馬鹿の墓/破瓜(ディミレト)
2020/04/24
 先生がぱたりと突然姿をくらませたのは、陛下が后を娶ってすぐのことだった。俺はそれを聞いて、ああ、なるほどなあと思いながら、青ざめる陛下の横顔を眺めていた。陛下は至る所に手を回して、時には自分も出向いて、国中で先生を探したけれど、俺はうっすらと、先生はもう俺達の前に現れないのだろうなあと思った。陛下は先生がいなくなった理由は、自分が先生ではなく別の女と結婚したからだと思い込み、すっかりやつれた。すまない、先生、と虚空に向かって涙を流しながら許しを請うているのを、何度か見た。俺はいっそのこと、陛下に本当のことを教えてあげた方がいいんじゃないか、とも思っていたけれど、先生ほど残酷じゃない俺は、そんなことできやしなかった。陛下が、心の底から先生を愛していたのは知っている。先生だって、少なからず陛下を可愛がって、愛を与えていたことだろう。でも、それは結局一時的なもので、恒久的なものじゃない。陛下は最後までそれに気づかなかった。先生はきっと、陛下が身を引き裂かれるように告げた結婚するという言葉にも、大してショックは受けなかったはずだ。ただ、ああもう別のものを食べなきゃと頭の隅っこで考えたくらいだろう。先生の本性を知っているのは俺だけなので、ドゥドゥーも、フェリクスも、アッシュも、イングリットも、アネットも、メルセデスも、フレンも、皆が皆先生の身を案じている。俺は顔を暗くさせる皆のまねをしながら、でもきっと今頃先生は別の女か男といちゃいちゃしてるだろうよ、と思っていた。あの人は、そういう人だから。神様みたいな、悪魔だったから。
 まあ、結論から言うと、先生は見つかった。まあ、あの人の本性を知っている俺が探せば、あっという間だった。というより、囮に近い。先生好みの見目も心も綺麗な人間を手に入れた、と吹き回れば、あの人はあっさり俺の前に姿を現した。染め粉で黒くした髪を風に揺らしながら、シルヴァンが言っていた綺麗な子ってどこ? と、あの人はとろけそうな目で俺に言ってきた。勿論、突然姿をくらませたことについての謝罪など一個もない。俺は人払いをして、とりあえず、先生に茶を出した。先生はそれに口をつけながら、もしかして、あの噂って嘘だったの? と先生は残念そうな顔をした。
「せっかく、あの子をおいてきたっていうのに」
「おいていく程度の子だったんでしょう」
 俺の指摘に、先生は目を丸くした後、にんまりと笑った。悪い顔だ。俺はその顔から目をそらしながら、先生、と先生を呼んだ。先生はなあに、とティーカップに口をつけながら笑った。どうやら、陛下という極上の人間を食べてしまってから、先生はいっそうのことグルメになってしまったらしい。そうそう、見目も心も綺麗な人間なんていないのに、先生は飽きる様子もなくそういったものを探している。「陛下に謝ってください」と、恨みがましく先生を睨み付けながら俺は言った。俺の言葉に、先生は首を傾げいている。本気で分かっていない顔だ。そりゃ、そうだろう。先生は悪いことをしたという自覚がない。あんなにも先生に依存していた陛下を置き去りにしたことも、大司教という責任のある立場を捨てたことも、悪気がない。この人は、自分がやりたいようにやっただけだ。大方、大司教という立場も陛下のためになるからという理由だろうから、そこまで執着していなかったのだろう。
 そう、陛下のため。この人は、一度あいした人間のためにはなんでもする。人を殺すことだって、戦争を終わらせることだって、興味のない大司教になることだってしてしまう。
 でも、それは、先生のあいがその人間に向けられている間だけだ。先生がそのあいを別に向けた瞬間、それは四散する。今までの献身さが嘘のように、あっさりとあいした相手を捨ててしまう。俺はそれがずっと恐ろしかった。先生の本性に気づかず、先生を純粋にあいする陛下が心配だった。そして、それは現実となった。陛下は先生がなんでいなくなったか最後まで分からなかったし、先生は陛下に永遠のあいはくれなかった。
 どうして謝るの、と先生は不思議そうに瞬く。俺はいっそのこと、その顔をぶん殴ってしまおうかと思った。でも、それじゃだめなのだ。殴って、縛って、陛下のところに連れて行ったところでさらなる地獄が生み出されるだけだ。唇を噛んでから息を吸い込み、びい玉みたいな先生の目を射る。
「謝って、で、こう言ってください。今でもお前をあいしている、姿を消したのはやむにやまれぬ理由があったからだって。決して、お前をあいさなくなったわけでも、お前の結婚が理由でもないって。嘘でもいいから、そう言ってください」
「なんで?」
「なんでもいいから!」
 せっかく戦争に勝って生き残ったのにこれじゃああんまりだ。陛下は日に日にやつれていくし、同窓の奴らだって同様だ。皆が皆、先生に心を盗まれちまったせいで、先生がいなくなった瞬間ぐだぐだになっている。ああ、こんな風になるんだったら、殺したいと言ったあのときに、きちんとこの人を殺してしまっておけばよかった。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。俺の大事な人が、こんな悪魔にたぶらかされることもなかったのに!
