さいてー(ディミレト←シル)
2020/04/15
 先生の望みってなあに。机にぺたりと頬を預けながら九十度逆になった先生の顔を覗き見る。先生は剣の手入れをしながら、みんなが笑ってることだよ、だなんて聖人君子みたいなことを言う。うそつき。俺達に興味なんてないくせに。俺達に興味がない、と断言できるけれど、じゃあこの人、いったい何に興味があるのかしら。先生、何が好き、って尋ねると、僕はみんなが好き、とやっぱり先生はくふりと含み笑い。ばかみたい。あんた、本当は今、俺の顔だって認識できてないでしょう。俺が誰か、かだって、きっと分かってないでしょう。先生がわかりやすく、人を斬っているときに興奮してくれればいいのに、彼は戦場に立ってるときは詰まらなそうな無表情だ。ご飯を食べているときは、そりゃおいしそうに食べるけれど、やっぱりこの人が一番楽しそうにしてるのは、人を惑わしているときなのだ。知ってる顔もあったし、知らない顔もあったけれど、みんながみんな、先生に惑わされていつか廃人になってしまうのだ。先生に恋をして、この学校を去った人間がいることを、俺は密かに知っている。男もいたし、女もいた。そんな感じで、先生は人を惑わせて、人の心を勝手に万引きして、そうしてくふりと笑うのだ。先生の悪いところは、自分に恋をした人間と、それなりに関係を持って、でも、期待させるだけで全く手を出さないところ。先生に触れるには、先生のお眼鏡に適わなければいけないのだ。だから、みんな必死に、先生の理想に近づこうとする。でも、やっぱり無理で、みんな泣く泣く先生の前から立ち去るのだ。先生はそんな人たちを見て、くふりと笑う。天使みたいな顔で、悪魔みたいに笑う。
 先生は悪魔なんですか。そう尋ねると、先生は、どうだと思う? だなんて笑う。それを見て、この人は正真正銘の悪魔なのだろうなあ、と思うけれど、人っていうのは、そういう人に何故だか惹かれる。俺と遊ぶような子は、その場限りの火遊び的な恋愛を楽しむけれど、先生に惹かれる人っていうのは、骨の髄まで毒の這入った蜂蜜にされるかのような恋をしてしまう。どちらが悪質かなんて、火を見るよりも明らかだ。
 俺だって、別に、全然関係のない(まあ、同じ学校に通ってる時点で、全く関係のない相手、なんていないのだけれど)人間が先生の毒牙にかかったところで、ご愁傷様、としか思わない。けれど、俺が気を揉んで、気を揉んで、心配していることが、ついに現実となってしまったのだ。我らが王子様である少年が、とうとう先生を好きになってしまったのである。青獅子の生徒たちは、そりゃ、みんな、先生が好きだけれど、そういった、肉欲的な意味で先生を好きなのは、今のところ殿下だけだろう。ここで、さらに困るのが、どういうわけか、先生のお眼鏡に殿下が適ってしまったところである。先生は、ああいう、清廉潔白そうな人間が好みらしい。自分が汚いからですか、と尋ねると、先生は、僕のどこが汚いの、と目をぱちくりとさせた。確かに、先生は綺麗だよ。人形じみて美しい顔をしている。でも、それだけだ。この人は、からっぽだ。きっと先生をふるふると振ったら、からからと乾いた音がする。
 殿下がいったいどこまで、先生に惚れ込んでいるのか、俺はよく分からない。だって、最近、というか、殿下が先生に恋をしてから、先生は殿下に構いっぱなしなのだ。今回のお茶会だって、無理矢理取り付けたようなものだ。殿下は不満げな顔を一瞬したけれど、すぐにいつもの好青年の顔を取り繕ってフェリクスとともに訓練場へと歩いて行った。俺としては、その時の先生の顔の方が怖かった。先生は、いいよ、と俺に微笑んだ。まるで綿菓子みたいなふわふわとした笑みだ。なのに、その深緑の目が、雄弁に、邪魔をするな、と俺にナイフを突き立てている。恐ろしいったらありゃしない。
 殿下は先生を、王国に連れて行くつもりなのだろうか。あの人は、王族だから、どうしても世継ぎの問題があるから、先生を伴侶にすることは叶わないだろうけれど、今の殿下を見ていると、先生を王国に連れ去って、どこかに閉じ込めてしまいそうなところがある。でも、そうなったとして、本当に囚われているのはどっちなのか、やっぱり火を見るよりも明らかなのだ。
 殿下をもてあそばないで下さい。顔を上げて、そう言うと、先生はびっくりした目をしながら、もてあそんでなんかないよ、と宣う。どの口が、と眉を顰めたけれど、確かに、先生にわざとらしさといったものはどこにもない。先生はきっと、無意識に、人を惑わすのだ。無意識に人を惑わすなんて、それこそ正真正銘の、悪魔のようではないか!
