ディミレト
2020/05/31
※教会√先生と転生ディミ

 だあれと問うと先生だよとしかその人は答えなかった。だから俺はその人の名前を知らない。年齢だって知らない。どういう手段を使って俺を救い出したのかも、自分の息子として育てているのかも答えてくれない。けれどそろそろ、親子と言うには厳しい年齢になってしまった。俺と先生は並んでも同年代にしか見えないし、そもそもとして俺は先生に全く似ていないのだから、小さい頃だって誘拐を疑われて大変だったのだ。
 先生は俺が欲しいものは何でもくれる。家も服も友達もおいしい料理もゲームも何もかも。だから俺は言った。
「先生が欲しい」
 俺がそう告げると、先生は橄欖石色の目を零れそうなほど見開いて、そうして眸の代わりに涙を頬に流れさせた。俺はなんとなく、こうなる未来が見えていたのでそんなに驚かなかった。先生は泣いている。その頬を拭ってやりたいと思う。その肩を抱いてやりたいと思う。でも、それはできない。
 だって、だって、なあ、先生、
「ああ、ようやく、俺は誰かに選んでもらえたのか」
 貴方はきっと、俺でなくてもよかったんだろう。


レトレス前提ディミレト(未完)
2020/05/20
※現パロ
※レス先生とレト先生が双子

 白百合が異常なほどよく似合う男だったのだな、とそのひとの葬式で俺は初めて気が付いた。あまり花と縁のないひとのような気がしたから、白百合が似合うだなんて知らなかったのだ。でも、そのひとの葬式に参列している者たちの中で、先生はよく花壇の花を眺めていた、よく図書室で植物図鑑を眺めていた、だなんて声も聞こえたから、俺が知らなかっただけで先生は花が好きだったのかもしれない。そういえば、昼休みの時にドゥドゥーと話していることがあったが、もしかしたらそれも植物のことに関するものだったのだろうか、と思って、思わず苦笑する。本当は声を上げて笑い出してしまいたかった。あんなにも好きだった先生のことを、俺はてんで何も知らなかったのだ。知っていたのは、教員という聖職に就き、なおかつ洗礼された姿かたちをしていたのに煙草が好きだったことくらい。後者にあるテニスコートを眺めながら吸っていたのを見て、あまりにも意外で網膜に焼き付いてしまっていたのだ。ぐすぐすと至る所から洟を啜る音がし、ひそひそと先生の生前について話す人間の声に吐き気を催して、額を押さえる。先生が人に好かれる人間だったのは誇らしいし、何より嬉しい。そのはずなのに、俺の知らない先生について話す人間がいることに腹が立って仕方がなかった。先生は俺のものなのに。先生は、俺のものになるはずだったのに。口を押さえ、先生の葬式会場から逃げるように外に出た。かんかん照りの太陽のもと、顎から汗が滴った。俺の、ものなんて。最後の最後まで思いを伝えられなかったのによく言う、と自嘲の笑みが零れ落ちた。出入り口のすぐそばにあるベンチに腰掛け、項垂れる。何が俺のものだ。何が俺のものになるはずだったのに、だ。その努力をひとつすらしなかったくせに。ぎり、と拳を握る。先生にとって、俺はただの一生徒だったのだろう。生徒会長をしたり、先生によく質問に行ったりしていたし、何より卒業して五年も経っているのに葬式に呼ばれるあたり、確かに先生に可愛がられてはいたのだろうけれど、でもそれはあくまで生徒としてだ。ひとりの男として、愛してもらっていたわけではない。目を覆い、顔を下げる。じーじーと泣き叫ぶ蝉の求愛行動が羨ましかった。俺もそのくらい、泣きわめけばよかったのだろうか。俺を選んでくれと、叫べばよかったのだろうか。ばからしい。全て終わったことだ。先生は俺が思いを告げる前に死んでしまった。あんなにも洗礼されて、神様みたいなみてくれをしていたのに、あっさり。なんの感慨もなく。ふう、と息を吐いた時だ。俺の金髪を焦がそうと躍起になる日光を遮る、ひとつの影があった。突然遮光された視界に、思わず顔を上げる。そうして、目を見開いた。先生と同じ色の髪と目。先生を思わせるような顔立ち。一目で、先生の肉親だと分かった。
 先生と同じ色の髪と目を持ち、先生を思わせる顔立ちを持った人間は女の形をしていた。先生を女にしたらこういった感じなのだろうな、と彷彿させる姿かたちで、思わず息を呑む。彼女はそんな反応には慣れっこなのか、特に俺の態度については言及せず、隣、いいかな、と囁いた。反射で頷くと、彼女は先生と同じ無表情に近い顔で俺の隣に腰かけた。先生の姉か妹だろうか。そう思いながらそっと隣に座る横顔を盗み見る。そういえば俺は、あんなにも先生が好きだったのに先生の家族構成すら知らなかった。これで自分のものにしようとしていただなんて片腹痛い。これでは憧憬と恋情を取り違えただけではないかと言われても仕方ないだろう。
