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「杏寿郎さんが上司だったらなあ」

 仕事終わりの夜。お気に入りのハーブティーとクッキーを楽しみながら、自分の部屋でくつろぐプライベートな時間。
 ぽつりと呟いたひとりごとに、深い意味はなかった。

 ちょっと仕事に疲れていただけ。
 言っていることが日替わり定食みたいに変わる上司の対応と、音信不通になる取引先と、積もり積もった業務にいっぱいいっぱいだっただけ……。

「では、今日は俺が君の上司になろう」

 だから、たまたま泊まりに来ていた婚約者でもある恋人がそう宣言した時。
 宣言して早々に退室したかと思えば、ジャージからスーツにネクタイ姿で戻ってきた時。

「さあ、何をしてほしい?」

 ……と、きらきらした目で聞かれた時。

 あまりのテンポのよさに、すっかり状況に置いていかれた私は「えっ? わたしが指示するんですか?」とマジレスしてしまったのだった。

「杏寿郎さんが上司なら、指示を受けるのはわたしでは……」
「なるほど、本格派なんだな!」

 わたしが指示を出すなら、部下と上司のほうが正しい気がする。

(部下の杏寿郎さんか……)

 いいかもしれない。上司なら、的確な指示をくれる、みんなに信頼されているキャリアだと思うけど。
 部下ならきっと大型犬タイプだ。先輩を慕ってくれて、でもやっぱり頼りになって。妄想が一瞬で膨らむ。
 そうしている間に、杏寿郎さんは次の行動に取り掛かっていた。

「では、俺が勝手に動くぞ。まずは強張った部下の顔をもみほぐそう」
「むええ」

 そっと彼の大きくて熱い手のひらが私の頬を包み込んだ。……と、思った直後。
 容赦なくもまれる。正直、とても気持ちいい。だけど、問題はきっと大層恥ずかしい顔を彼にさらしているに違いないという点にあった。

「やっ、やめへくだはい!」
「なぜ!」
「恥ずかしいという女心ですっ」
「なるほど! では仕方ない」

 力が弱まった隙を狙って、わたしはシュッとエビのように背後に飛びのいて彼の魔手から逃れる。
 とたんに杏寿郎さんは唸った。

「さて、手持無沙汰になってしまった! 君さえよければ、そろそろ俺に仕事をくれないか? 上司とはいえ、赴任初日だからな。ここでは先輩の君から指示をもらいたい」

 だんだんと設定が増えてきた。出向してきたというテイらしい、新たなる上司への指示出しという任務を前にわたしは悩みに悩む。

「……本当に、なんでもいいんですか?」
「無論! 君はいつもため込みすぎていると思う! この機会に全て吐き出すといい」
「……………………じゃあ、抱きしめて、ほしいです」

 いつもなら恥ずかしくてこんなことは絶対に言えないけれど。

 疲れたわたしには癒しが必要だった。早急に。切実に。

「おいで」

 杏寿郎さんが両手を差し伸べてくれたので、おずおずと胸の中へと足を進める。

 そうすると、すぐにふわりと抱き留められた。

 胸に頭を預ければ、とくとくと彼の命の音が聞こえてくる。額にかかった彼の柔らかな髪がくすぐったい。ふわりと香るのは、シャツから漂うお揃いの柔軟剤。

(落ち着く……)

 ここは世界で一番安心できる場所だった。
 すっかり心がほぐれて、身体から力が抜けていく。

 今日はこうして眠りたいとさらなる我儘を言っても許されるだろうか……なんて、ぼんやり甘えを抱くと、つむじに彼の吐息がかかった。

「……時に君は、これだけでいいのか? 今なら特別サービスがつくぞ」
「特別サービス」

 なんだろう、それ。彼を見上げると、その顔にふわりと柔らかい笑みが浮かぶ。

「君を思い切り甘やかしたいのだが」
「……それじゃ、わたしにしかメリットがないですよ」

 仕事はwinn-winnでなければならない。新人時代、先輩に口を酸っぱくして言われた言葉だ。

「そうでもないぞ。君を抱いて啼かせて、満たしている間はこの腕の中に閉じ込めておける。このところ、互いに忙しくしていたからな。俺としても君に触れたい」
「な……なるほど」
「……むしろ、俺に都合がよすぎるかもしれないな」

 ド直球の口説き文句に平常心を装って答えたものの、内心動揺しまくっていたのはきっと見抜かれていたのだろう。

「幸運なことに、明日は俺も君も休みだ。今夜は少しばかり夜更かしをしても、差し支えない」

 触らなくてもわかるくらい熱い顔に、杏寿郎さんが再び手のひらを添えた。彼の指もやっぱり熱くて――あまりにも熱くて、溶け合ってお互いの境界がわからなくなってしまいそうだった。

「懸念事項は解決したか?」

 すっかりクリアになってしまった。

「……杏寿郎さん、営業の才能ありますよ絶対。だって、杏寿郎さんに誘われたら、どんな契約でもしたくなっちゃいますし」
「営業の才能か。初めて言われたが、君の永久就職の契約が取れたのもそのおかげだろうか」

 それならば感謝しなければと、笑いながら彼はわたしをソファに押し倒す。

 柔らかなクッションに頭を預けておずおずと見上げれば、上に覆いかぶさる彼の影の形に天井の電気が区切られていた。

 そして、目が合う。
 熱っぽいまなざしでわたしを見下ろして、赤いネクタイを緩めた彼にドキッとしてしまった。

「えっ? あ、あのっ、まさかそのままするんですか? 月曜日、その服でお仕事に行くんじゃ……」

 週末泊まりに来る彼は、月曜日に職場の学校へ直行できるようスーツを持ち込むのが常だった。
 今着ているのは、まさにその服のはず。

「明日洗えば出勤にも間に合う。だから、君は何も心配いらない」

 そして、反論を封じるように、額へ、頬へ、唇へ、順繰りに甘い口づけが落ちてくる。
 次第に深まっていくキスに息苦しさを覚えて、わたしは彼の腕にしがみついた。

 シャツが皺になってしまうから、だめなのに。離さないと、早く。早く。
 溶かされていく思考の中で、なけなしの理性が訴えていた。

 けれど彼の一言が、その理性すら溶かしてしまうのだから。

「些事など忘れて、今は俺のことだけ考えていなさい」

 やっぱりこの人の言葉には、何か不思議な魔法でもかかっているに違いなかった。


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