  先生は殿下のどこが好きなの。そう尋ねると、先生はくふくふと笑いながら、砕けたがらすみたいなところ、と言う。性格が悪い。俺はふざけるな、と怒鳴ろうとした。だというのに、口から転がり出たのは、全く違う言葉だった。
「俺だって、壊れてるよ」
 俺はびっくりして、自分の声が転がった先を呆然と見詰めた。先生も、まさか俺からそんなことを言われると思っていなかったのか、目をぱちぱちと瞬かせている。そりゃ、そうだろう。殺したいだとか、幼馴染みをもてあそぶなとか言っていた奴から、そんなことを言われたんだから。俺がいや、今のは、と弁解するより早く、先生がくふりと笑う。くふ、くふと笑って、そのまま、先生は無垢な少女みたいに笑った。
 俺はその笑みを見て、どうして俺じゃだめなの、と先生に言った。
 シルヴァンは純潔じゃないからやだ、と先生は笑った。先生は処女と童貞が好きなの。そう尋ねると、僕は純潔が好きだよと先生はあっさり白状する。じゃあ、殿下がそれを失ったら、殿下のこと好きじゃなくなるの。先生は俺の言葉に目をぱちぱちとさせたあと、当然だろと言った。
「だって僕、純潔が好きだから」
 そう言って先生は笑う。最低で最高な笑顔だった。


猫(ディミレト)
2020/04/15
※転生現パロ

 猫みたいだな。そう言ってその人は笑った。神様みたいなみてくれのくせして、紫煙なんて、俗物的なものをくゆるせるその人は、そう言って笑った。


 ばちん、と肌と肌が激しくぶつかる音がして、俺は靴を脱ごうとかがめていた身体を止めた。次いで、何かが投げられる音、激しく父を罵倒する金切り声。ああ、これは上がらない方がいいな、と思って、そっと脱ぎかけていた靴を元に戻した。俺が踵を返すより早く、おざなりに着たコートから真っ赤なブラジャーを零す女性がけたたましい音をさせて玄関に駆けてくる。その女性は玄関に先客がいることに驚いたようだったけれど、すぐに眉を顰めて転がっていたハイヒールをわし掴んで出て行った。その女性を、父が追うようなことはない。だって、ハイヒールはもう一つ、玄関に転がっているんだから。今し方出て行った女性のものとは対になっているかのような真っ赤なハイヒールを、なんとなく眺める。すぐに、ぎしぎしというベッドが軋む音と、女性の嬌声が階段から滑り落ちてきた。しばらく、ぼう、とそこに立っていた。女性の下着を見たり、嬌声を聞いたりしてなんの反応も示さない男子高校生というのもなかなかに不健全だとは思ったけれど、でも、反応しないものはしないのだ。俺はようやく踵を返して、家を出た。厚い扉に阻まれて嬌声なんて聞こえないはずなのに、鼓膜にこびりついたそれはねばっこくいつまでも俺を苛んだ。もうすっかり日が暮れた道を歩く。最近通り魔がこの辺りに出現しているせいか、人っ子ひとり通っていない。なんだかそれに救われていた。
 突き当たりを右に曲がり、そのすぐ横にある寂れた小さな公園に這入る。ちかり、ちかりと点滅する灯り以外ないその公園は、不気味に薄暗かった。その中で、ぼんやりと輝いているものがある。それは俺が公園に這入ってきたことに気がついたのか、ゆっくりと振り返った。その指にはやっぱり煙草が挟まれている。
「こんばんは」
 俺がそう言うと、その人はゆったりと笑って、こんばんは、と俺に返した。緑色になった噴水に腰掛けるその人の隣に座り、まだやめてないのか、と俺は呆れるように、それでもどこか安心するように彼に笑いかけた。彼は橄欖石色の髪を揺らすように肩を竦め、静かに煙草を吸った。ちか、ちか、と公園にある灯りが点滅するのと合わせて、彼の髪が宝石みたいに光る。初めて彼と話した時、思わず神様ですか、ときくと、そんなものにはなれなかったよ、と彼が諦めたかのように笑ったのが、昨日のことのように思い出せた。
 彼は名乗らない。ので、俺も名乗らない。俺は夜の間、ずっと彼の隣に腰掛けているだけだし、彼はずっと煙草を吸っているだけだ。俺が制服だったからか、それともこんな深夜に出歩く人間がいるからか、警察に声をかけられたことがあるけれど、彼が何でもないようにこの子が眠れないというから散歩をしているだけだと言った。それで警察官が納得したかは定かではないけれど、それ以来、警察官が俺達を見つけても声をかけられたことはない。諦められているのかも知れない。諦められるのも、無視されるのも、慣れっこだ。だから、俺達を素通りする警察官を見ても何も思わなかった。ぼんやりとその背中を見る俺に、彼は一言、ねこみたいだ、とぽつりと言った。訝るように彼に振り向いたときには、彼はもう遠くを見て紫煙をくゆらせていた。
