凶器/狂気(ディミレト)
2020/03/19
※現パロ

 美貌というのは武器というより凶器のようなものである。美しいというだけで人は圧倒され言葉を失う。言葉が必要ない美は芸術だという。だというのならば美貌というものもまた芸術であった。一人で完結する、自然でできた芸術というのが美貌であった。俺もなかなか顔がいいと言われることはあったけれど、でも彼ほどじゃないと思われる。彼の場合、かっこいいとかかわいらしいとかいうよりただ美しいのだ。それはよくできた西洋人形を見せられているかのようでもあるし、名高い芸術家の掘った石像にも見える。とにもかくにも、彼は美しいのだ。その人間ががつがつと美貌にそぐわない食べ方をしているのだから、皆一様に彼に振り向く。俺だけでもなかなかに目立つのに、彼と一緒にいるといつもの三倍は注目されている気がする。あ、シャッターの音。SNSに上げるのは勘弁してほしい。それで家が特定されて危うく警察沙汰になったのだ。彼はそのストーカーの折った骨を興味なさげに一瞥してさっさと部屋に這入ってしまったけれど。警察に事情を説明するのは骨だった。骨折だけに。
「先生」
 先生は七つ目のバーガーに手を伸ばしているところだった。俺が一つ食べ終わるまでに六つ食べ終わったことになる。よくもそんな早食いでのどに詰まらせないなと思うし、こんなに食べてよく太らないなとも思う。そういう意味でも、彼は神に愛された人間なんじゃないかと思ってしまう。誰もを圧倒する美貌を持ち、その美貌を保つための身体も持っている。先生は俺の声に顔を上げ、視線だけで用を問うてくる。隣の女子がちらちらとこちらに視線を送っている。
「帰ったら、セックスしようか」
 きゃあ、と黄色い悲鳴が上がる。そんな悲鳴なんて聞こえていないような顔で、先生がごくりとバーガーを飲み込む。じ、と見つめる目は宝石みたいに綺麗だ。
 美貌というのは武器というより凶器のようなものである。美しいというだけで人は圧倒され言葉を失う。言葉が必要ない美は芸術だという。だというのならば美貌というものもまた芸術であった。一人で完結する、自然でできた芸術というのが美貌であった。ならばそれを愛でるのに理由なんていらない。なんてことはない、俺もその美貌に惹かれてしまった哀れな一人の男なのだ。いいぞ、とうなずく先生の手に自分の指を重ね、ああこの人を手に入れるくらいなら片目くらい何も惜しくなかった、と、がらんどうが詰まっている右目をそっと撫でた。


そんなことできもしないくせに(ディミ←レト)
2020/03/19
 ディミトリ、ここはまるで地獄だな。そうつぶやく先生に目を見開いて、どうかしたのかと先生に問う。先生は背を向けたまま俺に振り向かない。いつだって俺を導き優しく俺を慈しんでくれた先生が俺の声に振り向かないのは初めてだった。だから俺はもう一度、どうしたんだ先生、と先生に尋ねた。それはなんだか、起こしてはいけない化け物を呼び覚まそうとしている愚者のような声音だった。先生、どうした、何かあったのか。先生は振り向かない。振り向かないまま、窓の外を眺め、自分たちが守り育てた民たちを眺めている。その民は俺たちの誇りだ。俺たちの宝だ。だというのに、先生の背中が言いようもないほど冷たい気がして、俺はひゅっと悲鳴を飲み込んだ。先生が窓を撫で、もう一度ここは地獄だなと呟いた。
「民も、地位も、名誉も、何もいらなかったのに。俺が欲しかったのは、ただ一つだけなのに」
 先生、とかすれた声で読んだとき、そこでようやく先生は振り向いてくれた。その目に悲鳴を上げる。いつだって透き通って、俺たちを慈しみ導いてくれた女神の目はそこにはなく、あるのはどろりと濁ったへどろを敷き詰めた泥だった。その泥をぬろりと俺に移して、先生は無感情に瞬いた。
「俺が欲しかったのは、ひとつだけだったのに」
 こんなことなら、壊してしまえばよかった、だなんて。
