不感症の先生の話(ディミレト)
2020/03/05
 別に、この身体を不便だと思ったことはない。昔連れらて行った娼館の女たちには口々につまらないと言われたし、誘われれるがままに男に抱かれたときも同じ男と二度目はなかった。俺にとって性交は面白いものでも快感を伴うものでも不快なものでもなかった。ただ肌と肌を触れあわせているだけで、性器と性器をくっつけているだけで、ただそれだけだった。だから、性交したいという気持ちも、性交で心が満たされるという気持ちも全く分からなかった。それでいいと思っていた。
 でも、今、俺の上で腰を振るディミトリを見ていて、さびしいな、とぼんやり思う。ディミトリは俺に挿入して、それに耐えるような顔をしたから痛いのかと聞くとすぐ出そうで我慢してるんだと恥ずかしそうに言った。我慢はよくないと頬を撫でるとそういう話じゃないとディミトリは顔を真っ赤にさせた。ディミトリは挿入前に俺の身体の至る所に触った。男の身体を触っても面白くないだろうと言っても俺がやりたいんだと言って憚らなかった。なんの反応もしない俺の性器を見て、やめようかと眉を下げるディミトリになんだか言いようのない衝動を感じて、やめるなと俺はディミトリの手を取っていた。やめるな、このまま続けろ、俺を抱け。そんな、なんだか無理やりみたいな感じでディミトリに挿入させた。やっぱり快感もないし苦痛もない。ディミトリが汗を掻いて顔を赤くさせているのに対して、俺はいつものような顔で汗一つ掻いていない。なんの反応もしない俺の性器を見て、ディミトリがもう一度やめようか、と問うた。俺はそれに首を横に振って、やめるな、とその背中に手を這わせた。ディミトリは少しだけ考えた後、ゆらゆらと腰を揺らめかせた。先生、先生とディミトリが俺に縋る。俺はその背中を撫でる。熱い身体だ。俺の冷たい身体とは違う。あったかい、と零すと、ディミトリは苦しそうな顔で先生もあったかいよと言った。そうだろうか。ゆさゆさとディミトリに揺さぶられながらぼんやり考える。別に、この身体を不便だと思ったことはない。昔連れらて行った娼館の女たちには口々につまらないと言われたし、誘われれるがままに男に抱かれたときも同じ男と二度目はなかった。俺にとって性交は面白いものでも快感を伴うものでも不快なものでもなかった。ただ肌と肌を触れあわせているだけで、性器と性器をくっつけているだけで、ただそれだけだった。でも、今なら、どうして肌を触れあわせるのか、分かる気がする。ディミトリが呻いて俺の中に射精するのを感じながら、俺は産まれて初めて、さびしい、と強く思った。


ディミレト
2020/03/05
「世話が焼ける」
 とん、と。
 闇に落ちそうになっている意識の中、場違いなほど軽い足音が顔の横でした。地面に伏していた顔を必死に上げると、そこにはいつもの無表情で立っている先生がいた。先生。声に出したはずなのに、唇は動かずただただひゅーひゅーとか細い呼吸を零すだけだった。当然だ。腹に穴が空いて、向こう側が見えるほどになっている。即死じゃなかったのが奇跡であるほどだ。先生はそんな俺の状態に特に驚くこともなく、ただ淡々と俺を見下ろした。
「お前、このままだと死ぬぞ」
 そうだな、と視線だけで返し、口端を動かせるだけ動かして笑みを象る。そうだな、俺は死ぬ。でも、死んでもいいと思うんだ。だって、俺のおかげで国が救える。王としてこんなにも喜ばしいことはない。微かに上がった口角を、先生はきちんと認識してくれたようだった。いつもの淡々とした無表情のまま、先生は俺を見詰める。
「ここで死んで、満足したいのか、お前は」
 ああ、そうなのかもしれない。俺はここで死んで、許されたいのかも知れない。全てのものに。あの日死んでいったもののために。ここで綺麗に、終わりたいのかも知れない。
「ディミトリ」
