ひどいひと(ディミレト)
2020/02/26
 全てを捨てておれを選んでくれるかい。そう彼がおれに投げかけてくれたことは終ぞなかった。彼はいつだって指導者の顔をしておれの前に現れた。その様はまるで女神様のよう。でも、女神様っていったいなんなのかしら。女神様は、たくさんの人を救って、たくさんの人の手を取って、でも誰かに救われたり手を取ってもらえたりしない。ひどくさびしい存在だとおれは思った。ひどくかなしい存在だとおれは思った。彼がおれに言葉を投げかける機会はごまんとあった。戴冠式前夜の女神の塔で。おれの結婚が決まった朝で。おれの息子が生まれた夜で。おれが王を降り息子に王位を譲った日で。言う機会なんてたくさんあった。簡単なことだ、あまたの人々を救ってきた女神が唯一を選ぶ。選んでもらう。ひとこと言えばいい。おれを選んでくれと。そう言えばよかったんだ。なのに彼は最後まで言わなかった。最後まで、最期まで。
ひゅーひゅーと呼吸が苦しい。もう終わりなのだろうなと思った。自分のゆく先は地獄だろう。そこに異論はない。ただ、彼をおいていくことだけが心残りだった。
彼はおれの手を握りながらうっすら微笑んでいる。女神の笑みだと思った。慈悲深くて、優しくて、さびしくてかなしい女神の笑み。
 なあ先生。
 おれが彼を呼ぶと、彼はやっぱり微笑みながらなんだディミトリとおれを呼んだ。その瑞々しい手を握り返しながら、おれは本当は、お前に縋られたらお前の手を取ってどこまでも行こうと思っていたのだよと言った。彼の笑みが深くなり、ぽろりと美しい橄欖石の目から涙がひとつ零れ落ちた。
 だから言わなかったのだよ。
 先生はそう言って笑った。ひどい人だと心底思った。なあ先生、おれはお前のためなら、本当はなんでも捨てられたのだよ。本当にもう、今更なのだけれど。


逃げようって言ったのに
2020/02/26
※現パロ
※ショタレト先生と高校生ディミの話

 またあの子だ。俺は進めていた足を止め、誰もいない公園の中ぽつねんとベンチに座っている子供をじっと見詰めた。真冬だというのに薄着で、身体のあちこちに傷がある。俺以外にもその子に気づいた通行者は何人かいたが、皆一様に一瞥をくれただけですぐに目をそらして何も見なかったことにする。俺だってそうだった。何度も何度もここを通って、何度も何度もあの子を見たことがあったけれど、声をかけてあげたことは一度もない。ただ、その日は何故か足を止め、じっとその子を見詰めてしまった。夜の闇の溶けてしまいそうな暗い色の髪と、虚空を見詰める目。気がついたら俺の足は公園へと這入って行っていた。その子は俺がすぐ目の前に立っても、顔を上げなかった。ただただ虚空を見詰め、じっと息を殺している。俺はここまで来ておいて、彼に何を言ってあげればいいか分からなかった。その傷はどうしたの? コートはどこにおいてきたの? お母さん、お父さんは? 瞬時に浮かんできた意味のない言葉の羅列にそっと頭を振る。俺が手を差し伸べると、その子はようやく俺の存在に気が付いた、とばかりに顔を上げた。がらす玉みたいに綺麗な目が、俺をじっと見る。だから俺は微笑んで、こう言った。
「一緒に食事をしないか?」
 小腹がすいてしまって、と告げると、彼は無言で俺の掌を見詰めた後、ゆっくりと俺の手を取った。
 それが、俺と先生の出会いだった。


