聖者の入信

日曜日、時刻は午前十時を過ぎた辺り。
必要な荷物を持って学生寮からここ、研究棟の一室へと足を運んだ私は、木製のドアを三度ノックし返答を待った。

「…………」
「……………………」
「……はぁ、あの人は全く」

返答は無い。当たり前のように。

なので仕方無く、いや…本音を言えば罪悪感など欠片も抱かずに、私は木製のドアを開いて勝手知ったる師である土岐つがるの研究室へと足を踏み入れた。

「土岐先生、おはようございます。七海です」
「……スピョ…スー…」
「はぁ…もう昼の十時ですよ、顔を洗って歯を磨き、朝食を採ってくだ…さいっ!」
「おわあっ!??」

バサリッ。
ソファの上で毛布を被り、気持ち良さそうに惰眠を貪る師から、その安眠の最たる材料である毛布を無理矢理に剥ぎ取った。
それにより目を覚ました師は、驚いて身体を起こし、寝惚け眼をしばたたかせながらこちらを見上げて嫌そうな表情を浮かべてみせる。

「……おはよう、七海建人。全く…今日も朝からご苦労さまなことで…」
「はい、おはよう御座います先生。本日もよろしくお願い致します」

モズの巣みたいな寝癖に、シワの寄った白いシャツ。机には山積みの専門書と、昨夜飲み残したと思わしきウイスキーの入ったグラスが一つ。
窓から入る光は静かに柔くカーテン越しから差し込んでおり、窓の外の明るさと比例するかのように室内の片隅には闇が深く落ちていた。

ここはそう、私の担任であり、私が師と仰ぐ土岐先生の研究室。通称、魔女の部屋。

私はここで、高専で授業の無い日曜に限り、土岐先生から呪術に関する不可思議で面白い講義を、個人的に受けていた。



………




先生が私にこうして日曜に講義をしてくれるようになったのには、理由がある。
しかし、それを話す前にまず『土岐先生』について軽く語らせて貰いたい。

灰原と私、二人だけの生徒を受け持つ学年の担任となったその人は、若い女性が着るには些か渋いスーツを着こなした呪術師だった。
春、小鳥囀る桜散る頃。私達生徒二人にとっての初めての授業は開始された。

最初の授業内容は呪術と言葉の関連性、及びその歴史についてだった。


「呪術にとって言葉はとても大切なものだ。言葉のあるなしで術の質が変わるくらいにはね」

呪術と言葉の歴史は古くから存在するが、その中でも最たる有名な呪文は「アブラカダブラ!」だろう。

そう語る先生は、黒板に白いチョークで『aura k' daura』と書き記す。

「アブラカダブラは元々アラビア語でね、意味は"私の言葉通りに物事は創造される"という意味だ」

だから呪術を使う時は、歴史や知識よりも言葉そのものの方が大切なんだよ。
だってほら、言葉を紡げなければ意思の疎通が出来ないのが人間だろう?言葉を操らずに呪いを振りまいたら、それは呪霊と同じさ。

だから言葉を大切に。
朝の挨拶も、親切への礼も、同様に。
目には見えないけれど、言葉には確かに力が宿っていて、言葉によって世界は創造されていくのだから。


…そう語る先生の言葉に、私は確かに何かしらの力を感じた。

自分でいうのも何だが、捻くれた中学時代を送っていた私には、尊敬する教師や大人という存在がいなかった。
中学レベルの勉強は一人でも問題無く出来ていたし、教師の大体は目立つ髪色について異質な物を見る目を向け、時には態度に表し接してきた。
馬鹿馬鹿しいと思った、大人達を。
学校とは小さな社会で、教師は上司だ。髪色と目付きの悪さだけを理由に…努力ではどうにもならない問題を理由に、私は小さなトゲを何度も何度も何度も刺され続けた。
例えそうじゃなくとも、皆一度は私に奇異な視線を向けてくる。
お前は普通じゃないのだと、目を付けられても仕方ないのだと訴えてくる。

そんな小さく理不尽な社会から脱し、やって来た高専で出会った新たな担任は、私の容姿も生まれも何もかも、一つたりとて気にせず差別せず、特別扱いもしない人だった。

ただ教える側の人間として、大人として、子供を導くために己が持つ知識や技術を授ける。
初めての土岐先生の授業でその在り方と知識量に尊敬の念を抱いた私は、先生に対しては積極的に質問をしにいった。

しかし先生は中々に忙しい人で、教師と呪術師、そして探偵業を熟しているため私に割く時間など無いに等しかった。
そのため、どうしたら色々と教えて貰えるかを考えた私は、他の職員に「土岐さん?ああ…あの人ね、休日は基本的に自分の研究室に引き籠もっているはず」との情報を聞き出して、休日に先生の部屋まで足を運んだのだった。

だが、そこで見た光景といえば…今までに見たことがない程に酷い光景だった。

積もった埃、出しっぱなしのティーカップ、椅子に放り投げられたネクタイ、重なり合った衣服の山。
本や資料は床にうず高く積み上がっており、どれ程の価値があるか不明な物品があっちこっちに捨て置かれる中、部屋の隙間にイモムシのように毛布を纏って惰眠をむさぼる先生は、教師としては尊敬出来ても、人としては全くもって駄目な部類の人間だった。

「…酷すぎる」
「……んっ…誰か、来たの…?」

ムクリ。
本と本の間から、寝惚け眼を擦りつつ身体を起こした土岐先生はあまりにも見窄らしく、絶対人前に出してはいけない状態であった。

その瞬間私は思ったのだ。
私が何とかしなくては、と。

「あれ、七海くん…おはよう。それで、休日に何しにこんなとこへ」
「おはよう、ございます……あの、授業の質問が、あって…」
「え〜〜???今日休日だよぉ〜〜?先生、お休みの日なんだけど…」