 先生の声が、慈悲深く俺を撫でる。ああ、やはり先生は女神だったのだな。得体の知れない人だと思って、最初は距離を取っていた。でも、先生をいつの間にか好きになってしまった。女神に恋をした人間の末路としては、上出来じゃないだろうか。先生の胸の中で死にたいな、とぼんやり思った。先生のあたたかい腕の中で死ねるのならば、こんな幸福なことはない、と。
 ああ、いよいよ視界が狭まってきた。痛覚ももうない。ただぽっかりと腹に穴があいて、そこに空気が流れ込んでくる感触だけが感覚を支配する。
 ようやっとの終焉だ。ようやく、終われるのだ。それも、愛しい人の前で。
 満足感と幸福感に包まれ、そ、と目を閉じようとしたときだ。
「そんなこと、俺が許すと思うなよ」
 きゅぽん、と。
 まるで瓶のコルクを抜くかのような音が、鼓膜を刺激した。次いで、びしゃびしゃと何かが自分に降りかかる感触。その液体を被った途端、暗かった視界が明瞭なものになる。まるで暗がりに蝋燭を立てられたかのようだ。目を見開いて、先生を見上げる。
「ここで終わりだと思うな。ここで終わらせてもらえるなどと思うな。そんなこと、女神が許しても悪魔は許さない」
 先生は、自分の左手を右手で持って、その断面から滝のように血を流させていた。非現実的な状況に、混乱する。先生は、自分の左手を自分でもぎって、その断面から流れる血を俺に降りかからせていた。みるみると俺の身体の傷が治っていくことに、目をも開く。
 数十秒もしないうちに身体が治り、腹に穴が空いていたことなんて今や千切れた服しか証明してくれない。訳が分からず混乱する俺をおいて、先生は俺の身体が治ったことを確認すると、きゅぽん、と軽快な音をさせて、千切った左腕を左肩に接着した。未だ倒れたままの俺の顔を覗き込み、先生はいつもの無表情で、堂々と宣言した。
「それに俺はまだ、お前とえっちがしたい」
 だから生きろ。
 ぽかんとする俺をおいて、先生は俺を担ぎ上げた。俺はお前の性欲のために生き返らせられたのか、と呆然と問うと、性欲は人間の三大欲求だと先生は悪びれもなく言った。
 そんなわけで、俺の死はやっぱり今回も回避させられてしまったのだった。


ファムファタール(ディミレト)
2020/03/04
「なんで殿下は先生についていくんですか」
 とある日のことだった。俺はもう自分の仕事を終えていて、煙草を吸っていて、でも暇で、そこでたまたま別の部屋に這入る殿下の背中が見えたから追っかけて、今、じゃばじゃばと死体を洗っている殿下の後ろで壁に寄りかかって立っている。殿下はちらりと俺を一瞥して、でも、それだけだった。何も言わず、ただ淡々と死体を洗っている。死体には、首に一筋、綺麗な曲線ができていた。一瞬傷跡だと分からないくらい、綺麗な切り口だ。先生、相変わらず綺麗に人を殺すなあと感心した。ここの人間は、結構、ぐちゃぐちゃにして殺すから、先生の殺し方は重宝されているのだ。ぐちゃぐちゃにした人間は、そりゃ、食人愛好家だとか、肉塊にしか興奮できない人間だとか、人肉の灰を撒けば野菜がよく育つとか思ってる狂人だとかに売ればいいのだけれど、でも、どうしても綺麗な死体が欲しいという依頼主もいるから、そういう人のために、先生は雇われている。先生の殺した死体は、とても高く売れる。だから先生の作った死体しか処理したくないという殿下の我儘も、無事通っているのだ。
 殿下は無言で死体を洗っている。俺は殿下の背中を見ながら、ぼんやりと、まさかあんなに純粋そうな子供がこの仕事を五年も続けられると思っていなかった、と思う。だって、五年前の殿下はまだ高校生で(俺もまだ大学生だったけれど)、いかにも育ちがよさげな雰囲気を出していて、この部屋をあてがわれて最初に死体を見せたときだって吐いていたのだ。なのに今、殿下は慣れた様子で躊躇いもなく裸の死体を洗っている。じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ。猫足のバスタブに死体を沈めながら、殿下は無心で死体を洗っている。
