Viande

「お疲れ様です」


おつかれー…、生気のない声に見送られながらいそいそと片付けをして通勤用のバッグを手に取る。結局こんな時間まで働いてしまった。あー唐揚げとハイボール飲みたい食べたい。同僚が死んだ目をしながらまだなお働くフロアを足速に抜けて、冷たい風がマフラーやコートをもってしても防げない剥き出しの頬を撫でつける感覚に身震いをした。ハロウィンが終わるなりすぐさま様相を変えた街中はすっかりクリスマスの飾りつけやどこからともなく聞こえるクリスマスソングに溢れていて、忙しないなあと思いつつ仕事柄色合わせや店頭に並ぶ細々した可愛らしい飾りのディスプレイに目が惹かれてしまってついつい足を止めてしまう。来年からは既存のクライアントに季節ごとのディスプレイ委託とか提案してみようかな、なんて考えていたら店内から出てきた店員さんからよろしければ中でじっくりご覧ください、なんて声をかけられて慌てていえ、大丈夫です、とその場を辞する。…寄り道してる場合じゃなかった。今日は定休日の恋人の休みに合わせて一日デートする予定だったのに。「仕事なんだから仕方ないよ、頑張ってね」と見送られた今朝を思い出してせめて早く帰らないとと乗り慣れたメトロに乗車する。




カツカツとヒールが床材に衝突するたびに反響するエントランスを抜けてエレベーターに乗り込む。数字がどんどん増えて行くのをぼーっと見つめながら、さすがに十階を超えてくると階段で登るのは厳しいなあ、なんて恋人が以前住んでいたこじんまりしたマンションを思い出して誰もいないエレベーターで一人笑みを溢した。頬をかきながら『全然おしゃれじゃないんだ…ごめんね』なんて少し恥ずかしそうにしながら初めて招いてくれた恋人の一人暮らしの家は確かに一見すると築年数はかなりたっていそうだったけれど、室内はリノベーションが済んでいたのか壁紙も床材も真新しく、それに何より置いてある家具はどれもこだわりを感じるものだったし、統一感のあるディスプレイにさすがだなあと思ったのは記憶に新しい。やっぱりモテる男はセンスまでいいんだなあ、とジト目を送ったほど。どうしたの、困ったように笑う彼は天然か、それとも確信犯か……永遠の命題である。

…それに、疲れる?ごめんね、って引かれるように手を握られて登る階段は年甲斐もなくドキドキしたし、ベッドやお風呂が狭いと恋人とずっと密着できる口実になった。私はそれはそれで良かったのだけれど。すっかり見違えるようなマンションに引っ越してしまったのは確かに暮らしやすいが、広いベッドや足がゆったりのばせる浴室に少し寂しくも思うのは我儘だろうか。


「ただいまー」


…返事がない。コートを脱いで手を洗い、広い廊下を抜けてリビングの扉を開けば革張りのソファに腰掛けながら白い大理石の天板が耀くセンターテーブル上のノートパソコンと難しい顔で睨めっこしている恋人は私が帰ってきたことにも気づいていない様子。
…もう少しそっとしておいた方がいいかな。
恋人は共同経営している飲食店の売り上げや諸々の申告など経営にかかる煩雑な事務・会計手続きなどのほとんどを担っているらしく私の知る限り休みの日にはこうしてパソコンと見つめ合っている。私も手伝ってあげられたらなあ、とは思うけれど簿記会計の知識もなければ税金関係の知識なんてからっきしだし、それもなかなか難しい。部屋をぐるりと見回すと、乾燥の終わった洗濯機から取り出したまま朝放置して行ってしまった洗濯物の山がなくなっていた。朝ごはんを食べたままシンクに置き去りにした食器も綺麗に洗われて水切りにかけられていて申し訳なさとありがたさで居た堪れなくなる。そして何より、玄関を開けた瞬間から美味しそうな香りが漂っていてもしやと思っていたが、その香りの発生源はどうやらコンロに置かれた鍋らしい。食器もディナータイムはまだかまだかと言わんばかりにきっちり準備されている。もう既に今日の晩御飯は用意されているらしいことに胸がうずうずと疼いた。いつものダイニングテーブルを盗み見すれば、テーブルクロスや色違いのランチョンマット、キャンドルやこじんまりした花が飾られていてここはどこかのレストランか??と思わず瞠目する。この雰囲気的にハイボールと唐揚げではなさそうだが、嬉しい誤算だ。用意されている磨き上げられたワイングラスに驚きもそこそこに、ニマニマと口角が上がっていく。

