こいころし(ディミレト)
2020/03/23
 お前は人を殺すことがいっとううまいね。初めて俺に声をかけた人間はそう言った。直前の戦闘で腕が千切れた男だった。俺は最初、自分が話しかけられていることに気がつかなかった。無表情で敵を斬る俺は遠巻きに眺められており、こうして話しかける人間は滅多にいなかった。俺はジェラルトの言いつけ通りその男の包帯を交換しながら、男の声に耳を傾けた。お前は、人を殺すことはいっとう上手だけれど、それ以外に対してはてんでだめだね。言葉の割に、どこまでも優しい声だった。残った左手で俺の頭を撫でながら、男は目を細めた。頭を撫でられるのなんてジェラルト以外では初めてだった。顔を上げる俺に、男は、そんなお前がどんな風に生きていくのか、少しだけ気になるなと笑った。その数日後、男は自分の喉を掻っ切って死んだ。千切れた腕から感染症が進んでどうしようもない状態だったらしい。どんな風に生きていくのか、気になるよ。男の言葉がうろりと鼓膜を撫でた気がした。
 その後もやっぱり俺は人を殺したし、ひょんなことから教師になってからもやっぱり人を殺した。人を殺して殺して殺して殺して、やっぱり殺した。俺はあの男が言うように人を殺す以外ではてんでだめな人間だった。そんな俺を好きだと言う人間が現れた。担任をする青獅子の学級の級長であるディミトリだった。俺は無感情に、俺は人を殺すことしかできないよと言った。そんなことはないとディミトリは首を振った。先生は、自分のことを知らないだけだ、先生は、素敵な人だよ。そう言ってディミトリは俺の手を取った。ディミトリとはいろんなことをした。キスもしたしセックスもした。でもやっぱり、俺はどちらもうまくできなくて人を殺すことしかうまくできないのだなと思った。その認識が甘かったのは、五年も眠りこけて起きた光景を見たことだった。違う、俺は殺すことだってちゃんとできなかった。ディミトリを思うなら彼の告白なんて受けるべきじゃなかった。その恋心を殺してあげるべきだった。そのせいで彼は歪んでしまった。いや本当にそうだろうか。俺は彼にそんな影響を与えるような人間だったのだろうか。ゆさゆさと揺さぶられながら、ぽっかりと空いた天上から見えるまあるい月をぼんやりと眺めた。ディミトリは俺の首筋に噛みつきながら腰を突き動かしている。大して慣らさなかったから俺も痛かったけれど、ディミトリも痛いのだろうなあと思った。
 ごめん、と呟くとさらに強く首を噛まれた。噛み千切られてしまうかもしれない。でも、それでいいのかもしれない。なあ、ディミトリは、俺のこと、ちゃんと殺してくれる? そう聞きたかったけど、それを聞いたらなんだかディミトリを怒らせる気がして、俺はそっと目を伏せた。俺はどうしたら、君の恋心を殺してあげられる? そんな方法あるはずがないと、誰かが俺を嘲笑った。


懺悔(ディミレト)
2020/03/23
※転生現パロ

 いったいどのくらいの期間ここに閉じ込められているのか分からない。何の変哲もない男子高校生だった俺を誘拐したのは、驚くほど美しい顔をした男だった。金髪碧眼のまるで王子様みたいな男は、突然俺に抱きつきよく分からないことをまくし立て、人違いでは、と俺が言った瞬間、まるでこの世の終わりのような顔をした。忘れてしまったのか先生、とその男は言ったけれど、俺は先生と呼ばれたこともこの男と会ったことがあるようなこともない気がした。やっぱり人違いじゃないか、と言おうとしたのに、鋭い衝撃が首筋を襲って俺はその場に倒れた。身体が動かせなかった。唯一動かせる視線だけで必死に彼を見上げると、彼はうっとりと熱に浮かされたように笑いながら、大丈夫、俺が先生の分まで覚えているから、と言った。先生とは、いったい誰なのだろう。気がついた時には豪奢なホテルの一室のような部屋に閉じ込められて、足首には枷がついていた。別に、家に帰らなくても困る人はいないからいいのだけれど。