 しかしそれでも俺は先生が好きだった。もちろん性愛の対象としてだ。淫靡に乱れる先生の妄想を白濁で汚した日は数知れない。それは、高校を卒業して先生のもとを去った後もそうだった。OBという地位を有効活用して頻繁に卒業した高校に赴いていた俺を、先生はいつだって笑って迎え入れてくれた。ぐ、と拳を握った時だ。隣に座っている彼女が、不意に口を開いた。
「君が、ディミトリだね。ベレトから話は聞いている」
 淡々とした物言いはやはり先生を思わせる。彼女は先生と同じ色の目でまっすぐ前を見詰めながら、空気を裂くように言葉を続けた。
「私は、ベレトの双子の姉でベレスと言う」
「双子」
「そう、双子」
 それが何より大事な事柄だというように、彼女、先生の双子の姉だというベレスさんは神妙に頷いた。
「私も、ほかの高校で教員をやっていたんだ」
「やっていた?」
 過去形の物言いに違和感を抱いて反芻すれば、彼女はやはりもう一度神妙に頷いて、「もう、やめてしまった。意味がないから」と素っ気なく言った。意味がない。それは、どういう。俺の言いたいことが伝わったのだろう、彼女はようやく、俺の顔に視線を向け、まじまじと俺の相貌を眺めた。
「だって、意味がないだろう。私はベレトが教員をやっていたから教師をしていたし、ベレトだって私が教員をやっていたから教師をやっていたに過ぎない。私たちはふたつでひとつなのだから、別々のことをするだなんておかしい」
 怪訝そうに俺の顔が陰ったのが分かったのだろう、ベレスさんは先生と違い肩甲骨よりも伸ばした髪をき上げながら、「別に、分かってもらおうだなんて思っていないよ」と言った。俺は兄弟がいないし、ましてや双子の片割れなんていないから分からないけれど、世の双子というのはそういったものにこだわるのだろうか? いや、それにしても。俺が眉を顰めるのを横目に、彼女は俺から視線を外し、先生の遺体が横たわる建物をじっと睨みつけた。
「私はベレトでベレトは私。産まれる時も一緒なんだから、死ぬ時も一緒であるべきなのに」
「流石にそれは無理でしょう」
 思わず、と言ったように俺が口を挟んでも、ベレスさんは俺に一瞥をくれることもなく「いいや、そうであるはずだ」とやけに断定した声音で言い放った。しかし、いくらベレスさん、双子の姉がそう言おうと、先生は死んでしまったのだ。俺や、ベレスさんを置いて。もうそれはどうしようもない真実で、どうしようもない事実なのだ。それを思い出して、こめかみに鋭い痛みが走る。先生の髪、目、顔、におい、指先、声。それを鮮明に思い出せるのに、いつしかそれすら忘れてしまうのだろうか。
 それは嫌だ、と思った。
 先生を忘れることも、先生への恋を過去のものとして別の誰かを好きになることも。
 絶対に嫌だ。そんなことをするくらいなら、俺はこの場で自分の首を掻っ切って死んでしまいたい。
 俺が再度項垂れても、ベレスさんは同情的な視線を俺に向けなかった。当然かもしれない。俺だって片恋相手を失った喪失感に打ちひしがられているが、ベレスさんは産まれた時から一緒の、腹の中からともにあった片割れを失ったのだ。その喪失感は、俺なんかが推し量れるものではないだろう。ベレスさんの細い首筋に、汗が一筋伝った。それを皮切りにしたように、彼女はおもむろに口を開いた。
「ねえディミトリ、君はベレトが好きだったんだろう」
 俺が驚いて勢いよく顔を上げた先で、ベレスさんはじっと虚空を睨みつけていた。いいや、彼女には何か見えていたのかもしれない。自分の片割れを奪った神様みたいなものの幻影を、見ていたのかもしれない。
「私はベレトに恋情は抱いていない。しかし世界で一番大切だった。いわば自分自身だからね。私がベレトでベレトが私。世界はそういう風に回っていたんだ。そういう風に回るべきだったんだ」
 それを、壊したやつがいる。壊した人間がいる。
 長い髪をたなびかせ、ベレスさんが俺に振り向く。ねえディミトリ。ねえディミトリ。君はベレトが好きだったんだろう。愛していたんだろう。抱きたいと思っていたんだろう。
「だとしたら、私に協力してくれ」
「協力?」
 ベレスさんは感情を押し殺した、というより、そげ落としたような顔で頷いた。それは人形じみていて、そうしてどこか幼い子供を思わせる所作だった。
 先生と同じ色の目がじっと俺を射る。その湖面に映る自分を見詰めているうちに、ベレス先生が不意に口を開いた。
「復讐しよう」
 私のベレトを殺した人間を、殺してしまおう。
 そう言って、彼女は、先生の双子の姉であるベレスさんは、俺の手を取ったのだった。
 みんみんと蝉の求愛行動が煩い、そんな夏の日のことだ。


「親はもう死んでる。私とベレトはふたりっきりで生きてきたんだ」
 車を数時間運転させて連れてこられた場所は、数分に一度電車が来る大都会を持つ都市だというのにこんな田舎もあったのか、と思わせるには十分な山奥だった。俺を助手席に乗せ、車を運転する彼女は煙草は吸わなかった。
「あの、ベレスさん」
「先生でいいよ。私とベレトで呼び方が違うのは、おかしいからね」
「じゃあ、ベレス先生」
