Dessert

店先にかかるopenの立て看板をひっくり返し、店内の照明を一部落とせば、先ほどまで戦場のように慌ただしかった店内が嘘のように静寂に包まれた。
時間は普段の閉店時間よりも一時間以上は早い。これでもかと準備したホールケーキの山がすっからかんになってしまった店内を見渡して、無意識に肩に入っていた力が抜けていく気がする。
世間は師走、かつ年末。一年の中でも最も人々が慌ただしくする時勢、家族や恋人や友人同士で集まっては楽しかったり甘酸っぱかったり幸せだったりいろんなドラマのあるイベントであるクリスマスを迎えていた。パティスリーを経営していく上で最もかきいれ時であるクリスマス周辺はとってつけたかのようなサンタ帽がズレるのを調節している暇もないくらい忙しい目の回る怒涛の日々で、そんな一年で最も慌ただしいイベントがもうあと数時間で終わろうとしている。
予約品は一つを除いてとっくの昔に全て捌き切って、当日分も店に駆け込んで買いに来る仕事帰りのサラリーマンや疲れた顔、ホッとした顔、いろんな表情のお客さんに迎え入れられて全て売り切れた。臨時で入ってくれたアルバイトの子や従業員を見送り、店内に溢れるクリスマス装飾を取り外していけば華やかだった店内も途端に侘しさと言うか、静けさに包まれいよいよ本当にお祭り騒ぎのようなクリスマスの終わりを如実に感じる。アドレナリンが出切っている状態で迎えるこの物寂しさにはどうしたって慣れそうもない。


「……さてと、行こうかな…」


例年と今年が違うのは、全国のパティシエがようやく息をつける十二月二十六日を迎えようとする夜半、私の決戦はこれからだということ。…決戦というと仰々しい。何も今からどこぞの友情努力勝利を謳うバトル漫画よろしくラスボスが待ち受けているわけではない。…いや、あの人はある意味ラスボスといっても差し支えない風貌だなと思うと張り詰めていた気持ちが少しだけ解れた。

キリスト教の信者なんてほとんどいないくせに特別視された魔法のようなキラキラした一日がもう後数時間で終わる。冷蔵庫の中で取り残された、今か今かと出番を待ち侘びている真っ白の箱を取り出して中身を確認した。ここへきてもまだ往生際悪く足踏みをする私を後押しするような完璧に仕上げられたケーキが『ヘタレ』と私を責めているようだ。…コックコートのポケットに入れていた手紙を取り出して短く書かれた『ちゃんと会って話したい』という文字を二往復ぐらいしてから小さく息をつく。まさか五条さんが手紙を書いてよこすなんて……それも何通も。

見かけによらず丁寧に書かれた綺麗な字はどことなく彼の切実な心情をこちらに訴えかけてきているように感じた。初めて私の店に来店した日に『あんた明日から俺の店に雇ってやるよ』なんて粗野で俺様で自己中心的なことを言ってきた男と同一人物とは思えない。
本気かどうかわからない謎のスカウトに対して敬意のない人とは仕事はできないと突っぱねれば不服そうにしながらも毎日毎日懲りもせず店にやってきた彼は次第に一人称を『僕』へ改め、口当たりの良い言葉遣いで話し始めるようになった。そんな軟化した態度に絆されてメニューを考案するぐらいならと受け入れた日から、度々寄せられる好意には気付いていたけれど、彼の悪評轟く女性関係も知っていたので本気にはしていなかった。していなかった、のに…。

彼と一緒に仕事をするようになって、お互いにアイデアを出し合って、一つのデザートを完成させた。それだけじゃなくて、私が店で出してるデザートも忙しいはずなのに改良を手伝ってくれたし、彼が店で出すメニューも私に意見を求めてくるようになった。私みたいなフレンチの知識もろくにない人間の意見を参考にするなんて柔軟というかなんというか……、新しい料理を生み出す彼の頭の中は常にたくさんの食材の掛け合わせで溢れていて、そばでそれを見守っていれば自然とすごい人だと尊敬するようになった。本当に仕事に真摯な彼に触れて、だんだんと絆されて、ついに彼が念願の夢だったミジュランの三ツ星が獲れたあの夜。付き合って欲しい、恋人になって欲しいと懇願する彼の手をとった。