 大声を上げた俺に目をぱちくりとさせて、でもさあ、と先生は笑った。神様みたいな顔で、悪魔みたいに笑って、こう言った。
「ディミトリはもう、純潔じゃないからあいしてないよ」
 シルヴァン、僕、嘘はだめって、教えたでしょ?
 先生が静かに紅茶に口をつける。俺はもう、どうしようもなくなってしまって、目の前が真っ暗になってしまったようだった。この人を殺して、死体だけ見つかったと皆に教えるか? いや、そんなことをしてどうなる、盗まれた皆の心は返ってこない、それに何より、俺にこの人は殺せない、俺なんかに殺されるような人じゃない。
 べっとりとした絶望の形をした悪魔は、呆然とする俺を放置して優雅に紅茶を飲んでいる。先生の口に吸い込まれる真っ赤なそれが破瓜の血に見えて、俺はぞくりと身を震わせるしか、すべがなかった。


畏怖/if(ディミレト)
2020/04/24
※出会わなかった先生(覚醒済)と前回の記憶があるディミの話

 綺麗だとか、綺麗じゃないだとか、俺にはよく分からない。俺の世界は、死んでるか生きてるかだけだ。死んでたらもう殺さなくてよくて、生きてたら殺さなくてはいけないものだ。だから、本当はお前も殺さなければいけないのだけれど、お前は俺の雇い主だから、殺してはいけない。雇い主は殺してはいけないと教えられた。あと、生きていても、こちらに悪意や殺意のない者は殺してはいけないとも言われた。お前は、確かに悪意と殺意にまみれているけれど、それは俺に向けられていないし、何より雇い主だから殺してはいけない。……本当に、お前はおかしな奴だ。王子様のくせして、こんな傭兵を雇って、戦争に勝とうとするだなんて。それに、お前はことあるごとに、俺を綺麗だという。よく分からない。確かに、この世界に綺麗なものと綺麗じゃないものがあることは知っているが、父はそれについて詳しく教えてくれなかった。そう、死んでしまった父は、俺にそんなこと教えてくれなかった。だから、お前の言うことはよく分からない。お前はもしかして、頭が少し、変わっているのか? お前の幼馴染みたちが、俺のことでお前に何か苦言を入れているのは知っている。あんな得体の知れない人間を雇うなんて、だとか、あいつはいったいなんなのだ、だとか。だというのに、なんでお前は俺を雇うんだ? お前はいつも、俺に、お前は昔教師だったと言うけれど、俺にそんな記憶はない。俺は、父が死んでからは雇われるがままに人こそ殺してきたけれど、教師をやってくれと言われたことはない。お前が言う、レアだとか、エーデルガルトだとか、クロードとかいう人間も知らない。だというのに、俺がいくら知らないと言っても、お前は俺を先生と呼ぶ。お前はやっぱり、少し、変なのだな。それに、同じベッドで俺と眠ろうとするのも、よく分からない。護衛だというのならば、分かるけれど、お前は俺に、眠るように言うだろう。子供にするように、俺の頭を撫でて、眠らせようとするだろう。あれは、何故なんだ。俺はただの傭兵だというのに、たくさん食べ物をくれる。一緒に風呂に這入ろうとするし、やたらめったら肌に触れようとする。もしかして、お前は、俺に、そういった意味での役割もしてもらいたいのか? よく、知らないけれど、昔雇い主に言われたことがあるから、一通り、そういうことはできるけれど。……何故、そんな怖い顔をするんだ? やっぱり、お前のことは、よく分からない。お前は俺を戦場に立たせるために雇ったくせに死ぬなというし、俺の呼吸を聞いて心底安心する。雇われたからには、できる限りのことがする、殺せるだけ殺すと言っているのに、お前はただ、傍にいてくれればいいと言う。なあ、俺はいったい、なんのために、お前に雇われたんだ? 戦わせるくせに生きろと言う、ともに眠るくせに性行為はしない。なあ、お前は、いったい、なんなんだ? お前にとっての俺は、いったい、なんなんだ? なあ、ディミトリ。