 彼と俺との間に会話はあまりない。俺もあまり口数が多いわけではないし、彼もまた、口下手らしかった。ただ、彼との間に流れる沈黙は、決して不快なものではなかった。彼はどうして俺が家に帰らないかについても何も言わないし、俺も彼がどうして家に帰らないのか尋ねない。ただ、無視をされているような感じは、なかった。
 彼はいつものように煙草を吸っている。俺も静かに寂れた公園をぼんやりと眺める。俺は何も言わず、彼も何も言わない。今日、いつもと違ったのは、この公園に第三者が現れたことだった。転がるように公園に這入ってきたのは女性だった。遅れて、さきほど自宅ですれ違った人だということに気がつく。彼女もまた、俺がいることに驚いたようだった。彼女は相変わらず、ハイヒールを履いていなかった。手に掲げたまま、涙をこぼして俺を見詰めている。俺はそ、と隣の彼に目を向けた。彼は女性に視線こそやっていたけれど、無関心そうに煙草を吸っていた。
「貴方、あの人の」
 女性はそう言って、ずるずると俺に近づいた。俺はどうしようかと思った。逃げてしまおうかとも思ったけれど、でも、逃げるほどの理由もない。途方に暮れている間に、女性は俺の前に頽れた。ぺしゃんと地面に座り込んで、洟を啜っている。
 女性はしばらく、そうやって泣いていた。彼が時折出す、ライターの着火音と、彼女の啜り泣きだけが静かな公園に木霊していた。俺は女性に何かを言ってやるべきか迷っていた。あんな男やめておいた方がいい、だとか。あの男のあれはもはや病気だ、だから母も出て行った、貴方も離れた方がいい、だとか。言ってあげる言葉はいくらでも浮かんでくるのに、ちっとも口から出てこない。
「かなしいな」
 俺がもごり、もごりと口を蠢かせていると、不意に何かが夜のとばりに響いた。その音が声だと気づき、その持ち主が彼だと分かるのに、数秒の時間を要した。驚いて彼に振り向くと、彼は腰を持ち上げ、静かに女性に近づき、その前に跪いた。女性ははらはらと涙を零したまま、薄ぼんやりと輝く彼を見上げた。彼の手から、煙草はいつの間にかなくなっていた。
「愛されないというのは、悲しいな」
 彼が、女性の頬を撫で、涙を拭う。神様に会ったみたいに呆ける女性に、彼は言った。
「もう、お帰り。ここに、お前を愛してくれる人間はいないよ」
「じゃあ、誰が私を愛してくれるの」
「さあ」
 彼はいっそのこと残酷なまでにそう言い放ち、でも、と言葉を続けた。彼の橄欖石色の目は、情勢を見ているようで、でも、どこも見ていなかった。ここではな、もっとずっと遠くを見詰めている。
「でも、ずっと探していれば、見つかるかも知れない」
 しかしここにはお前を愛してくれる人間はいないから、どうかお帰り。そう言って、彼は公園の出口を指さした。女性の目が涙で光りながら、貴方は私を愛してくれないの、と言った。彼は静かに首を振って、もう一度、お帰り、と言った。女性がふらふらと公園から去って行くのを見届けてから、俺は口を開いた。
「貴方は、俺を愛してくれる?」
 膝を突いていた彼が立ち上がり、静かに俺に振り向いた。さあ、と風が流れ、彼の神秘的な色合いの髪が揺れる。あ、と思ったときには遅かった。彼の目が諦めたように、疲れたように細くたなびく。
「お前が、それを言うのか」
 あいつと同じ顔をしたお前が、それを言うのか。
 俺は咄嗟に、彼の手を掴んでいた。彼の手は驚くほど冷たくて、まるで生きてないみたいだった。彼はやっぱり、宝石みたいに綺麗な目を砕きながら、静かに項垂れた。
「俺は愛が分からない。だって愛されたことがないから。でも、俺は今、貴方に愛されたいと思った」
 彼の顔は下を向いたままで、彼がいったいどんな顔をしているのか全く分からない。でも、何かを言ってあげなければいけない気がして、俺はつっかえつっかえになりながら必死に言葉を連ねた。
「俺は、貴方を、愛したい」
 彼の手が、ぴくりとわなないた。ゆっくりと、その顔が上げられる。
「もう、遅いよ」
 もう、何もかも遅いんだよ、ディミトリ。
