Entrée

幸せな夢を見た。もうここ何年かの願いがぜーーーんぶ叶った夢だ。旧くからの友人と共に経営しているオープンしてからもうすぐ三年がたとうというレストランがついにミジュランガイドの三つ星を受賞して、一年ほどずっと想いを寄せていた相手に告白して、受け入れてもらえた、そんな夢だ。足に羽でも生えたみたいに嬉しくて、地に足ついてないふわふわした心地で幸せでたまらない。そんな幸せに無情にも終わりを告げたのは、甘い世界には似つかわしく無いブーブーとけたたましく鳴り喚く機械音と頭に伝わる振動で、途端に胃のあたりから迫り上がる気分の悪さと割れんばかりに痛む頭を自覚することになった。急に現実に引っ張り上げられるような感覚に、ずっと浸っていたいくらいやわらかい夢とは名残惜しく別れを告げた。


「……あったまいた〜〜〜っ…」


もうすっかり日が上りきっているらしい日差しが目に眩しくて、シパシパ瞬きを繰り返しつつ体全体が鉛のような重さであることとあまりの頭の痛さに朝から何つー不快指数だ、と米神を揉み込んだ。まだ日中は麗かとはいえ、朝晩は冷え込むせいかすっかり寝ている間に冷えたらしいTシャツ一枚はおろか下着さえ身に付けていない体を震わせた。鼻から抜ける自分のアルコール臭さに吐き気がする。日差しの明るさから大体の現在時刻を予測して、痛みを訴える頭から血の気が引いてさらに気分が悪くなった。いつもならとっとと市場にいって仕入れた食材に仕込みを入れている時間であることに気づき慌てて頭の横で震え続けるスマホに手を伸ばす。その瞬間に痺れを切らしたのか機械音も煩わしい振動も鳴りを潜めたと思いきや、ホーム画面に現れた着信の量に鳥肌がたった。やっべ、絶対傑キレてんじゃん。って、ちょっと待て、今日定休日じゃない?え?なんで休みの日にこの鬼電?ってかなんで僕全裸で寝てるわけ?ガンガンと痛む頭でうまく処理しきれない情報を一つ一つ解読していくように一先ず深呼吸する。…これは、あれだ。慣れない強い酒を飲んだ後の後遺症だ。あれ、昨日なんで酒飲んだんだっけ…あ、そうだ。さっきの、夢じゃ無いじゃん。昨日はミジュランの発表会で、ついに積年の夢が叶ったあまりの嬉しさで傑と硝子とバカみたいにはしゃいで、酒なんて苦手で飲まないのに羽目を外して硝子がとっておきに置いてあった店で一番高いシャンパンを開けたんだった。
それで、世話になった人も呼んでお祝いしようということになって、「彼女にもメニューの開発なんかでいっぱい助けてもらったんだから口実にして呼んだらいいじゃないか」なんて傑に言われて、酔った勢いも相まってじゃあ呼ぶーってベロベロになりながらなまえを呼んでー…


「……おはよう。さっきから電話すごい鳴ってたから起こそうと思ったんだけど、幸せそうに寝てたから起こせなくて、ごめんなさい」
「………………………はっ?」
「……………………やっぱり酔ってて覚えてないとか言います?」