考え込み過ぎると大きな手を広げながら親指で眉間をぐりぐりと抑えつける癖をし始めた彼が私の気配に気づいたのか驚いたように振り返った。


「傑くん、ただいま」
「帰ってきてたのかい?声かけてくれたらよかったのに」
「うん、今さっき。すごい集中してたからお邪魔かな、と思って」


苦笑しながらそう呟けば、形の良い眉がわかりやすく下がった。「おかえり。今度からはちゃんと声かけて」と柔らかく微笑まれて、はあいと間延びした返事すれば柔らかい視線から一転、目を細めた彼は本当にわかってる?ていうかこの前なまえ施錠できてなかったよ?不審者が入ってきたらどうするつもり?なんていつのことかわからない話をぶつぶつ呟き始めた。…一緒に暮らし始めて初めて気づいたけど、傑くんはわりかし細かくて、根に持つタイプだ。だけど最後には仕方ないなあって折れる。基本的に優しくて、たぶん人の多い組織に所属しながら真面目に生きてると疲れちゃうタイプ。だから多分、「料理のこと以外は全部傑に任せるしどーでもいいー」なんてこれからオープンする大切なお店のレイアウトに相談しにきた初めての日に私にそう宣ったかなりぶっ飛んでる五条さんや、「同じく」と呟いたお酒のことにしか興味ない家入さんと一緒にいるのが合うのだろう。いつも無茶振りを言われて困ったように笑うけれど、本当は二人に頼られることが嬉しいことは彼の表情を見ればすぐによくわかった。


「それより、どうしたのこれ。すごい飾り付け、かわいい」
「今日、残念がってたからなまえのこと癒してあげたくてね」
「嬉しい……しかも朝私がほったらかしていったの、全部片付けてくれた?ごめんね」
「二人で住んでるんだから分担は当たり前だろう?それにいつも私の方がやってもらってることは多いし…」
「ありがとう〜!美味しそうな匂いもする…ごはん作ってくれたの?」
「そうだよ、って言いたいけど、本当は悟に手伝ってもらったんだ」
「え?五条さん?」


うん、ズルしちゃった。なんて少し笑いながら、エクセルに並んだ数字の羅列を放置したままカップの内側が茶色く染み付いたマグカップに指を引っ掛けて立ち上がる。今日もお疲れ様、と頭を撫でられれば肩に無意識にこもっていた力が抜けていくような感じがした。


「硝子のオススメのワインも買ってきたよ。この前君が美味しいって飲んでたやつに似てるから気にいると思うって言ってた」
「え?!まさかの家入さんチョイス…?!絶対美味しいじゃん…!」
「ハハ、あんまり羽目外しすぎないでね」


五条さんが手伝ってくれたという傑くんが作ったご飯を食べて、家入さんが選んだワイン飲んで、今日は『Sashisu』独り占めってこと?何それ最高すぎない?もしかして、有給返上したご褒美?
感情が溢れて言葉も発せなくなっている私に傑くんがダイニングテーブルに誂えられた椅子を引き微笑みながら「お掛けください」と微笑みかけてくる。彼にそう言われると、まるで家の中が高級レストランになってしまったかのような錯覚に陥った。…私、いつのまに『Sashisu』に来店していた…?促されるまま着席すれば「少々お待ちくださいませ」と頬にキスを落とされた。…サービスが良すぎるよ、傑くん。まさかこんなこと他のお客さんにやってないよね?思わずじとりとした視線を送れば「なに、怖いなあ」と笑ってキッチンへと逃げていく。……むぅ。


キッチンへ移動した傑くんが鍋の蓋を開けると、独特のキノコのような強いスパイスのような香りが鼻腔をくすぐる。─トリュフだ!うそ!家でトリュフ?!そんな私の興奮を悟ったのかフライパンでお肉を焼き始めた傑くんに「もうちょっと待ってね」なんて待ちきれない子供を宥めるようにクスクス笑われて思わず頬を膨らませた。


