「目を覚まさないで欲しかった」(ディミレト)
2020/07/21
 思えば、予兆はあったのでしょう。例えば、あの方から頂く、リラックス効果と安眠効果があるお茶を眠る前に飲んだ後は、本当にぐっすり朝まで眠ってしまうものでした。わたくしとともに眠っている陛下は不眠症を患っており、よくわたくしが眠った後も執務をしたり、本を読んでいらっしゃったりして起きてらしていましたが、朝わたくしが目を覚ますと、本当によく眠っていたよ、と柔和に微笑んで下さいました。そうして、身支度を調え、朝食の席に着くと、わざわざ王都まで来て下さった大司教猊下が優しくわたくしにおはようと仰って下さるのです。わたくしはそれに微笑み、猊下にいただいたお茶のおかげでスッカリ身体の調子がよくなりました、と答えます。そうすると、大司教猊下はあの何もかもを包み込むような笑みでわたくしを包み込んで下さるのです。最初の方こそ、わたくしは大司教猊下を恐ろしく思っておりました。確かに、今でこそあの方はその地位にいらっしゃいますが、以前は傭兵、教師、軍師と様々に呼び名を変えておりましたし、灰色の悪魔と呼ばれた過去もあり、そうして何より、あの底冷えのするような冷ややかな翡翠の眸が、わたくしは恐ろしくて仕方がなかったのです。でも、あの方と親しくなるにつれて、そんな畏怖は四散していきました。あの方はとてもわたくしによくしてくださいました。陛下とわたくしの婚儀を執り行って下さったのも猊下であり、そうして何かとわたくしの相談に乗って下さったのもこの方です。陛下や、わたくしの身の回りの世話をしてくださる侍女、いいえ、もしかしたら実母などよりも、あの方はわたくしの何もかもを受け入れて下さいました。だから、わたくしが、陛下との間に子供ができない、という相談をしたのも、当然のことなのかもしれません。確かに猊下は男性ですわ。でも、全く性の匂いというものがしない方でありました。ですから、そういった、異性に話すにはデリケートなお話もできたのですわ。そうして、何より猊下は女神をその身に宿した方なのですもの、その方にお祈りしていただければ、きっと子供を授かれると、わたくしは盲信しておりました。さめざめと泣きながら、子ができない不安を吐露しますと、あの方は優しくわたくしの肩を撫で、つらかったね、とわたくしを労りました。その言葉の、なんと嬉しかったこと。さんざん周りから、石女だなんだと心ないことを囁かれていたわたくしは、猊下の掌のあたたかさにスッカリ心酔してしまっていたのです。そうやって思い詰めるのもよくない、と猊下は仰いました。身体が緊張してしまって、できるものもできなくなってしまう。幸い、貴方も、ディミトリ王もまだ若いのだから、焦る必要は全くない。まずは、身体を休めることに集中しなさい。そう言って、あの方はわたくしにとてもおいしい茶葉を用意して下さったのです。飲んだ後は、本当にスッキリするものですから、わたくしが嬉々としてそれを陛下に伝え、あの方を恐ろしいと思っていた自分が馬鹿らしくて仕方がありませんわ、と笑うと、陛下はそうだろう、なんてったって、あの方は俺の先生なのだからと誇らしげに言いました。ああ、戻れるものなら、言ってやりたい、自分に、そうして陛下に。何が馬鹿らしいものですか。わたくしの恐怖は正しいものだったのです。陛下、陛下、陛下、貴方は、わたくしのことは愛してなどいなかったのでしょうか。確かに、わたくしたちは恋をし結ばれ合った者同士ではございません。政を背負い、民を背負った者同士の婚姻でございます。けれど、貴方はいつだって、わたくしを優しく慈しみ愛して下さったではありませんか。それで言えば、やっぱりわたくしは、馬鹿でしたのね。世間知らずの、おぼこだったのだわ。わたくしは、貴方に愛されていると、思い込んでしまいましたのよ。だから、貴方が仰った、俺の先生、という言葉にも、悋気なんて起こしませんでしたの。むしろ、微笑ましい、だなんて思ってしまっていましたの。ああ、なんて愚かしい。なんて馬鹿らしい。そうして、何より。あの恐ろしい男を、女神だと、自分の何もかもを受け入れてくれる存在だと思っていたことが、悔しくて悔しくて堪りません。あの方は、あの男は、世にも恐ろしい悪魔であったといいますに。