『すげえ、綺麗…』

初めてのあの夜、真っ赤に肌を染め上げた彼が酔っていることなんて承知の上だった。私のケーキを初めて見た日に褒めてくれた…いや、それよりも甘やかな表情で、声で、好きだと伝えられて、ずっと防波堤のようなもので堰き止めていた彼への感情が、溢れ出してしまった。
…あの夜は、それはそれは蕩けるような甘い夜だった。可愛い可愛いと一晩中愛でられ、彼にリードされるがままドロドロに溶かされた。チョコをテンパリングさせるときの湯煎のような男だと思った。触れられると熱くて熱くて、わけのわからないままに形を保てなくなってしまう。溶け切った私を愛おしく見下ろすその瞳に見つめられて、幸せでたまらなかったのに。翌朝。青ざめた表情、やってしまったとでも言いたげに戦慄く唇、ハァ、と吐き出されたため息にああ、これは間違いだったのだと悟った。そっか、私は昨夜ついになんとなくで手を出した女のうちの一人に成り下がってしまったのだと思えば悲しみやら、戸惑いやらいろんな感情が溢れてきて、やるせない気持ちが胸中に溢れて仕方がなくて、気づけば彼の頬を打っていた。

それから毎日アプリにメッセージが届くのも無視して、私は彼から目を背け続けている。
…いつまでも子供みたいに現実逃避しているわけにはいかないことくらい理解している。もうちゃんとした大人なんだから、話をしたいと言っている人に対してこんな対応していちゃダメなことくらいわかってる。
だけどどうしても、酔った勢いで、そういうことになったことが初めてで、どういう反応をしたらいいかなんて全くわからないのだ。思い出したら恥ずかしいし、碌に彼の顔も直視できる自信がない。それに『こういうこと』に慣れていなかった私はあんなに幸せな夜を過ごした直後に好きだなと思った人から「ごめん」と謝られることも、「彼女面するなよ」的なことを言われるのも怖くて怖くてたまらなくて、酔った勢いで、とか、ミジュラン受賞の高揚感で、『そういう雰囲気』になって、手頃な場所にいた私で欲を発散しただけと認めることが嫌でたまらなくて、まあ要するに逃げ出したのだ。現在進行形で逃げている。

できることならもうあのまま会いたくなかった。心に傷は残るかもしれないけど、もうこれ以上振り回されたくなかった。それなのに彼はめげずにめげずに何度も私に会いに来ては手紙と小さなブーケを置いて私を混乱させる。…なんで?そこまでするの?もしかして、私のこと本当に好きなの?じゃあなんであの日あんな顔したの。─なんて、それこそ本人に聞かなきゃわからないことでぐじぐじと悩んでいる私は愚か者以外の何者でもないだろう。
忙しいはずなのに、手書きの手紙を持ってくる彼にほんとはありがとうと言いたいのにいえずそっぽを向く私を見ていつも少し悲しそうに微笑んで帰っていく。
明日は持ってきてくれるだろうか、明後日は、そのもっと先は?こんな態度を続けていたらいつか彼はここにこなくなるかもしれない、それは嫌だ。…なんて我儘な女だろうか。こんな面倒くさい女あの人絶対嫌いそう。現にここ数日は繁忙期で彼からの手紙と花の贈り物はストップしていて、このまま一度体を重ねたことのあるだけの無関係の人に成り下がってしまうのだろうかと考えるだけで手先が震えるほど嫌なことばかり考えている。心にぽっかり穴が空いたみたいに最後にもらった一言だけの手紙を何度も読み返すくらいにはうじうじしていて情けないったらありゃしない。これまでの態度を謝罪しなければと思うのに、今さらどんな面を下げて彼の前に出ればいいのだろうか。

そんな泥濘にはまって動けなくなっていた私に声をかけてくれたのが、五条さんの同僚である夏油さんだった。

『十二月二十五日、閉店後にクリスマスパーティをするからケーキを作ってくれないかな?よかったら君も参加して欲しい』と電話口で伝えられた言葉には少しも私と五条さんの関係に触れていなかったけれど、行間からこれを機に仲直りするといいよ、と言ってくれている気がしてその注文を承諾した。
ここまでお膳立てされなければ動けない自分が情けない。
…もうあちらも閉店してる時間帯だし、大丈夫だよね……、意地を張って完全に引っ込みのつかなくなってしまった自分を鼓舞して立ち上がって、完全に店内の照明を全て落としまだ光り輝く街に一歩踏み出す。……このイルミネーションのようにまだ手遅れになってないといいけど、そんなことを考えながら行き慣れた道を歩いていれば、気づけば手に持つ箱をできるだけ揺らさないように気をつけながら走り出していた。