 俺は最初、多分この子はだめだなあと思っていた。すぐに逃げ出して、で、殺されてしまうんだろうなあと同情していた。確かに、この仕事は大金が手に這入るから、やりたがる人間も多かったし、望んでいないけれど金が必要だからやろうとする人間もいたけれど、だいたい、一ヶ月もしないうちに逃げ出してしまうのだ。まあ、確かに、殺人鬼が作った死体の処理なんて、まともな頭をしていたら無理だろう。それに、この屋敷には、処理する死体を作った殺人鬼が普通に出入りしている。発狂するなと言う方が無理だった。
 だから、先生に連れられて固い表情で俺の前に現れた殿下を見た時、心底可哀想だなあと思ったのだ。先生はあれで、男女ともにもてるから、愛しの先生のためにこの仕事に就こうとする人間は何人もいた。だから殿下も、そういう人間の一人だと思って、侮っていたのだ。同時に、先生は本当に魔性だなあだなんて思った。先生は、確かに綺麗だけれど、見てくれが綺麗な人間なんてごまんといる。その中で、先生は女神様みたいに輝いている。先生がいったいいくつで、いつから人を殺しているのか俺は知らないけれど、でも、この屋敷の中で一番人を殺しているのだろうなあと直感する。だから、先生の死体の処理係は、たいてい数人配置されるのだ。本来ならば、専属の人はつかない。皆で分担して、処理をする。なのに殿下は、最初っから頑なに一人でやりたがった。青い顔をして、子犬みたいに震えているのに、そこだけは絶対譲らなかった。どれだけ吐いても、殿下は死体の処理をやめなかった。それが、五年も続いている。確かに、あの頃の純粋な殿下はもういないし、目も荒んでしまっているけれど、でも、殿下は絶対に処理を怠るようなことはしなかった。
 俺は煙草を吸っている。殿下は死体を処理している。すうすうという俺の煙草を吸う音と、じゃぶじゃぶという殿下の死体を洗う音が部屋に木霊する。
 俺は、先生と殿下の関係がどのようなものかよく分かっていない。先生は死体を作るだけだし、殿下は死体を処理するだけだしで、あまり会話はない。俺が殿下に死体の処理を教えたから、その縁で見かけたら声をかけるけれど、この仕事は不規則だし、部屋が割り当てられているから、鉢合わせる頻度はそう多くない。まあ、毎日のように先生は死体を作ってくるから、たいてい、殿下はこの部屋にいるのだけれど。だから、会おうと思えば殿下には普通に会いに行ける。会話をしてくれるかはともかく。
 そんな関係だから、俺は先生と殿下がどんな風に日々を送っているのか知らないのだ。二人で、どこかに住んでいるのだろうな、とは思うけれど(処理を終えた殿下を、先生は絶対に迎えに来るから)、でも、それ以上のことは何も知らない。先生と殿下が恋人同士なのか、そうじゃないのか、キスはするのかセックスはするのか、そういうことは何も知らない。
「先生と、セックスした?」
 死体を洗い終わったのか、殿下はざぱりとバスタブから死体を上げて、乾燥機に移した。スイッチを押すと、ぶいいいん、と機械が起動する音がする。殿下の仕事は、ここで終わりだ。あとは、乾燥機から上がった死体を、別の人間が依頼主に運ぶだけ。くるり、と殿下が振り返った。この五年で身長も髪も伸びた殿下は、見詰めるだけで迫力がある。先生よりも、殿下が死体を作っているという方がしっくり来る人間は多いだろう。
「どうしてそんなことを聞く」
 まさか返答があると思わなくって、俺はまんまるに目を開ける。殿下は俺に近づいて、一本、俺のポケットから煙草とライターを盗み出すと、それを口に咥えて火をつけた。立ち上る紫煙を見詰めながら、なんででしょうねえ、と俺は肩を竦めた。別に俺は、先生をそういう意味で好きじゃない。でも、五年も先生の傍にいるのは殿下が初めてだから、興味があったのかもしれない。あの殺人狂と一緒にいる人間というのは、どんなものなのかしら。そうして、あの殺人狂とのセックスは、いったいどんなものなのかしら。
 殿下はうろんな顔で俺を一瞥してから、静かに紫煙を吐き出した。どうやら、今日は俺と喋ってくれる気分らしい。