突然隣から聞こえた女性にしては少し低くて、落ち着いた、顔なんて見なくても誰か分かりきった声が鼓膜を揺らした。いつもなら敬語が混じったような何処か距離を感じるはずの彼女の、いつか恋人になったら〜なんて妄想してる時みたいな口調が耳に届いて、でもそれがどうして自分の部屋の、自分のベッドの上から聞こえるのかがわからなくて恐る恐る視線を移せばふわりとさっきまで見た夢の中のようにやわらかく、職業柄なのかいつでも甘い匂いを纏った、いつもよりふわふわした表情を浮かべる女の存在にまさかまだ夢を見ているのかと思った。だって、出会ってからいつも美しいデザートを作り上げることしか考えていないこの女のこんなに柔らかい表情を見たことがなかったから。うそ、なに。これ、やっぱり夢でしょ。だって、こんな、可愛い、まるで恋人にでも向けるような甘やかな表情が僕に向けられているなんて。呆然としながら、呼吸をすることも忘れて肺の中に溜まった二酸化炭素の濃度が上がった空気を短い嘆息と一緒に吐き出せば、みるみるうちに普段の表情に戻っていくように眉間に見慣れた皺が刻まれた。あ、多分僕今ミスった。─そう考えたことさえお見通しだったのだろう、僕と同様何も身につけていない目の前の愛おしい女が、肩まで引き寄せていた毛布の中から恥ずかしげもなく体を起き上がらせて裸体を露わにさせた。見たことがなかったはずの、だけど見覚えのあるやわらかそうな双丘に視線が自然と移るのは仕方のないことだと弁解させてほしい。だって好きな女の子のおっぱい見たくない男っている?!え、なに。うそ。乳首ピンクめっちゃ綺麗。って言うか何キスマめちゃくちゃついてるその体エッロうそ。もしかしてそれ僕?ヤバ。まじ?昨日何があったの早く思い出せって僕の脳。ここまで多分0.01秒くらい。だけどなまえが作り出す煌びやかな宝石のようなデザートみたいに美しい彼女の体に見惚れて全ての反応が遅れてしまった。気づけば「やっぱりこんな都合のいいことないですよね。期待した私が馬鹿でした」なんて言葉が聞こえてきて、誤解だと言う間も無く渾身の一撃が僕の左頬どころか左側の顔面にクリーンヒットし、二日酔いの痛む頭に星が飛んだ。………、さすが、毎日力仕事してるだけ、ある、ね………。


そのまま再びベッドに沈んでしまっていたらしく、今度はスマホの着信音ではなくインターフォンの音に呼び起こされた時には隣に彼女はいなくて、彼女が沈み込んでいたはずの僕のベッドはすっかり冷たくなっていた。


「はぁぁぁぁぁああ……」


よくよく考えてみれば、夢の中で見た告白も(泥酔状態であったことには違いないが)現実の話で、酒の力を借りて告白するなんてダサいことこの上ないが、これまで躊躇って言えなかったのはなんなのかというくらい一度口から出ていってしまえば僕の心を占拠していた想いは留まることなく溢れ出ていった。『もう、酔いすぎです。本気にするからやめてください』なんて困った表情を浮かべた彼女は満更でもなさそうで、何度も何度も好きだ好きだ付き合うって言ってくれないと帰さないからなんてみんながいる前で泣きついた。

『……、五条さん、彼女いっぱいいるでしょ。業界で有名なんですから私だって知ってます。なんなら独立前のホテルの同僚が、その、そういう関係だって、言ってたし』
『は、はあ?!オマエと出会ってからはそんなしょーもないことやめたっつーの!!!』
『………、五条さん、今日すごい酔ってるみたいだし、明日起きたら覚えてないとか…、』
『オマエと恋人になったこと忘れるなんて絶対ありえない!』
『…………、』
『ヤダヤダヤダ恋人になるって言って〜〜〜!!!』


子供みたいに駄々をこねたのは酔っていたせいか、それともこれだけごり押しすれば「うちの店にきてほしい」と彼女のパティスリーに何日も通い詰めて必死で嘆願したそれを「……メニュー一緒に考えるくらいなら、まあ」と受け入れてくれた時のように絆されてくれないだろうかという見立てがあったからか。なぜか記憶はそこで途切れていて、そのあと彼女がなんと返事をしたのか、どんな手段を用いてここまで連れ帰ったのか、昨日したであろうセックスの具合がどうだったのか、まるで覚えていない自分のポンコツぶりに空を仰いだ。彼女の体に残っていた痕跡と己の部屋に残る物証は昨夜彼女と結ばれたことを示唆していて、自分がこれほどアルコールに弱い体質であることを悔やんだことはない─いや、そもそも昨日酒を飲んだところから全てが間違いだったのだ。ガンガンと痛む頭を叩き続けていればブラウン管のテレビがうまく周波数を捉えるみたいにいつか映像が蘇らないだろうか。