 ばちん、と手が弾かれる。痛みに呻く前に、目を開けていられないほどの突風が襲って、俺は思わず腕で顔を覆った。風がやみ、腕を下ろしたときには、もう、誰もどこにもいなかった。ぽつんとひとり、さびれた公園に俺が立っているだけだ。呆然と彼がいた空間を見詰めていると、今にも切れそうになっている灯りを受けてきらめいている何かを見つけた。地面に落ちているそれを屈んで手に取ると、それは銀色の指輪だった。その冷たさに触れた瞬間、何故だか不意に、ああ、俺はまた間違えたのだ、と、漠然と理解した。


 家に帰ると、パトカーが何台も止まっていた。そうして、帰宅した俺に矢継ぎ早に質問をして、署に連れて行かれ父が殺されたことを報された。そのまましばらく、捜査だとかで警察のお世話になって、家に帰ることが叶ったのは一週間後のことだった。父は最近話題になっている通り魔の犯行だということで捜査が進んでいるらしい。父のにおいも、女のにおいもしなくなった玄関でぼんやりと佇んでいると、不意に視界の端で何かがきらめいた。靴を脱ぎ、廊下に落ちるそれを拾う。さんざん警察に調べ上げられて、こんなもの残ってるはずなんてないのに、それはまるで神様みたいにぴかぴかと輝いていた。
 橄欖石色の、美しい髪。しばらくそれを眺め、俺は宝石みたいに綺麗なその髪を口に放った。ごくりとそれを飲み干し、ポケットで光る指輪をそっと握る。
「遅くなんてないさ」
 誰にともなくそう呟く。お前に何があったかは知らない。お前が何者なのかも知らない。でも、この指輪だけは残してくれた、ただそれだけで、俺はなんだかなんだってできる気がするんだ。
 次に会ったときは名前を聞かなくては。ボストンバッグに必要なものを敷き詰め、俺は静かに決意した。バッグを持って、家を出る。もう二度と帰ってくることはないだろう。でも、寂寥感はどこにもない。踵を返し、俺は歩き出す。

 とりあえず、彼と同じように人でも殺していれば、いつか会えるだろうか。


ディミレト
2020/04/09
※転生現パロ

 その人の姿を見たのは、とある科学館の特別展示の際のことだった。なんでも、生きた女神を見れるということで人がごった返しており、そうして俺も一目女神を見ようとその人込みの中に果敢にも挑んでいった人物だった。でも、厚いガラスで覆われた箱の中にいるその人を見た人々は、おぞましいものを見るように立ち去ってしまう人が多かった。逆に、俺は食い入るようにその人を見つめていた。その人は椅子に腰かけていた。紺と紫を足して割ったような色合いの神聖な服を着ていたけれど、その裾からは手も足も伸びていなかった。まるで芋虫のような感じで、その人は静かに椅子に座り込んでいる。神は濃い緑色で、眸の色は包帯で覆われていて見れなかった。ガラスケースの傍に置いてある説明には、この女神を研究したことによってあまたの病気や怪我の治療法が確立され、多くの人が救われたと書いてあった。でも、人を救ったという女神を人々は気味悪がるように一瞥してさっさと去っていく。どうしてそんな目を向けられるのだろう。こんなにも美しい人なのに。俺は特別展示の期間、ずっとその人に会いに行った。そうして、ついに明日その人がもとの場所に戻ってしまう、と聞いて、この人を盗み出してしまおうと思った。どうしようかと考えたわけじゃない。ただガラスケースを割って、そのままこの人をさらってしまおうと、子供のいたずらのようなことを考えた。俺は閉館後、こっそり科学館に忍び込むと、非常口の緑色の光に照らされるその人のガラスケースを思いきり割った。途端にビービーと激しい警報が鳴ったけれど知ったことではなかった。その人を椅子から抱え上げて、そこで俺はようやく、その人が男性であることを知った。それもあたたかい。俺が目を見開いてその人、彼を凝視すると、もぞり、と彼が蠢いた。むずがるように顔を振るから、俺はその意図を察して目を覆っていた包帯を剥いでやった。包帯に覆われていた彼の目は、髪と同じ深い緑色だった。ほう、と思わず息を吐く俺の顔を見て、彼が何かを呟く。何を言ったか聞き取れず、けげんな顔をした時、けたたましい音を立てて扉が開け放たれ、数人の警備員がばたばたと這入ってくる。どうしよう、せっかく彼を手に入れられたのに、と、彼をぎゅっと抱きしめると、不意に目の前を何かが横切った。それが白い腕だ、と理解するより前に、ぐちゃりと湿った音をさせてひとりの警備員の頭が潰れた。飛び散る血と脳漿に悲鳴を上げる警備員たちも次々に潰れていき、息をするものは俺と彼だけになっていた。彼はいつの間にか自分の足で立ち上がっていた。欠損していたはずの手足は何食わぬ顔で彼の身体から生えており、手首には上質な絹が巻かれていた。彼がくるりと振り返る。非常口を示す電灯が割れたのか、部屋の中は真っ暗なはずなのに、彼だけはうすぼんやりと輝いていた。彼が俺に手を伸ばす。しかし俺は恐怖など微塵も感じなかった。たとえ殺されるのだとしても、女神様に殺されるなんて、それ以上の僥倖はこの世にないと思った。とうとう、彼の手が俺の額に当てられる。俺は思わずと言ったように、女神様、と囁いた。彼の手がぴたりと止まる。彼はじっくりと俺のつま先から頭のてっぺんまでを見つめる。