そしてさらに理解した。
この人、教師としてしか尊敬出来ないどころか、休日はとことんダメなのだと。

「それは、そうなんですが…」
「あとね、見てご覧この部屋の有り様を!こんな状態で授業か何かが出来ると思うかね?無理だろう。うん、無理だな、これは」

ハハハッ、はー……どうしよ…。

自信満々に部屋の惨状を訴えたかと思えば、笑いだし、そのまま土岐先生はヘコんだ。

「どうしよう、とは?何か問題が?」

凡そ問題しかない部屋の惨状について、私は尋ねる。
すると先生は頭をバリバリとかいてから、重たげな溜息を吐いてその場から仕方無さそうに立ち上がった。

「夜蛾さんに片付けろと再三言われていてね、片付かないなら研究室を取り上げるとも…」
「それは困るのでは?」
「困るねぇ…でもね七海くん、私は片付けが出来ない人間なんだよ」

今まで被っていた毛布をグルグルに巻いてその辺へ捨てた先生の言葉には説得力がある。
いや、説得力しかない。授業においても現状においても、彼女は常に説得性のあることしか言わず、我々はそれに納得するしかないのだ。

先生は話を聞く私に、「ついでに」と続けて言葉を紡ぐ。

「料理も無理だ、センスが無い」
「なるほど、生活力が無いんですね」
「見損なっただろう?」
「いえ、土岐先生にも欠点があるのだと知れて少し安心しました」

そう、私は失礼にも少しばかり安心したのだ。この人にも人間らしい欠点があると知って。


土岐先生は呪術界ではちょっとした有名人で、他方面から頼られることの多い存在だった。
だが、それと同次にやっかまれることも多く、彼女の知識量や立ち位置から人々は尊敬と嫌味を込めて『魔女』と呼んでいるのを私は知っていた。

聡明で知識人。誰を批難することもなく、差別することもなく、特別視することもない人。
若い容姿はどこか神秘的で、香るマジョラムの香水はより彼女をミステリアスに感じさせる。

同じ人間とは思えないほど遠くに感じていた先生は、しかし、生活力の無いただの駄目な大人であった。

なので、私はそこをここぞとばかりに突いてやったのだ。自分のために。

「土岐先生、私が片付けを手伝います。必要であれば、食事も」
「いや、流石に悪いよ…」
「その代わり、私に授業の続きをして下さい」
「おっと…交換条件と来たか、なるほどねぇ」

先生はふむ、と顎に手をやる。
そして改めて自分の部屋の惨状をグルリと見渡し、乾いた笑いを溢した。

「いやでも、これだよ?何とかなるかな?」
「灰原も呼んで二人がかりでやれば、何とか」
「そうかそうか…うん……」

暫くそのまま考え込んだ先生は、あっちこっちに目線を動かした後に一つ頷くと、「分かった」と言った。

「なら、報酬を支払おう。七海くんには君が望む講義を、灰原くんには…何が良いかな?」
「本人に聞いてみます」
「うん、そうしてくれ」

こうして私と灰原は土岐先生の酷い有り様の部屋を掃除することとなった。
ちなみに結局灰原も「先生の話が聞きたいです!」と、結局は私と同じ対価を望んだことにより、この日から先生は度々『日曜呪術教室』を開催するはめになるのであった。

余談だが、灰原が先生の部屋を初めて見た感想は「台風のあとより酷い」だった。



………




顔を洗って着替えてきた先生の前に、バターの塗られたトーストと堅焼きの目玉焼き、ミルクのたっぷり入った珈琲とハチミツの掛かったヨーグルトを差し出した。
椅子に腰掛けた先生は「ありがとね、頂きます」と礼を言ってから食事に手を付ける。

「あー…美味しい、良い朝だなぁ」
「いえ、もう昼です」
「良い昼だなぁ…このまま二度寝してしまいたいくらいだよ」
「しないで下さい。というか、させません。今日は事件について下調べに行くと言っていたでしょう」

ムニャムニャと眠たそうな声を出しながら、ゆっくりゆっくり朝食を採る土岐先生の向かいに腰掛ける。

先生はズズズ…と珈琲を音を立てながら飲み、トーストを齧り、咀嚼して飲み込む。
休日の朝食(というよりは時間的にはブランチだが、先生は昼は昼で出されれば普通に食べる)は用が無い限り私が用意している。
普段先生は食に関心が然程無いらしく、大した物を口にしていないらしい。
本人は作る気力もなければ、買う気もあまり起きないため、こうして私が作って出す食事だけがまともな飯であり、楽しみなのだとか。
もっとちゃんとしろ、と思う反面、嬉しくも思う。私にとっては尊敬に値する師なのだ。そんな人に必要とされ、褒められれば気分は良いに決まっている。

指先についたトーストの残りカスをパラパラと皿の上に落としながら、先生は食べ終えた食器を重ね、珈琲を口にしてホッと息を吐いた。
そうして向かい合う私に、改めて礼を口にするのだ。

「ありがとう七海くん、君のお陰で良い休日になりそうだよ」
「それは…何よりです」
「おや?照れてる?照れてるね、うんうん…」
「別に照れてません、ただの生理現象です」

それを人は俗に照れているというのだが、反論に反論を返さない先生は「ご馳走さま」と笑って言うだけに留めてくれた。


こうして今週も日曜教室が始まる。
私はこの人から全てを教わるために、この人の生活を支え、温かい食事を用意しているのだった。


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