「先生は、先生だ」
 橄欖石色の髪を払って頬に触れる。先生の目は、出会ってすぐのころと同じ、何も感情を浮かべない人形のようなものだった。でも、それが先生だ。それが今の先生だ。ぎゅ、とその身体を抱き締め、低く囁く。
「お前は、俺の先生だよ。俺達青獅子の学級を選んでくれた、先生なんだよ」
 たとえお前が、覚えていてくれなくても、そうなんだよ。
 先生は無表情で首を傾げている。ああ大丈夫だ先生、この戦争が終わったらきちんとお前に感情というものを教えてあげるから。きちんと全てを教えてあげるから。

 そうしたら、今度こそちゃんと、俺の指輪を受け取ってくれるよな、先生。


泣き顔(ディミレト)
2020/04/23
 先生の泣き顔を見た時、俺は目を見開いて阿呆のように棒立ちするしかなかった。俺に手を払いのけられても、どんなにひどい言葉を浴びせられても、そして、無理矢理その身体を暴いた時だって涙を零さなかった先生が、ぼろぼろと涙を零している。そのくせ、顔はいつもの無表情だ。橄欖石色の眸から溢れる雫だけが、先生が泣いていることを訴えている。先生の目は赤く充血していることも嗚咽を漏らすことも頬を紅潮させることもなかった。まるで涙腺だけが壊れてしまったかのように、先生は静かに泣いていた。
 先生、と俺は確かに、先生を呼ぼうとした。けれど喉まで出かかったその言葉を紡ぐ前に、俺にそんな権利がないことを理解する。だって先生は、俺のせいで泣いているのだ。涙を零しているのだ。俺に手を払いのけられても、どんなにひどい言葉を浴びせられても、そして、無理矢理その身体を暴いた時だって涙を零さなかった先生は、俺のたった一言で崩れ去ってしまった。
 先生はしばらく無言で涙を零したあと、不意に俺を見上げた。やはりその目には感情という感情が乗せられていない。悲哀も、憤怒も、歓喜も、何もかも。ただただ人形のような目をして、先生は俺を見詰めていた。俺はその目に射止められて、まるで槍で磔刑にでもされたかのように動けなくなる。
 だから先生がくるりと背を向け立ち去った時も、その手を掴んで引き留めることもできず、呆然と立ちすくんでいることしかできなかった。ただ、もう先生は俺の前に姿を現さないのだろうなと俺は漠然と理解した。
 先生、と、残り香をつかみ取るように、彼がいた空間に手を伸ばす。当然そこには何もない。空虚に指を絡めながら目を伏せる。彼がいなくなったら、誰が俺と彼女の結婚式を取り仕切るのだろうと、ただぼんやりと頭の片隅で考えた。


ぺろり(ディミレト)
2020/04/22
※現パロ

 先生が刺された。顔面蒼白で病院に佇んでいる殿下からそう告げられたとき、まあいつかはこうなるだろうなあと冷めたことを思っていた。そりゃ、俺だって先生には恩がある。いろいろ家庭がごたついていたときには寄り添ってもらったし、何より俺の女癖の悪さを批難しつつも受け入れてくれたのは彼だけだから。まあ、あの人にとって、俺を否定することは自分も否定することになるから、できなかっただけだろうけれど。先生が死んでしまったらどうしようとガクガク震える殿下を放っておくこともできなくて、俺は殿下と一緒に手術中のランプが光る病院のベンチでぼんやりと座っていた。無性に煙草が吸いたいと思ったが病院でそんなことできるはずもないし、今の殿下を放っておくこともできない。結局俺は口寂しさを抱えたまま、手術中のランプを眺めていた。