 男はディミトリと名乗り、ずいぶん前に俺に世話になったと言った。でも俺は全く覚えていない。それに、恩人にこんなことをする男を、俺は解しかねた。俺は部屋にあるテレビとか本で時間を潰した。高校は留年になるのだろうかとぼんやり思った。もしもここから出られなければ、俺はきっと退学処分だろう。それ以前に、行方不明扱いになるのだろうか。家族(あの人たちを家族、と呼ぶのには少し抵抗がある)が警察に行くことはないだろうから、高校側が何かしら処理をするのだろうか。でも、高校の教師たちだって俺が彼らに何をされていたかはなんとなく察していただろうから、自殺か家出だと思われたのだろうか。別に、どちらでも構わないけれど。この部屋には概ね満足していた。だって、殴られることも蹴られることもない。ディミトリは毎日仕事に出ているようだけれど絶対にこの部屋に帰ってくるし、同じ食事を取って同じベッドに眠る。風呂まで一緒だ。初めて一緒に風呂に這入った時、服の下にところ狭しと敷き詰められた痣を見てディミトリは絶句した。俺はなんだか居心地が悪くなって、転んだんだといつものように言った。ディミトリはとても怖い顔をしたけれど、次の瞬間に爽やかな笑みを浮かべて、ならば先生を転ばせるような石は全て壊してしまおうと言った。その言葉の意味は、今でもよく分からない。
 今日もいつものように一緒に食事をして、一緒に風呂に這入って一緒のベッドに潜り込んだ。いつもと違ったのは、俺を抱き締めるディミトリの陰部が熱く猛っていたことだ。ディミトリはうつらうつらしていて気がついていないようだった。疲れからこうなるとは聞いたことがある。だから俺は、家でしていたようにそっとディミトリの性器に指を這わせた。俺の指が触れたことで、ディミトリはようやく自分の状況を自覚したらしい。飛び跳ねるように身体を起こし、違うだの、いや違わなくはないんだがお前に無体を働くようなことは二度としないとまくし立てた。二度と、ということは以前はやっていたのだろうか。やっぱり分からない。俺が、別に慣れているから大丈夫と言うと、やっぱりディミトリは怖い顔をして、もっとひどい殺し方をしておけばよかったと呟いた。ディミトリは俺に痛いことをしない。あたたかいベッドとご飯を用意してくれる。だから何かしらの恩返しがしたかった。恩返しでできることなんてこれくらいしか思いつかない。するすると服を脱ぎ始めると、とても強い力で腕を掴まれた。
「あいつらには、どこまでされたんだ」
「どこまで?」
 きょとん、とした顔をすると、ディミトリは泣きそうな顔をして俺を抱き締めた。そうして静かに、口と口をくっつけた。これは初めてだ。あの人たちはそんなことしなかったから。ドラマや映画では見たことがあるけれど、なんで口と口をくっつけるのか分からなかった。でも今ならば分かる気がする。口と口をくっつけると、なんだか胸がほわほわする。それに身を委ねている間に、服を脱がされた。そうして時間をかけて身体を溶かされて、最後はもう俺の方が頼むからいれてくれと泣くほどだった。だってあの人たちはこんなことしなかった。いつも無理矢理いれて痛かった。でもディミトリのこれは何も痛くないし、なんだか身体が自分のものじゃなくなった気分になる。泣きながら、こんなこと知らない、と言うと、ディミトリは優しく微笑んで、何も怖いことなんてないと言った。外は怖いところだったろう、とディミトリが囁く。怖い。怖いとはなんだろう。この身体がばらばらになりそうな感覚のことだろうか。俺がこわいと無意識に呟くと、ディミトリは嬉しそうに微笑んでそうだろう怖かったろうこれからはもう大丈夫だ俺が守るからと俺に優しくキスをした。ディミトリに挿入され、揺さぶられている間に俺は気を失った。