 先生、ではなくベレス先生と呼んだことに彼女は少しだけ気分を害されたようだけれど、特にそれを表に出すことなく運転に徹した。慣れた様子であることから、普段もベレス先生が運転をしていたのかと問うと交代だったと素っ気なく返された。私が運転したら、次はベレト。だって私たちふたりでひとつなんだもの、違うところなんてあるのはおかしい。まるでそういう決まり事みたいに、ベレス先生はことあるごとにそう呟いた。私はベレトでベレトは私。それが世界の真理なのに。そう最後に言った声は、少しだけあどけなくて無垢な少女を思わせた。いいや、実際無垢だったのだろう。ベレト先生も、ベレス先生も。だからそんな、小さな子供が母親を信じるように、自分たちがふたりでひとつであると信じ込めるのだ。その盲目さが少しだけ羨ましくて、車窓の外に目をやった。車で二時間もすれば自分の住む都会にこんな田舎があることを、俺は今の今まで知らなかった。
「私とベレトの両親はもう死んでてね。母親は私たちを産んですぐに死んだらしいんだけど、父親は少し前まで生きてた。まあ、死んだけど」
 肉親が死んだというのに、やけにあっさりとした口調だった。まさか先生以外のことしか家族として見ていなかったのかと思ったが、そういうわけではないらしい。単純に、もう慣れたのだろう。両親がいない日々に。ぞ、とすさまじい速度で寒気が足元から這い上がってくる。それは腰に来た当たりで明確な悪寒となって全身を苛み、ぶるりと身体を震わせた。慣れる。慣れてしまうのだろうか、俺も。先生が死んだという事実に。あんなにも愛した人間がいない世界に。
 やはり、それは嫌だな、と思った。先生がいない世界に慣れるくらいならば、やはり死んでしまおうか知らん。ベレス先生が言う復讐、というものがなんなのかは分からないが、断ってこのまま山奥で朽ち果てようか。そんなばかなことを考える俺の脳内を遮ったのは、ベレス先生の涼やかな声だった。
「私とベレトは双子だって言ったね。双子って、腹の中から一緒だろう。それって、ひどく不思議なことだと思わないか」
「確かに、不思議だな」
 敬語を使おうとして、すぐに訂正されるだろうと思ってあえて砕けた口調で帰したものの、ベレス先生はじ、と何かを睨むように真正面を見詰めた。
「不思議、というより、意地が悪い」
 意地が悪い、ともう一度呟いて、ベレス先生は俺をちらりと見た。
「もともと、私たちはひとつだったんだ。それをふたつに分けて生み出すだなんて、神がいるのだとしたらえらく意地が悪いとは思わないか」
「それは」
 そうだろうか、とは言えなかった。ベレス先生にとって、これは疑問ではなく事実なのだ。彼女の中で、神は自分たちをふたつに分割した悪逆非道なのだ。俺だって神なんて信じちゃいないが、それにしても意地が悪い、か。確かに、ベレス先生ほどの執着があったら、そう思ってしまうのかもしれない。
 ベレス先生は俺の言葉などいらなかったのか、堰を切ったようにつらつらと話し始めた。
「私とベレトはもともとひとつだった。私はベレトでベレトは私。でも本来であればそんな境界さえなかったはずなんだ。私たちはひとつで産まれてくるべきだった。ひとつで産まれてくるべきだった。べき? いいや違う、そうであるはずだったんだ。なのに神なんていうくだらない存在のせいで別々に産まれさせられた。私はそんなことされたくなかったし、ベレトだってそうだったのに。私たちは本当はひとつに産まれてくるはずだったんだ」
 つ、とベレス先生が俺に視線を移して、神妙な顔で呟いた。
「だから、君がベレトを好きだったのだから、君は私を好きだということと同じなんだよ」
「それは違う」
 俺は彼女の、先生と同じ色の目を見詰めて、そこは断言した。
「俺が好きだったのはあくまでベレト先生だ。確かに貴方はベレト先生の双子の姉だが、先生自身ではないだろう」
 ききーっ、と突然ブレーキを激しく踏まれ、身体が前につんのめる。シートベルトが胸に食い込んで息を飲んでいると、不気味なほどの無表情でベレス先生が俺を見詰めていた。がらす玉のような透明な目に、頬を固まらせた俺が映り込んでいる。
「何を言っているんだ、ベレトを好きだということはそういうことだろう」
「いいや違う」
「違わない」
 ベレス先生は、もう一度違わない、と呟いた後、俺から視線を逸らして別のどこかを見詰めた。ひどく近い場所を見詰めているような、逆にずっと遠くを見詰めているような、不思議な視線だった。
 それは、もしかしたらもう煙になったベレト先生を見つけようとしていたのかもしれない。
「俺が好きなのは、あくまでベレト先生だ」
「私とキスをしたりセックスしたりはしたくない?」
「したくない」
 再度断言すると、ベレス先生はようやく視線をしっかりと前に向けて車を再発進させた。するすると進んで行く車の窓から流れる景色に目を向けていると、ベレス先生がおもむろに口を開いた。