 先生みたいな人間をどう称すればいいのか、俺はよく分からない。魔性だとか、色情魔とかとは、少し違う気がする。いろんな人間と関係を持って、ああやっぱりこいつら嫌いだなあと再認識する俺みたいなタイプではない。人肌恋しくて誰でも彼でも手を出すメンヘラなわけでもない。先生は単純に綺麗なものが好きなだけだった。綺麗な人間が好きなだけだった。それは見てくれもそうであるし、中身もそうである。先生にあいしてもらうには、見た目もそりゃ重要だけれど、それ以上に、性格だとか、性質だとかが大切になってくる。それで言えば殿下は完璧で、美少年である上に品行方正で優等生という絵本から出てきた王子様みたいな感じなので、先生からあいしてもらっている。先生のあいは一種の麻薬なので、このあいを知ってしまったからには一生それに囚われるのだろうなあと俺は密かに殿下に同情している。
 今回だって、その麻薬を取り上げられた人間が先生を刺したのだろう。禁断症状に耐えられなかった人間がすることは主にふたつだ。自殺するか、先生からまたあいという名の麻薬をもらおうとして凶行を起こすか。今回は後者だったらしい。というか、これでも先生とは長い付き合いだけれど、その中で先生が刺されたのは初めてだった。だってみんな、死を選ぶのだ。先生からあいされなくなった、先生からのあいをもらえなくなった人間は、みんながみんな綺麗に死んでいくのだ。だから、実のところこういったことは初めてなのである。俺達いつか刺されて死にそうですよねとは話していたけれど、まさか実際に刺されるとは。と思っている割に、俺は全くこの状況に驚いていなかった。当然と言えば当然である。人の心を盗むっていうのは、それ相応のリスクがある。そこに悪意があっても、なくても。
 隣の殿下が突然立ち上がって、俺はびくりと肩を跳ねさせてしまった。どうやら物思いにふけっている間に手術は終わったらしい。ストレッチャーに載せられた先生がガラガラと運ばれてくる。先生にしがみつこうとした殿下を寸でで止めて、医者に連れられて小さな部屋に這入る。殿下は泣いていて話を聞くどころじゃなかったから、結果的に俺が医者の説明を受けることになった。先生は腹を刺されて、内臓も傷つけていたらしいけれどどうにか生き延び(本当に悪運が強い)、後遺症もないだろうとのことだった。そのあと先生が入院することになった個室に移動したけれど、麻酔がきいて眠っている先生は人形みたいに生気がなくて、本当に生きているのか少しだけ心配になった。なんだかこの場にいるのも無粋な気がして、殿下に別れを告げて病院から出た。
 その数日後、先生のもとに警察が来て事情聴取されたらしいけれど、特に何も起こらずに終わったらしい。お見舞いに行った時に刺した奴はどうなったんですかと訊くと首を吊っているのが見つかったとなんでもないように先生は言った。殿下には聞かせられないなあと頬を掻いたけれど、きっと殿下はそのことを聞いたら満面の笑みを浮かべるのだろうなと思うとなんとも言えない気持ちになった。
 殿下は怖くないんですか。いつだったか、幼馴染みの彼にそう尋ねたことがある。先生と一緒にいるってことは、いつか必ず捨てられるってことだ。だって先生は残酷な人だから。先生は同じものを一生食べ続けるということは絶対に選ばない。いろんなものをつまみ食いして、気に入ったものはしばらく食べ続けるけれど、いつしかそれにも飽きてまた新たな味を求めて手を伸ばす。食べ残されて、食べ続けられなかったものは、腐り落ちていくだけだ。これでも、殿下は幼馴染みで、俺はそれなりに大切に思っている。フェリクスならば殿下と先生の関係を真っ向から否定して壊してくれるかと思って先生に会わせたことがあるけれど、結局あいつも先生を気に入ってしまったから計画は頓挫してしまった。なんだか先生を純粋に好んでいるフェリクスに先生の本性を教えるのは躊躇われて、俺は未だにフェリクスに先生の本当の姿を教えられていない。