「悟、一番テーブルのお客様、お食事のペースが早い、いけるかい?」
「ん、」
「五条、三番さまご挨拶したいって」
「………いま?この状況見て?マジで言ってる?」
「……硝子、私が行くよ」
「じゃあこれは私が持っていく」
「ありがとう。悟、六番テーブル様はナッツ類アレルギーの方だからよろしくね」
「ん、わかってる」
「あと、十番テーブル様はゆっくりお食事されてるみたいだからもう少しゆとりあるから焦らないでいいよ、あと硝子、五番テーブル様飲むペースが早いから気をつけて」
「あれは絶対緊張して飲み過ぎてるコースだな」
「コラ、硝子滅多なこと言わない。次グラス注文されたらお水も一緒にお出しして」
「はいはい」

硝子や僕に的確に指示を出す傑は、先日見かけによらずプロポーズするのに数日緊張した面持ちを浮かべていたのはどこへやら、今や店でプロポーズしようとするカップルを余裕のある表情で見守っている。自分がうまくいった途端強気になるの昔から変わってないな、と思いながらオーブンの扉を開けてロティがしっかり焼き上がってることを確認して盛り付けに入った。
今日も今日とて満員御礼の店内は普段とは違っていつもより特段店内に甘い空気が漂っている。恋人同士や見覚えのある老夫婦、明らかにパパ活とわかるカップルなどがそれぞれ思い思いの過ごし方をしている客で賑わっていた。クリスマスシーズンに来店する客層を見るのがクリスマスの裏の楽しみ方なのだが、いかんせんそんなこともいってられないほど忙しい。クリスマスウィークの予約は完全二部制で区切ったため、十七時からの席も十九時半からの席も完全に埋まってしまったせいで仕込みも提供も常に追われて店内はバタバタだ。そんなことを微塵にも感じないくらい穏やかに時間が進んでいるように見えるのはやはり傑と硝子がどれだけ接客の経験値が高いかの証明のようで心強い。
とはいえ、一人で厨房を回す自分はまさに猫の手も借りたい状態で、目の回る忙しさとはこのこと。二部制のクリスマスディナー二巡目。クリスマスというイベントともあってレストラン内でプロポーズを挑むカップルを先日から何組も見届けてきた。さっき硝子が指摘した客はこれからプロポーズを控えているのだろう、緊張しきった彼氏とそんな彼氏をそわそわと見つめる彼女。…あー、あの二人はきっとうまくいくだろうな。他人のそんな機微なんて今まで気にしたこともなかったのに僕って成長したなあなんて思いながら出来上がった料理をカウンターにあげていく。何も言わずに傑がそれを確認して攫っていった先で客が嬉しそうに笑うのを見てこちらも頬を緩めた。

…そもそも自分のこと『僕』とか言っちゃってるし。…だってしょうがないじゃん、『ビジネスの相手に敬意も払えない人と仕事なんかしません。』って好きな子にピシャッて言われたら変わるしかないよね。
何年も「丁寧な話し方を心がけろ」って傑から言われてたことを右から左に流してきたのに君に嫌われないように気をつけようと思えば偉そうな話し方はしないように気をつけるようになったし、あれだけ適当だった人間関係も不必要なものは全部精算した。初対面でいいなと思った子に「ヤリチン野郎」なんて言われた僕のショックわかる??…いやまあ、身から出た錆といわれれば返す言葉もないんだけどさ。


「悟、デザートいける?」
「……はいはーい」


『メレンゲ細工か飴細工どっちがいいですかね』

君と一緒に考えたデザートを盛り付ける時は自然と僕の店で出すデザートを真剣に考えてくれていた君の横顔を思い出す。いつの間にか見惚れちゃって少し眉根を顰めて『ちゃんと聞いてます?』と言いながら少し怒った表情を浮かべる君の顔も、思う通りのデザートができて『できましたね!』と満足そうに笑った君の顔も、全部好きだったなあ、なんて。