 彼に俺が着ていたコートを被せてから待っていてもらい、コンビニでありったけの食料を買って帰ると彼はものすごい勢いでそれを食べ始めた。その姿に胸の奥底にマチ針でも仕込まれたような気分になっていると、食事を終えた彼はぺこりと俺に頭を下げた。
「ありがとう」
「いいんだ」
 微笑んで返し、そうして自分は何をやっているのだろうとひどく自己嫌悪に陥る。俺がこんな風に彼を助けてあげたところで、それは一時的なものだ。俺は彼を助けるすべを持たないのに、自己満足で救いの手を差し伸べてよかったのか。眉間にしわを寄せる俺に、彼は首を傾げたあと、ああ、と納得したように顔を上げた。
「お礼がまだだったな」
 お礼? お礼ならさっき言ってもらったぞ。そう言おうとした俺は、目の前の光景にぎょっと目を剥いた。俺が貸してあげたコートを脱ぎ、彼が自分の衣服に手をかけ始めたのだ。俺は慌てて、何をやっているんだ、とその細い手を握った。彼はきょとんと首を傾げ、だって、と幼い口調でこう言った。
「ご飯をもらったから、お礼をしなきゃいけないって」
 あの人たちはそう言ってた。お礼。お礼。彼が言うお礼が何なのか分からないほど、俺は察しが悪いわけじゃない。思わず口を押えて蹲る俺に、彼は困ったように眉を下げた。
「すまない、これは嫌だっただろうか。じゃあ俺は何をしてあげたらいい? 何をしたらお礼になる?」
 心底困惑したように呟く彼を、俺は無意識に抱きしめていた。細い体。脆い、誰かが守ってあげなければいけない子供の身体。
「お礼なんていいんだ。俺が勝手にしたことだから」
 ただ、一つだけいいか。
 こうしてまた、お前と一緒に食事をさせてくれ。
 彼は俺が言った言葉に首を傾げた後、小さな首を縦に振った。自己満足なのは分かってる。偽善なのは分かってる。でも、見てしまったものは見なかったことにはできない。知ってしまったものを、知らなかったことにはできない。俺はいつまでも、彼を抱きしめていた。彼はきょとんとした顔で、俺の背を優しく撫でてくれた。
 彼を先生、と呼ぶようになったのは、彼がすさまじい量の知識を蓄えていたからだった。俺が広げる高校の教科書の問題をあっさり読み解き、俺に教える姿はまさしく先生だった。学校には行けているのか、と俺が訊くと、先生はふるふると首を横に振った。眉をしかめる俺に、でも、どうせ行ってもつまらないから、と先生は言った。
「だったら、ディミトリとこうしてるほうが楽しい」
 そう言って先生は俺が買ってきたパンを食べながら嬉しそうに笑った。その顔を見ていると、嬉しくて、幸せで、同時にどうしようもない自己嫌悪に陥る。先生の家に保健所の職員が来て、そこで先生の両親と言い合いになっているのを見たのは一度や二度ではない。今の世の中には、先生を守る法律は一つもない。あるのかもしれないけれど、それは意味をなしていない。俺だってその法律と同じだ。一時の気休めで、根本的な解決には全く至っていない。思わず額を押さえた俺に、先生はきょとんとした後、優しく俺の頭を撫でた。
「頭が痛いのか?」
 違う、違うんだよ先生。痛いのは先生だ。先生の方が、ずっと痛かったろう。つらかったろう。俺には先生を救ってあげることができないんだ。
 無言で先生を抱きしめる俺を、先生はやっぱり優しく抱きすくめて、綺麗な子守唄を聞かせてくれた。俺は先生に何をしてあげられるのだろう。先生に何をしてあげられるのだろう。独りよがりな偽善だということは分かっている。でも、だからって、俺は。
 そんな自己嫌悪に襲われる俺がまざまざと現実を見せられたのは、先生と出会って一ヶ月が経ったある日のことだった。いつものように公園に行くと、先生はもうすでにそこにいてベンチに腰を掛けていた。こちらに背を向けて座っている先生に、先生、と声をかける。細い肩が揺れて、ぱっとその顔が振り返る。その顔を見て、俺は音を立てて固まった。先生の顔には、治療されていない青痣や傷が所せましと敷き詰められていた。
 固まる俺に先生は首を傾げた後、ああ、と納得したように自分の頬を撫でた。
「あの人たちに、怒られたんだ。最近生意気だって。楽しそうでいらいらするって」
 俺は雷に打たれたようだった。俺がしたことで、先生がひどい目にあっている。けれど、こんなこと許されていいわけがない。俺は先生の手を取って、逃げようと言った。逃げる。先生の小さな口が俺の言葉を反芻する。
「そうだ、逃げよう。二人で。俺だって高校生だ。きっと雇ってくれるところなんて山のようにある」
 だから、一緒に逃げよう。一緒に逃げて、幸せになろう。
 先生の手を強く握る。先生は俺をじっと見詰めた後、一緒に逃げてくれる? と俺に言った。頷く。先生は分かった、とふわりと笑った。
 一時間後にまたこの公園で落ち合う約束をして、俺は自宅に走った。ボストンバックに必要なものを全て入れて、もう会わないであろう家族に胸の中だけで別れを告げて、そうして公園に戻った。先生はまだ来ていなかった。すぐ来るだろうと思った。すぐ来てくれるだろうと思った。
 でも、先生は一時間たっても、二時間たっても、公園に現れてくれなかった。俺は不安になって、先生の家へと押し掛けた。チャイムを押しても、返事はなかった。不審に思って扉を押すと、それは鍵がかけられておらず勝手に開いた。中に這入り、先生、と小さく呼ぶ。ひた、ひた、と家の中を回る。先生、どこだ、先生。言ったじゃないか。一緒に逃げようって。一緒に幸せになろうって。
 ひたり、と、浴室の扉の前に立つ。俺はたぶん、この先の光景をなんとなく察していたのだと思う。でも、先生が確かにうなずいたから。一緒に逃げてくれるって、そう言ったから。
 なのに。
 俺は浴室の扉を開け、飛び込んできた光景にへなへなと脱力しその場にへたり込んだ。
 ああ、先生、あともうちょっとだったのに。もうちょっとで、俺たち逃げられたのに。
 浴室に転がるばらばらになった先生を見て、俺は声を上げて泣き叫んだ。