 殿下は俺の言葉にきょとんとしたあと、怖くなんてないさと笑顔で言った。恋をして、恋に狂ったとろけそうな笑みで、殿下はうっとりとこう言った。
 大丈夫、先生が俺をあいさなくなっても、その分俺が先生をあいしてあげればいいだけの話なのだから。
 その言葉を聞いて、ああ残酷だなあと思った。先生もそうであるし、殿下のまっすぐさもある意味残酷だった。
「ねえ先生」
 お見舞いの品であるフルーツをもぐもぐと咀嚼する先生を呼ぶと、先生はなあにと俺に言った。
「先生はいつまで、殿下をあいしてくれるの」
 先生の深い色の目がついっと上がって俺を見た。先生はフルーツを飲み込んでから、僕がディミトリをあいさなくなるまでとあっさり言った。先生が殿下をあいさなくなった時。そのとき何が起こるか分かっていながら、俺はそうですかと笑う。あどけない顔で首を傾げる先生を見て、ああやっぱり俺この人嫌いだなあとぼんやり思った。



ユニコーンの悪魔(ディミレト)
2020/04/22
 先生は綺麗なものが好きだ。何故かしら、と考えても、やっぱり正解には行き着かなくって、俺はいつも先生が殿下と歩いているのを遠巻きに眺めている。先生は綺麗なものが好きで、潔癖で、純潔好きの最低野郎である。俺だって女の子を幾人もたぶらかしている自覚があるけれど、でも、先生のそれは俺の女遊びとは一線を画している。俺はどうしても家のことだとか、紋章のこととかがあるから絶対に遊んだ女の子と寝たりなんかしないけれど、先生は先生自身が気に入った人間を文字通り食い散らかして、純潔じゃなくなったからとぽいと捨てる人なのだ。どうやら先生のそういった嗅覚は優れているせいで、童貞じゃない俺は先生の毒牙にかかることはなかったけれど(果たして童貞だったところで、先生が俺を食ったかは知らないが)殿下はそうではなかったらしい。美しい金髪、宝石のような碧眼、芸術品みたいに整った顔、その上純潔。先生の理想形として産まれたみたいに、先生は殿下をいたく愛した。隠す気があるんだかないんだかよく分からないやりとりを何度も見たことがある。俺はそれを見ながら、なんとも言えない気持ちになった。先生はいつものように、殿下が純潔を失ったら頬にはっついた小さな羽虫を潰すように、殿下を捨てるのだろう。それはいくらなんでも可哀想すぎる。だって、殿下は本当に先生をあいしているのだ。殿下だって自分の立場を十分承知している。だからきっと、この学校を卒業してまで関係をもとうだなんて気はきっとないはずだ。だから、せめて、この学校にいる間だけは、先生と清く美しい関係を築いて思い出を作り、そうして卒業とともに別れて欲しいと思った。子供が川底で見つけた綺麗な石みたいな、そういった思い出として先生を殿下の中にとどめて欲しいと思っていた。
 だというのに、先生は俺達の卒業直前でいなくなった。崖からまっさかさまに落ちたと聞いたから、俺はもうだめだろうなあと思った。先生のこともそうだし、この国のことも。もう、だめなのだろうなあと思った。殿下は処刑されたことになっているけれど、そんなこと俺達は信じちゃいなくて、殿下を探しながら何人も何人も人を殺した。殿下が生きていることは盲信できるのに、先生の生存を望めないのは、心の底でやっぱりあの人のことが嫌いだったからかしら、とぼんやり思った。あんなにもいろんな人の心と純潔を奪っていったんだから、そういう死に方をしても仕方がないと、そう思っていたのかも知れない。