「女神様、というのは、俺のことか」
 最初、俺はそれが彼の声だと気づけなかった。数秒遅れて、その涼やかな声が彼のものだと悟ると、ええ、だって貴方は女神様でしょうと俺は言った。彼は小さく首を振って、俺は失敗作だよと呟いた。失敗作。どういうことだろうか。彼は俺の額から手を離すと、さっさと踵を返した。慌ててその背中を追うと、けげんな顔をして振り向かれる。
「どうしてついてくるんだ」
「俺がともにいたいと思うからです」
 けたたましい警報はいつの間にか止んでいて、科学館は水を打ったように静かだった。その中を潜り抜け、外に出ると、彼は月の光を受けてきらきらと輝いていた。
「どこまでもおともいたします」
「何故」
「貴方を愛しているから」
 俺の言葉に、彼はぱちりと目を瞬かせた。そうして再度、じっくりと俺を観察する。名は、と問われたので、ディミトリと答えた。彼は俺の名前を聞いてしばし考えたあと、好きにすればいいと言って歩き出した。うれしくなって、俺は彼の隣に立つ。
「ただ、女神様というのはやめろ。敬語もだ」
「では、なんと呼べばいい?」
 彼はしばらく考えるように視線を宙に泳がせてから、俺の顔を一瞥した。一瞬しか視線は交わらなかったのに、ばちりといかずちが走ったかのようだった。
「先生、と」
 彼、先生はそう言って歩き出した。先生、と飴玉を転がすように舌の上でその音を転がす。せんせい、せんせい、せんせい。何度もそうやって呼んでいるとうるさいと言われた。でもその声に嫌悪はなくて、俺は先生、ともう一度彼を呼んだ。女神と称されていた彼が振り向く。
 遅い、と彼は俺に言った。俺はその言葉の意味が分からない。でも、何故だか謝らなくてはいけない気がしてすまないと小さく呟いた。手を握ると、先生の手は思っていた以上にあたたかくて優しかった。
 お前の手はこんなにもあたたかかったのだな、と呟くと、先生はそれを言われるのは二度目だと小さく笑った。


炭治郎の父親が無惨な現パロ義炭
2020/04/09
※本誌(201話)を踏まえた話

 生きていれば何かしらの事態に遭遇するかもしれないと思って生きてきたし、最近物騒だからと父が俺のことを心配していたのは知っていたけれど、いざ自分がその当事者になると恐怖よりも戸惑いのほうが勝るのだということを俺は初めて知った。いや、恐怖よりも戸惑いが勝ってしまっているのは、こういった事態を引き起こしたその人が、いつも悲しいにおいをさせているからかもしれない。俺は、こういったことを引き起こす人というのは、もっと狂暴なにおいをさせているのだと思っていた。けれどこの人は悲しいにおいをさせるばっかりで、実際に泣いてばかりだ。そんなに悲しがるなんて、よっぽどの理由があって俺を誘拐したのだろう。何分父は一部には有名な人だから、もしかしたら身代金目当ての誘拐なのかと思ったけれど、この人がそういったことを口に出したことはない。以前、お金が必要なら俺も働いて一緒に用意しますと言ったら金なんていらないお前がいればいいと言われた。どうやら身代金目当ての誘拐ではなかったらしいけれど、ならば俺や父に恨みがあるのかと思ったが、やっぱりこの人からは深い悲しみのにおいしかしなかった。
 誘拐犯は義勇さんという。黒髪を長く伸ばした端整な顔立ちの男の人で、俺のことを何故か炭治郎と呼ぶ。俺はそんな名前なんかじゃないのに。でも、俺はそんな名前じゃない、人違いじゃないですか、と言ったら、義勇さんはひどく不思議そうな顔をして俺が炭治郎を間違うはずがないと言った。義勇さんの声には嘘や虚勢のにおいはまったくなく、ただただやっぱり悲しいにおいがした。