おやすみ先生
2020/02/26
 俺たちの王様がとうとう眠りについた。なんとなく、俺たちの中で一番のりになるんだろうなあとは思っていた。けれど、だけど、まさかこんな早いだなんて。城に集まった俺たちは各々沈痛な面持ちをして顔を合わせていた。何も誰も言えなかった。あのフェリクスですら血が出るほど拳を握っている。ああ、でも、きっと一番悲しんでいるのはあの人だ。あの人は、陛下を一番大切に思っていたから。一番に愛していたから。陛下の葬儀を執り行うのはセイロス教だ。だからきっと、今頃先生も馬や飛竜を飛ばしてこちらにやってきていることだろう。俺たちがこんな顔をしていたんじゃあの人が悲しめない。きっと俺たちを見て、教師の顔を、大司教の顔を取り繕ってしまうはずだ。だから少しでも大丈夫な顔をしたいのに、ちっとも表情筋が動いてくれない。ああ、先生、先生、早く来て、こんな年になってまで貴方に頼ってしまってごめんなさい、でも、俺たちはもう頼るべきところが貴方しかないんです。ああ、先生早く来て、早く俺たちを導いて。多分俺たち皆がそう思っていた。
 だから、開け放たれた扉を、皆期待を込めて見詰めたのに。
 現れたのは、息を切らして顔面を蒼白にさせるセテス殿だった。目を見開く俺たちに、セテス殿が口を開く。
「ベレトが、」
 その言葉を聞いた瞬間、ああ、と脱力する。あんたはもう、教師を辞めたんですね。大司教を辞めたんですね。導くことを、もうやめたんですね。
 陛下と同じように長い眠りについたと言う先生を思って、俺はそっと目を伏せた。どうか夢の中では、陛下との幸せな夢を見られるようにと、そう祈りながら。


指輪
2020/02/19
 こんな未来を望んでいたわけじゃない。こんな未来を描くことに努力したわけじゃない。
 なのに、なんだこの目の前の光景は。
「ディミトリ」
 俺に気づいた先生が、本当に嬉しそうに目を細めて振り向いた。その端正な顔にはべっとりと血がこびり付いており、顎から真っ赤な雫が滴っていた。その赤く染まったキャンパスの中で、唯一美しく光る橄欖石色の瞳が幸せそうに細められる。
 先生、と確かに呼ぼうとした。
何故、と確かに問おうとした。
 それなのに俺の口はただ戦慄くのみで一向に言葉を紡げない。目の前の光景が信じられなかった。血を浴び死体の中で微笑む先生を現実のものと思えなかった。確かに先生はかつて灰色の悪魔と呼ばれ、戦時中も鬼神のような強さを誇っていた。けれど、こんな風に死体の真ん中で笑う人ではなかった。こんな風に、人を殺す人ではなかった。
 呆然とする俺に、踊るような足取りで先生が近づく。思わず後ずさった俺に、先生はきょとんとした後、ああ、と納得したように頷いてから血にまみれた頬を拭った。俺が血に汚れるのを厭って後ずさったと思ったのだ。今更血など恐れない。今更血など厭わない。
 今、俺が恐れているのは、目の前の、
「これでもう大丈夫だよな」
 先生がうっとりと笑って、俺の頬を撫でる。あたたかい手。確かにあの時俺を救い上げてくれた、女神の手。
 それなのに、俺の身体は触れられた瞬間すさまじい速度で怖気が走った。
 これは誰だ。これは何だ。これは、いったい、
「お前を王たらしめる者はこれで全部殺した。お前は自由だ」
 女神のように先生が微笑む。血にまみれた顔で、俺が大好きだった笑顔を見せる。それは親に褒めたがられている子供のように無垢で、幼気で、それ故に残酷だった。
 こつん、と掌から何かが零れる。指輪だ。あの日、女神の塔で先生に渡そうとして、それでも渡せなかった銀色の指輪。
 ああ、先生、俺は、
「これで俺を選んでくれるだろう、ディミトリ」
 俺はいったい、どこから間違ってしまったんだ?



