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(注意:煉獄さん生存if。本誌ネタバレあり。モブ自称婚約者あり。無惨戦後のお話)




「今までどうもご苦労さま。だけど、これでもうあなたの出番はおしまいよ」

 鬼舞辻無惨との最終決戦からひと月。

 戦後処理で慌ただしい日々を過ごすわたしのもとを訪れた美しい人は、ゆかしい微笑みを浮かべてそう言った。

 曰く、彼女は煉獄さんの婚約者だとか。彼女の家は家格も資産も煉獄家と釣り合っているのだとか。

「それに……私の身体にあなたのような傷はない。妻としてあの方と並び立つのに恥じることはないのよ。これから杏寿郎さんと新しい人生を歩むにふさわしいと思わない?」

 はい。思ってしまいました。それがわたしの答えだ。

 これまでわたしにできたのは、彼の隣に立って一緒に戦うことだけだった。

 それなら、これからは?
 彼女の言葉に、ふと考える。

 もう、この国に鬼はいない。夕暮れの後に来るのは穏やかな夜と微睡む曙。わたしはもう、お役御免。残ったものは、刀を握ってきたせいで豆だらけの固い手のひら。傷だらけの身体。身寄りもなければ、お金だって生きるのに困らない程度しかない。

 わたしの手元に残った数少ないもののなかでも一等大切なのが、上弦の参との戦いで重症を負った煉獄さんだった。あの戦いをきっかけに前線を退き、今も戦傷に苦しむ彼のためにわたしはなんの役に立てただろう。

 結論からいうと、わからなかった。わたしは何も答えられなかった。

 だから、私は逃げたのだ。煉獄さんの前から別れも告げず。

 行くあてもないなか、長い間放浪し続けた。そして、この春の終わりごろ、たまたまに暴漢に絡まれた女性を助けたことが縁でとある大店の女中として新しい生活を始められたわけだけれども――



「っ、あ……!」

 逃げ込んだ路地裏。硬い壁に掴まれた肩を押しつけられた。戦傷の影響で呼吸も使えず、全盛期ほどの力は出せないはずなのに、彼は眉間にしわを寄せながらもわたしを抑え込んでいた。かつて炎柱を務めた人の力に抗えず、わたしは完全に逃げ場を失った。

(ど……どうして煉獄さんがここに? なんで……っ)

 街中で偶然目が合い、すかさず逃げてきた私を捕まえた彼を見上げる。その瞳には困惑と憤りが混ざりあっていた。

「何故、俺から逃げる」
「わ、わたし……」
「重ねて問おう。何故、俺から逃げた?」

 彼は臓腑が焼ききれそうな声を絞り出す。いつも大きすぎるくらい大きな声で話す人なのに、怒りを飲み下そうとしているような感情を抑えた声音だった。

「俺は、君が姿を消すことを良しとした覚えはない」

 懐かしい姿、聞きたかった声に溢れそうになる涙をなんとか堪える。わたしは、つとめて冷静なふりをして煉獄さんを見つめ返した。

「あなたの許可は必要ないはずです。もう……、わたしの役目は終わっていますから」
「……役目? なんの話かわからない」
「鬼殺隊の隊士として、柱だったあなたに仕えるのはもう終わりだと言ったんです。鬼殺隊のなくなった今、あなたの指示に従う必要はないはずでしょう」

 鬼殺隊も今では解散して、多くの人々が新しい生活を営み始めたと聞く。この人だって、きっとあの美しい人を娶って新しい人生を歩み始めているはずだった。

「なのにどうして、追いかけてくるんですか」
「…………何故、だと?」

 放っておいてほしかった。期待しそうになるから。また、あの頃のようにそばにいられるのではと。

 浅ましい願いを振り切ろうと顔をそらしたわたしを、煉獄さんは許さなかった。顎を掴まれて強引に目を合わせられる。額がぶつかって、視界が彼でいっぱいになった。吐息が、唇にかかる。だけど、甘い雰囲気なんてほどとおい。捕食者を目の前にした、被捕食者のようにわたしは動けなくなった。彼の覇気にすっかり飲まれる。

「君は……、俺が君を一隊士としてしか見ていなかったと思っているのか」

 獣のうなり声のような低い声に、背筋が凍りついた。往年の柱としての風格は、まるで損なわれていない。

「それは……」

 多くの夜を共に過ごしてきた。手に触れあい、背中を合わせて、星を眺めた夜があった。戦場を駆けた夜更けがあった。朝焼けを眺めて、未来を語った夜明けがあった。
 そして――、ある時、わたしは彼に想いを告げられた。この人の力に及ばず、守られてばかりいるのが悲しくて落ち込むわたしを見て煉獄さんは笑って言ったのだ。

「俺は人を守ろうとする君が好きだ。人を励ます、明るい笑顔が好きだ。打ちのめされても、自分の足で歩いてきた君が好きだ。だから、守りたいと思う。ともに進みたいと思う。前を向け。立ち止まるな。心配するな。君はひとりじゃないんだ。俺がいる。ふたりで一緒に歩いていこう」

 ……それでも、一緒に生きることはもう許されない。
 そんなことはこの人にだってわかっているはずなのに、その顔に浮かぶのは苦々しい怒りばかりだ。

「俺は君の不義理に怒っている。何も言わずに行方をくらまされた俺の気持ちがわかるか?」

 不義理!

 それはわたしこそ言いたい言葉だった。わたしは、このひとに婚約者がいるなんて知らなかった。教えてもらえなかった。代々産屋敷家に仕える煉獄家だ。名家なのだから、婚約者のひとりくらいは当然いるだろう。だけど、煉獄さんがあまりにもはつらつとしていて、そんなことは匂わせもしなかったから想像が追いつかなくて。

 だから、逃げたのに。あんまりにも悲しくて泣きたくもなったけど、わたしの笑顔を好きだと言ってくれた彼にみっともないところを見せたくなかったから。

 今だって、逃げたくてたまらない。わたしは目をつむって煉獄さんを視界から追いやった。燃える炎のような瞳に胸が焦がれているのを知られたくなくて、全てもう終わったのだという顔をして。どうか、離して逃がしてくれるよう願いを込めて。

「……っ」

 ギリ、と肩を掴む力が強まった。

「目を逸らすな」

 反論を許さない声音に、思わず煉獄さんを見上げてしまう。

 そして、わたしは肉食獣のような彼の瞳に晒されて、逃げ切ることはもう不可能だと思い知るのだった。


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