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回想

私、夏油傑が彼女…禪院甚輝主体の研究所の職員となった時の話だ。
以前別の術師から聞いた「呪いの根本治療」というワードについて、いつか彼女に聞いてみたいと考えていたことを思い出した私は、ナマコを眺めながら鼻歌を紡ぐ彼女に思い切って尋ねてみた。
すると彼女は「方法は幾つかありそうなものだろうけどね、実現は難しいと思うよ」と答えた。

「風邪だってそうでしょ、治すより引く方が遥かに簡単だ。呪いも同じだよ」
「未然に防ぐ方法すら無い…と?」
「どうだろうね、案外湧き水を止める原理と同じだったりして」

椅子から立ち上がり、ホワイトボードの方へとツカツカ歩いて行った彼女を目で追う。
やや染み付いたインク汚れが目立つ白いボードに『パスカルの原理』と書いた彼女は、説明をしながら分かりやすく図解に表していく。

「パスカルの原理…湧き水を止めるためには、水が押し出される圧力より高い水圧力を与えてやるしかない。別の圧力によって流体の方向をコントロールするのさ、そして私はこの原理を呪いにも応用出来ると考えている」

P=F1/A1 (圧力=力÷面積)

流体が密閉容器の中に入れられていて、各分子が静止している場合、あらゆる地点の圧力は等しくなる。
流体の分子に働く力は、あらゆる方向に等方的に伝わることができるが、それが静止している場合、力の釣り合いが取れている状態となる。それはつまり、あらゆる地点の圧力が等しいということだ。

流体 + 密閉 + 静止 =『 パスカルの原理』 = あらゆる地点の圧力が等しい

「際限無く垂れ流される呪力を同等の呪力で押し留めている間に、ジワジワと正の力に分解する。魂に干渉することによって実現するだろうこの式は、根本治療に繋がる一手になるんじゃないかな」

まあ、机上の空論だけどね。

何でもない風にペラペラと解説をしおえた彼女は、ホワイトボードをそのままにナマコの世話へと戻ってしまった。
しかし、その場に取り残された私は適当に書き散らかされたホワイトボードの前から動けなくなった。


これだ、これしかない。


未知の研究と、求める結果の先駆けが彼女の頭の中に存在する事実に高揚する自分が確かにそこには居た。
何度も何度も書き散らかされた文字を目でなぞり、言われたことを脳内で反復する。
だが、理解すればするほどこの研究の結果が出るのかが、どれほど遠く困難な道程かを思い知らせる。
けれど、それでも……甚輝ならば、あのイカれた天才ならば、夢では終わらせないはずだと私は確信してしまう。

きっと今の彼女には、この研究に着手する余裕も興味も金も無い。時間も、人員も圧倒的に足りていない。
だから私が一つ一つ問題をクリアしていき、彼女にこの研究に付かせることがまずは第一関門となるだろう。

研究が実るならば…その先に術師が傷付くことのない、非術師が呪いを生み出さない世界があるならば、私は彼女のために何だってしよう。

私達は運命共同体なのだ。
この研究は必ず行う。私が行わせる。何が何でも、絶対に。
どんな犠牲を払おうと、私はこの研究を諦めたくはない。

私に期待を持たせた彼女が悪いんだ。
道連れにする、どこまでも。決して離しはしない。

だからどうか、私の言うことを聞いて欲しい。
私の期待を、願った未来を、裏切らないでくれ。

この人生を、後悔にさせないでくれ。



___



正直に言ってしまうと、虎杖は同級生である伏黒の叔母を語る少女…禪院甚輝のことが少しばかり苦手であった。
何を考えているのか分からない所も、石のように冷たい、意思を汲み取りづらい瞳も、強い力で触れると大惨事になる身体も、どう接するのが一番良いのか未だ分からなかった。

家族である伏黒は慣れてしまっているのか、急に抱きつかれたり、飛び付かれたり、空から落ちて来たりしても動じることもせずに「何ですか、博士」と親しく接しているが、虎杖からすれば「下手に触ると壊す」「何か言うとすぐ拗ねる」「食べ物では釣れない」女の子相手に毎回悩まされていた。

だからだろうか、無意識に距離を置いていたので実のところあまり彼女について詳しくはなかったのだ。
そのため現在彼は酷く動揺する羽目になった、それはもう…顔を覆いたくなるほどに。

「お前ぇーッ!!お前お前お前ぇーッ!!その魂は私の物だぞ、何してくれてんだクソガキーーッ!!?」
「うわ何その魂キッッッショ!?」
「うるさいぞ呪霊共ォ!!!退け!逝ね!天才様のお通りだ!!」
「え…?何でコイツ魂にナマコ要素が加わってるの…?しかも待ってまずそもそも人間じゃない…?は?俺らより化け物じゃん、こわ」

ヤベェ……仲間だけど何も否定出来ねぇ…。

つい今しがたまで自身の中に宿る呪いの王へ助けを求めていた虎杖であったが、突然窓ガラスをパリーンッッと割って侵入してきた伏黒恵の父親と叔母によって、切羽詰まった空気は強制的に打破された。

暴れる異形と化した順平を押さえつけた甚爾は、キレて呪霊にまでドン引かれる甚輝に「おい、早くしねぇと不味いんだろ」と冷静に声を掛ける。

「分かってるよ!おい、吉野順平!!この天才美少女上司様が、お前をスペシャル作品に生まれ変わらせてあげるからなー!?もうちょっとの辛抱だからなー!?」
「ちょ、え!?甚輝さん!?順平のこと魔改造しないでくれ!頼む!!」

先程までは宿儺に助けを求めて「頼む」と口にしていたけれど、今度は別の頼みを虎杖は口にしていた。
しかしまあ、彼女は一部の評価によると呪霊よりたちの悪い生物であるため、虎杖の悲痛な言葉は全てスルーされることとなったのだった。

これでもかと目を釣り上げて眉間にシワを寄せる少女は、自らを化け物呼ばわりしてきた呪霊にも虎杖にも言葉を返さず、破壊した窓から順平を抱える兄共々さっさと出て行ってしまった。
目まぐるしい状況に置いてきぼりにされた彼等は、ヒュルリと秋風が吹いてきた窓の外を見つめて各々の思いを口にする。

「……あれが、歩く災害系術師…台風みたいな奴だったな…てか何あの魂、きもちわる…」
「ごめん順平、右手がドリルとかになったら俺が止めらんなかったせいだ…」

この日吉野順平は二度に渡り魂を引っ掻き回され、挙げ句の果てに肉体も弄くり回されることとなった。

彼の人生はこれから先、さらに波乱万丈な物になっていく。
それはもう、笑えるくらいの毎日が待っているのだった。


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