テキパキと並べられていく色とりどりの料理がしなやかな彼の指先によって音も立てずにどんどんテーブルを華やかに飾り立てていく。お料理の解説付きのそれはどこからどう見ても家で食べられるレベルの料理を逸脱している。まるでさっき見たショーウィンドウのオーナメントのような美しさだ。さっきからときめきが止まらない。こぽこぽ、と慣れた手つきで適量注がれたワイン。目の前には着席して何故か嬉しそうにニコニコ笑う恋人。…急に仕事が入って落ちた気分もすっかり急上昇してしまって、鏡を見なくてもわかるほど頬を緩ませる。…今日何かの記念日?…いや、違うよなあ……。やっぱり傑くんが言った通り私を癒すつもりで?…効果は抜群である。仕事で嫌なことがあってもこの先しばらくは笑って過ごせそうなほど嬉しい。


「すごい本格的でびっくりしてる…。傑くんに丁寧に説明されたらただでさえ美味しそうなのに十倍ぐらい美味しそうに見えるね」
「本当?嬉しいことを言ってくれるね」
「食べていい?」
「もちろん。乾杯しようか」


ダイニングテーブル上のペンダントライトを反射してキラキラと光っているグラスを持ち上げ優しくグラスの腹同士を合わせれば上品なチン、という音が響いた。


「なにこれ、すごい美味しいんだけど。」
「あはは、よかったよ。悟が『一般のマンションのシステムキッチンで僕に料理させるなんてふざけてんの?』なんてぶうぶう文句垂れながら手伝ってくれたけど普通に美味しいね」
「五条さんここにきたの?!?!」
「え?うん。さっきまで来てたよ」


てっきりお店の厨房で作って持って帰ってきてくれたのかと思いきや、違ったらしい。そういえばどことなく部屋がいつもより綺麗かもしれない。


「あ、五条さんといえば、どうなったの?あれから」
「ん?…あぁ、あの子?」
「ほんとに手紙書いてお花持っていってるの?」
「ふふ、うん。最近やっと手渡しで受け取ってもらえるようになったって喜んでた」
「へえ、うまくいくといいね」
「そうだね。それよりなまえ、ステーキの焼き加減どう?こればっかりは悟にお願いするわけにもいかなかったからさ」
「めちゃくちゃおいしいよ!!口の中で蕩けて最高だしワインにもよく合ってるし家の中でこんなに美味しい料理食べられて本当に幸せ」
「…私も幸せそうに笑う君が見られて幸せだよ」


ふにゃり、と笑った傑くんのその表情で咀嚼していた肉が喉に詰まりかけて、慌ててワインで流し込む。芳醇な果肉の熟成された香りと鼻に抜けるトリュフの香り、塊で喉を通っていってしまったお肉がぐつぐつと煮えたぎった胃の中で消化不良を起こしそうだ。
そんな私の心境なんか知らずに「ほら、こっちも美味しいよ」なんてフォークに刺したカプレーゼを差し出されて、許容量を超える幸福指数に胸焼けまで起こしそうだった。

「どう?」
「おいしい、です…」
「フルーツトマト、好きだもんね」

そう言われてから目の前に並ぶ美味しそうな料理が全て好物でできていることに気づいて驚いていれば「やっと気付いた?」と悪戯に笑った彼に目を奪われる。
涼しげな目元を緩めて涙袋を膨らましながら笑う傑くんのその表情が、好き。どんなときも優しそうな微笑みを湛えている彼が、こころから笑っている笑顔のような気がして、こっちまで嬉しくなる。
いつも綺麗にまとめられているはずの長い後ろ髪が、彼が大きな口を開いて豪快にトリュフソースのかかったステーキを咀嚼するたびに肩口で揺れるのを静かに見ていた。







元々私が勤める設計事務所に開業するレストランの内装工事について相談しに来た彼とは、インテリアコーディネーターとして担当についたのが出会いだった。わあ、色男だ…、が第一印象。実際問題、事務所にいらっしゃる度に事務の女の子たちがきゃあきゃあといろめき立つ。背が高くて、スタイルも良くて、人当たりよく優しい雰囲気の彼。確かにモテないポイントがわからない、恐らく自分がお近づきになってはいけないタイプの男性。基本しっかりされているのにたまにうっかりしているところが少し可愛くて、多分こういうところが女子にはたまらないんだよなあなんて冷静に考えつつ、男性として惹かれ始めている自分に何とかストップをかけたこと数回。打ち合わせを重ねて、モテオーラ満載の彼に圧倒されながらなんとか自我を保って竣工まで漕ぎつけ、完成したモダンなレストランの内装に我ながらなかなかいい出来だななんて達成感に満ちるのと同時にこれで会うのも最後か〜と、お客様に対して抱くべき感情ではない気持ちを抱えていたところに、食事でもどうですか、と誘われ内心浮き足立った。それからランチや彼のお店の閉店後バーなどで飲みに誘われるようになり…友達、というには下心がありすぎる、恋人未満というには彼の心の内が全く読めない不思議な関係を続けて、そろそろ、何か一石を投じた方がいいのでは、なんて思いながら別れ際いつも通り彼が呼んでくれたタクシーに乗り込もうとした時だった。