 先生はそう言って、ぽつりと一粒だけ涙を流した。その涙をぬぐう権利なんて自分にない気がして、俺はただただ先生を見つめるしかできなかった。俺の結婚式前夜の、冷たい朝のことだった。


めきゃり(ディミレト)
2020/03/16
お前、こんなところで何をやっているんだい。
唐突にそう話しかけられて、俺は二度瞬きをした。隣にはいつの間にか見知らぬ男が座っていて、この人は誰だろうとびっくりした。だってその人、バンドマンくらいしかそんな色にしなさそうな奇抜な髪と目をしていたのである。宝石みたいな白緑色は月の光をぴかぴかと跳ね返している。川の底で見つけた石みたいだわと俺は思った。
「お前、こんなところで何をやっているんだい」
俺が何も答えなかったからか、まっすぐに前を向きながら男はもう一度そう言った。俺はこの人誰なんだろう危ない人だろうかと不安になった。こんな時間にふらふらと出歩いていること自体が怪しいし(それは自分もなのだけれど)見ず知らずの子供の隣に座り込んで話しかけるなんて不審者だ。こういうのに気をつけるのは女子だけだと思っていたけれど最近は違うのかしら。俺がまた無言でいるとやっぱり男は同じことをもう一度呟いた。まるで壊れたレコードみたいで気味が悪かった。
俺は答えない代わりにまじまじと男の姿を見つめた。男は二十代前半くらいに見える、端麗な容姿だった。黒のシャツとスラックスを着て、これまた黒いコートを着ている。肌と髪と目の色ばかりが明るくて、他はとんと真っ黒な男であった。ぽたり、と暑さで己の顎から汗が滴る。それを拭うと、男がもう一度こんなとこほで何をやっているんだいと言った。やはり気味が悪い。立ち上がろと腰を上げたとき、男が俺に振り向いた。横顔しか見えなかった顔は正面から見てもやはり流麗で、まるでよくできた人形を思わせるように無表情だった。俺はその目に射抜かれて、まるで金縛りにあったかのように動けなくなっていた。
「お前、こんなところで何をやっているんだい」
男がもう一度、呟く。暑さからだけではないもので汗がどばっと溢れた。アノ、ソノ、とそこでようやく俺は口を開いた。口の中はカラカラに干上がっていた。男はやっぱりまっすぐに俺を見つめている。
「アノ、」
「お前、こんな時間に何をやっているんだい」
やはり男は同じ言葉しか発しない。まるでそれしか知らぬ童のようである。俺はいよいよ気味が悪くなって震え出してしまった。アノ、ソノ、と漏らしていると、男はつい、と不意に道を指差した。まっすぐに正面を指差して、男は俺に言った。
「何があったかは知らないが、こんなところに来ては行けないよ。早くお帰り」
帰る、と聞いて胃の奥がシクシクと痛む。肩から提げていたバッグにグッと爪を立てる。帰るものか、帰ったら謝らなくてはいけない。俺は何も悪くないのに。
道を指し示したのに動かない俺を、男はジッと見つめた。白緑色の瑪瑙みたいな目に、唇を噛む子供が映る。人形のように温度がないくせに、いいやだからだろうか、俺はつらつらと言葉を述べていた。父が新しい母親を連れてきたこと。その母親とうまくやっていける自信がないこと。実母を忘れられず飛び出してきてしまったこと。得体の知れない男に何を話しているのだろうと思いつつ俺の口は止まらなかった。男は黙って俺の言葉を聞いた。そうして、俺の言葉が終わるとともに、フンワリと俺を抱きしめた。
「大丈夫、お前はちゃんとその人とカゾクになれるよ。何も心配することはない、お前はその女のヒトとカゾクになれるよ」
何を無責任なことを、とは何故か思わなかった。ザワリ、と風に吹かれるでもなく木がさざめいた。男は俺の背を優しく撫で、そうして離すと、指し示していた道にソッと俺を送り出した。
「大丈夫、お前はいつだっていい子だったから、ちゃんとカゾクになれるよ」
だからもう二度と、こんなところに来てはだめだからね、ディミトリ。