「いや、先生と一緒にいて狂わない人、初めてだったから」
 素直にそう言うと、殿下は自嘲したように笑った。俺は、殿下が笑ったのを見たのは初めてかもしれない、とぼんやり思った。
「俺が狂っていないと、どうして言える?」
 まあ、確かに、死体を処理している時点で狂っていないとは言えないかもなあ、と紫煙を吐き出した。それも、殿下は恐らく、望んでここにいる。先生だって、あれで意外と常識的なところがあるから、殿下を連れてくるのは渋ったはずだ。その腕にしがみついて、ここに来たのだから、確かに狂っていると言えるかも知れない。
 俺は、確かにここにいる人間、全員狂ってますよねえと返した。でも、殿下の狂ってる、はこの状況に狂っているんじゃなくて、先生に狂っているんだからたちが悪い。先生と出会わなければ、殿下は今も好青年として世を堂々と歩けていたはずなのに。
 その生活を捨ててまでどうして先生についていくのか、俺には分からなかった。俺だったら、絶対に日の下にいたいと思う。こんな、毎日のように死体を処理する仕事なんて、就きたくない。なのに殿下は自らこの世界に飛び込んできた。先生と一緒にいるために。
「どうして殿下は先生と一緒にいるんですか」
 この質問は、先生についてきた他の子たちにも尋ねたものだった。好きだから。愛しているから。一緒にいたいから。他の人間はそう訴えて、でもすぐに狂って、自分たちが昨日まで処理していた死体の一つになった。先生はその子たちが死んでも、特に何も思っていないようだった。ただ不思議そうな顔をして、狂うくらいならば最初からやらなければいいのにと呟いていた。女神様は、とことん残酷らしい。
 殿下が静かに紫煙を吐き出す。しばらく経っても返事がないから、地雷踏んだかなと危ぶんだ頃合いに、殿下はぽつりと言った。
「あの人を、助けたいから」
 俺は驚いて、ぱちりぱちりと瞬いてしまった。先生を助けたい? 俺が思わずそう零すと、殿下はどこか遠くを見ながら、「ただの恩返しだ」と言って、煙草を床に放って靴で踏み潰した。助ける。恩返し。どうしても先生と結びつかない言葉に、怪訝な顔をした時だ。扉が、ぎいい、と開いた。ひょっこりと、先生が顔を出す。先生の目立つ色の髪が、さらさらと揺れて蛍光灯の光を反射した。
「なんだ、シルヴァンも一緒なのか」
 先生は、俺がいることに目を丸くしてから、すぐに殿下に視線を移して殿下にとたとたと走り寄った。そうして殿下の手を取ると、帰ろうと殿下に言う。殿下の、さっきまでごっそりと感情が抜け落ちていた顔に、みるみると生気が宿って、先生に柔らかく微笑む。
 先生が殿下の手を引きながら部屋を出て行くのを、ただぼんやりと眺める。ぶううん、という乾燥機の音だけが木霊して、世界で一人きりの気分になる。
 報われないなあ、とぼんやり思った。先生は、誰かを好きになることなんて絶対にないから。だから、殿下にいくら尽くされても、あの人は永遠に人を殺し続けるだけだろう。無垢なままに。殿下の思いに気づかないままに。所在なさげに、新しい煙草を取り出した時だ。ばたん、と扉が開いて、先生の橄欖石色の髪がまたひょっこりと顔を出した。目を丸くする俺を、先生の綺麗な目が射止める。
「ディミトリは、あげないぞ」
 幼い口調で、それでもはっきりと、先生は言った。目を見開く俺を、おいて、先生はさっさと扉を閉めて去ってしまった。はあ、と煙草に火をつけた。ポケットからスマフォを取り出し、電話をかける。不機嫌そうな声が返ってきて、俺は苦笑しながらなあフェリクス飯行かねえと提案した。約束を取り付けて、火をつけたばかりの煙草を床に落とす。
 なんだ、両思いなんじゃん、心配して損した。
 フェリクスとどこに飯食いに行こうかなあ、と考えながら、俺は扉を開く。
 背後では、死体が乾燥機にかけられるぶううん、という音が、いつまでもしていた。


煙草
2020/03/01
※現パロ
