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(893パロ。煉獄さんの倫理観がゼロです。不倫、反社の単語に嫌悪感がある方は今すぐブラウザバック推奨。なんでも大丈夫な方向け)

 杏寿郎さんを、優しい人だと思っていた。

 明るくて、爽やかで、ちょっと変わっているところもあるけれど、面倒見がよくて兄貴肌。

 友達に誘われて通い始めたジムで出会った彼は、何もかもが人目を引く人だった。太陽みたいな笑顔も、引き締まった身体も端正な顔も、華やかな髪も。

 彼も人の目を引く術を心得ていた。いつでも大勢に慕われて、彼の周りには人が絶えなかった。
 私も、彼に惹かれた大勢のうちのひとり。

 出会ってすぐに好意を抱いていたから、告白された日には是非もなく頷いた。

 きっと、後にも先にもこれ以上ないほど幸せな日々だった。

 彼はまめに連絡をしてくれて、記念日には贈り物を欠かさず、私が困った時にはさりげなくリードをしてくれる。杏寿郎さんは、誰もが羨ましがる理想の恋人そのもの。

 だからこそ、彼が極道一門の跡継ぎ息子と知った時、私はすぐには信じられなかったのだ。

「俺は君に、共に家を支えてもらいたいと思っている」

 プロポーズと同時に告白してくれたのは、彼なりの誠意だったのだろう。
 まだ引き返せるところで私に選択肢を与えてくれたのだから。

 だけど、だからこそ私は二の足を踏んでしまった。

 いくら好きでも許容できないことがある。大人になるほど、その数は増えていく。……反社会的勢力に所属する人との付き合いは、そのうちのひとつだ。

「……少し、考えさせてください」

 本当に、杏寿郎さんが好きだった。
 好きだったから、私は彼が怖くなった。

 これまでその筋の人だなんて、おくびにも出さなかったのだ。すっかり隠されていた素性に不安になった。まだ、私の知らないことがあるんじゃないかと疑ってしまった。
 きっと信じて話してくれた彼を、先に信じられなくなったのは私だった。

「うむ、こればかりは無理強いできまい。……仕方ないな」

 私が結婚の申し出を拒絶した時、杏寿郎さんは私の意志を尊重してくれた。
 今思えば、その声は確かに沈んでいたのだけど。

「だが、これまで通り付き合いだけは続けてもらえないだろうか! 情けないことに、俺はまだ君を諦めきれない。……君を想うことも、許されないか?」

 それでも恋した人の寂しげな笑顔を拒絶できるほど、私の意志は強くない。私の都合でプロポーズを断ってしまった負い目もあった。

 だから、自分でも断ち切るべきだと思いながら、ずるずると関係を持ち続けてしまった。

 週末はこれまでのように二人で過ごして、夜には愛を囁かれ、身体を重ねる日々が続く。
 それが、悪手だった。

 そう痛感したのは、彼の妻を名乗る女の人が私を訪ねてきた日のことだ。

 出会い頭に頬を打たれた私に、杏寿郎さんとの関係を知っている舎弟さんたちがすくみ上る。とっさに彼女を抑え込もうとした舎弟さんも、平手打ちを食らった。

「姐さん! いけません、こんなこと若は許しませんよ! どうかお気を静めて!」
「触らないでっ。落ち着けるはずがないでしょう! あの人に手を出した泥棒猫が目の前にいるのよ!」

 なんの話か見当もつかずに呆然とする私に、彼女は言った。

「おまえが私の夫をたぶらかしたのでしょう! 真面目な人だもの、そうでなければ愛人なんて作るはずがないわ!」

 結婚。愛人。夫。……杏寿郎さん。
 頭の中でぐるぐる回る金切り声に、目まで回りそうだった。

 ぐらぐらと歪む私の視界に、彼女の薬指に輝く金の指輪が映り込む。

「いいこと、即刻あの人の前から消えなさい。でなければ、おまえの職場からご両親にまで杏寿郎さんとの不倫を知らせるわ。後は弁護士を通しますから、そのつもりで」

 潮時だと思った。

 もしかしたら、彼には彼の都合があっただろう。私の知る杏寿郎さんも、彼女のいうように真面目な人だったから。

 それなのに、杏寿郎さんは私の知らない間に私の知らない女の人と結婚していた。私は愛人になっていた。

 それは私が彼のもとを去るには、十分な理由だった。



 そして私は、勘のいい杏寿郎さんに気づかれる前に最低限の荷物をまとめて部屋を飛び出した。

 家族には頼れない。職場にも、もう戻れない。

 彼が何を思って私との不倫関係を続けたのかなんて知らないけど、もしも杏寿郎さんが探しに来るとしたら、真っ先に向かうのはその二か所のはず。
 私はこれまでお世話になった人たちに迷惑をかけないためにも、ひとりでどこか遠い場所へ逃げなければならなかった。