 義勇さんは俺を誘拐こそしているけれど、枷でつないだり、ひどいことをしたりということは全くしなかった。誘拐されて一日目、義勇さんは仕事があるからと俺を閉じ込めているマンションの一室(おそらく義勇さんの自宅だろう)を出て行ったけれど、玄関の鍵しかかかっていなかった。それも普通のマンションと同じように、内側から開けられるタイプのものだ。俺はもちろん逃げ出そうと思った。でも、マンションを飛び出して、家まで帰ったけれど、義勇さんのどこまでも悲しいにおいを思い出して、何も手につかなかった。俺は課題を進めるために握っていたペンを投げ、キッチンへと向かった。料理を作って、義勇さんのマンションへと向かう。時刻はすっかり夜で外は雨が降っていた。俺は傘を差しながら義勇さんのマンションまで歩いた。義勇さんはきっと、何かを深く悲しんでいて、その結果俺を誘拐してしまったけれど、悪い人ではない。どうにか話を聞いて、力になってあげられればと思った。けれど、俺が思っていた以上に、義勇さんの悲しみは深くて、暗かった。マンションの道すがらで傘もささずにずぶぬれになっている義勇さんの背中を見つけて、俺は驚いて義勇さんと彼を呼んだ。義勇さんはゆっくりと俺に振り向いて、俺はその姿にぎょっとする。義勇さんのまろい頬には雨だけではなく、涙ではらはらと濡れていた。そうして、俺が一番驚いたのは、義勇さんの左の手首だった。義勇さんの手首には、無数の切り傷があった。俺は傘と、手に提げていた料理を放り投げて義勇さんに駆け寄り、どうしたんですかと悲鳴を上げた。義勇さんははらはらと涙を零しながら、俺をぎゅっと抱きしめた。それはなんだか、母親にすがる子供みたいな必死さがあった。
 また、と義勇さんはぽつりと言った。
 また、いなくなってしまったのかと、思った。
 義勇さんは、まるでおいていかれた子供みたいな声を出して、俺を抱きしめたままだった。俺はただただ、雨に打たれながら義勇さんの背中を撫でてあげることしかできなかった。
 それ以来、俺は義勇さんが仕事で出ている間に家に帰って家事をして、義勇さんが帰宅する前にマンションに戻るという日々を送っていた。義勇さんは俺がマンションにいないとふらふらと俺を探してあぶなかっしくなるし、何より俺の姿が見えないと自傷行為に走るのだ。俺は義勇さんが何故そこまで俺に、いや、炭治郎という人に執着するのか分からないし、どうしてそんなに悲しいにおいをさせているのか分からない。ただ、義勇さんは俺を抱きしめて眠りについている時、よくうなされる。すまない、だとか、いかないでくれ、だとか。そういったことを呟いて、はらはらと涙を流す。俺は涙をぬぐって背中をさすってあげることしかできない。
 しかし、それもいつまでもは続かない。とうとう明日、父が帰ってくる日になってしまったのだ。父が出張だったからいくらか融通は利いたけれど、これからはそうもいかない。俺は義勇さん、と義勇さんを呼んだ。義勇さんは俺の手を確かめるように握っていて、俺の声にもしばらく気が付いていないようだった。
「俺、帰らなきゃいけません」
 ぴくり、と義勇さんの肩がわななく。俺はぎゅっと義勇さんの手を握り返して、幼い子供に言い聞かせるように言った。
「俺はなんで義勇さんが俺を炭治郎と呼ぶのか分からないし、炭治郎さんのことも知りません。でも、義勇さんが深く悲しんでいることは分かります。俺、できる限り力になります。だから、友達として、」
「帰る」
 義勇さんが俺の言葉をさえぎって、ゆらりと顔を上げた。途端、ぶわりと何かが鼻を突いた。それが、怒りと憎しみのにおいだと知って、ざっと音を立てて血の気が引く。
「あの男のもとに、帰るというのか」
 義勇さんの爪が俺の手の甲に食い込んで傷をつけた。でも、俺は義勇さんの目に浮かぶ深い感情の波に飲み込まれて動けなかった。義勇さんの目には、いろんな感情が渦巻いていた。悲しみ、怒り、憎しみ、後悔。義勇さんは父を知っているんですかと問おうとして、さらに爪が手に食い込んだから思わず眉をしかめた。
「お前は本当はあいつの子供なんかじゃないんだ。お前は竈門家の長男で、優しい両親と弟妹に囲まれて、幸せに暮らしているんだ。決してあいつの子供なんかじゃない」
「何を言っているんですか、俺は父の子供で、一人っ子ですよ」
「違う」
 悲鳴みたいに、義勇さんは呟いた。やはり父を知っているんだろうか。俺は父は男手ひとつで俺を育ててくれた素晴らしい人です、と言うと、義勇さんは駄々っ子みたいに首を振った。