 次に目を覚ました時もやっぱりいつもの豪奢な部屋だった。けれど何かがおかしい。その違和感に目をしばたかせながら身体を起き上がらせようとして、あるべきものがないことに気がつく。手と足がどこにもないのだ。確かに気を失う前まではあったはずなのに。驚きながら身体を見下ろしていると、起きたか先生、とディミトリが朗らかに部屋に這入ってきた。
「ディミトリ、俺の手と足がない」
 俺が途方に暮れたように言うと、ディミトリはきょとんとした顔をした。
「ああ、だってもう、先生には必要ないものだろう」
 ディミトリは俺が寝ているベッドに腰掛けると、俺の髪を梳いてうっとりと微笑んだ。
「先生はもう、この部屋から出ることも、怖いことにあうこともないんだ」
 嬉しいだろう? とディミトリが笑う。嬉しい。嬉しいとはなんだろう。でもディミトリが幸せそうだから、きっとこれは嬉しいのだろう。こくんと頷くと、ディミトリは本当に幸せそうに笑って、俺のいびつになってしまった身体を抱き締めた。
「もう二度と、手放してたまるものか。もうあんな気持ちは、二度と……」
 ディミトリが震える声で何かを言う。やっぱりディミトリの言っていることはよく分からない。でも、今、初めて、ディミトリの背を撫でる腕を失ったことを後悔した。ああ、これじゃあお前に手を差し伸べられないじゃないか、と、脳の裏側で誰かが囁いた気がした。


きれい
2020/03/22
 先生は綺麗だ。と、ディミトリは熱に浮かされたように言う時もあるし、まるで明日の天気でも告げるような風に言う時もあるし、辞書を読むような調子で言う時もある。つまるところ、彼の中で俺が綺麗であることは決定事項であるらしい。俺はそれを言われる度に、そうだろうか、と思って鏡を覗いてみるけれど、やっぱりいつもの自分の仏頂面があるだけでよく分からない。だから俺はいつもありがとうと言って、でもお前の顔だって十分綺麗だよと言って締める。そう言うと、ディミトリはやっぱり綺麗に笑って俺なんかよりも先生の方が綺麗だよと言うのだ。
 ディミトリのことはよく分からない。先の戦争で俺が頭に大怪我を負って記憶を失っても大切に扱ってくれるいい子だということしか分からない。あと、目が綺麗。俺はその目を見るのがいっとう好きだった。ディミトリも俺の目が好きだと言ってくれるからこれが両思いということだろうか。そう言うとディミトリはいつも幸せそうな顔をする。だから俺はディミトリの笑った顔が見たいから好きだよと言ってあげる。
 この屋敷には俺以外数人の従者がいるだけで他には誰もいない。ここを訪れるのもディミトリだけで、だからディミトリは俺の世界だとも言えた。大きな庭園があって、俺はその庭園を見ることが大好きだった。だって、色とりどりの花がところ狭しと咲き乱れているのだ。俺はその庭園でディミトリと茶会をすることを何よりも愛した。でも、その庭園には赤い花だけは咲いていない。庭園どころではない、この屋敷のどこを取ったって赤いものはない。何故だと訊いたことがあるけれど、ディミトリがとても怖い顔をしたのでそれ以来訊けていない。きっと、訊いてはいけないことだろうから。
 今日も今日とてディミトリは俺のことを綺麗だと言って、それで熱く手を握って俺を抱き締める。俺はそれにお前も綺麗だよと言って背に手を回してあげる。でも、ディミトリはどうして俺を大切にしてくれるのかしら。顔が綺麗だからかしら。だとしたら、俺が綺麗じゃなくなったらディミトリは俺から離れていってしまうのだろうか。それはひどく悲しい。俺は鏡を睨み付けながら、どうかこの顔だけは綺麗なままでありますようにと祈っていた。
