Poisson

喉の渇きを感じて、目が覚めた。薄いレースのカーテンからは上った朝日をやわらかく包んだような日差しが入り込んでいて、まどろむ脳に心地の良い刺激を受ける。未だシーツに美しい長い髪を広げながらすやすやと眠っている彼女を起こさないようにそうっと体を起き上がらせて、薄くクマがさしてしまっている寝顔を見守る。


「硝子ちゃん、お疲れ様」


朝特有のハウスダストに反射するキラキラと輝く空気に朝の挨拶を溶かしながらぐんと体を伸ばした。マットレスがわずかに音を立てたことにドキリとしながらも、そうっと寝室から抜けていく。隣接するリビングにあるコーヒーメーカーのスイッチを押してスリープしていたデスクトップを起動させ改善したwebページが問題なく稼働していることを確認しながら、昨日オープンさせたばかりのクリスマスウィークの予約受付がすっかり残席0になっていることにさすがだなあと感嘆を漏らした。動作に異常は見当たらない。もう大丈夫だろう、と他に請け負っている仕事のwebページも問題ないことを一通り確認して、仕事のメールをチェックし、リビングに漂い始めたコーヒーの香りにつられて席をたてば、寝室から人が動く気配に苦笑を漏らした。



「なまえ」
「おはよ、硝子ちゃん。今日も早いね」
「ん、今日ワイナリー行くから。…昨日は悪かった。面倒かけたね」
「そうなんだ!忙しいね。ホームページは大丈夫だよ。すごいね、ミジュラン効果!レストランのページがサーバー落ちするなんて初めてだから思わず笑っちゃった。あと問い合わせの電話多いって言ってたから問い合わせフォームも作っといた方がいい気がする。営業時間中に電話あると手を取られて大変だろうし。もしよかったら私返信するから」
「………まじ??いや助かるけど、…いいのか?」
「あはは、既にSNSも請け負ってるし、問題ないよ。むしろお仕事ください!!」
「はは。わかった。五条と夏油に言っとく」


ありがとう〜!と豊満な胸元に抱き付けば優しく抱きとめられてよしよしと頭を撫でられた。はー最高。硝子ちゃんだいすき。いい匂いする。

彼女─家入硝子ちゃんはわたしの高校からの同級生で、今はルームシェアをしている同居人なのだが、彼女は幼馴染、わたしにとっては高校の同級生と飲食店の激戦区で『Restaurant Sashisu』というフレンチ料理屋さんを経営している。たった三人の従業員というこじんまりとした小規模なお店にも関わらず、オープンしてからずっと客足が途絶えることもなく半年先の予約受付をオープンするたびに席が即埋まってしまう大人気レストラン。ちょうど彼らがお店をオープンした頃合いでwebデザイナーとエンジニアを兼ねるフリーランスとして独立したばかりだったわたしは硝子ちゃんから仕事を依頼してもらえて、そこから呼び水のように他の飲食店からも仕事を依頼してもらえるようになったという経緯もあって足を向けて寝られない存在だ。三人ともフランスできちんと修行と勉強をしてきたという本場仕込みのフレンチというだけあってお料理はもちろん、サービスも揃えてあるワインも言うことなし!最高のお店である。ミジュラン三ツ星の超人気店の有名ソムリエ…あ、女性はソムリエールっていうんだっけ、と同居しているなんて今でも俄には信じがたい。


「打ち合わせしたいから仕込みの頃合いか、お店閉まった後か、まあ時間考えて顔出すね」
「お前は本当にちゃっかりしてるよ」
「んふふ、営業上手と言ってくださいな。…はい、コーヒーどうぞ」
「ありがと」


『Sashisu』では、シェフは一人で料理を切り盛りしているから一日に入れる人数に制限があって、そこにプレミアがついてより一層予約取り合戦が激化の一途を辿っている。そしてなにより、働く三人の顔面偏差値が凄まじいのだ。硝子ちゃんを見てもらったらわかると思うけど、そこらにいる有象無象の人間とは別格の芸能人レベルの美しいお顔をその身に宿している。そんなスタッフが一人でもいれば話題になるっていうのに、スタッフ全員の顔面がもう特級クラスなのだ。クチコミサイトでも料理や接客の評価と一緒に『全員顔がいい』というコメントで溢れていて…そりゃあ、話題になるのも仕方があるまい。