 わたくしがそのことに気がつきましたのは、とある夜のことでございました。その日は、大司教猊下が王都へと執務でいらっしゃっている日でしたので、わたくしはいつものように茶葉を受け取る手筈だったのですけれど、どうやら手違いでそれがないと猊下は眉を下げました。すまない、と謝る猊下に、いいえ、気になさらないで……とわたくしは微笑みました。完璧に見えるような方でも、少し抜けているところがあると知れて、なんだか嬉しかったのです。でも、そう、今思えば、全て計算でしたのでしょうね。あの方が、そんなへまをするとは思えませんもの。全て、全て、全て計算だったのだわ。わたくしが安心し切り、猊下を信用し切ったから、あんな茶葉、いらなくなってしまったのだわ。
 夜。わたくしはいつものように眠りにつきました。けれどやっぱり、いつもの茶葉がないと眠りが浅かったものですから、夜半にわたくしは目を覚ましてしまったのです。そうして、隣に、陛下がいらっしゃらないことに気がつきました。わたくしは最初、そんなこと気にもとめなかったのです。ああまた夜更かしをしていらっしゃるのだわ、と思ったくらい。でも、わたくしはすぐに異変に気がつきました。寝室と繋がっている、陛下の執務室の扉が、少しだけ開いていたのです。そうして、その隙間から、世にもおぞましい音が聞こえてくるではありませんか。わたくしは顔を青くさせて、口を覆いました。その音、というものは、甲高い声と、肌を打つ音、そうして、ねばついた水音。何をしているかだなんて、子供だって分かりますわ。わたくしは目の前が真っ暗になったようでした。低く聞こえる呻きにも似た嬌声は、確かに陛下のものです。ですから、わたくしは、きっと陛下はもうわたくしのように子を孕めない女になど興味がなくなって、別の女に孕ませることにしたのだわと思いました。夜露のように控えめに滴る嬌声から、陛下がおひとりではないことは明白でしたもの。わたくしは、もう、どうしたらいいか分からなくなりました。このまま眠って、何も知らないふりをした方がいいと、頭では分かっています。けれど、女というのは、不思議ですね。自分とめおとの関係になった男が、どんな女と不貞を働いているのか、どうしても見たくなりますの。どんな女が、自分のものとなった男をかすめ取ったのか、どうしても気になってしまうものですの。わたくしも、そういったくだらない女という生き物のひとりだったに過ぎません。わたくしは、そっと足音を立てぬように、少しだけ開いている扉へと近づきました。そうして、目に涙をいっぱいに溜めて、その向こうを覗き込みます。
 最初に目に這入ったのは、月明かりにきらめく美しい金髪。陛下のものです。陛下は、わたくしに気がつくことなく、誰かを組み伏せていました。向かい合ってのものではなく、獣のように相手の方を後ろから抱いております。わたくしは、それだけで腰が抜けてしまいそうでした。だって、陛下はいつだって、わたくしを愛して下さるときは、そんな乱暴なことはしなかったんですもの。そう、あれは、獣の交わりでした。そんな陛下の姿を見るのは初めてだったものですから、わたくしはしばらく呆然としていて、その、組み伏せられている相手というものに、一向に目が行かなかったのです。きっと、そのまま見ない方がよかったのだわ。陛下が誰を獣のように抱いていたのかだなんて、知らない方がよかったのだわ。けれど、それを許して下さらなかったのはあの方でした。わたくしに優しくし、母のように慈しんで下さった、あの方でした。