「今分かった。私は君が嫌いだ、ディミトリ」
「そうか」
「ベレトが君を好いているから、私も君のことを好こうとした。でも無理だった。ベレトの話を聞くたびに胸が気持ち悪くなったけど、そうか、これが嫌いということか」
 


ディミレト
2020/04/30
 のらりくらりと生きてきた。それは昔もそうであるし、今もそうであるように思う。傭兵だったり、教師だったり、大司教だったりしたけれど、結局なんだか流されるがままになんとなく生きていた。だから、まあ今回のこともあまり気に病んではない。人々が宗教に、女神に縋らなくとも生きていける世の中ができたのだとしたらそれは世間一般的に喜ばれるべきものだし、必要のなくなった女神をこうして使っているのも理に適っている。レアとセテスとフレンが逃げおおせられたのならば、まあ、いいのだろう。自分の腕から伸びている点滴をなんとなく見上げる。寝台に拘束帯でくくりつけられているものだから視線くらいしか動かせないし、それがなかったとしてもこの点滴の作用で俺はきっと動けないことだろう。別に、こんなことしなくとも逃げないのに。赤いランプしか光源のない部屋の天井を眺める。
 人々に女神は必要なくなった。けれどこの身体は科学者の興味をそそるものだったらしく、いろいろと好き勝手いじくり回されている。どんなことをされても基本的に死なない俺は、人が耐えられるやけどの範囲の広さだとか凍傷になった身体は治せるかどうかどか、そんな実験をされてぼんやりと余生を過ごしている。あと、なんでも、不老不死の謎が俺の身体に秘められていると思い込んだ科学者は老化防止の薬を生み出すために躍起になっているとか。別に、不老とはいえ俺は不死ではないのにと思う。頭を砕かれも死なない俺は、心臓を粉々にされれば再生はできない。それに俺のこの特異性はソティスのおかげなので、俺の身体を解明したところで不老不死にはなれないと思う。
 逃げだそうと思えば逃げられた。でもそれをしなかったのは、逃げる理由がなかったからだ。逃げたところで行きたい場所もないし、生きたい場所もない。だとしたら、こうして科学者の知的好奇心を満たしたり、俺の身体を使って新薬の実験をするのも、まあ、いいんじゃないのだろうかだなんて考えている。
 そんなことはだめだと言ってくれた人がいた気がする。お前は人外ではなく人間なのだと言ってくれた人がいた気がする。でもいったいいつから俺がここにいるのか分からないほどの時間が過ぎ去ってしまっていて、今ではレアとセテスとフレンの顔さえよく思い出せない。傭兵だったことがあった気がしたけれど、それは現実なのだろうか。教師だったことがあった気がしたけれど、それは現実なのだろうか。大司教だったことがあった気がしたけれど、それは現実なのだろうか。ふわふわ。ふわふわ。なんだか眠くなってきた。昨日臓器を掻き出されたからだろうか。眠ればきっと回復するし、眠っている間にも実験は続けられるのでどうでもいい。
 でもそういえば、どうして俺はここまで生きようとしているのだっけ。生きる理由がないのならば死んでしまえばいいのに。この拘束帯を破いて、自分で心臓を貫いて。そうすれば俺は死ぬことができる。なのになんでそれをしないんだっけ。誰かに死んではだめだよと言われた気がする。死ぬことだけはだめだよと言われた気がする。いったい誰に言われたのだっけ。いったい誰に願われたのだっけ。もう頭がうまく動かなくてよく分からない。
 とうとう瞼を上げていることができなくなって、大人しく目を瞑る。
 先生、死んではだめだよ、必ずまた会いに行くから。
 金髪碧眼の男の顔が何故だか瞼の裏に映り込んで、そうしてすぐに消えていく。がちゃり、と扉が開く音がして、瞼を上げた。
 顔も知らないけれど、名前も分からないけれど、でも、そう願われたのならば死ぬのはやめようと思う。だって、俺は女神様なのだから。


心中(ディミレト)
2020/04/28
 母と父はそれは綺麗な恋愛をして指輪を贈り合って僕を作り出したのだろうなあとしみじみ思う。母の顔は見たことがないけれど(見ていたとしてもそれは赤ん坊の時の話で、当然のことながら僕はいっぺんたりとも覚えてない)、あの父が愛したのだし、何より父が語る母の思い出は宝石みたいに綺麗なものばかりなので、いい人だったのだろう。見目は僕に似ていると言っていた。いいや僕が母に似たのか。とにもかくにも、母はとても優しい人で、そうして父もいい人で、そんな二人からどうして僕のような人間が生まれてきたのか、僕はこっそり不思議に思っている。
 最低ね。悪魔。そう言われることは多々ある。僕はその言葉を吐き捨てられても眉一つ動かさずにそうだねと一つ頷く。最低、悪魔、人殺し。そう言われている現場を見た時の父はとても怖い顔をするか、複雑そうな顔をしている。僕が無慈悲に人を殺すからそう称されていると思っているのだろう。実のところ違くて(確かにそういった意味合いでその言葉を僕に向ける人間もいることにはいるけれど)僕が美人の純潔にしか興味がないことを差して彼ら彼女らはそう言っている。僕のこの癖はあいにく父にはばれていないし、ばれたら叱られる未来が見えるのでそれ以上を言わずに去って行く人間を見て僕はほっと息を吐くのだ。