『Sashisu』のすごいところはそれだけではない。
お店に一歩足を踏み入れた瞬間に、別世界にでも入り込んだかのような、モダンかつ上品な店内の内装。
御伽噺のキャラクターの一人になれてしまったかのような錯覚を覚える丁寧な、そして物腰柔らかな接客をするギャルソン。
煌びやかな、一皿一皿が絵画のような美しい、そして頬が蕩けてしまいそうな美味しいお料理を作り出すシェフ。
好きな食べ物の傾向や、苦手な食べ物の傾向を伝えただけで、料理に合いつつ舌にマッチングするお酒をピックアップするソムリエール。
全てが本場仕込みともあってどこを見てもうっとりするそのお店は私にとって大事なお客様でありながら、ファンのうちの一人のような感覚だ。

そんな彼らが経営するレストランがうまくいっていないわけがなくて。先日のミジュラン発表会でようやく念願の三ツ星を受賞してからというもの、硝子ちゃんは営業開始前にもネット記事、雑誌の取材なんかで忙しそうにしている。
日付が変わってから帰ってくるのは以前から変わらないが、朝もバタバタしている彼女はうっすら目元にクマが出始めて、アンニュイな雰囲気に拍車がかかっていた。


「…何その顔、すごいニヤついてるけど」
「んー?いやー、ほんとに三ツ星取っちゃうなんてすごいなあって」
「…ああ、五条が言ってたけどデザートがやっぱりネックだったみたいだな。好きな子できた〜とか言い出した時には何言ってんだこいつと思ったけど、まあ、彼女とつるむようになってからはクソ甘かっただけのアレがまだ食えるようになったのは確かだ」


湯気あふれるマグカップにやわらかい唇を押し付け、口元をフ、と緩ませた硝子ちゃんの姿に、先日─ミジュラン発表のあった夜に開かれたささやかな会を思い出した。






「五条さん、おめでとう!」


インテリアコーディネーターとして働く夏油くんの彼女さんが手がけたという店内の内装の話で会話に花を咲かせていたときに小走りで店内に駆け込んでやってきた甘い匂いを纏わせた綺麗な女性は五条くんを見かけるなり満開の花のような表情を浮かべて微笑んだ。その瞬間になんとなく、あ、この人五条くんのこと好きなんだ、美人なのにもったいない、茨の道だな、と思ったのも束の間、あの、あ・の!五条くんが!デロンデロンになって彼女にウザ絡みし始めたのには顎が外れそうになる衝撃を受けた。
昔から女の子の、特に自分に好意を寄せる女の子たちのことなんてその辺に生えてる雑草くらいに興味も関心もなさそうだった五条くんが、彼女の顔を見るなりお酒を飲んで潰れていたにも関わらず勢いよく立ち上がって顔中の筋肉を緩ませているのかというくらいしまりのない顔で「きてくれたあ」なんて言うもんだから、わたしはずっこけそうになった。
誰あれ。え?本当にあの五条くん?昔から天上天下唯我独尊を地でいってた五条くん?『きてくれたあ』?!「俺に会いたいならお前が来いよ」とか上から物言いそうな男から出てきたとは思えない言葉にわたしは履いてたヒールが折れたのかと思うくらい足がぐらついた。なんか最近雰囲気が柔らかくなったなあなんて思ってたのはそういうこと?目を点にして硝子ちゃんが選んでくれたワインの入ったワイングラスを落とさないようにだけ注意しつつ十年以上前から知る五条くんとは思えない奇行を取る彼の一挙手一投足を視線が追う。店内の少ないテーブルを寄せてできた、五条くんがパパッと作ってくれた美味しいおつまみや硝子ちゃんが出してくれた空き瓶の数々が並ぶパーティテーブルの上に突っ伏していた五条くんがふらふらと彼女に向かっておぼつかない足取りで近づいていく。と思えば大きな体で彼女を包み込むように抱きしめて、「ほしとれたの、きみのおかげ。ありがとう」なんて、まるでドラマのワンシーンが始まったのかと思う現場に手から力が抜けて思わず落としそうになったワイングラスを、細くて長い指が攫っていった。