 不意に、陛下に組み敷かれていた方が、シーツに突っ伏していた顔を上げました。翡翠の眸が、わたくしを確かに射貫きます。その眼光に貫かれた瞬間、わたくしは声も出せずに、その場に崩れ落ちました。白緑色の神秘的な髪。翡翠の美しい眸。ベレト=アイスナー大司教猊下が、ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド王に組み敷かれながら、確かにわたくしを見たのです。
 顔を白くさせ震えるわたくしに、猊下が笑います。日だまりの下見せて下さった、慈悲深く優しい笑みではございません。馬鹿で愚かな女に向ける、睥睨と優越感に浸った、卑しく恐ろしい笑みでございました。
 陛下は気づきません。目の前の人を抱くことに精一杯で、わたくしが猊下と陛下の交わりを目撃していることも、そうして、猊下が悪魔のように笑っていらっしゃることも。
 猊下がうっすらと口を開きます。そうして、囁くように、わたくしに言いました。
「目を覚まさないで欲しかった」
 ああ、この、大嘘吐き! わたくしははらはらと涙を零しながら、それでもお二人から目をそらすこともできず、ただただその場に縫い付けられておりました。
 皆を導く模範たる者であるべきなのに、王に不貞を働いているのに、わたくしを裏切ったのに。ああ、ああ、だというのに。

 大司教猊下、どうして貴方はそんなにも美しいのか。
 


いじらしい(ディミレト)
2020/07/13
「どうして人というのは自分の一部を送りたがるのだろう」
 テキパキ。テキパキ。音をつけるのならばそんな感じで、傭兵から教師、教師から軍師、軍師から大司教へと上り詰めたシンデレラストーリーを持つ男は部屋を片付けながらそう言った。朝の日の光を浴びてキラキラとまばゆく光る白緑色の髪と目を持つ男、ベレトがそんなことを言うのは珍しくって、どうして時間になったのに食事の場に来ないのかを尋ねに来たディミトリはきょとりと目を丸くさせた。勿論、ディミトリもただの隻眼の美丈夫だというわけではなく、一国の王なのだからイエイエわたくしがと大司教の部屋を叩きに行こうとする従者は多くいたし、その従者達に任せるのが道理であったのだろうけれど、ディミトリは一寸嫌な予感がしたものだから強く言って自らがこの恩師のもとへと訪れたのであった。ディミトリがこの大修道院へ滞在するのは三日間で、そうして今日はその三日目であった。本来であれば二日で終わる執務だったのだけれど、一応何かあったらということで三日間の滞在期間とした感じであった。今日の昼には王都へと戻るけれど、マアその前にお茶でもと思っていたのだが、朝食になかなか訪れないベレトを心配に思って扉を叩いたわけである。扉を叩くと、モウ足音で誰だか分かっていたのか、這入ってくれ、とベレトは呆気なく言った。そうして、這入った先では、前述したとおりテキパキとベレトが何かを片していたのである。と言っても、結構長い時間片していたのか、もうすでに掃除は終盤らしかった。寝間着姿のまんま、ベレトはよっこいせと男らしく床に胡座を掻いた。恐らく口うるさい大司教補佐がこの場にいたのならば目くじらを立て立っているのは鯨なのにキャンキャンと犬のように捲し立てたのだろうが、あいにくこの場に遭遇したのは獅子だったので何も言わなかった。獅子は鯨でも犬でもなく、猫なのである。ちなみに目くじらのくじらは目くじりが変化した形なので、鯨とは全く関係なかったりする。
「大好きな食事を放ってそんなことを考えていたのか」
 ディミトリは一寸驚きつつも、扉を閉めてベレトの背後に立った。ベレトはディミトリに背を向けて胡座を掻いていたから、その表情は読めない。しかし、声の調子や醸し出す雰囲気から、ディミトリを拒絶する意思は感じられなかった。
 ベレトがつい、と手を軽く上げた。その掌にある何かがきらりと朝日を反射してディミトリの目を焼いた。目を細めて見てみると、それは瓶のようである。ジャムとかがよく這入っている、厨房で見かけがちな小さく透明な瓶だ。瓶が透明ということは詰まるところ中身も見えるわけで、ディミトリにもその中身が白濁とした液体であることがよく見えた。
「なんだそれは。ココナッツオイルか?」