 美人の純潔好きの何が悪いのだろう。誰だって綺麗なものが好きだし、誰だって未使用の新品を好んで購入するだろう。僕にとってはそういう感じで、純潔が好きなだけだった。誰とも分からない手垢がついた汚い人間を、誰が好き好んで抱きたいと思うのだろうか。僕はそれが本当に理解ができない。僕は本当のことを言えば美人の純潔としか話したくない。父は例外だけれど。
 抱きたい抱きたくないの話をしたけれど、僕は美人の純潔好きとはいえそういった人たちを抱きたいと思ったことはなかった。だって僕が抱いたらその人たちは純潔ではなくなってしまう。だから僕はそういった人たちとおしゃべりしたりするだけで、特に一線は越えない。何かしらを含んだ目で見られることもあるけれど、それは綺麗にしらんぷり。だって僕、純潔が好きだから。純潔でなくなってしまった人間は好きじゃないから。
 昔、僕の好みにぴったりとあった女の子がいた。綺麗な黒髪を長く伸ばした、僕より五つほど上の美人さんだ。その子は僕が父についていった町の武器屋の娘さんで、おつかいで武器を買った際にひょっこりと顔を出してくれた時から僕は彼女をとても気に入っていた。彼女も僕を気に入ってくれたらしく、二人で話したりもした。その中で、僕は一言だって美人の純潔が好きなのだと言ったことはないけれど、どうやら彼女は僕の性癖を知っていたらしい。なんで知ってるの、と言うと、町で貴方が声をかけられてるのを見たことがあるわと彼女は悪戯っぽく笑った。
 どうしてあんな美人に声をかけられて無視するのかと思っていたけれど、あの子が娼館で働いている子だからでしょう。
 彼女の言うとおりなので、僕は頷いた。彼女の目が、なんだか眩しいものでも見るように僕を射貫いた。
 どうして純潔が好きなの、純潔を散らさなきゃ人はとっくの昔に絶滅してたわ。
 まあ、そうだけれど。でも、人類の存続と純潔の存続をとるなら、僕は後者を選ぶな。僕が紅茶を飲みながらそう呟くと、彼女は僕の顔を覗き込みながら問いかけた。
 じゃあ、もしも貴方の愛した人が純潔じゃなくなったら、貴方はその人を愛さなくなるのかしら。
 僕はしばらく考えた。けれど、人を愛したことのない僕にはよく分からなかった。だから想像でしかものが言えないけれど、多分、愛さなくなるんじゃないかなと彼女に言った。彼女は途端に、けらけらと笑い出した。
 貴方って残酷ね、貴方ほど残酷に人を殺す人間を、私は知らないわ。
 彼女はそう言い残して立ち去っていった。その一週間後、彼女は自殺した。美人で気立てのいい町娘が死んだことは瞬く間に小さな町に広がっていって、その理由も僕はあっさり知ることができた。なんでも、夜道を歩いているときに山賊に強姦されて、そうしてそのまま自宅で首を吊ったんだって。それを聞いた父は顔をしかめていた。僕はあの子が淹れた紅茶はおいしかったのにと残念がった。
 町の人々は皆、彼女が強姦されたことによる精神的苦痛によって自殺したのだと思い込んだ。僕以外が、彼女が本当に死んだ理由を知ることはなかった。彼女が死んだ日、僕は泊まっていた宿の人間から手紙を受け取っていた。彼女からのものだった。彼女の字は初めて見るけれど、見目にそぐわず綺麗な文字だった。その綺麗な文字は、純潔ではなくなったから死にますと書いてあった。僕はその手紙を火にくべて灰にした。その文の後に続いていた、貴方を愛していましたという文字の意味は最後まで分からなかった。
 愛するとはどういうことだろう。僕は確かに美人の純潔好きだけれど、美人の純潔好きを愛しているわけではない。ただ単に好みであって、一緒にいて気持ちがいいから好きなだけだ。愛しているとはなんだか違う気がする。愛っていったいなんなのだろう。それが分からないまま僕は大人になって、何故だか教師になった。そうして教師になった先で、愛していると囁かれた。
 僕に愛を囁いた人間はディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドといった。ファーガス神聖王国の時期王で、とびきり美人の純潔だ。ディミトリは僕の理想を体現したかのような人間で、とてもよく気に入っていた。だけれどまさか愛の告白を受けるとは思っていなくて、僕は驚いてディミトリの顔を仰ぎ見た。ディミトリは可哀想なくらい緊張していて、目にはうっすらと涙の膜が張っていた。
 君は王子様でしょう。僕がそう言うと、そうだな、俺は王子だと彼は重々しく頷いた。ならば、僕なんかにうつつを抜かしている場合じゃないんじゃないの? 僕がそう言うと、王子だからこそこの恋を大切にしたいのだと彼は言った。恋。知識としては知っているけれど、感覚としてはまったく知らない感情。ディミトリは何かを決意した目で僕を射貫いた。