 なのに、神様というのは残酷だ。ある日、屋敷に賊が這入ったのだ。いや、実際に賊だったのかは分からない。その賊は俺の名前を叫んで、俺の恨みつらみを吐き出して俺の顔に炎を注いだ。熱かったけれど、それ以上にこの顔が失われたらきっとディミトリに嫌われてしまうと思って、必死に手で顔を覆った。結果、俺の身体は火だるまになって、何日も何日も眠れない日が続いた。俺は鏡を見ることが怖くなった。きっと俺の顔は、身体はやけどだらけで、ディミトリが言ってくれた綺麗という言葉が似合う男ではなくなってしまったことだろう。俺は熱に浮かされながら、従者にディミトリ様が向かっていますという言葉を聞いて青ざめた。きっとディミトリは俺のこのやけどだらけになった醜い身体を見て俺を睥睨するはずだ。美しさしか価値がないのにとこの屋敷を追い出されるはずだ。俺はこの屋敷以外の世界を、ディミトリ以外の世界を知らない。この屋敷を追い出されることは死と同義だ。俺は慌てて包帯を剥ぎ取って鏡を覗き込んだ。やっぱり身体はやけどだらけで、こんな姿をディミトリに見せるくらいなら死んでしまおうと思った。俺は運ばれてきた食事が載っていた皿を割って刃物を作った。この刃物で喉を突いて死んでしまおう。捨てられる前に死んでしまえばいいのだ。そうしたら俺はディミトリに捨てられたという事実に向き合わずに住む。ず、と破片を喉に押し込もうとした時だ。扉がものすごい勢いで開かれて、俺は思わずベッドの上で跳びはねた。そこには息を切らして立ちすくむディミトリがいた。俺が悲鳴を上げて顔を覆うより早く、ディミトリがベッドに駆け寄って俺を抱き締めた。
「やめてくれ先生。死のうだなんてしないでくれ。お前はあの女に騙されただけなんだ。だってお前は以前は俺を選んでくれたのだから。俺を選んでくれたはずなのに、お前はあの女にまで同情してあの女の手を取ってしまっただけなんだ。何も悔やむことなんてない。お前はこの世界でもこうして俺を選んでくれただろう。先生、先生、死なないでくれ、死なないでくれ」
 俺をおいていかないで。そう言ってディミトリは俺を抱き締めた。ディミトリの言っていることは半分も分からない。でも俺は、震える声で、でも、もう綺麗じゃない、と言った。ディミトリが不思議そうな顔をして俺の頬を撫でる。
「何を言っているんだ。先生はこんなにも綺麗じゃないか」
 俺を選んでくれた先生は、こんなにも綺麗じゃないか。そう言ってディミトリはうっとりと笑った。そうか、俺はこんな姿になってもディミトリに捨てられずに済んだのか。そう思うと何故だか安心して、ふっと眠気が襲ってきた。ここ数日間痛みで眠れなかったのに。うつらうつらとし始める俺をディミトリが優しくベッドに横たえ、俺の橄欖石色の髪を梳いた。
「ああ、ゆっくりおやすみ先生。何度でも、どの世界でも、俺を選んでくれ、先生」
 ディミトリの言っていることはやっぱりよく分からない。それでもディミトリの声を聞いていたら何故か安心して、すう、と俺は眠りについた。眠っている間不思議な夢を見た。見知らぬ少女の夢だ。銀髪の、不思議な色の目をした女の子。あれは誰だろう。起きたら聞いてみよう。ぱちりと目が覚めると、隣にはディミトリがいた。身体を起こして、不思議に思う。あんなにも身体を苛んでいたやけどの痛みがないのだ。不思議に思って身体を見下ろすと、やけどが綺麗に治っていた。どういうことだろう。幾人もの白魔法に優れた者が手当てしても治らなかったのに。鏡を覗き込むと、顔の傷も治っていた。先生、とディミトリが背後で俺を呼ぶ。俺は振り返って、もしかしたらあの夢に出てきた女の子は女神様だったのかもしれないと思った。だからきっと、俺の綺麗な顔を治してくれたんだ。
 俺は振り返って、ディミトリにおはようと笑った。きらり、と視界の端で赤いマントを悲しそうにはためかす女の子を見た気がする。気のせいだろう。だって俺の目の前には、ディミトリがいるのだから。
 俺はディミトリに抱きつき、その真っ青で綺麗な両の目に映りこむ自分に薄く微笑んだ。


レト先生と子ディミ
2020/03/22
※転生現パロ

「大丈夫?」