「ねえ、好きだよ」

タクシーの扉を押さえながら夜のネオンの逆光に照らされた彼にそう言われて、訳の分からないうちに「わたしも、」と呟いて気づけばキスをしていた。あの時のタクシーの運転手の迷惑そうな顔は今でも忘れられない。
 

─と、まあ、そんなこんなでお付き合いが始まったわけだが、彼が思っていたよりもモテるということは交際してすぐに気づくことになった。…傑くんは意外と詰めが甘い。
部屋の小さなゴミ箱の中に連絡先のようなものが書かれた小さな紙切れが目に入ったことは一度や二度ではない。別に見ようと思って見たわけではない。寝起きにトイレに行こうとぼんやりする頭でベッドから降りたらゴミ箱を蹴り飛ばしてしまった。慌ててゴミを拾い集めたら…、というのが始まりで、それ以降なんとなく、なんとなーく小さなゴミ箱を気にするようになってしまった。手書きのそのメモを見つける度に少し不安になって、もう少し一緒に過ごせたらいいのになあ、なんて言葉に出せないわがままを胸に抱えながら、何度かお呼ばれした彼の部屋のシングルベッドで抱き合ってる時に私の髪を撫でながら甘やかな表情で彼は言った。


「引っ越そうと思ってるんだけど…よかったら一緒に住まない?」


まだ交際したての彼からのその提案には一瞬どきっとしてすぐに頷くことができなかった。
嫌な沈黙が流れる。
同棲なんて今までしたことがない、恋人の家や自分の家で夜を過ごすのとは訳が違う。同じ家に住むことによって幻滅されたらどうしよう、スッピン晒すのにもまだ抵抗あるのに、とか…、
インテリアコーディネーターこんな仕事のくせに結構ズボラなのバレる、なんて保身100%から来た残念な自分の思考さえ気づかれたくなくて視線が泳ぎに泳いでしまう。…それに、モテる彼の女性の影をこれ以上色濃く感じ取ったら正気でいられる気がしない…、メンヘラ拗らせたらどうしよう……思わず眉間に力をこめてしまう。

「ごめん、嫌だったかな」

私を撫でていた手が不自然な場所で固まる。上から降ってきた言葉にはっとして彼を見上げれば、少し悲しそうに目を伏せた彼にずきっと胸が痛んだ。


「嫌じゃ、ない全然。本当に、」
「少しでも君と一緒にいる時間が長くなればと思って言ってみただけなんだ」
「あ、りがとう…その、私も、傑くんと今より時間を共有できるのは嬉しいんだけど、私傑くんが思ってるよりちゃんとしてないっていうか……それに、傑くんと一緒に住んだら嫌われることしちゃいそうで、…」
「え?」


いつもニコニコと私を見下ろすその涼しげな目元が僅かに瞠目した。なんとなく居た堪れなくなって視線を逸らして傑くんの家のディフューザーのリードスティックの本数を数え出す。一本、二本、三本…、「なまえ」、存外優しげな声で呼ばれた名前。恐る恐る見上げれば、少し不安そうな傑くんが困ったように笑っていた。


「私と住むのが嫌なわけじゃない?」
「それは、勿論…」
「なんだ、よかった…」


ホッと胸を撫で下ろした様子の彼に、ほっとけばすぐに綺麗な女性から(完全に私の妄想だけど)ナンパされる彼でも私の言葉で不安になったり嬉しくなったりするんだ、なんて当たり前のはずのことを今更自覚して頬に熱が集中する。…いい歳こいてなんでこんな女子高生みたいな照れ方してるんだろう、私。


「その、こんな仕事してるけど私常に家片付けられるタイプの人間じゃなくて……、汚くしたりもするし、朝バタバタすると家のことそっちのけで出て行ったりするし、それに、めちゃくちゃお酒飲むし…引かれたらいやだなって、…あと、その…傑くんよくナンパ?されてる?のか知らないけど連絡先書かれた紙が目に入るの結構ショックっていうか…、一緒に住んだらそういうの見つける機会増えそうで、」
「は、……」