 でも、先生は俺が思っているよりずっと悪運が強くって、女神に人に愛されていて、その上性悪だった。先生は女神様みたいに、俺達の前に舞い戻ってきた。五年前から全く変わらない容姿は目眩がするほどの神性さをまとっていて、戦いにおける鬼神のような強さも相まってまるで神様みたいだと言い出す奴が続出した。あんな状態の殿下に毎日話しかける様も、慈悲深い女神のように取られるらしい。俺はといえば、殿下にかいがいしく世話を焼く先生を見て、あああの人まだ純潔だったのかと知りたくない情報を知ってしまった。
 先生に話しかけられる殿下はと言えば、先生の話を聞かずにぶつぶつと虚空に向かって何かを語りかけているか、無視か、暴言を吐くかのどれかをいつもあみだくじで決めるみたいに先生に返していた。殿下にとっては目障りだとしか思えない相手を殴ったり、殺したりしないのは、自分の目的のための駒として先生が優秀だからなのか、それとも、あのきらきらとした学生時代の名残だからなのか、俺はよく分からなかった。
 先生は相変わらず殿下に話しかける。殿下はそれを撥ね除ける。そんなことが何度も続いていたあくる夜、俺は眠れなくて外をぶらついていた。こんなにも地上は血やら死体やらであふれかえっているっていうのに、昔と変わらず輝いている星をなんとなく恨めしく思っていると、突然、大聖堂の方から大きな音がして、肩を跳ねさせた。大聖堂といえば、殿下がいつも居座ってるところだ。俺は慌てて、まさか殿下が何者かに襲われたのかと思って大聖堂へと走った。大聖堂に這入って、目を見開く。大聖堂の瓦礫の前、そこに殿下が倒れている。だが、俺が瞠目したのはそこではない。倒れた殿下の前には、先生が立っていた。先生の服は無惨に引き裂かれて、白い肌が月の光を反射してきらめいていた。
 ああ、シルヴァンか、と先生が俺に振り向く。俺は生唾を飲み込んで、先生、何を、と問うた。でも俺はきっと、先生の言葉を待つより前に、どうしてこうなったかを理解していた。どうにかしてそれを否定して欲しいのに、先生は何でもないような顔で、やっぱり残酷なことを言う。
「ディミトリが、僕を襲おうとしたから、蹴り飛ばしてしまった。殺してないだろうけど、肋がいってるかもしれないから、ライブをかけないと」
「どうして先生は、殿下を蹴り飛ばしたんですか」
 俺はきっと、端から見たらばかに見えるのだろう。強姦されそうになって、抵抗しない人間なんていない。この質問はセカンドレイプととられても仕方がない。でも、俺は質問せずにはいられなかった。俺の予想がどうにか外れていますようにと願いながら、先生の橄欖石色の髪を見詰める。
 先生は俺の言葉にぽかんとした後、まるで小さな子供みたいに首を傾げた。自分が悪いだなんて思っていない、自分が異常だと分かっていない、そんな幼気な顔で、だって、と口を開いた。
「だって、僕とセックスしたら、ディミトリは純潔じゃなくなっちゃうじゃない」
 そんな残酷なことを言ってから、先生は屈んで殿下にライブをかけ始めた。俺はもうどうしようもなくなってしまって、何かに怒鳴り散らかしたくて仕方がなくなった。どうして戦争なんて始まっちまったんだ、それがなけりゃ、先生は殿下の綺麗な思い出として生きていくだけだったのに。学生時代の、甘酸っぱい恋として、その胸で宝石みたいに大事にされるだけだったのに。
 綺麗な思い出になってくれなかった先生が慈悲深い手で殿下を抱き起こす。まるで宗教画みたいに美しい光景なのに、悪魔に恋をする哀れな王子にしか見えなくて、俺はぶるりと身震いした。

  

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