 確かココナッツオイルは、調味料としてだけではなく肌に塗って美容や保湿の効果もあったはずだ。今の時期に保湿が必要だとは思えないが、大司教と言う人目に立つことの多い立場になることとなったベレトが見目を気にしてそういったものをつけていたとしてもなんらおかしくはない。なので、ディミトリはごく自然にそう口にした。けれど、返ってきたのは否である。ぐるん、とどこかの国の妖怪のように仰け反って、ベレトがディミトリを見る。一歩間違えば胡座の姿勢からそのままぱたりと後ろに倒れてしまいそうなものだけれど、伊達に鍛えちゃいないらしい。ベレトは器用に胡座の体勢を取りながら、背をのけぞらせてディミトリに顔を向けた。普段ならば前髪で隠されているつるりとした額が目に眩しい。
「精液だな」
「せ」
 精液。ディミトリはあんまりにもびっくりしたから、思わず一つしか残っていない目んたまを落としそうになった。けれど同時に、納得したりもした。だから最初に、ベレトはあんなことをディミトリに言ったのだ。
 まさかベレトの精液ではあるまい。ディミトリが知る限り、ベレトは自分の精液を瓶詰めにしてそれを他者に見せつけて楽しむ性癖は持っていなかったはずだ。イヤ、性癖なんて、普通人にひけらかすものではないから、もしかしたらずっとずっとベレトはそういった性癖を持っていて、今日は何かの気まぐれでその性癖をディミトリに披露したのかもしれないが、それにしたって、ベレトの顔は特に面白がってもいなければ興奮もしていない。淡々と、自分の掌に精液入りの瓶があることをディミトリに伝えているだけである。ディミトリはちょっと戸惑った。しかしベレトはちっとも戸惑っていない。立場が逆だと思った。確かにその瓶の精液がベレトのものだったのならば、ベレトがそういう風に振る舞うのも分からないではないが、もしも他者のものだとしたら、ディミトリよりもベレトの方がもっと困惑すべきじゃないだろうか。いや精液なんて送られたことないから知らないが。
 ベレトはジャムと精液も何も変わりませんと言った風にくるくると瓶を回して日の光に当てている。精液も人の元だから卵のように温めれば人ができるとでも思っているのかも知れない。そういえば、この恩師の性教育というのはいったいどうなっているのかしらん。精液という単語は知っているのだから、人並みにはあるのだろうか。ベレトが女の裸体だけではなく、性的な興奮を得るという状況は、ちょっと想像できないけれど。
「この前も、髪が置いてあったんだ。それは俺が気づく前に従者が片付けてしまったのだけれど、後々セテスに怒られてしまった。多分あれは、俺が勝手に女を連れ込んだとでも思ったのだろうな」
 先生は性的な興奮など得ないなどと夢想していたディミトリは固まってしまった。女を連れ込むベレト。全く想像ができない。不真面目なアッシュだとか、陽気なフェリクスくらい想像ができない。硬直したディミトリを気にとめることもなく、ベレトは逆さまになった自分の顔の前でくるくると瓶を転がしている。
「髪の次は精液と来た。さすがにこれは、俺が気づいてよかった。こんなものが見つかったら、今頃犯人捜しでてんやわんやだっただろう」
「先生は犯人捜しをするつもりはないのか」
 驚いて、ディミトリは声を上げた。普通、自分が眠っている間に誰かが忍び込んで、忍び込むことだって気持ち悪いのに、その枕元に精液が這入った瓶なんて置いて行かれた日には悲鳴を上げることだろう。ましてやベレトは大司教という立場だ。そんな神聖な相手にこんなことをしたのだ、極刑だって免れない。だというのに、ベレトは気にした風もなく、やっぱりのけぞったまま緊張感もなく瓶を弄んでいる。大司教補佐の胃に穴が開くのも時間の問題といったところだ。
 ディミトリの言葉にぴたりとベレトの手遊びが止まる。瓶に這入った精液に注がれた視線が音もなくディミトリに向けられた。逆さまになった顔はいつもの無表情だ。気持ち悪がってもいなければ、怖がってもいない。そろそろ背骨の限界だったのか、ベレトはようやくのけぞらせていた背を元に戻して、再びよっこいせ、と声を上げて立ち上がった。そうして扉の前で立ちすくんでいるディミトリに近づくと、こつん、と精液が這入った瓶をディミトリの胸に当てた。さかさまではなくなったベレトの顔は、にんまりと笑っている。