感情が抜け落ちたような、まさに茫然という言葉が似合うような表情で固まった傑くんに失言だっただろうか、とからだが強張る。さっきまでは温かく感じていた人肌の温もりもどこへやら、足先から急に冷えていく感覚に焦燥が募る。


「……気にしてたの?」


どこか弾んだその声に訝しんで見上げれば嬉しそうに頬を綻ばせる傑くんの意図が分からず思わず顔を顰める。


「…するよ。恋人が異性から連絡先もらってるの知って正気でいられるほど冷静な女じゃないよ、私」
「知らなかった…、全然気にもされてないのかって思ってたよ」
「………ちょっと待って、もしかしてわざと置いてた?」
「……ふふ」


やきもち焼いてほしくて。あと、私はどんな君を見ても君のこと甘やかせる自信があるよ。そう微笑む彼は完全に『悪い男』の表情をしていた。
…そこでようやく自分の恋人がただ『優しいだけの男』でないことに気づいたのだが、惚れ込んでしまった後の私には完全に手遅れだった。


「安心して。私は君のことしか見えてない」


ぞっとするくらい美しく笑った傑くんはむき出しになった鎖骨に舌を這わせた。ちゅう、と吸いつかれて咲いたそれを見つめて「綺麗だね」と頬にキスを落とされる。首筋にかかる彼の長い漆髪がこそばゆくて身を捩れば「逃げないで」なんてきつく抱きしめられた。そんなことにも胸がきゅうと引き絞られるような痛みが走る。なんだか私ばっかり振り回されている気がしてムカつく。「あっさり許すと思わないでよ」とガミガミと怒る私をまあまあと宥める傑くんはずっと半笑いでごめんねと宣い、怒ってる君も可愛いねなんて言ってくる。絶対絆されてなんてやらないんだからと思って必死に眉を吊り上げていたのに、なんだかんだ結局次の休みの日に一緒に不動産屋に向かっているのだから、我ながらかなりちょろい女だ。
その日から、家の中のゴミ箱に小さな手書きのメモを見つけることはなくなった。






「なまえ?」


幸せそうにお肉を頬張っていたと思いきや、突然フォークを刺したままぼーっと目の前の料理を見つめだし、顔を赤くしたり眉間に皺を寄せたり忙しないなまえは相変わらず表情がコロコロ変わって可愛いらしいことこの上ない。どうもどこかへ思考を飛ばしてしまっている彼女にひらひら、と目の前で手を上下させてやればハッとしたなまえがこちらを見た。ダイニングテーブルを照らすペンダントライトがなまえの黒い瞳に反射して、まるで星でも散りばめたようなそれに一瞬引き寄せられて、すぐに苦笑を漏らす。


「突然どうしたの」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと昔のこと思い出してた」
「?」
「傑くんは少し意地悪だって話」


少しむくれたように旋毛を曲げた彼女になんとなく嫌な予感がする。先日店を訪れた高校の同級生と旧友がそういえばミジュランの発表会のあとのささやかな会で仲良くなっていたことを思い出した。…まさかなにかよからぬことでも吹聴されただろうか、決して自分に疚しいことなどひとつもないが、なぜか昔から異性と交際しては振られる私に「クズ」「女たらし」と言い放ってくる二人。…あの二人なら余計なことを言いかねないなとどうしたものかと頬をかく。


「………もしかして硝子とかと連絡取ってる?」
「ああ、うん、この前教えてもらったよ」
「そう………あんまり鵜呑みにしないでね」
「ふふ、都合悪いもんね」
「……あんまりいじめないでくれないか」
「たまにはいいじゃない。いっつも私がいじめられてるんだし」


すすす、と悪戯そうに笑ったかと思いきやストッキングを履いたつま先でスラックスを履いた脹脛をなぞられて思わず眉間に皺が寄る。…頬が赤い。…目元も若干潤んでいる。もしかして酔っている?いつもそれなりに飲む量に比べたら全然減っていないワインボトルを横目に確認して、家だという安心感で酔いやすくなっているのかもしれないな、と小さく息をついた。とろんとした目元をさらに潤ませて足を絡ませてくる彼女はかなりタチが悪い…、この先のことを考えてシャンメリーにでもすればよかっただろうかと反省した。