「僕と、結婚してください…!」


僕の作ったデザートを傑が持っていってしばらく、くだんのカップルの彼氏がついにプロポーズした。周りが少し固唾を飲んで見守る中、安心したように破顔する彼女の表情で周りの緊張もほぐれていく。…あーいいな。好きな相手に好かれるってすごいよね。ほんと羨ましい。ましてや結婚なんて夢のまた夢だ。昔の僕なら絶対にこんな場面に出くわしてもへー、くらいしか感想はなかっただろうしましてや拍手なんて送ろうとも思わなかっただろう。…人間らしい感情を与えてくれた彼女には感謝すべきかそれともこれだけ感情を揺さぶらせておきながら僕を捨てるなんて酷いと嘆くべきか。いや、彼女のことだ、『捨てるなんて人聞き悪いこと言わないでください、酔っ払った五条さんが悪いんでしょ』くらいは言ってのけそうだ。…僕はいつだって君のことを脳裏に浮かべているのに君はそうじゃないんだろうなと思うと心臓がきゅっと縮こまる感じがする。今日、クリスマスだけどお店もう終わったかな。いいなー、僕もなまえのクリスマスケーキ食いたかったな。…今日予定あったりするのかな。あの日僕が酔っ払わずに普通に恋人同士になれてたら幸せなクリスマス迎えれてたのかな、信じられないくらいクソ女々しいことばかり頭に浮かんでは消えていく。僕のことこんなふうに変えたなまえほんと罪深い。ありえない。責任とってよマジで、君の体に染み付いたみたいにどこかしこから香る甘い香りに包まれたい。



「ありがとうございました」


最後の客を見送って、ようやく一息つく。普段の営業と違って店内にはまだ幸せそうな表情で過ごしていたカップルたちの少し浮ついた残滓がそこかしこにこぼれ落ちているみたいで店内を取り巻く空気感がいつもと違って見えた。僕にもクリスマスっていうイベントに踊らされるような普通の感覚があったんだと驚くと同時にやっぱりどうしても彼女に会いたくなる。─あの日、僕が無様にも酔っ払って醜態を晒したあの日から、彼女は僕との連絡を絶った。どれだけメッセージを送っても返ってこない返信に絶望していたところ、友人たちのアドバイスも得て文通をするに至ったが(もちろん一方的に)最近は直接手紙とちょっとしたブーケも手渡しで渡せるほど彼女の態度は軟化した。だけどいつもくるくると変わる表情はいつも顰められていて、あの日のことを謝ろうとすれば仕事があるので、と避けられる。そんな日々を数日過ごしていれば僕もそろそろ理解し始める。…あー、取り返しのつかないことしちゃったんだな、と。僕に強烈なビンタをぶちかましてくれたあの時、泣きそうな表情を浮かべていたなまえの顔を思い出すとこっちが泣きそうになる。
段々思い出した睦み合いのときも慣れてない様子でずっといっぱいいっぱいだったなまえに寝起き一発目であの態度はなかった。マジで反省してるし次は絶対ないって誓えるのに取り付く島のないあの態度のなまえにそれをどう伝えればいいのかもわからない。しばらくの間店内を彩っていたデカイクリスマスツリーが無闇矢鱈とLEDを光らせているのに向かってクソデカイため息を吐いた。


「辛気臭いね」
「……傑は楽しそうだね」
「まあね。年明けには籍入れるから今は毎日が幸せで仕方がないよ」
「……マジでうっっぜえ………いや羨ましい………」
「おや、珍しく素直だ」
「………あれだけ拒否られたら僕も結構キてんの」

もう一度大きなため息をクリスマスツリーに向けて吐きかけてやれば傑が眉を下げて微笑んでいる。「悟は本当に仕方ないな」と昔からどこか上から目線で僕を叱りつけてくるその表情は、昔は死ぬほどむかついたのに今はすぐえもん頼むから助けてくれよと縋りつきたくなる。…いつから僕のび太なんかになっちゃったんだろう。

「ここ最近の悟の頑張りを讃えてね、私と硝子からささやかなクリスマスプレゼントを用意しといたんだ」
「…幸せ満開の人たちは随分心の余裕があるんだね」
「そう、施しだよ施し。ちゃんと有効活用するんだよ」
「?何、オマエら何帰ろうとしてんの?クリスマスツリーの片付けは?」


店内の掃除をささっと済ませただけでコートを羽織って出て行こうとする傑と硝子にちょっと待て、と手を伸ばす。「私たちには家で待ってくれてる人がいるからね」とほざく薄情者におい、クリスマスプレゼントはどうしたんだよと思わず眦を釣り上げた。


「─ああ、タイミングぴったりだね。いらっしゃい」
「ーー、??」
「ごめん、ちょっと急用ができてね。悟と二人で食べてもらえるかな」
「じゃあな五条。『私らは』明日も仕事だぞ遅刻するなよ」

closeのかかった扉を開けた二人がその向こうで誰かと話している気配に顔を顰める。ねえまじで僕のこと置いてく気なの正気?っていうかこんな時間に誰………─は??なまえ??