 一瞬、それが人の声だと認識できなかった。この森の中でさざめく風の一部だと思ったものが人の声だと認識できたのは、その音がもう一度同じ言葉を反芻したからだった。驚いて顔を上げると、そこには不思議な色の髪と目をした男の人が立っていた。どうしよう、知らない人に話しかけられたら逃げなさいと言われているのに、今の状態じゃ逃げることもできない。俺は咄嗟に、挫いて腫れた足を隠すように手で覆った。そこでその人は、どうやら俺が足を挫いて動けなくなっていることを察したらしかった。目を細めて、見せて御覧、とその人が言う。俺はどうしたらいいのか分からなくなって俯いてしまった。男の人はそこで、ああ、女の子だから足を見せるのは嫌なのかしらと言った。そこで俺はようやく、声を出した。
「女じゃないです。男です」
 ああしまった、喋ってしまった。俺は周りの大人に怒られる未来を想像して眉を下げた。でも男の人は特に何を思うわけでもなく、そうか、すまなかった、と言ってしゃがみ込んだ。なんだか男だと言ったことで足を見せない理由がなくなってしまった気がして、俺は渋々足を見せた。男の人は顎に手を当て、俺の顔をじっと見た。こちらが居心地が悪くなって身じろぐと、彼はすまない、と言って、俺の足に手を当てた。見た目の割にあたたかな手だった。
「なんだか、見たことがある顔のような気がして。この辺りの子か?」
「いや、遊びに来てて」
 そうか、じゃあ気のせいかもな。そう言って男の人は俺の足首から手を離した。目を見開く。腫れ上がっていた足首が治っていたのだ。驚いて彼を見上げると、「ああ、今の世ではなくなった技術だったか」と独りごちた。
「もう歩けるようになったろう。この森は毒を持った虫もいるから這入らない方がいい。大人に言われなかったか」
「言われたけど」
 探究心に負けて這入ってしまったとは言いにくくてもごもごと口を動かしていると、彼はすっくりと立ち上がってすたすたと去って行こうとする。俺は慌てて立ち上がって彼の背を追った。
「知らない人についていっちゃいけないと言われたことはないのか?」
「もう知らない人じゃない」
 俺はなんだか何故だかこの人にひどく興味を持って、そう言ってその人についていった。彼は振り向かないまま、不思議な子だなあと俺に言った。そんなこと貴方に言われたくないと俺は子供ながらに思った。彼の髪は橄欖石色で、日の光を浴びて宝石のようにきらきらと輝いていた。
「名前は?」
「もう忘れてしまった」
 変なとぼけ方をする人だ。名前を忘れるなんてあり得ない。俺がそういう顔をしたのが分かったのだろう、そこでようやく彼は振り向いて、本当に忘れてしまったんだよと無表情の中で少しだけ眉を下げた。
「どうして?」
「誰も俺を呼ばなくなってしまったから」
「どうして?」
「質問が多いな」
 言葉の割に突き放すような物言いではなかった。ただ単に思ったことを言っただけだろう。彼が茂みをかき分けると、そこには小さな家があった。家というより小屋と言った方がいいかもしれない。ここに住んでいるのと訊くとそうだよと返された。ますます変な人だ。彼はまだついてきている俺を一瞥して、家に帰らないのかいと俺に言った。俺は帰ってもつまらない、と唇を尖らせた。かと言ってここにいても何も楽しくないよと彼は言うけれど、彼と一緒にいたら詰まらないことなんて何もない気がした。彼の家の傍には畑があって、そこで何やらいろいろと育てているようだった。つやつやとトマトが赤く輝いている。
「先生」
 エッと俺が言うと、彼はまっすぐにトマトを見詰めながらもう一度先生、と口にした。
「先生と呼ばれていたことだけは覚えている」
「先生だったの?」
「そうだったのかもしれない」
 まるで雲を掴むような物言いだった。ふわふわとして、実態がない。先生はもう一度俺を見下ろして、家に帰らないのかいと俺に言った。帰らない、と言うと、彼は少しだけ考えてから、お茶を淹れてあげようと言った。それが、俺が先生と出会った十歳の夏のことだった。


凶器/狂気と同じ軸の話(ディミレト)
2020/03/20
※現パロ