「危ないな」
「…ぁ、硝子ちゃん。……ごめん、びっくりしちゃって」
「面白いだろ。彼女、パティシエなんだ。たまたま行った店でケーキに一目惚れして五条が口説き落としてレシピ開発手伝ってくれてな。惚れたのはケーキだけじゃなかったらしいが」
「そうだったんだ…へえ……あの五条くんも好きな子とかできるんだ」
「完全にあいつの片想いかと思ったけどそうでもないらしい」
「五条くんが片想い…………夏油くんといい、時は流れるものだねえ」



硝子ちゃんのその言葉に、彼女からチョコレートやお砂糖の香りがすることにも納得がいった。五条くんはベロベロだったとはいえ、一人の女性にあんなにしつこく…いや、一途、に好きだとか付き合って、だとか言うタイプだと思っていなかったので、目の前で繰り広げられる男女のあれそれについていけなくて少しほろ酔い気分だったアルコールがあの時全て弾け飛んだ。彼女の方も満更ではなかったように見受けられたし、五条くんは昔からプレイボーイ(死語か?)で有名だったから、きっとあの日の夜はさぞ盛り上がったんだろうな、なんて下世話なことを今更考えて私も硝子ちゃんにならって湯気がもうもうと上がるマグカップに口をつけた。


「─あのバカ、ついにやらかして今へこみにへこんでるから打ち合わせの時爆笑してやれ」
「……え、この前の、うまくいかなかったの?!」
「フ、フフ、…傑作だぞ」


どんなお笑い番組を見ても写真を撮る時も、いつも笑う時は広角を少し上げて薄い笑みを浮かべるぐらいに留まる硝子ちゃんが、堪えきれないみたいに肩を震わせて綺麗な歯列を覗かせて笑っている。そんな可愛い笑顔を浮かべさせるのが、いつもあの美しすぎる男二人が起因ということに嫉妬してしまう。…わたしだって、硝子ちゃんとは知り合って十年以上たつのに。彼ら二人と一緒にパリへ旅立ったときにも似たようなモヤモヤに心が苛まれたことを思い出して自分が嫌になる。いつまで経ってもあの二人と自分の間には越えられない壁みたいなものがあるのが、少し辛い。



「…むぅ、」
「…クク…はぁ、五条の情けない話で酒がうまくなる…って、どうした?齧歯類みたいな顔して」
「…もう。学者みたいな括り方しないで。リスみたいとか言えないの?齧歯類ってなんか可愛くない!」
「はは。可愛いよ、なまえは」
「えっ」
「『リンゴみたいに頬を真っ赤にさせて、朝から食欲をそそらせて…困った女だな』…とかどうだ?」
「きゃ、キャーーー!!硝子ちゃん!やめて!朝からドキドキしちゃうでしょ!」



わたしより身長が高いはずなのに、挑発するみたいに腰を落とした硝子ちゃんはわたしを下から見上げて、口元を釣り上げた。そのあまりにも妖艶すぎる姿に目を逸らせず、すっぴんなのになんでファンデーションする前とした後で顔色変わらないの、なんで唇そんなに血色いいの、なんでビューラーする前からまつ毛そんなにカールしてるの、とかどうでもいいことが頭の中を旋回する。いつもレストランの照明を受けてキラキラと輝くワイングラスをサーブする手入れの行き届いた綺麗な手で私の頬をなぞって頬にキスされた。溢れ出る色気に耐えられなくなって顔を逸らしたわたしは悪くない。きゃーきゃーと一人で喚いていたら、「あはは!」と声をあげて硝子ちゃんが笑うものだから、いつのまにかさっきまで感じていた黒いモヤモヤは朝の霧のようにどこかに消えていった。