 俺はいずれ王になる人間だ、王になったら恐らく、一度も会ったことのないような女と結婚させられることだろう。それは理解している、そうやって俺達王族は繁栄していったのだから。
 だからせめて、まだ自由である今のうちだけでも、貴方を愛したいのだと彼は言った。僕は自分の首をなんとなくさすった。愛するってなんなのだろう。愛したいってなんなのだろう。でもディミトリは僕の理想を体現したかのような完璧な人間だ。完璧な純潔だ。だから僕は、愛するってなんなのか分からないけれど、それでもいいならと言って彼の手を取った。彼は本当に嬉しそうに笑ったくせに、すぐに顔を暗くさせて、無責任ですまないと項垂れた。どうして愛することが、無責任ということになるのだろう。よく分からなくて首を傾げる。そんな僕に苦笑して、先生は綺麗だなとディミトリは笑った。よく言われると言うと苦笑された。
 そんな感じで、僕はディミトリとお付き合いなるものをすることになった。けれど、キスをしたり、セックスをしたりということをしたわけではない。彼は僕の性癖を熟知していて、決してそういうことを教養することはなかった。一緒に買い物にいったり、お茶会をしたり、ご飯を食べたり、ディミトリが眠れないときに添い寝をしたり。そういう風に、僕たちの関係は続いていった。そうして卒業とともに終わっていくのだろうなと思った。王になった彼に会いに行けることはそうそうないだろうし、彼もまた僕に会うことは難しくなるだろう。恋は三年経つと消えてなくなるということを聞いたことがある。だからきっと彼は僕への恋心を綺麗な思い出として過去のものにするのであろうし、僕もまたあんな子いたなあみたいな感じで昇華していくのだろうなと思っていた。
 それがとんだ誤解だと知ったのは、ディミトリが死んだ時だった。
 彼は戦争に打ち勝ち立派な王となり、フォドラの地に平和をもたらした。僕は大司教として彼を支えた。お互い仰々しい立場になってしまったから顔を合わせることはそうそうなくなったけれど、彼は頻繁に僕に手紙を送った。それは彼が結婚し子をなした後も続いて、でも僕はそれを彼が僕に恩義を感じているためだろうと思っていた。ディミトリは純潔ではなくなってしまったけれど、見目だけで言えばやっぱり僕の理想を体現したような男で、また、純潔ではなくなってから僕の手を握ったり肩に触れたりということもなくなったので、とてもよくできた教え子だと感心していた。
 ディミトリが危篤状態だと報されたのは寒い冬のことだった。ごうごうと吹雪が吹き付ける中、僕はディミトリに会いに行った。ディミトリは衰弱していたけれど、僕が顔を覗き込むと嬉しそうに微笑んだ。とりとめもない話もしたし、重要な話もたくさんした。そうして、不意に沈黙が降りたとき、ディミトリが躊躇いがちに、先生、と僕を呼んだ。なあに、と返すと、ディミトリはしばらく黙り込んだあと、僕にこうお願いした。
 手を、握ってもいいだろうか。
 僕はぱちぱちと目を瞬かせた。純潔ではない人に触れることには勇気がいったけれど、僕は静かにディミトリの手を握ってあげた。ディミトリが嬉しそうに破顔する。僕に初めて愛を囁いた時と同じ顔だ。
 お前はあたたかいな。ディミトリがそう言った。僕はなんて返したらいいか分からず、そわそわと指先を蠢かせた。寝台に横たわっていた彼が突然身体を起こした。驚いて目を見開く僕の手をぱっと離し、ディミトリは僕を抱き締めた。そうしてそのまま唇を重ねられる。ディミトリの唇はかさかさとしていて、ほんのりと死の味がした。
 唇を離して、ディミトリはすまないと僕に謝った。でも、全然悪いだなんて思っていなさそうな顔で、どこまでも幸せそうに笑って、ディミトリは僕を心底愛おしそうに見詰めた。
 先生、先生、愛している、これからもずっとそうだ、俺はもう、純潔ではなくなってしまったけれど、それでも貴方を愛することだけは許して欲しい。
 ぱちん、と、ディミトリの言葉で過去の町娘のことが弾けた。貴方って残酷ね、貴方ほど残酷に人を殺す人間を、私は知らないわ。病ではなく、僕がディミトリを殺すのだろうか。僕は咄嗟に、ディミトリの背中に腕を回して爪を立てた。恋は三年経ったら消えてなくなるというのは、どうやら嘘だったらしい。だって、あれから何年経ったと思っている。ディミトリはもう僕のことを愛してなんかいないと僕は勘違いをしていた。実際は違った。彼はずっと僕を愛し続けた。
 愛がなんなのか、まだ分からないけれど、ディミトリは僕に触っていいよ。