※ディミの息子と先生の話

 その家にはいつも紅茶の匂いがした。だから先生からもいつも紅茶の匂いがする。けれどそれにはひとつ、別の匂いが混ざっている。煙草だ。先生が煙草を吸っているところは見たことがないけれど、いつも抱きつくと煙草の匂いがするので俺の知らないところで吸っているのだろうなあと思う。先生はきっと、自分の身体から煙草の匂いがすることを知らない。先生は清廉潔白で世の中の汚いことなんて何も知りません、みたいな顔をしているのに、煙草の匂いがする。そのギャップが、ああこの人はちゃんと人間なんだなあと俺を安心させる。
 先生は橄欖石色の髪と目を持つ不思議な人だけれど、取材を受ける時はウィッグを被って髪色を誤魔化している。そんなことしなくていいのに、と俺は言うけれど、こんな奇抜な色じゃあ目立つだろうと先生は言う。奇抜。あんなにも綺麗なのに勿体ないと思う。でも同時に、先生のことが好きで好きで堪らないファンたちは先生の本当の髪色を知らないのだと思うと優越感が湧いてきて、俺はいつもにこにこしてしまう。そんな俺を先生は不思議そうに見た後、優しく頭を撫でてくれる。俺はその瞬間が一番幸せだった。
 先生は小説家をしている。どんな本を書いているのと聞いたときに渋々自分の本を渡してくれたけれど、難しくてよく分からなかった。映像化されている作品もいくつかあったから、映画なら見られるだろうと思ってショップで借りようとしたら発禁がかかっていて借りられなかった。先生、どんな本書いてるの、ともう一度聞くと、お前がもう少し大人になったら教えてあげるよと言われた。悔しい。
 先生は俺の親じゃないし、親戚でもない。俺たちは血の繋がりが何もないのに、一つ屋根の下に暮らしている。編集の人と初めて会ったとき、その人は白目を剥いて倒れかけた。先生犯罪はまずいですよとまくし立てるその人に、先生はあっけらかんとしばらく預かることになったとだけ言った。預かる。その言葉に、俺は唇を噛みしめた。俺だって、先生をまだ家族だと思えるわけじゃないけれど、そうはっきりと言われるとなんだかもやもやと胸の中で何かが渦巻いた。
 先生は死んだ俺の父親の知り合いだったらしい。けれど、ただの知り合いじゃなかったことはなんとなく察している。だって、ただの知り合いに、自分が死んだら息子を引き取って欲しいだなんて遺言書、普通残さない。だから何度か、先生と父上はどんな関係だったの、と聞いたことがあるけれど、知り合いとしか返されなかった。多分、聞かれたくないことなのだろうなと思って、最近はそのことについて尋ねていない。
 先生と初めて会ったのは両親の葬式でだった。黒ばかりの式場に、彗星のように先生が現れたのを今でも覚えている。先生は誰が俺を引き取るかで揉めに揉めている(両親が俺に多額の財産を残したから、皆俺を引き取りたがったのだ)親戚をかき分けて、静かに棺の中に眠る父上を見下ろしていた。静かに祈りを捧げ、そうしてぼんやりと椅子に腰掛けている俺の前に歩いてきて、先生は静かに俺に手を差し伸べた。そっと先生を見上げると、先生は無表情だったけれど、確かに優しさを滲ませて、俺を見詰めてくれていた。両親が死んでから、親戚は皆俺に残された財産の話ばかりしていて、誰も俺を見てくれなかった。俺の世話をしてくれたのはもっぱらシルヴァンやフェリクスで、他の人間は誰も俺のことなんて気にしていなかった。
 先生の手を取って、不意に涙が零れた。その涙はとどまるところを知らず、ぼたぼたと溢れて、俺の顔をぐちゃぐちゃにした。先生はそんな俺を抱き留めて、もう大丈夫だよと俺の頬を拭った。
 ディミトリに、頼まれていたんだ。自分に何かあったら、お前を頼むと。
 先生はそう言って俺の頭を撫でた。貴方はだあれ、と言うと、先生は小さく微笑んで先生だと言った。そうやって俺は先生に引き取られた。家族には、まだなれていない。