「違う、違う、お前は騙されてる、あいつはそんな男なんかじゃない、お前を、お前を、お前を」
 がたがたと義勇さんの身体が震え始める。義勇さんの目が泳いで、忙しなく蠢く。義勇さんのにおいがさらに複雑なものになる。後悔、懺悔、寂寥。そういったものがどろどろに混ざり合って、ひどく悲しいにおいがした。
「お前が、幸せなら、それでいいと思っていたんだ。謝りたいというのは俺の勝手な思いだから、お前が幸せなら、それでいいと。でも、お前の近くには、あいつがいて、あいつが、お前の、頭を、撫でていて、俺はもう、我慢ができなくなってしまった。お前から何もかもを奪ったくせに、当然のようにお前の隣にいるあいつが許せなかった。あいつの傍ではお前は幸せになれない。その幸せはかりそめのものだ。お前はひだまりの中にいるべき人間なんだ。あんな男の傍にいるような人間じゃない」
 俺はもちろん、父にそんなことを言うな、と怒鳴ろうとした。でも、義勇さんからはどうしようもなく悲しいにおいがして、どうしようもなく寂しいにおいがして、俺の口からは何も転がり落ちなかった。義勇さんはへなへなと座り込んで、でも、俺の手を放そうとしなくって、母親を探す子供みたいに頼りなかった。
 俺が、と義勇さんは呟いた。
「俺が、俺がお前を守れなかった。守られてばっかりで、今度こそ守ろうと思ったのに、お前を守れなかった。そのせいでお前は、お前は、」
 義勇さんから懺悔のにおいがする。俺は義勇さんのことをよく知らない。炭治郎さんのことも分からない。でも、今、義勇さんは泣いている。はらはらと涙を零して、何かを懺悔している。俺はひざまずいて、ぎゅっと義勇さんのことを抱きしめた。俺に弟はいないけれど、いたらこんな風に撫でてやったんだろうな、という感じで、義勇さんの壊れそうな背中を撫でた。
「大丈夫です、大丈夫ですよ。義勇さん、俺は今幸せです。だから、義勇さんがそんなに悲しむ必要はないんですよ」
 だから義勇さんも、幸せになりましょう、と言うと、俺は幸せになる資格がないと義勇さんは言った。そんなことないですよ、と涙に濡れた頬を撫でる。
「俺と友達になってください、義勇さん」
 義勇さんの目が見開かれて、ぽろり、とまあるい涙が零れ落ちる。炭治郎、と俺に手を伸ばす義勇さんの向こう側で、がちゃりと扉の開く音が聞こえ、嗅ぎなれたにおいがぶわりと鼻を突いた。
 父だ。


シルレト
2020/04/09
 ずっと人形みたいにしてくれていればよかったのに。無表情無感情であったはずの先生はいつの間にか世界の七色の感覚というものを知り、最初のからっぽの状態が嘘みたいにきらきらとするようになった。俺はどうにもそれがいけ好かない。大紋章を宿しているくせに紋章に囚われることなく自由に生き、親を心の底から愛している先生を見ると心がざわついた。俺だってそんな風に生きてみたかった、俺だって両親をまっすぐに愛したかった。そんな胸中を抱えていたもんだから、俺がこうしてことを起こしてしまったのは致し方のないことなのだろう。いや、致し方のないだなんて。どんな理由があろうが、強姦なんて人でなしがすることなのに。しかしあれは強姦だったのだろうか。先生は押し倒して無理やり服を剥いでも、最初こそ驚いたようにしてみせたけれど、抵抗なんて見せずにむしろ俺を手助けするように導いてくれていた。先生は女体みたいに柔らかくこそなかったけれど、どこを触ってもあたたかくて涙が零れてきた。だくだくと涙を溢れさせながら自分を犯す男をどんな風に先生が見ていたのか、俺は知らない。
 先生を犯した翌日、俺は部屋からなかなか出られなかった。しでかしたことに後悔こそしていなかったし、苦痛にゆがむ先生の顔を見るとどこかすとんと落ちるものがあったのも事実だった。でも、こんなことをしでかしたんだ、退学は免れないだろう。それか、先生じきじきに殺しに来てくれるのかもしれない。俺はベッドに座りながら、ぼんやりと煙草を吸っていた。ゆらゆらとたなびく紫煙がなんだか俺を責めているみたいで嫌だった。だから、こんこん、と扉をノックする音が響いた時、これは審判が下される音だと思った。俺が動かずに静かに扉を見つめていると、その扉が勝手に開いた。顔を出したのは先生だった。あんたが悪いんだ、と的外れな、八つ当たりみたいなことを思った。あんたが紋章に囚われていなかろうと、父親にまっすぐに愛されていようと、人形みたいにしてくれていたらきっと俺はあんたをレイプするなんてことはしなかったのに。あんたが普通の人間みたいにどんどんなっていくから。人形が、人間になんてなろうとするから。何も言わずに先生を見つめていると、先生は短剣を振りかざすことも俺の首を絞めようとするでもなく、授業が始まる、と、俺が寝坊をした時と同じ調子で告げた。それで、ぽっかりと穴が開いた。ああ、俺みたいな人間がすることなんて、先生は歯牙にもかけないんだと思った。ぱらり、と煙草の灰が宙を舞うと、先生は眉をしかめて部屋で吸うのはやめろと俺に言った。