 そうして古い友人の伝手を辿り、なんとか辿り着いた海辺の田舎町。
 仕事を紹介してもらい、海の見える古いアパートを借りて始めた、ささやかな生活。

 問題は次から次へと発生したけれど、次第に生活も落ち着いて新しい一歩を踏み出した、ある日。


「――おかえり」

 最近、以前にもまして疲れやすくなった。慣れない生活を続けているから、なおさらそう感じるのだろう。

 今日も仕事から家に帰り着いた頃にはくたくただった。
 早く晩御飯が食べたい。そう思いながら真っ暗な部屋の電気をつけて、息を飲んだ。

 安物のソファにゆったりと腰をかけるスーツの男がいたからだ。

 この部屋に不釣り合いなほど華やかな男が、深い笑みをその顔にたたえて私を見つめている。

 グレーのスリーピーススーツも磨き上げられた革靴も、特別に誂えた品だとわかる。以前、彼が――杏寿郎さんが好んで身に着けていたものだから。

(……なんで……?)

 動けずにいると、彼はゆったりと立ち上がってこちらへ歩み寄ってきた。

「随分と、楽しく遊び呆けていたようだな。迎えが必要なほど、帰りがたかったか?」

 いつも通り、優しい声音がかえって恐怖をあおる。

 思わず後ずさった背中が、今しがた閉めた扉にぶつかった。

「杏寿郎、さ……」

 どうしてここに、震える声で呟くと彼が私の目の前で立ち止まる。息遣いすら感じられそうな距離で、恐る恐る杏寿郎さんの顔を見上げれば、怒りに燃える瞳に囚われた。

「わからないか?」

 炎を溶かしたような瞳は、爛々と輝いていた。獲物を目の前にした獣よりも、鋭い光を携えて。

「君に会いに来た」
「……っ……」
「それ以外に理由が必要か」
「どうして」
「質問ばかりだな」

 ふっと表情を緩めた彼の目は、笑ってはいなかった。

「……俺は、君の希望を叶えてやっただろう。ヤクザ者と結婚はできないというから、俺は誰よりも妻に望んだ君を諦めた。君の意志を尊重した。……ならば次は、君が俺の希望を叶えるのが筋というものではないか」

 早く逃げなければと、頭の中で警報が鳴り響く。
 やがてどこかからか聞こえてきたパトカーのサイレンが、脳内の警鐘に入り混じる。けれど、それもすぐに通り過ぎて聞こえなくなってしまった。

 残されたのは、ぞっとするほど冷たい沈黙と私たち。
 世界に見捨てられたような心地で、私は怒り狂っているらしい男と対峙する。

「俺の望みはただ一つ。……帰っておいで」

 そうすれば、今回の逃走は水に流すと杏寿郎さんが囁く。

「息抜きにはじゅうぶんな時間があっただろう。さあ、おいで。外に車を待たせている。もうお遊びは終わりの時間だ」
「……遊び? 帰る? どうして杏寿郎さんにそんなこと言われなくちゃいけないんですか」

 まるで私が勝手をして彼を裏切ったような物言いだ。裏切られたのは、私なのに。

「遊んでいたのは、杏寿郎さんのほうだったんじゃないですか」

 沈黙。わずかに首を傾げて先を促した彼に、私は震える唇を開く。

「奥さん、いたじゃないですか……っ!」

 知らなかった。知らないまま、彼の囁く愛に浮かれて溺れていた。だからこそ、裏切られたと知った時にたまらなく苦しくなったのだ。もう、その場にとどまることもできないくらい。

「ああ、そんなことを気にしていたのか」

 それなのに、杏寿郎さんは臆面もなく呟いた。

「何度も言ったはずだ。俺が愛しているのは君だけだと。書面で結ばれただけの人間など、気にする必要はない」
「な、なんですか、それ……」
「俺は跡継ぎだからな! どうしても子が必要だった。彼女はそのために娶った。本来なら、君が妻になるはずだった。君が子を孕んでくれたなら、俺も彼女を娶る必要はなかった。それを断ったのは君じゃないか。望みを叶えてやったのに、何が不満だ?」

 彼が、何を言っているのかわからなかった。

 子供が必要だから、愛のない結婚をした。愛しているのは私だけ。まとめると、そうなる。だからといって、はいそうですかと頷けるはずもない。それが、この人はわかっていない。