「怖い顔〜」
「何?煽ってる?」
「ん、ちょっと酔ってるかも」
「……言い訳かい?言っとくけどね、煽られたらちゃんとやり返すよ私は」
「ん、知ってる…今日は朝までギュッてされたい」


今日は私のこと癒してくれるんだよね?期待を込めたような熱のこもった視線に射抜かれて、じわじわとその熱が彼女の足を伝ってこちらに伝播してくるようだ。まだとっておきのサプライズが残っているっていうのに、そんなこと知ったこっちゃないとでも言いたげな彼女の甘い誘惑に思わず目を細める。
頬杖つきながら椅子にかけていた彼女に近づき、その体勢のまま抱き上げれば酔いが回って上昇したのか高い体温が彼女の服越しから感じられて眉間に皺を寄せる。駄目押しのようにわざとらしく「酔っちゃった」と首元に腕を回されてはもう限界だった。口もとがひくつく。
「覚えてなよ、」と耳元でそう囁いた声が思ったより堪え性のない焦燥を孕んでいた。
…まだ冷蔵庫に残っているデザートも渡すのにらしくないくらい緊張している小箱の中で日の目を見るのを今か今かと待ち侘びているプラチナも今日は出番がないらしい。
ぶつぶつと「計画が狂った」「ワイン飲ませすぎたな」と呪詛のように呟いていれば抱き寄せた彼女に首筋をつねられた。

「痛いよ」
「ふ、ちょっとキスマークみたいになっちゃった」
「………今のうちに明日は休みますって連絡入れた方がいいかもよ」

もういやだってくらい抱き潰すからね。耳元でそうねっとりと言ってやれば目元がなくなるくらい満足そうに笑うなまえに思うのはせっかく張り切って準備したのにが一割、もう仕方ないなあが一割、ああ本当にかわいいなあが八割といったところか。煽ってきたのはそっちなんだから、泣きながら許しを乞うまでたっぷり愛してあげることにする。






.


「なまえ」
「んぅ、」


ミジュランの三ツ星が取れたら、彼女にプロポーズすると決めていた。三ツ星という第三者からの評価のためにこの仕事をやっているわけではないが、世界的権威のある他に二つとないそれにそう評価されれば、ようやく自分の仕事が一人前と認められたような気がした。

プロポーズの日を、今日という取り留めのない日常のうちの一日に選んだのは驚く彼女の顔が見たかったからだ。ここまで酔ってしまえばそれどころではない気がして諦めたが、好きだよ、愛してるよ、そう伝えているうちに、感情が堪えきれなくなった。半分眠りに落ちかかっている彼女にこんなことを言ってしまっては、「私たちのプロポーズピロートーク中だったよね」なんて誰にも言えやしないエピソードになってしまう、理性がやめろと言ってくるのに、私に触れられて幸せそうにするなまえに感情が高まっていく。

「すぐるくん、だいすき……」

今にも寝落ちしそうになっているなまえからのその言葉でなけなしの理性が弾き飛ばされた。ベッドボードで待機していた小さな箱から間接照明を反射させるそれを取り出し、ベッドに縫いつけた手を握るふりして薬指に通す。半分意識は夢の中なのか、全く気づいていない。ふにゃふにゃと柔らかく微笑みながらうつらうつらしている彼女に重なるように覆い被さって目元に額に首筋にキスを落としていく。

「なまえ」
「なあに、すぐるくん…」
「結婚しようか」

落ちかけた瞼がわずかに開いた。見たこともないくらい幸せそうに笑ったなまえの表情で、彼女も自分と同じ気持ちであることを悟って胸にじんわりと温かいものが広がる。


「するう………」
「………なまえ?」


わずかに握り返されていた指の力が完全に抜けて、真下にいるなまえからすぅすぅと小さな寝息が聞こえる。火照り上がった熱が少し冷めて、ああ言ってしまったな、という反省と一緒に受け入れてもらえた嬉しさが胸の内に広がる。


「言質はとったからね、逃がさないよなまえ」


幸せそうに眠るなまえにもう一度キスを落として柔らかい体を抱き込むようにして眠りについた。
数時間後悲鳴を上げたなまえによって目覚め、寝ぼけ眼でなまえを見やった。顔を真っ赤に染めてわなわなと震えながら朝日を受けてキラキラと輝く指輪を戸惑いつつも嬉しさを隠しきれない様子で見つめているなまえの満面の笑顔は、今まで見た彼女の中で一番美しかった。











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