「え、あの、夏油さん、家入さん、クリスマスパーティは…」
「ごめんね、恋人が首を長くして帰りを待ってるんだ。ほら君は中に入って入って」
「飲めない男と甘いケーキ囲む会はパス。またね」
「え、え、え…う、うそお…」


クリスマスツリーのLEDが無駄にはしゃぐ中待ち合いに押し込まれたなまえは白い箱を大事そうに抱えて顔を青ざめさせながら傑と硝子に助けを求めている様子だったが無常にもパタリと扉が閉じてしまった。
肩を落とした背中が物悲しさを煽ってこちらまで居た堪れなくなる。どうしよう、何話そう、と戸惑う心と絶対に話ができるだろう場を作ってくれた友人たちへの感謝の気持ちと待ち焦がれたなまえに会えた嬉しさで頭がごちゃごちゃだ。


「……なまえ、その、」


くるり、こちらに振り返ったなまえはおそらくケーキが入っているのであろう、見慣れた白い箱を押し潰さん勢いで抱き締めながら珍しく自信がなさそうにゆらゆらと視線を泳がせていた。何度も何かを言おうと口を開こうとして、閉じて、を繰り返している。いつもハキハキと躊躇いなく思ったことは口にするなまえのそんな殊勝な態度が珍しく「あの日はごめん」と紡ごうとしていた自分の口が思わず閉口した。


「五条、さん……」
「な、なに…」


あまりの重々しいなまえの口ぶりに思わず吃ってしまう。何、今から何言われるの僕。もう手紙書くのやめてくださいキモイですとか?!嫌がってんのに毎回花持ってくるとかストーカーかよとか?!無理!そんなの面と向かって言われたら情緒が死んでしまう!


「その……」
「ちょ!ちょっと待って!!!」
「……、はい」
「その、今から僕振られる感じ?」
「…はい??」
「あの日のことは本当にごめん本当に君のこと傷つけるつもりじゃなくて本当に朝起きた瞬間いつもお菓子のことばっかり考えてるなまえが僕に笑いかけてくれててエッ何かわいい無理死ぬって思ってたら語彙が死んじゃっててていうか完全に事後なのになんでエッチした記憶残ってないの死にたいマジで無理って思ってただけなの。断じて後悔してるとか本気じゃなかったとかそんなんじゃなくてもうむしろ舞い上がってる最中だったんだけど、シンプルに酔って手ぇ出した僕が悪かったです……傷つけてごめんとりあえず振られる前にこれだけは言わせてなまえのことすっごい好きなんだけど〜〜〜客に幸せオーラいっぱいのクリスマスデート見せつけられた後に振られるとか無理なんだけどッ〜〜!!!」


一息でそう捲し立てれば目をまん丸に開いたなまえの瞳が徐々に潤みだし、ぼろっと硝子玉でもこぼれ落ちるかのように表情を一切崩すことなく涙を落としたなまえにギョッとする。ッエ?!な…泣い…?!なんで?!


「ごめ、なさい…あの日、五条さんの言い分も聞かずに引っ叩いて…っ、五条さんが女性慣れしてるのも知ってたから、自信なくて、信じれなくて、ごめんなさい…。ひどい態度取ってたから、もう、私のこと、どうでもよくなったかなって、でも、謝らなきゃと思って、きました、」

ぽたぽたと落ちるなまえの涙がケーキの白い箱に灰色のシミをどんどん広げていく。吸収しきれない水滴が箱の上に溜まって小さい水溜りができている。自分が泣かせているに違いない状況なのに、振られるとばかり思っていた暗雲が突然散り始める気配に未だ泣き続けるなまえは差し置いて思わずにやけそうになった。…こういうところが同級生から『クズ』と罵られる所以なのかもしれない、ぼんやりそんなことを考えた。