 ガンガンガンと扉を叩く音で目を覚ました。隣にいるはずの体温を探して腕を彷徨わせるも空をつかむばかりで、そこで俺はようやく目を開け身体を起こした。先生はシャツだけをまとった姿でベッドに腰掛け静かに煙草を吸っている。また銘柄が変わっている。この前までマルメンを吸っていたのに、今日はラッキーストライクだ。なんでも、こだわりはなく吸えるならなんでもいいらしい。先生ほどの美貌になれば煙草もその美を彩る七色の煙になるのだから、本当に美人とは得だ。先生をじっと見つめている間もガンガンと扉は叩かれ続けている。このオートロックかつ一階に這入るにもロックがかかっているこのマンションにどうやって這入ってこれたのかはわからないが、ここがばれたということはやはり先日のシャッター音だったのだろうか。はあ、とひとつ溜息を吐く。己の美貌に振り回されるのはなれているが、先生の美貌に振り回されるようになったのはここ五年なのでまだ慣れないことも多々ある。このストーカー被害の多さもそのひとつだった。警察官とはもう顔見知りになってしまっていて、毎回毎回呼ぶのを躊躇うほどなのだ。先生はやっぱり興味なさげに煙草を吸って、橄欖石色に光る髪を持て余している。扉を叩く音はやまない。一応、警察を呼ぶ前に顔だけ確認しておくか、と席を立つ。先生はそんな俺を一瞥だけして、やっぱり無感情に煙草の煙を視線で追った。
 寝室から出てインターフォンがあるリビングへと向かう。とたとたと足音がして、振り向くと先生がまるで親鳥についていく雛のように俺の後を追ってきていた。口には煙草が咥えてある。珍しいなと思ってインターフォンを覗いた瞬間、何故先生がこうして俺と同じようにストーカー行為に励む人間を見に来たのか理解した。
 インターフォンの向こうには、髪の長い女がいた。俺や先生までとは言わずともそれなりに整った容姿の持ち主であったであろうことはなんとなく察することができる。しかしその美貌は見るも無残に地に伏している。正確に言えば、血に伏している。なんてったって、その女の顔面は真っ赤に染まっていたのだから。その源である左目は空洞が空いており、ちぎれた神経がぴょんぴょんと跳ねていた。
「ねえベレトくん出てきてよいるんでしょ知ってるのよ顔の綺麗な男の子と一緒に住んでるって知ってるのねえなんで連絡してくれないの引っ越したのならば言ってよじゃないと私貴方に会いに行けないわあのね私貴方に避けられてからいっぱい考えたの何が悪かったのかしら私の何が悪かったのかしらだって私今まで顔だけはいいって言われてきたのよ確かに貴方ほどじゃないけど私もそれなりに綺麗なはずよ貴方にふさわしいはずよなのに貴方は私の前から消えてなんでだろうなんでだろうって私考えたの考えて考えて気が狂いそうになるくらい考えたのそうしたらね貴方とその男の子の画像を見つけたの貴方はやっぱり綺麗なまんまで隣の男の子もやっぱり綺麗ででも綺麗なだけで貴方の隣にいられるなら私だってその資格があるはずだわなのになんでその子はよくて私はだめなんだろうって考えたのそうしたらね私気づいたのよあの子は片目がなかっただからきっと貴方の隣にいられるのねだから私もとったの抉ったの毟ったのこのいらない目をこれでねえ私貴方の隣に立てるでしょ貴方の隣にいられるでしょ貴方と一緒にいられるでしょねえベレトくん開けてよ開けてよ嘘じゃないのよちゃんと持ってきたんだからねえここを開けて見てよ私の努力を私の愛を私の目玉を」
 ぶつり。そこで先生がインターフォンを切った。真っ暗になった画面から先生に視線を移す。やっぱり先生は無感情に煙草を吸っている。
「あれは、いらない」
 紫煙を深く吐き出しながら、先生がぽつりと言う。そうか、とつぶやいて、先生にそっとキスをする。俺は選ばれて、彼女は選ばれなかった。そのことにどうしようもないほどの愉悦を感じて、俺はひとりほくそ笑んだ。

  

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