ハッと俺の背を押す手に振り返る。そこに来てようやく、俺を抱きしめてくれた腕にも俺の背を押してくれた手にも温度というものがまるでなかったことに気が付いた。しかし、振り返ったところには何もなかった。俺が先ほどまで座っていたベンチがあるだけで、白緑色の髪を持った男なんてどこにもいない。男の名を呼ぼうとして、そんなもの知らないことを悟る。でも何故か呼ばなくてはいけない気がして、ヒュウヒュウと空気の泡だけを吐き出していた俺の手を誰かが掴んだ。あの男かと思って振り向くと、そこには目に涙をイッパイに溜めて安堵の表情をする、俺の新しい母親がいた。俺の新しい母親は俺の名を呼んで泣きながらヨカッタヨカッタと俺を抱きしめた。向こうから父が走ってくるのが見える。大丈夫だよ、と男の声が耳を撫でた。俺は躊躇いながら、新しい母親の背に手を回した。
あの後図書館に行って調べたところ、俺が家出に使ったベンチがあるのはとある遺跡の近くだった。なんでもその遺跡では太古に女神信仰が行われており、しかしその信仰が潰えるとともに人間の邪魔になった女神様は生きながらハラワタを引き抜かれ封印されてしまったという。といっても昔のことであるし、封印されたとされる棺には何もなかったから飽くまで伝承として残っているだけらしい。女神様はこの国を救った王と親しい間柄で、だからこそずっと人間の味方でいたと。なのにハラワタを引き摺り出されたなんてカワイソウだと思った。
もう一度そのベンチに腰掛ける。あの夜とは違って太陽が昇っているから、キラキラと自分の金髪が日の光を弾いて眩しかった。あの人とはもう二度と会えないのかしらと思った。会ったらちゃんとお礼を言いたい。ちゃんと家族になれたよと報告したい。ベンチに座って、溜息を吐いた時だ。
「もう二度と、ここに来ては行けないと言っただろう」
背後から声がして、俺は嬉しくなって振り返った。もう会えないかと思ったけれどやっぱり会えた! あの時はありがとう、俺はちゃんと、あの人と家族になれたよ! そう報告しようと、口を開こうとした俺は、目の前に広がる光景に悲鳴を上げた。
そこには確かに、あの男がいた。けれどあの夜と違って、その男の顔は見えなかった。正確に言えば見えなかったのではなく、見るための顔がなかった。まるで岩か何かで叩き潰されたかのように、その顔面はグチャグチャになっていた。腹は裂け、内臓が飛び出してビチャビチャと地面にずっていた。
悲鳴を上げる俺に、男が手を伸ばす。逃げ出したかったのに、俺は根が生えたように動けなくなっていた。
「もう一度会ったら、今度こそ手放してやれなくなれからそう言ったのに」
ばかだな、ディミトリ。でもそんなお前だからこそ、俺はズットお前を求めていたのだよ。
男は原型を留めていない顔でニチャリと笑う。
真っ黒な手が自分に伸びるのを見つめながら、そういえばディミトリとは救国王の名前ではなかったかしら、とふと気づく。そうして、俺はその救国王とよく似ているとからかわれたことも。そんなこと気がついたところで、何もかも遅いのだけれど。恐怖に目を固く閉じた瞬間、フンワリと何かに抱きしめられる。無意識にその背に手を回そうとした時、耳元で男が嬉しそうに囁いた。
「これでずっと一緒だ、ディミトリ」
思わず目を開けた瞬間、男の顔が元の綺麗なものに戻って、確かにニコリと笑う。何かを叫ぶ前に、俺の背骨がメキャリと折れて、そうして何も聞こえなくなった。


紫煙(現パロディミレト)
2020/03/15
 先生の最後の顔は、煙草の煙で隠れてよく見えなかった。