 俺の一日は先生を起こすところから始まる。先生は夜の方が筆が乗るタイプらしく、深夜に仕事をすることが多かった。だから朝は苦手で、そんなに起きるのがつらいならば起きなくて大丈夫だよと言っているのに絶対起こしてくれと俺に言う。だから俺は、先生を優しく起こしてやる。先生、朝だよ。そう揺すると、先生はどんなに小さな声でも必ず目を覚ましてくれる。眠気眼を擦って、おはようと言う先生におはようと返す。俺が顔を洗っている間に、先生は朝ご飯の支度をする。俺にはパンとスクランブルエックを作ってくれるのに、先生は紅茶だけだ。食べないの、と問うと、朝は食べられないんだと先生は言う。紅茶を眠たそうに飲む先生からは、やっぱり煙草の匂いがした。
 先生を起こして顔を洗ってご飯を食べたら、俺は学校に行く。先生は二度寝をする。健康に悪いよ、と何度か言おうとして、でも俺にそんなこと言う資格があるとは思えなくて、喉の奥でその言葉はつっかえる。靴を履いて、ランドセルを背負っていってきますと言うと、先生は絶対に玄関まで送って俺にいってらっしゃいと言ってくれる。俺は先生にもう一度いってきますと言って学校まで歩きながらぼんやり考える。先生と俺って、いったいどんな関係なのかしら。先生と父上って、いったいどんな関係だったのかしら。分からない。先生がどんな気持ちで俺を引き取ったのかも、俺にはさっぱり分からなかった。だって先生は、出した小説がいくつも映像化されてて、取材されてるくらいで、全然お金に困ってる風ではないのだ。何より、どうして父上は先生に俺を託したのかしら。シルヴァンやフェリクスに聞いても、ふたりとも苦い顔をするばかりで何も教えてくれない。ただひとつ、シルヴァンがぽつりと零したのを聞いたことがある。
 あの人、煙草なんて吸うようになっちゃったんだな。
 それがなんだかどうしようもなく悲しげな声で、俺はそれを聞いていないふりをするしかなかった。
 先生。先生。先生。小説を書いていて、有名人で、俺を引き取ってくれた不思議な人。
 先生と俺との関係。先生と父上との関係。それを知ったとき、俺はちゃんと先生と家族になれるんだろうか。
 そんなことを思いながら、小道にあった石をこつんと蹴った。石は力なく転がっていき、ぽちゃんと排水溝に吸い込まれて消えていった。


いきたくない(ディミレト)
2020/02/28
そんなに不安ならば鎖で繋いでおけばいいのにと呟くと鎖なんかでお前を繋ぎ止められるはずがないさとディミトリは笑った。ディミトリはおれを勘違いしている。おれは確かに強いけれどそれは剣術や体術が優れているというだけで単純な力比べでいったらディミトリにぺしゃんこにされてしまう。なのにディミトリはおれを恐れる。おれがどこかに行ってしまうことを恐れている。そのくせ簡単な鍵がかかった部屋におれを閉じ込めるだけで足の腱を切ることも鎖で拘束することもない。お前は優しいなと言うと臆病なだけさとディミトリは笑った。確かに臆病なのかもしれない。ディミトリは恐れている。おれが遠くに行ってしまうことを。どこかに行ってしまうことを。ごほりと咳き込んで口を押さえると掌が真っ赤に染まった。慌てておれの背中を撫でるディミトリに、やっぱり鎖をつけてくれないかとおれは言った。おれが女神にさらわれないように、鎖で繋いでくれないか、ディミトリ。ディミトリの唇がきゅっと結ばれて、今なら女神も殺せそうだとディミトリは泣きそうに笑った。あと何度その笑顔が見られるのだろう。あと何度その温もりに触れられるのだろう。
遠くに行きたくないな、と思って、おれはディミトリにやっぱり鎖で繋いでくれと言った。ディミトリは笑って、大丈夫さ先生、先生が遠くに行ってしまってもおれはすぐに追いつくよと言った。ならば確かに、鎖なんていらないかもしれない。傷一つついてない自分の足を指でなぞって、でもディミトリには長生きして欲しいなとぼんやり思った。おれが死ぬ一週間前のことだった。

  

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