 それから時々先生を犯すようになった。合意のセックス、なのだろうけれど、それを認めるのはなんだか変だった。先生は俺にレイプされたことなんて忘れたかのように訪ねてきた俺を部屋に招き入れるし、俺がベッドに押し倒しても何も言わないし。最初のほうに比べれば先生の苦しそうな声は減ったけれど、気持ちよくなんてないんだろうなあと先生の萎えたままの性器を見て思った。俺は先生の部屋で煙草を吸うようになった。セテスに見つかったら怒られる、と先生は言ったけれど、そんなのいつものことでしょうと俺は気にも留めなかった。
 先生が消えてくれたらすっきりするのだろうなあと思う。このぐちゃぐちゃの感情も、このわけのわからない感情も。きっと先生がいなくなれば終わるんだ。先生を抱いている時、何度その首を絞めようと思ったか知れない。煙草の火を押し付けてやろうかしら、と思ったけれど、こんな綺麗な身体にやけどの痕が残るのが嫌でできなかった。俺は結局中途半端だった。本当に。
 だって、先生がいなくなった時、俺はすっきりもざまあみろとも何も思えなかったんだから。
 先生が崖から落ちたと聞いて、嘘だろ、と思った。確かに顔見知りが何人も死んだし、教師だって巻き込まれた人がいたけれど、だからってよりにもよって先生がそんなことになるだなんて信じられなかった。だから俺は国に帰るまでの残された時間で先生を探し回った。どこもかしこも血と脂のにおいがして気持ち悪かった。先生が落ちたという崖を覗いてみた。底が見えなかった。先生、と呼んでみても、返事はなかった。
 それから国に帰って、戦場に立つようになったけれど、俺の世界は先生がいなくなったところで綺麗になってくれなかった。胸に渦巻く感情は消えてくれなかったし、むしろその色を深くしたような気がした。先生の俺を呼ぶ声なんて耳障りでしかなかったはずなのに、何故だか不意に先生の声を思い出して泣きそうになった。
 俺は先生をどうしたかったのだろう。お人形のままでいて欲しかったんだろうか。よく分からない。先生がいなくなってから先生のことを考える時間が増えた。先生はどんな風に笑ったっけ。どんな風に乱れたっけ。そんな風に考えながら煙草を吸って、もう五年になる。
 だから、先生が殿下とともに見つかった時、ああ、そういえば先生はこんな人だった、とひどく安堵した。先生は目まぐるしく変わる世界で唯一変わらない人で、俺に無体を働かれたことなんて忘れたかのように俺を呼ぶ。煩わしいとは、思わなかった。
 五年前と同じように先生を抱こうとした。先生は抵抗しなかった。でも、押し倒した時、少しだけ怯えたようにして見せた。どうしたんですか、と聞くと、先生はぱちぱちと目を瞬かせながら、知らない人みたいだ、と俺に言った。その言葉を聞いて、がつん、と頭を殴られたかのようだった。俺は先生は女神みたいな人だから、俺でなくてもきっとその身体を許すのだろうと思っていた。でも、先生は五年経って成長して変わった俺に押し倒されて恐怖を感じた。先生は、俺だから押し倒されていたのだ。
 無意識に先生を抱きしめていた。抱きしめたのは初めてだった。先生の身体ってこんなにあたたかかったっけ、と思った。
 背中に回される先生の手のぬくもりを感じながら、俺は静かに泣いた。その日はセックスをせずに、ただ先生を抱きしめたまま同じベッドで眠りについた。朝になって、眠ったままの先生の髪を梳く。手入れなんてしてないだろうに、指に引っ掛かりもせず髪はするすると俺の指の間を泳いだ。
 窓の外を見る。呆れるくらいの快晴だ。認めてしまえばこんなに簡単だったんだ。俺は先生の髪にそっと口づけて、好きですと呟いた。知ってる、と、目を瞑ったままの先生が優しく言った。

  

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