「ディミトリ、短い髪も似合うな」
 着替えるから外に出ていなさい、と言われて、油のきいていないブリキのようにぎこちなく頷く。そのまま部屋の外に出ようとした時、あ、とベレトは思い出したかのようにディミトリに振り向いた。
「今度は、起きてる時に来なさい」
 ぱたんと扉が閉まる。ディミトリは振り返れなかった。顔がゆでだこのように真っ赤だったからである。あああの顔は処女でも童貞でもないぞ、と奥底の獣がケタケタとディミトリを嘲笑う。処女であり童貞でもあるディミトリはずるずると扉を背に座り込んで、木の板一枚を隔てて立てられる衣擦れの音に、ますます顔を赤くさせるしかすべがなかった。


ディミレト
2020/07/12
お題「鼻血」「腐乱死体」


 鼻血が滴っていた。興奮すると粘膜の血管が切れて鼻血が出るというのは眉唾ものの噂ではなく、現実として存在するものだったらしい。俺は慌てて、口を伝って顎から落ちそうになっている血液を手の甲で拭った。そうしてティッシュ箱に手を伸ばし、何枚か引き抜く。鼻血をそこに吐き出し、ゴミ箱に放る。ティッシュを手に取った際に何かを潰した感触があったが、あの人から発生したものだと思うとなんだか感慨深い気がしたが、俺の許可を取らずにあの人をむさぼった事が許せなくて、段々と腹が立ってきた。月明かりのみが光源である部屋で、手当たり次第その小さな生き物を潰していく。小さな皮が破け、中身がぶちまけられて指の腹が濡れる。知ったことではなかった。何匹も、何十匹も潰したが、三十分ほどそうしたところでやめた。キリがないからだ。どれだけ潰しても奴らは消えない。それはあの人に群がるくだらない人間によく似ていた。それと比べれば、まだこいつらの方がましだ。だって、人間は殺したら罪に問われてしまうけれど、こいつらはいくら殺したところで法律では裁かれない。俺は洗面台で手を洗ってから、改めてあの人が眠っている寝室へと戻った。何故あの人を寝室に寝かせたかと問われれば、眠るならベッドだからという当たり前の答えしか俺は返せない。床でだって、外でだって眠れることは眠れるだろうけれど、きっとあの人は、俺とともに愛し合ったこのベッドでこそ眠りたいと思うだろう。寝室の扉を閉め、すう、と息を吸う。途端にあの人の匂いが鼻孔にいっぱいに広がって、多幸感に包まれる。ああ、先生、先生、先生。堪らなくなって、俺は先生が眠るベッドへと飛びついた。いくつも接吻をその顔に落とし、俺よりも小さな身体を優しく抱き締める。ガラス細工に触れるように繊細に触れたつもりだけれど、どうやら俺の怪力は御せていなかったらしく、ぼろぼろと先生の身体が崩れてしまった。自分の唇で何かが這っていたので指で払うと、床に落ちたのは先ほどさんざん潰した小さな生物だった。先生に触れた際に俺に移ったのだろう。掌を見れば、先生の一部がべったりと俺にこびりついていた。しかし、だからなんだと言うのだろう。先ほど散々潰しておいて何を今更だといった感じだけれど、考えてみればこの小さな生物は俺達の子供だとも言える気がした。だって、俺と先生が協力して作った生き物なのだから。俺はうっとりしながら、先生の口の隙間から歯の代わりに覗いているその小さな生物を掬って口に放った。ぷちり、と臼歯が彼らを磨り潰す感触が舌の根に広がる。思わず射精しそうだった。俺は何度も何度も先生の顔に口づけを落とし、先生の肌に触れた。先生を抱こうとしたけれど、いつも触れているあの穴がどこだか分からなくて、仕方なく唯一はっきりと分かる口に性器を挿入した。先生の口の中はひんやりと冷たい。いや、冷たさすら感じさせてくれない。あたたかいとも、冷たいとも俺に伝えてくれない。確かにそれはとても悲しいことだ。今後二度と、先生はあたたかい手で俺に触れてくれないし、柔らかく微笑んでくれないし、頭を撫でてもくれない。けれど、同時に、くだらない有象無象にそういったものを向けることも二度とないのだ。先生に手を伸ばしていた有象無象は今頃どうしているのだろう。あの女神のように優しい先生がいなくなったことに、きっとひどく落胆していることだろう。ざまあみろ。この人はようやく、俺だけの女神様になったのだ。