 ぱちり、と目を覚まして、隣に先生がいないことを確認して、ああもう本当にあの人はいなくなったのだなとぼんやり思う。身体を起こし、洗面所に行って一本だけになった歯ブラシに手を取り歯を磨く。鏡に映った自分の顔は、先生がいなくなる前となんの変わりもない顔をしていた。それが、なんだか不思議だった。俺はてっきり、先生がいなくなったら自分は死んでしまうものだと思っていた。なのに現実はこうだ。口をゆすいで、リビングに行く。もう先生に、頼むから換気扇の下で煙草を吸ってくれと言うことももうない。要のなくなった灰皿をなぞって、テレビをつける。地球の反対側で残虐な事件が起こったことを神妙な顔で告げるニュースキャスターを見詰めながら、先生はどこに行ったのだろうと思った。もう先生の私物はこの部屋にはない。服も、歯ブラシも、コップも、何もかも。残されたのはこの灰皿だけだ。ぽちぽちとチャンネルを変えて、めぼしいものがなかったからテレビを切る。かといって外に出る気にもならなくて、ソファにごろりと寝転がった。みんみんと外から蝉の鳴き声が聞こえて、遅まきながらそういえば今は夏だったと思った。先生は、今頃どこにいるのだろうか。この炎天下で、ふらふらと歩いているのだろうか。ざまあみろ、と思えない自分が嫌だった。
 先生が浮気をするのは別に珍しいことじゃない。あの人は人の理でいう善悪をよく理解していなかったから、誘われるがままに寝ることなどいつものことだった。先生はどこか浮世離れしていて、結局俺だって先生のことは名前以外何も知らない。俺にとって先生は唯一だったとしても、先生にとっての唯一になれなかったのだ、俺は。だいたい、浮気というのも少々おかしい。きっと先生からしたら、俺はあの人に群がる虫の一匹だったのだ。そうだ、きっと先生だって、今頃俺のことなんて忘れて別の男か女のところに行っているはずだ。先生に、すまない、家がなくなってしまった、なんて言われたら、誰だって嬉々として迎え入れるだろうから。
 俺と先生って、いったいなんだったのだろう。がらんとした部屋の中で考える。先生が他の人間と寝て帰ってくることはいつものことだ。分かっている、俺だって自分の身をわきまえている、だから、いつもだったら苦く笑って、おかえり、お腹が減ったろう、と言って、迎え入れられたはずなのに。その日はどうしてか我慢ができなくて。怒鳴って、怒鳴って、でも、先生は何も言わなかった。無言で煙草を吸いながら、俺の言葉を受け止めていた。俺はそれがどうしようもないほどに不甲斐なくって、最後には背を向けて自分の寝室に引きこもってしまった。先生は追ってきてくれなかった。だから終わってしまった。俺と先生の関係は終わってしまった。
 食べる気にはならなかったけれど、喉が渇いて冷蔵庫を開けた。そこには先生のために用意した食材が山ほどある。先生は、細身な割によく食べたから。目の前に広がる食材の山にどうしようもなくいらだって、中身を全部床にぶちまけた。ぶちまけながらいろいろなことを考えた。先生と初めて会った日のこと。先生と初めて肌を合わせた日のこと。先生と初めて喧嘩した日のこと。先生のこと。先生のこと。先生のこと。卵を全部床にたたきつけてから、へなへなとその場に座り込んだ。
 俺は、何をしているんだろう。
 俺ばっかり先生のことが好きだ、と俺は先生に泣いた。先生は何も言わなかった。きっと面倒な男だと思われた。俺ばっかり先生が好き。当然だった。だって先生は俺のことなんて好きでもなんでもない。先生にとって、俺は使い勝手のいい男だったに過ぎない。先生を好きな人間は山ほどいて、でもその中の誰一人先生の愛を受け取れない。俺もそうだっただけだ。ぐちゃぐちゃになった食材をぼんやりと見下ろす。先生はひどい男だ。人の心を勝手に万引きして、それでもう二度とその心を返してくれない。返して、返してくれ、俺の心を。俺の恋心を。そうしたらきっと、貴方のことを恨めるんだ。貴方を好きだったことをばかにできるんだ。ぽた、と涙が溢れて、それは止めどなく俺の頬を濡らした。
 せんせえ、とまるで幼い子供みたいな声が出た。返事はなかった。


かみさま(ディミレト)
2020/03/15
