しつつあった。

 痛みのせいか、それとも精神的にちょっと弱っているせいか、いつもなら我慢できる我儘がするっと口を飛び出してしまう。

 それなのに、杏寿郎さんはにっこりと笑って両手を広げてくれた。

「ならば、手よりもずっとこちらのほうが温かいぞ。おいで、少しの間抱いていてやろう」
「で、では失礼します……」

 お言葉に甘えてぽすりとその胸の中に倒れ込めば、彼はぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。

 ふわりと漂う彼の匂いと体温に包まれていると、痛みも和らいでいくような気がする。
 さすが杏寿郎さん、セラピー効果が抜群だ。

 ずっとこうしていられないかな。せめて、今夜はこうして過ごせないかな。

 そんなことばかり考えてしまうわたしに、杏寿郎さんはきっぱりと言った。

「さあ! 今から十分間、思う存分くつろいでくれ!」
「えっ、十分?」

 まさかの時間制限。しかも意外と短い。びっくりしすぎて思わずオウム返ししてしまった。

「あっ、いえ、なんでもないです」

 仕事に疲れて帰ってきた杏寿郎さんをわたしにつき合わせているのに、不満などあるはずもない。すぐに前言撤回しようとすると、彼は大真面目な顔で理由を口にした。

「そろそろ夕食を取って薬を飲みなおすべきだ。君は時折、夜中に痛みで目が覚めているだろう。入れるようなら風呂にも入るといい。こうしているよりずっと温まる」
「……はい」

 でも、杏寿郎さんが一番効くと思うんだけどな。
 そんなことさすがに言えないけれど。だけど離れがたくて。

 わたしは彼の胸に顔を押しつけてささやかな抵抗を試みた。
 人の心の機微に聡い杏寿郎さんは、それでわたしの秘めた欲望に気づいてしまったのかもしれない。

「……そして、その後は俺が君の湯たんぽになろう!」

 ……なんて、つけ足した。

「そ、そこまでは望めないですよっ」

 湯たんぽって。
 もはや人間ではない。人権がはく奪されている。あまりにも申し訳がなさすぎる……。

 全力で遠慮するわたしに、杏寿郎さんは力強く言葉を続ける。

「俺がそうしたい! だから、十分経ったらココアを飲んでくれ。その間に、俺がレトルトを温める。その後は薬を飲んで風呂だ。そうしたら、後は君の時間だ。俺は布団の中で朝まで君を温めると約束する」

 言葉にせずとも、その提案はすべてわたしを想ってのことだとわかる。
 大好きな優しい笑みを浮かべた杏寿郎さんに、愛しさと申し訳なさがないまぜになった。

「……杏寿郎さん、わたしを甘やかしすぎですよ」
「そうか? 俺としては甘やかしているつもりはないのだが。人を大切にするのに際限などいらないだろう。ましてや、愛する人が相手ならば尚の事」

 そんなことを言われると困ってしまう。
 もうこれ以上ないくらい好きなのに、もっと杏寿郎さんに溺れてしまいそうで。

 いつか杏寿郎さんなしでは生きられなくなってしまうんじゃないかと、本気で思った。

「……そして、そういう君こそ、なんだかんだ俺に甘いと思う」

 杏寿郎さんが、ぽつりと呟く。

「そうですかね……? それこそ、そんなことはないような……」
「ある! だから期待してしまう。今夜の働きの褒美をいつか君が与えてくれるのではないかと。……もっと俺を愛してはくれないかと」
「えっ?」

 完全に油断していたところに投げかけられた言葉に、わたしはぽかんとした。

 杏寿郎さんはどこを見ているのか分かりづらい視線を彷徨わせて、続ける。

「つまりは打算だな! 心やましいことだ! これでは君に好かれるどころか、嫌われても仕方ない」

 嫌うなんてとんでもない。
 わたしはぶんぶんと高速で首を横に振った。

「まさかそんなっ。むしろ、一億年分くらい好きになりました」
「単位が理解できない!」
「どんなに長生きしても、嫌いになるなんてありえませんっていう比喩表現です」

 わたしのせいいっぱいの宣言に、今度は杏寿郎さんがぽかんとした。それから、ふにゃりと笑う。

 いつも元気いっぱいの彼がときおり見せてくれる、柔らかい表情はわたしの一番のお気に入りだった。

 少しも見逃したくなくて、じっと見つめていると杏寿郎さんの顔がふと近づいてきた。そして、ついばむようなキスがひとつ、落ちてくる。

「んっ……」

 するりと髪を梳く、彼の太い指が心地いい。

 何度も繰り返し、確かめるように触れ合う唇。互いの吐息が淡く溶けて、力が抜けていく。
 時折リップ音がたつ度、心臓は壊れそうなくらいドキドキした。

 それなのにやっぱり離れたくなくて、わたしは彼のシャツを握りしめる――


「……うっかり口づけてしまった!」

 ようやく重なった唇が離れた時、杏寿郎さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で叫んだ。

「えっ? 今のうっかりだったんですかっ?」
「君があまりに愛らしいことを言うので、堪えきれなかった! 体調のすぐれない妻に手を出すなど、まだまだ俺も修行不足のようだ。深く反省する!」

 言うや否や、シュッと杏寿郎さんは立ち上がった。

「……さて、十分経ったようだな! 俺は食事の支度をしてくる。君は冷めてしまう前にそこのココアを飲むといい!」
「あ……ありがとう、ございます……」

 キビキビとキッチンに向かう彼の背中を見送って、わたしはローテーブルに残された、少し冷めたココアに手を伸ばした。

 そして、甘い香りに誘われて、そっとカップの縁に唇をつける。

 杏寿郎さんが淹れてくれる、牛乳と砂糖がたっぷり入ったココアはいつでも甘い。どこか緊張していた身体の力がほっと抜けて、楽になっていくほどに。

(でも……)

 さっきのキスのほうがずっと甘くて痛みを忘れさせてくれた。張本人のわたしが確信を抱いたのだから、間違いない。

 ――どうやら、良薬は口に苦しなんて嘘らしい。


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