 その思考の差異が不気味だった。

「しかし、君は優しい上に些か繊細すぎるきらいがあるからな。彼女のことは伏せておくように言いつけてあったのだが。……ああ、いや、やっとわかった。彼女が会いに来たのか」

 しばらく状況を整理していた杏寿郎さんが、顎に指を添えて呟く。
 それから、長年の謎が解けた研究者みたいに喜色満面になった。

「彼女が君を脅した、そうだな? 君は恐怖を覚えて、逃げてしまった。ならば、仕方あるまい。……全ての責任は彼女にある」
「違……っ、私は! んんっ……!」

 否定しようとした言葉は、血管の浮いた手のひらに口を覆われたことで消える。

 顎を抑え込むような大きな手に力が込められて、身じろぎひとつできないままゴツリと音を立てて後頭部がドアに押さえつけられた。

 そうして自由を封じられた私の顔を覗き込んだ杏寿郎さんが、抑揚のない声で囁く。

「勘違いするな。俺は、そういうことにしておいてやると言っているんだ」
「……っ……」

 それじゃ、あの人はどうなるのだろう。

 法的に見たら、悪いのは私だ。既婚者と、不倫をしている。それでも、彼らの世界は時折法が及ばないのもまた事実。

「君は何も気にしないでいい。ただ、俺のもとへ帰ってくればいいんだ。そうすれば、全て解決する。あるべき場所に収まるんだ」

 わかったな、と言い聞かせるような言葉に首を振って、口元を掴む手を振り払う。

「……む、無理です、そんな。……どうしてわからないんですか? 奥さんが怒るのも当然じゃないですか。おかしいのは、貴方です」

 きっと私たちの考えはどこまでいっても平行線で、もう重なることはない。
 そう確信してしまった。

「あの人にひどいことをしないで。私のことも、もう……っ」
「無論、悪いようにはしない。もう、彼女は必要ない。子を孕ませる必要もないからな!」

 そして、節くれだった指が、膨れつつある私のお腹に触れる。


「俺の跡継ぎは、すでにここにいる」


 ひゅっと息を飲んだ。とっさにお腹を庇うように両手で自分の身体を抱いた。

「触らないでっ! 誰の子供かなんて、……そ、そんなのわからないじゃないですかっ。もう放っておいてくださいっ! 何を言われても、私はあなたのところには帰らない……っ」

 ここにいるのは、彼の元から逃げ出したもう一つの理由。妊娠してしまった彼の子供。

 この子には、せめて裏社会とはかかわりのない普通の人生を送らせてあげたかった。今、杏寿郎さんと話したことでその想いは確固たるものになった。

 だから必死になって否定した私に、杏寿郎さんは目を細める。

「……いいや、俺の子だ。君はそれほど、愚かな女ではない。俺は君を信じている。それでも違うと否定したいのなら、構わない。一人ずつ確認すればいいだけの話だからな」

 杏寿郎さんがおもむろに胸ポケットから取り出して、はらはらと床に落とした写真を見てぞっとする。

 そこに写っているのは、私が妊娠した時期に接していた男性たちだ。カフェの店員、友人、彼の部下、以前の職場の上司……。

「まずは誰に会いに行こうか。質問の仕方は色々とあるんだ。すぐに答えもわかるだろう」

 杏寿郎さんが彼らに何をどう確認するのかなんて、想像もつかない。

「……ああ、もしも俺の子でなくても、心配はいらないぞ。君には腕のいい執刀医を紹介してやろう。すぐにその席は新しい俺との子のために空く」

 無邪気さすら感じる笑みに、わたしの足から力が抜けた。
 この人に、殺されてしまうかもしれない。私だけじゃない。無関係の人や、この子まで。

 その恐怖に飲み込まれて、ずるずるとドアに背中を預けたまましゃがみ込む。ぞくりと背筋が震えたのは床の冷たさのせいか、それとも――

「や……、やめてください……っ。関係ないですから、この人たちは誰も……! この子も、きょうじゅろ、さんの子だから、誰にもひどいことしないで……っ」

 ひきつった呼吸でとぎれとぎれに告白すれば、男は満足げに笑う。

「よく言えたな、いい子だ」

 幼子にするように、頭を撫でられる。

 そして、腕を掴まれて強引に立たされた。すっかり腰が抜けていた私が彼の胸のうちに倒れ込めば、うっとりと笑ってさえ見せる。

 背中に回された引き締まった腕が、私の退路を断った。

「震えているのか? 可哀想で……本当に君は愛らしいなあ。だが、大丈夫だ。君には俺がついている」

 そして私は思い知る。

「鬼ごっこはこれで終いだ!」

 捕食者に獲物として選ばれた時点で、逃げ場などどこにもなかったのだと。


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