 先生の顔が崩れることにも構わず腰を振って、先生の口内に射精する。荒い息をしながら性器を引き抜き、先生の頬にキスをする。ねちゃりと先生の頬と俺の唇を、赤茶色い粘液が繋いだ。先生、先生、先生。先生の美しい髪を優しく梳く。ずるりと俺の指に先生の髪が絡みついた。抜け落ちたそれにキスをして、先生に抱きつく。
「なあ、先生。これでようやっと、貴方は俺のものになってくれたな」
 潰された蛆虫が散乱する寝室で、先生にそっと囁く。まあもっとも、それを聞く耳はとうの昔に腐り落ちてしまっているのだけれど。でも、きっと先生には聞こえている。なんてったって、俺は先生の恋人なのだから。


お好み焼き(ディミレト)
2020/07/09
 お好み焼きを焼いている。何故かと言えば、俺がお好み焼きというものを食べたことがないと言ったら先生がなら食べに行こうと誘ったからに他ならない。普段ならば絶対に這入るどころか近づくことすらない大衆向けのチェーン店で、俺はお好み焼きを焼いている。テーブルに広がる黒くて大きな鉄板、テーブルの隅に置かれた市販の調味料、そうして大声で離さなければ向かいに座っている人間の声を聞くのも危うい喧噪さ。俺はこういった店に這入ることがなかったから何もかもが新鮮で、店をきょろきょろと見回していた。そしてその場慣れしていなさは酒に脳みそをやられた人間にも分かるのか、時々ちらりと視線をもらう。でも、それは単純に先生が目立つからなのかもしれなかった。金髪の人間など珍しくもないが、さすがに白緑色の髪を持った人間となると話は変わってくる。そういえば、白というのは何ものをも許容するくせに、いざ許容したらその白という色をどこにも存在させなくなる残酷な色だったか。黒だったら何を混ぜられても黒が勝つけれど、白というのはどんな淡い色を入れられても白という色自体は残らなくなるのだ。相手を食い潰すことと、相手を受け入れつつ自分を消す色。どちらがより残酷であるか、愚かな俺には分からなかった。先生は俺の向かいの席でぐびりぐびりと生ビールを煽っている。神秘性をまとった人が、自分の顔ほどもある安っぽいグラスでビールを飲むのはなんだかちぐはぐで、こういうった状況だというのに俺は思わず笑ってしまった。先生はちらりと俺を見た後、飲みかけだったビールを全て飲み干して、鈍い音をさせビールグラスをテーブルに置いた。俺と先生の間に引かれた鉄板ではじゅうじゅうとお好み焼きが焼かれている。トッピングの持ち込みは自由なのだと先生が言っていた店の鉄板には、俺達が持ち込んだトッピングを振りかけられたお好み焼きが今か今かと食べられることを心待ちにしている。それはなんだか俺みたいで少しだけおかしかった。先生が俺にコーラのおかわりを聞いてくる。俺はこういった身体に悪いものを飲むのは初めてで、ちびちびとしか飲んでいなかったけれど、その科白を聞いて慌ててグラスを空にした。そうして先生にお代わり、と告げると、先生は自分の分の生ビールと俺のコーラを追加注文した。どうやら先生は蟒蛇らしい。さっきからハイペースでアルコールをあおっているというのに、全く顔に出ていない。そういえば、アルコールを飲むと神の声が聞けるのだったか。だとしたら、先生がアルコールに強いのもなんだか納得がいくような気がした。酩酊しなくとも神の声が聞こえるのだろう。何故ならば、先生こそが神なのだから。俺が先生に見蕩れている内にすぐに店員がビールとコーラを持ってきて、そうして俺をちらりと見てからそさくさと去って行った。店員の視線に促されるように、自分の頬に手を当てる。ひんやりとした湿布の冷たさが、鉄板の熱気で宛てられた指先に心地よかった。先生は店員の視線にも俺の仕草にも動じることなく、淡々とビールをあおりながらお好み焼きをひっくり返した。店のどこかから、やだあ、という甲高い女の声が聞こえた。しかしそこに心からの嫌悪や憎悪といったものは含まれていない。その純粋な悲鳴を、少しだけうらやましく思った。お好み焼きが焼き上がる頃には、先生は二杯ほどビールを追加していた。