キッチンから聞こえるいつもより弱気なゴシゴシと床をデッキブラシで擦り付ける音をBGMに、当初の目的であった新しい業務提携のビジネストークをよそに、旧知の存在同士の日常の濃密なやりとりを事細かに語る友人の姿に、夏油は内心でも表面上でも苦笑を漏らした。マシンガントークを己に叩きつけ続ける女が持ってきたタブレットを手中に、夏油はどうしたものかと適度に女の話に相槌を打ちながら何度も繰り返し確認したタブレットの画面を長い指で無意味にスクロールさせる。その画面には彼女が作成してきた業務委託契約の契約書としてみっちりと契約内容が事細かに記され、最後には己の電子サインが記されているわけだが、彼女のマシンガンの発射段数は一体いくらなのか、息継ぎさえどこかわからない彼女の向こうで我関せずと話題の中心であるにもかかわらず会話に参加しようとしない家入にヘルプコールを送る。そんな自分に気づいているだろうにこちらに視線をよこさず先日訪問していたワイナリーの資料を読み耽る彼女からの援護は見込めないと判断して再び目の前の女に向き直る。彼女が開発した店の予約システムのおかげで予約の問い合わせが全てネットで完結するようになったこと、アレルギーや苦手食材の有無なんかを来店前に把握できるようになったのといい、仕事の的確さは間違いないのに、この話の長さは玉に瑕だ。トントン、と気づけば指先が彼女の持参したタブレットをノックしていたらしい。溌剌と話し込んでいた彼女は夏油のその仕草にハッとしてすぐ「かなり脱線しちゃったね!」とニコニコ微笑みながら指先でいじめられていたタブレットを回収し、問題なく契約が成約となったことを確認し、微笑んだ。


「というわけだから、硝子ちゃんは生きてるだけで公然猥褻罪に該当すると思うの!だから夏油くんも硝子ちゃんがお店でお客様に変なことしないように見守っててくれない?!」
「直接硝子に言ってくれないかい。そこで聞こえてないふりしてるから」
「どうせわたしが言っても『やきもちか?可愛いな』くらいにしか受け取ってもらえないの!」
「はあ、他のクライアントにもこんな話してるんじゃないだろうね、君は仕事ができるのに無駄な話が長すぎる」
「夏油くん酷い!元同級生のよしみでたまには無駄話ぐらいつきあってよ!」
「残念だけど私が無駄話に付き合うのは恋人だけなんだ」
「………ねえ、もしかして恋人のお話を『無駄話』だと思ってる?相変わらずナチュラルクズの夏油くんここに極まれりだね」
「言葉の綾だよ」


ほんと二人ともいいのはツラだけだよね、と言いながらタブレットを操作する同級生の姿に頬が引き攣る夏油ではあったが、今度彼女さんに会ったときにこんなのお客さんからもらってたよって言ってやろうかな、と先程スリのように今日の営業でお客様から渡された連絡先の書かれた小さな紙を自身のベストのポケットから抜き取っていったこの女の恐ろしさたるや、幼馴染の家入を凌ぐものがある。人質のようにぴらぴらと小さいメモを見せつけられて、そもそもやましいことなんてないし、連絡するつもりも毛頭なかったゴミクズでしかないそれではあったが、言い訳をすればするほど目の前の女が関心を持つことは知っていたので両手をあげて降参のポーズをとる。一瞬驚いたように目を丸くした後、「夏油くんもすっかり普通の男だね」人によれば貶されているようにもとれる言葉を口では紡ぎつつ、明るい表情を浮かべたことからどうやら合格点をもらえたらしいことがわかった。ようやく人差し指と中指に挟まれたそれがゴミ箱へと解放されることとなり内心ほっと一息をついた。



「─で、さっきから五条くん背後霊でも背負ってんの?ってくらい暗いけど。まだへこんでるの?」


─女の子に振られてあそこまでへこむなんて天下の五条悟もただの男だねえ、なんてさっきよりも嬉しそうに笑う彼女にもどうやら五条の恋愛事情が伝わっていることを悟った夏油は困ったように微笑んだ。


「悟が言うには『まだ振られてない』らしいけど」
「ウソ。セックスした後に平手打ちされたんでしょ?その後音信不通、振られた以外にある?」
「……君は昔から明け透けだね」
「夏油くんと五条くんにカマトトぶってても仕方ないもん」
「硝子の前ではあんなに少女みたいな顔するくせに」
「えへへ。だって硝子ちゃんよりかっこいい男の子いないから」
「………あの硝子から煙草を取り上げられるなんてきっと君くらいだよ。禁煙外来でもひらいたら?」
「ええ?硝子ちゃんだから、できたんだよう」