 そう耳に囁くと、ディミトリは嬉しそうに笑って、僕をいつまでも抱き締め続けた。彼が死んだのは、それからすぐのことだった。大司教として彼の葬儀を執り行って、時間は過ぎ去って、いつの間にか教え子たちは皆死んでしまっていた。国が宗教を必要にならないほど平和になって、僕は大司教の座を降りた。セテスとフレンには、ともに行かないかと言われたけれどそれに首を振って、僕はなんとなく国を歩いて回った。その中でいろんな人たちと出会った。とびきり美人の純潔だって山ほど見た。でも、ディミトリほど僕の理想を体現した人には出会わなかった。
 とあるカフェで紅茶を飲みながら物思いに耽る。やっぱり彼女が淹れた紅茶ほどおいしくない。窓の外にとても美人な純潔を見つけたけれど、僕の心はとりたてときめくこともなく、美術館の宝石を見ているような感じで目が滑っていった。
 やっぱり愛がなんなのかは分からない。恋がなんなのかは分からない。純潔以外に触れられると鳥肌が立つし吐き気を催す。
 でも、ディミトリの体温というのは心地よかったな。ぐいっと紅茶を飲み干し、席を立つ。
 僕が死んだ先でディミトリに会ったら、手くらい繋いでやってもいいかもしれない。そう思いながら歩き出す。

 本当におぬしは大馬鹿者じゃのう、と、小さな女神はため息を吐いた気がした。


ハッピーバースデイ(ディミレト)
2020/04/26
 純潔は尊いものなのよ。昔、父の仕事の手伝いで助けた女の子はそう言っていた。父はその建物に絶対に僕を入れないで、外の見張りや逃げ出した盗賊を狩るためだけに僕を連れて行ったけれど、ちらりと見えた建物の中には全裸の女がたくさんいて、皆が皆死にかけの蛙のように床に伏していた。傭兵団は男ばかりだったから、助けに来たというのに悲鳴を上げて逃げ惑おうとする女が多くて、結局一番年が若くて男くささのない僕が女たちに僕たちは貴方を助けに来たんだよと告げた。それを知った女は歓喜の涙を零すものもいれば、僕の声なんて聞こえていないようにぼうっと虚空を眺めているものもいた。全員が全員、元の家に帰されたけれど、結局皆が皆首を吊って自殺したと後から知った。父はどうしても僕にそのことを知られたくなかったようだったけれど、夜寝付けなくてぶらぶらと小屋を歩き回っている時に、父と仲間の男がそのことをため息交じりに話していたのを聞いた。
 その女の子は身寄りがなくて、そうして一番囚われていた女の中で若かった。僕より一つ二つ年上なだけであるその子は、女というより少女と言った有り体だった。身寄りがないからどこかの孤児院に預けるしかないと仲間たちが話している間、僕はその子と話をした。僕はそういった、父や仲間たちの話に這入ることはほとんどなかったし、父もそれとなくそれを忌避しているような気がしていたから、ぼんやりと剣を磨いていたところだった。女の子は、にこりと儚い笑みを浮かべて僕の隣に座り込んだ。僕は特に何も話すことなく剣を磨いていたけれど、その子は口を開いて、冒頭の言葉を僕に述べたのだった。純潔は尊いものなのよ。僕は返事をしなかったけれど、その子はとつとつと言葉を続けた。純潔は尊いものなの。男にとっても、女にとっても。だから、それを失った私はもう生きていく価値がないわ。そう言ってその子は笑った。笑って、僕の頬を撫でて、貴方は純潔? と僕に聞いた。僕は何も答えなかったけれど、その子は勝手に解釈したのか、そうよね、貴方みたいな綺麗な子が、純潔じゃないはずないわ、と言った。次の日の朝、その子が首を吊っているのを見つけた。一番最初にその子が空中ブランコをしているのを見つけたのは僕で、父の裾を引っ張ってその子のところに連れて行くと、父は僕を背に追いやって大きくため息を吐いた。お前はこういう風に人を殺す人間にはなるなよと父は言った。でも、こういうふうに、って、どういうことだろう。僕はもうその当時から人をたくさん殺していて、それでいて、その中で綺麗な殺し方も汚い殺し方も知っていたけれど、父の言う、こういう風な殺し方というのがいまいちぴんと来なかった。昨夜触れた彼女の膣の感触を思い出して、気持ち悪かったなとぼんやり思った。
 それから何度か、女にも男にも関係を迫られることがあった。貴方は美しい、自分たちの不浄を浄化してくれるはずだと縋られた。僕はそれに首を振るのだ。僕は純潔しか興味がないよ。そう言うと、その人たちは絶望したような顔をして去って行った。純潔が何よ、私だって純潔でいたかったわと叫びながら僕にのし掛った女は勢いあまって殺してしまった。父にばれたら叱られると思って、その女はとある丘の木の下にひっそり埋めた。迫ってくる人間の中には確かに純潔の人もいたけれど、僕と性行為をしたら純潔ではなくなってしまうのでのらりくらりとそういった雰囲気だけは避けていたのに、やっぱりそういうことになってしまって、僕は仕方なくそういった人たちから離れるしかなくなった。だって、純潔でなくなってしまった人間なんて、微塵も興味がないもの。
