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あの時感じた恐怖は、十年たった今も忘れない、いや、忘れられないのだ。痩せ細った貧弱な少女から放たれたおぞましい台詞。
背筋に氷の棒を突き刺されたような、心にじわりと染み込む恐怖。小さな悪魔は、清らかな天使の微笑みを残して彼の前から去っていった。

もう二度と会うことはない、会いたくなんてない。
彼女の記憶と微笑みが脳裏から薄れかけていった、それを狙うかのように運命の女神は残酷な悪戯を仕掛けた。

とある殺人事件の関係者となった『先生』を訪ねて、彼がこの探偵事務所のドアを叩く。
中から現れたのは、一人の美しい娘。
極上なる笑みを浮かべて彼女は開口一番こう言った。

「おじさん、こんにちは。十年ぶりね。」 と……。

かくして、あどけない天使の微笑みに悪魔の魂を宿した少女は、十年の時を経て再び彼の前に現れる。貧民窟で生まれた少女は、名前を変え、過去を変え、すんなりと上流階級に溶け込んだ。身震いするほど美しい女となって。

何故この女を引き取ったのか、再三『先生』に尋ねたが、『気に入ったからだよ』と曖昧な答えしか返らなかった。

「警部さん、紅茶、もう一杯いかが?」

突然聞こえた彼女の声に、彼ははっと我に返る。
些か狼狽えながら首を縦に振れば彼女はソファーから腰を浮かせた。
壁に掛かった古い振り子時計に目を遣れば、ここへ来てから、既に一時間近くが過ぎている。

「なぁ……パティ」

無意識に口からこぼれた台詞に彼はしまった、と言わんばかりの面持ちで唇を噛み締めた。
カップをトレーに乗せた彼女は、薔薇色の瞳をすっ、と細める。

「懐かしいわ、その名前。でも、今はルビィよ警部さん、ルビィ・アンジェラ」

「あ、あぁ、そうだった。すまないルビィ」

取り繕うようにぎこちない笑みを浮かべ、彼は唇を一舐めする。彼女に、どうしても尋ねたいことがあったのだ。

「ルビィ、お前これから心底愛した男が……いや、男でなくてもいい。愛した人間が出来たら、またそいつを……殺すか?」

尋常ではない問いだとはわかっていた。
だが、彼は賭けてみたのだ。
この十年の間で、彼女が普通の、俗に言う『真っ当な人間』に変わっていることに。
そうならば、この十年間顔をあわせる度に感じる『恐怖』から解放されるかもしれない……。

驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間彼女はニコリと笑う。
全てを包み込む天使の微笑みで。

「警部さん、どうして今更、そんな当たり前のことを聞くの?」

その笑みに、返った答えに、全身がぞくりと震えた。
そう、彼女にとって愛することは殺すこと。
愛と死は同意義なのだ。

『恐怖』からは逃れられない。そう悟った彼から紡がれる言葉はもう無い。
ただ表情を凍らせたまま、席を立つ『天使』の名を持つ、麗しき『悪魔』の後ろ姿を眺める。

薄い闇が侵食し始めた室内に、振り子時計が、ボン、ボン、ボン……と気だるげに六つの時報を響かせた。


- おわり -



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