「いや、女性慣れしてるっていうか……いや、まあいいやこれは墓穴掘るだけだわ。…ちゃんと好きになったのはなまえが初めてだよ…、ていうかどうでもいい子にわざわざ手紙書いたり花買いに行ったりしないでしょ普通!…あ゛ー!!責めてない責めてないからそれ以上泣くなって…!」
「………五条さん、」
「…は、はい…」


涙で濡れた瞳で見上げられて、そのあまりの扇情的な視線に思わず敬語で吃ってしまう。
ヤバ、好きな子が泣いてるのって可哀想だなってキュウって心臓縮こまるのと、可愛い〜って心臓キュンってするの同時にきてしんどい。やばいこんなこと考えてるのバレたらまた引っ叩かされそう。


「これ、たくさんお花と手紙くださったお返し、です」


ホールケーキの入る箱を開いたそこから覗く本物のバラにしか思えないチョコレート細工が美しいまるでブーケのようなケーキにほう、とため息が漏れた。「すげー綺麗…、」思わずこぼれたその言葉になまえは嬉しそうに笑う。ああ、そういえば初めて会った日もなまえの店頭のショーケースに並ぶケーキ見てそう言ったことを思い出す。あの日と同じようになまえはひどく嬉しそうに頬を緩めながら「ありがとうございます」と微笑んだ。僕の沸騰しそうな感情を反映するかのように、僕の横に並ぶクリスマスツリーの電飾が見たこともないくらいスパークを立てて騒いでいる気がした。ミラーボールみたいに彼女の潤む瞳がLEDを反射してキラキラ光っているように見える。


「好きです」
「正直、初対面の時は何この人って思ったけど、いつも仕事にはストイックなところとか、尊敬してるし、あの日、五条さんとそういう関係になれて、本当はその、嬉しかったです、」
「意地張って無視したりいっぱいひどい態度取ってすみませんでした、五条さんがよければ、その、恋人関係を継続した…ッ、」


必死に言葉を選んで告げようとしてくるなまえの姿にたまらずケーキに触れないよう気をつけながら唇に触れ合うだけのキスを落とした。


「……継続も何も、僕別れるなんて言ってないしあれからずっと付き合ってるつもりだったから。なまえからちゃんと好きって言ってもらえてすごい嬉しい、さっきまで最悪のクリスマスだな〜とか思ってたのに、こんなことですぐ浮かれる僕やばくない?あとケーキ今すぐ食べたいんだけど食べていい?そのあとなまえのことも食べちゃいたいんだけど大丈夫?めちゃくちゃどろどろのぐちゃぐちゃにしたいんだけど覚悟できてる?」


顔を真っ赤にさせたなまえが視線をそこらを行ったり来たり彷徨わせたかと思えば、聞こえるか聞こえないくらいの呟きが僅かに耳を揺らして口角が上がっていく。簡単に店の戸締りをしてなまえを今度はしっかり意識のあるまま引っ張って帰った。ケーキ食べた後になまえを食いたいなんて言ったけどもちろん順番は逆になったし、クリスマスの翌日は休みななまえをはちゃめちゃに抱き潰した後に食うケーキの味は格別で、とっくにクリスマスが終わったあとに食べたクリスマスケーキは今まで食ったケーキの中で一番うまかった。


「じゃ、僕仕事行くけどなまえはゆっくりしてて」
「ん、ごめんね…」
「んーん、無理させてごめんね。好きだよ」
「わ、わたしも…」
「ふふ、いってきます」
「いってらっしゃい……」



昨日とまるで世界線が変わったかのようなカラフルな世界に驚きながらルンルンで到着した『Restaurant Sashisu』のドアを押し開けば、傑と傑の彼女と硝子と元同級生がやけにニヤニヤしながらクリスマスツリーを片付けていた。そういや昨日片付けもせずに帰ったな、いやでもあんななまえ見たら片付けどころじゃないししょうがなくない?!あーまたニヤニヤしてきた。無理、このウキウキをみんなに伝えたくてしょうがない。


「その顔見ると、昨日はお楽しみだったのかな」
「ふふふ、聞いてー!!なまえが僕のこと好きだってー!!」


よかったね、おめでとー!なんて言ってくれる友人に囲まれて迎えるクリスマスの翌日は今まで経験したことのないほどの幸せで溢れていた。







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