 そんなことを繰り返していくうちに、どういうことだか僕は教師になった。教師になれと告げられたときに、学校というのは年若い人間が多いから純潔が多いだろうかと僕はがらにもなく胸をときめかせたりした。でも、実際に教師になってみて分かった。ここにいる学生たちは貴族が多くって、貴族ということは子をなす責務があって、その教育の一環として他者の体温を知っているから、ほとんどが純潔じゃあないのだ。僕はがっかりした。でも、その中にひとつ、大きく輝くダイヤモンドがあった。そのダイヤモンドはディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッドといった。彼は王族であるのに純潔だった。話を聞けば、彼はどうやら壮絶な人生を送っているらしく、叔父とも折り合いが悪いということでそういった教育は目で耳で経験こそすれ実際にことを行ったことがないらしかった。僕は歓喜した。こんなにも身も心も綺麗な男の子が純潔だなんて、最高じゃあないか。
 僕はディミトリと積極的に関わった。ディミトリが自分に向ける感情というものにもおおよそ目処がついていたけれど、彼は聡明なのでそんなことは絶対に口にしなかった。だから僕も、穏やかな気持ちで彼の成長を見守っていた。彼はきっとこの学校を卒業したら王族としての責務を果たすべく女を抱いて子をなすのだろう。それは仕方のないことだ。だから、このダイヤモンドの輝きを見られるのは今のうちだけ。だから僕はディミトリを大切に大切に扱った。そうして、彼の卒業がするのを見送ることになるのだろうと思っていた。
 でも、実際は違った。父が殺された。ソティスがいなくなった。戦争が始まった。僕は崖から落ちた。気がついた時には五年も経っていて、僕はわけがわからなくなっていた。でも、なし崩し的にディミトリたちと再会することになって、僕はほっと息を吐いた。ああ、ディミトリはまだ、純潔だ。
 五年経ったディミトリは世の全てを恨んでいて憎んでいて、それでもう何を明確に恨んで憎んでいるのかよく分からなくなってしまっているような状態だった。僕は綺麗なものが好きだ。綺麗なダイヤモンドが好きだ。ディミトリはもとの顔がいいし、純潔であるのに今はそこにべったりと薄汚い憎悪というへどろが塗りたぐられている。僕は元の綺麗なディミトリに戻って欲しくて、散々彼に話しかけた。無視をされることも多かったが、段々と無視ではなく罵倒されることが増えた。別に、罵倒されることは慣れている。これでも人殺しなので。だから僕はそれに構うことなく話しかけた。そんな中で事件は起きた。どうしてそういう風になったのか分からない。いい加減堪忍袋の緒が切れてしまっただけかもしれないし、単純にその夜はディミトリの機嫌が悪かったのかも知れない。僕はディミトリに床に押し倒された。頭を強く打ってくらくらした。でも、それよりも、服を破られ素肌に冷たい夜風が当たったことの方にぎょっとした。こういう場面は今まで何度も遭遇したことがある。でも、それは純潔じゃない人たちだけだ。純潔にこんなことをされたことはない。僕は悲鳴を上げて、ディミトリ、と彼を呼んだ。ディミトリは無言で僕の身体を暴こうとしてくる。冷たい掌が肌を滑る感覚に鳥肌が立った。ディミトリが何をしようとしているのかは分かっている、でもそれは絶対にやっちゃいけないことだ、だって、それをしたら、ディミトリは純潔でなくなってしまう! 暴れまくる僕を見下ろして、ディミトリはす、と目を細めた。その姿に、あの時助けた女の子の幻影を見た。
「お前は、純潔が好きなんじゃない。自分に害をなさない人間が好きなだけだ」
 純潔に襲われたら、いよいよお前は人間が恐ろしくてたまらなくなってしまうかもなあ。そう言ってディミトリは凄惨に笑った。とうとう彼の手が僕の性器に伸びる。いやだ、と拒絶する自分の声のか細さに目を見開いた。
 僕の純潔を奪った、あのとき助けた女の子は殺してしまった。首を絞めて、縄でつるして殺した。ディミトリもそういう風にすればいい。簡単なことだ。手は縛られていない。この手を伸ばして、ディミトリの太くたくましい首を締め上げればいいのだ。大丈夫、すぐできる。ちゃんとできる。
 なのに、僕の身体はがらがたとみっともなく震えるばっかりで一向に自分の思い通りになってくれない。僕の穴をまさぐっていた指が離れて、ディミトリの性器をぴっとりと当てられて、僕は今度こそ悲鳴を上げた。いやだ、やめて、ごめんなさい、触らないで。恐慌状態にある僕をディミトリは哀れなものでも見るように眺めた。それは傷を負った草食動物が息絶えるのを待つ肉食獣にも似た目だった。
 ずぶずぶとディミトリの性器が僕のなかに這入ってくる。ディミトリを突き飛ばしたいのにそれができない。ぼたぼたと涙を零す僕に、ディミトリがそっと笑う。
「ハッピーバースデイ、先生」
 とん、とディミトリの性器が僕の最奥に辿り着く。
 僕はそのときになってようやく、あの時助けた女たちがどうして自死を選んだのかを今更ながらに理解した。

  

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