 俺は大司教である。名前はあったけれど忘れてしまった。なんでも、俺の名前は悪魔と一緒の名前だということで、縁起が悪いと取り上げられてしまった。だから今の俺は名無しで、でも名前がなかったところでなんの不自由もない。皆が皆、俺を女神様やら大司教猊下やらと呼ぶので、もうすっかり俺も自分自身の名前を忘れてしまったのだ。ただ、昔、俺の名前を優しく呼んでくれた人がいたような気がする。その人は今、いったいどうしているのかしら。そう思いながらぼんやりと修道院の外を見やる。修道院の周りは炎で囲われており、武器を持った人間がここに押し寄せようとしている。お逃げくださいと縋り付く皆を追い出して、この大修道院には俺一人だ。どうやらもう人間というものは大司教も女神も必要がなくなったらしい。必要がなくなったから殺すだなんて、と今でも俺を信仰してくれている人間は嘆いた。でもそれが人間というものだろう。人の世というのはいつだって移ろっていく。その中で淘汰される存在が今回たまたま俺だった、ただそれだけのこと。静かに紅茶に口をつけて、この長い時のことを思った。いったい俺はいつからこうして皆の女神として過ごしていたんだっけ。昔は違った気がする。でもその昔って、本当にあったことなのかしら。もう俺は自分の名前も自分の生も思い出せなかった。母はどんな人だったのだろう。父はどんな人だったのだろう。いいや、そもそも俺はきちんと人から生まれた存在なのかしら。もしかしたら、俺は家族と呼べる人はいなかったのかしら。でも、だとしたら、いったい誰が悪魔の名を授けてくだすったのかしら。けたたましい音がして、大修道院の門が壊される。暴徒がここに来るのも時間の問題だろう。俺はいったいどんな殺され方をするのかしら。そもそも殺されて、俺は死ねるのかしら。そ、と茶器を机の上に置いた時だ。先生、と誰かが俺を呼んだ。先生、という呼び名が俺のものだということを何故だか俺は知っていて、その声の方にゆっくりと振り返った。そこには、金髪を少しだけ伸ばした隻眼の男が立っていた。誰、と尋ねると、その男は少しだけ目を見開いた後、ゆるゆると頬を緩めた。すまない、信者だろうか、だとしたら逃げた方がいい、きっとここにいてはお前も殺されてしまう。そう言っても、彼はどこにも行かなかった。それどころか俺に近づいて、俺の頬をゆるりと撫でた。この男は誰だろう。知らないはずなのに、ひどく懐かしい気持ちにさせる。掌にすり寄ると、彼は微笑んで、先生、頑張ったな、と言った。頑張った、なんのことだろう。俺は何も頑張っていない、女神としての務めを果たしただけだと返すと男はゆるく首を振った。いいや違う、先生は女神なんかじゃない、きちんとした人間だろう。俺は目を見開いた。この長い時の中で俺を女神ではないといった人間を見るのは初めてだった。いいや違う、初めてじゃない。そうだ、昔、俺を人間だと呼んでくれた人が、確かに。男は俺を抱き締め、耳元で囁いた。一人にしてしまってすまない、何もかもを忘れるほどの悠久に置き去りにしてしまってすまない、これからは、もうずっと一緒だ。人に抱き締められるのなんていつぶりだろう。俺はいつだって皆を導き、抱き締める存在だったから。こうして誰かに抱き竦められ、撫でられるのはいつぶりだろう。ああ、俺は、もう、終わっていいのか、俺は、もう、皆を導かなくていいのか。ああ、もう十分だ、もう大丈夫だ、もう、あちらにいこう、先生、大丈夫、二人ならば、なんだってできるさ。こつん、とその男の額が俺の額に当てられる。その瞬間、濁流のように記憶が蘇った。ああ、ああ、ああ。目の前の体躯に縋り付く。今まで思い出せなくてすまない、お前はずっと、そこにいてくれたのにな。いいんだ、いいんだ先生、俺を思い出してくれてありがとう、皆を導いてくれてありがとう。
「おかえり、先生」
 ごう、と俺たち二人を炎が包み込む。これはなんの炎だろう。煉獄か、それとも別の何かか。なんだって構わない。何も怖くない。俺はそっと目を閉じ、目の前の男を抱き締めた。ただいま、ディミトリ、もうこれからは、ずっと一緒だ。ごう、と耳元で炎が弾ける音がして、そのうち何も聞こえなくなった。

  

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