「どうして俺を助けてくれたんだ」
 焼き上がったお好み焼きを取り分ける先生に、ずっと気になっていたことを投げかける。先生は俺の言葉が聞こえていないかのように淡々と切り分けたお好み焼きを俺の皿によそった。そうして自分の皿に載せたお好み焼きを淡々と口に放り込んでいく。あまりにも店が騒がしいから、もしかしたら声が聞こえなかったのだろうか、と不安に思い始めたところで、不意に先生が口を開いた。その真っ赤な口から放られた言葉は、まるでお好み焼きを食べるついで、というように気負いがないものだった。
「お前がディミトリだから」
 俺は思わず、自分の頬に手を当てた。先生と初めて会った雨の日のことが、くるくると眼前に爆ぜる。公園でぼんやりとベンチに佇む俺の目の前に突如として現れた、白緑色の女神様。打撲の痕が色濃く残る身体を優しく治療してくれた慈悲の御手。傷だらけの身体を介抱してくれるあたたかな体温に、俺はうっかり貴方は神様なのかと問うたのだ。そうして、先生は言った。俺は、女神になり損ねた者だと。どうして先生は女神になり損ねたのだろう。こんなにも優しく、慈悲深く、あたたかい人なのに。俺が割り箸を割る音に、先生が顔を上げた。そうして、少しだけ俺を見詰めたあと、すぐに自分のお好み焼きを胃に運ぶことに専念し始めた。店に備え付けられたテレビから、大手企業の社長とその夫人が頭部だけ見つかった状態で見つかったことを報道していた。見慣れた顔だ。当然である。だってその顔は、俺が毎日家に帰っていたら見ていた顔なのだから。いただきます、と手を合わせてからお好み焼きを口に放る。あんな人たちでも、肉になったらうまいのだなとなんとなく思った。


催眠種付け(はされなかった)お兄さんと化したト先生(ディミレト)
2020/06/02
「ディミトリ、もういいんだ、お前は何も苦しまなくていい。今までよく頑張った。よく生き残った。もう何も考えなくていいんだ。何も苦しまなくていいんだ。怨嗟の声も死者の姿も何も聞かなくていい何も見なくていい。復讐だとか、無念を晴らすだとか、もうそんなこと考えなくていいんだ。俺はお前に生きて欲しいよ。復讐だとか、死者のためだとかではなく、お前のために生きて欲しいよ。ご飯をおいしく食べて欲しい。健やかに眠って欲しい。朝の日差しに心地よさを感じて欲しい。星の美しさに目を細めて欲しい。お前に、槍ではなく花を握って欲しい。お前は俺を恨むだろう、お前は俺を憎むだろう、裏切られたと感じるだろう、そう思ってくれて構わない。過去のことも、俺のことも、何もかもを忘れて幸せにお生き。血と脂と死臭でまみれた世界から離れて、健やかにお生き……」
 薄れゆく意識の中で、その人は確かにそう言った。もう、顔も思い出せない。でもその人は、確かにそう言った。頬を濡らして、動けない俺の身体に涙を零して、その人はそう言った。ぱちりと目を覚ます。温かな日差しが窓から這入っていた。身体を持ち上げ、片目ということで視界の悪い部屋を見渡す。遠くで鐘の鳴る音がした。その音を聞いて初めて、今日が何の日であるか悟る。そうか、今日はフォドラがアドラステア帝国に統一されて、十年になるのか。パンを囓りながら先ほど見た夢について考える。窓から這入ってきた鳥がテーブルの隅に止まった。美しい橄欖石色の羽根だ。窓を見る。金髪碧眼の片目の男が映っていた。俺だ。窓に手を這わせながら、俺はいったい、何を忘れているんだ、と小さく呟く。答えるように、鳥が鳴いて、そうしてすぐに飛び立っていった。

  

×