大きな瞳を意味ありげに細め、ぽってりとした唇の中央に乗せられたグロスを見せつけるように笑う女の姿に、昔から『硝子ちゃん、硝子ちゃん』と雛鳥のように家入に懐いていた少女だった頃の彼女を思い出しながら女性の成長というものは末恐ろしいなと夏油は息巻いた。



「─女性の気持ちは女性の方がわかるだろう。悟に何かアドバイスしてやってくれないか?そろそろあのままだと営業にも影響しそうだから」
「あはは。お仕事にしか興味関心なかった五条くんがねえ。うーん、なんだろう。彼女パティシエさんなんだっけ?ケーキ買うの口実にお店に行けば?手紙とお花でもしたためて何日も通ったら本気なの伝わるかもよ」


キッチンの中で背後霊を背負っていた五条がなまえの少し張り上げた声に反応して振り返り、ご尊顔をこれでもかというくらい歪ませた。


「………オマエら絶対馬鹿にしてるだろ」
「してないよう。五条くんが本命相手に全然うまくいってないの可愛いじゃん、応援してるよ」
「それを馬鹿にしてるっていうんだよ!!!」
「ええ?結構いいアドバイスだと思うんだけどなあ。どうせ五条くん、アプリのメッセージとかしか送ってないんでしょう。女の子はね、『手書きの手紙と自分のために選んでくれた花』に弱いんだから。それに忙しい時間を縫ってわざわざ自分に会いにきてくれるっていうのもポイントね」


ま、嫌いな男からやられたらキモいだけだけど、五条くんと彼女なら大丈夫でしょ、と柔らかく笑う元同級生に五条は後光でも差しているかのような錯覚を覚えた。
女性ならではの自分にはなかった着眼点に、一筋の光を見出した五条はここ数日萎れた花のように点灯できなかったやる気スイッチのボタンをパチンと入れた。しおしおにしぼんでいた風船がみるみるうちに膨らんで顔には血色が戻っていく。


「早速明日!!行ってくる!!!」
「んふふ、頑張れー。…あれ、五条くん、マジで可愛い……?」
「私のいる前で堂々浮気宣言か?」


傍観を決め込んでいた家入がさっきまで読んでいた上から下まで様々なワインが載ったカタログをなまえの眼前に突きつけて視界を遮った。一体どんな違いがあるのかちっともわからないそのワインボトルの羅列ではなく、不敵に笑った家入を嬉しそうにキラキラと見つめるなまえは「硝子ちゃんがヤキモチ焼くなんて…!」と興奮気味で、もうすっかりさっきまで関心の中心だった五条も夏油もフェードアウトしていた。


「…打ち合わせは終わったのか?」


なまえの向かいで話に付き合わされていた夏油は「そんなのとっくにね」と困ったように笑ってみせた。


「帰るよ、なまえ。明日も仕事だろ」
「あ、うん!夏油くん、五条くん、遅くまでお疲れ様!今日はありがとう!」
「こちらこそ。これからもよろしく頼むよ」


いつも通り、夏油が優しく開く扉を抜けて家入となまえはどこか別世界のようなレストランから電車の営業時間が終わって少し静かになった街に踏み出した。どちらからともなく自然に触れ合った手を握って、自然と同じ速さで歩く二人分の足が同じ目的地に向かっていく。


「嬉しそうだな」
「昔は三人以外受け付けません〜〜っみたいなバリケード張り巡らせてたみんながえらく丸くなったなあって思うと感慨深くて」
「私はそんなことなかっただろ」
「私しか友達いなかったじゃん硝子ちゃん」
「なまえがいたらいいんだよ、それで」
「!ふふ、私昔から硝子ちゃんの手が一番好き。一番落ち着くの。パリにいっちゃっても、三ツ星とっても、昔と変わらない硝子ちゃんがだいすき」


営業時間が終わった店が多いのだろう、眩しいくらいのネオンの照明ではなく、優しい街頭の光が照らす微笑むなまえの表情が、とても美しく見えた。私もだよ、そう小さく呟けば、本当に幸せそうに微笑むなまえに、今日は帰ってからどうしてやろうか、なんて考えた。







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