さよなら今生、また来世(ディミ←レト)
2020/02/19
 くだらない。くだらない。くだらない。何が王だ。何が大司教だ。初めからこうしてしまえばよかったんだ。すっかりしぼんでしまった身体に短剣を突き刺しながら、俺はなんだか声を上げて笑い出してしまいたい気分になった。最初は勢いよく出ていたのに今ではとぽとぽと力なく溢れる真っ赤な血を撫でながら、なんでもっと早くこうしておかなかったのだろうと俺はひどく後悔した。いつまでもそんな考えに至らなかったから、ディミトリは俺の手を離れて別の女と結婚して子をなして、その上勝手に死んでいこうとした。そんなこと許されるはずがない。女と結婚すると聞いたときだって、子供ができたと微笑んだ時だって俺は本当は叫び出してしまいたかったのだ。それを押さえて、大司教の顔をして結婚式を執り行った、彼の子供を腕に抱えて祝福した。大司教なんてくそくらえだ。俺は大司教なんて器じゃない。信仰心もない、人に興味もない、そんな俺が大司教だなんてちゃんちゃらおかしい。なのに周りの人間は俺ほどの適任者はほかにいないだなんて抜かす。目が節穴か飾りなのだろうかと本気で心配した。でもディミトリが、二人でこの国を支えていこうと言うから。そう俺に微笑んだから。だからこうしたのに。だから大司教の座について、興味なんて微塵もない民に微笑んで手を差し伸べていたというのに。俺の前からいなくなる? それも俺に何も言わずに? 問い詰めたディミトリは苦い顔をして、お前に心配をかけたくなかったと言った。嘘だ。シルヴァンにはフェリクスにはイングリットにはドゥドゥーにはアッシュにはアネットにはメルセデスには府連には言っていたくせに。単純な話だ。俺がディミトリのテリトリーにいれてもらえていなかったからだ。俺はディミトリにとってそこまで近しい人間ではなかった。それが分かった瞬間、血液という血液が沸騰した。目の前がちかちかと赤く点滅し、脳みその裏側がぞわりと泡立った。そんなこと、許されるはずがない。女を娶って、子をなして、その上勝手にいなくなるだなんて。許されるはずがない。許されるはずがない。短剣を振りかざしたのは衝動的なものだった。けれど遅かれ早かれこうしていただろうという確信が自分の中にあった。逃がして堪るものかと思った。これは、俺のものだ。俺の男だ。いつの間にか俺は返り血で真っ赤に染まっていた。でもこれもディミトリのものだと思うと怒りがふつふつと沸いてきた。血も髪も目も鼻も口も胴も足も腕も内臓も何もかも俺のものだ。俺のディミトリだ。ばたばたとこちらに駆けてくる足音がする。あまり大きな音を出したつもりはなかったが勘づかれたのだろう。刃こぼれを起こした短剣を下ろし、自分の下に横たわる愛しい男の身体を見詰める。青い隻眼はうつろに宙を見、最後まで俺を見てくれなかった。もっと早くこうしていたら、ディミトリは俺の手を取ってくれたのだろうか? ディミトリは俺とともに生きてくれたのだろうか? 分からない。けれど、もう終わったことだ。俺は首に短剣を掲げ、うっとりと囁いた。
「次の世界では、俺を愛してくれ、ディミトリ」
 もうずっと前から愛していたよ、先生。
 どこかでディミトリの声がする。幻聴だ。ばかばかしい。俺は自分の首に短剣を突き刺した。

  

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