─こんなことをしていても仕方ない。
叩きすぎて違う意味で痛くなった頭は思考をクリアにさせるという副次的効果をもたらしたらしい。
慌てて彼女の連絡先をアプリで表示させるけれども、電話をしても、なんとか弁明したくて必死にメッセージを送っても一つも既読はつかないし、通話に出てくれることもない。今朝のなまえの顔見てわかった。絶対、あの夢も夢じゃなかったんだ。昨日の晩はあんなに嬉しいことがあったのに、そんなこと塗り替えてしまえるくらいの絶望感が僕を襲う。やばい。ぜったい、嫌われた。さっきから鳴り止まないインターフォンのモニターに映る親友の姿に思わず縋りつきたくなってよろよろと玄関に向かう。



「助けてすぐえもん」
「誰が猫型ロボットだって?─取材、あるの忘れてただろう。……いろいろ聞きたいことはあるけど、いいから服着て」


手慣れたように僕のクローゼットから服をバサバサと取り出す傑によって木偶になった体に着せ替え人形よろしく身綺麗に仕立て上げられた僕は放心状態のまま傑が乗ってきた仕入れで使っているミニバンに乗せられた。





「ゴホン、えっと、それで?ふ、…ゴホ、ン゛、彼女怒って出て行って?連絡が、ンン゛、つかないって?」


さっきまで取材に来ていた記者とカメラマンの不躾な視線を思い出して全身を流れる血流が途端にドロドロになったような不快感を覚える。
……傑の細くてみみっちい目が僕の真っ赤に腫れた左頬に集中しているのがわかった。堪えきれない、みたいに俯いて笑いを空咳で誤魔化そうとしているのか知らないが、オマエ肩震えてるからな。全然隠せてねーから。


「……あれれー?三ツ星レストランのお墨付きがもらえたギャルソンのくせに、事情を抱えたお客様一人に寄り添って接客することもできないんですかねー?クチコミに書いちゃおっかな〜?!こーんな侮辱してくる店二度とこねェなァ〜〜????」
「ふふ、ごめんごめん。口調が昔に戻ってるよ。私が悪かったよ悟。君が女性の平手打ちを避けもせず受け入れて、かつこんなにしょぼしょぼに萎んだ風船みたいな顔から全然復活しないもんだから…ふふ、」
「クッソ…!!笑いてーなら思いっきり笑えばいいだろ!!!」
「……諦めろ、五条。詰みだ」
「やだやだやだなんでむりせっかく付き合えたんだよね僕ら?!なんで交際数時間で破局迎えなきゃなの!?僕がどんだけ片想い拗らせてたか知ってるよね?!?」
「知らねーよ」
「わかってるから私たちは昨日君にアシストしたんだよ。子供みたいに床でジタバタ暴れて駄々をこねる君が彼女に引かれないようにフォローを入れたし、君を送り届けてほしいと硝子が呼んでくれたタクシーに君を彼女と一緒に放り込んだのは私だ」


─あれだけお膳立てをしてうまくいかなかった悟が悪い。
呆れたように笑った傑の言葉が傷だらけの胸に研ぎ終わったばかりのペティナイフばりに切れ味よく突き刺さった。完全に致命傷で、普段出来上がった料理をサーブするカウンターに項垂れた。…あの状況でどうやってセックスまで持ち込めたのか謎でしかなかったが、どうやら彼女と結ばれたらしいのはこの盟友二人のおかげだったらしい。何も言い返せない立場であることがよくわかった。


「その節は…ありがとうございました………」
「わかればいいんだよ」
「昨日のシャンパン五条の自腹な」
「ああああああ僕のばかああああああ…なんで記憶なくしてんのせめて頭フル回転させて気を利かせて昨日はかわいかったねとかなんで言えないのなんのために昔遊んでたの馬鹿すぎて死にたい」
「重症だね」


…さて、今空気の抜けたサッカーボールよろしくべこべこにへこんでいる僕だけど、今までの人生を振り返ってみると、うまくいかなかったことなんて一つも思いつかないまさに順風満帆、ゲームの難易度的に言えばイージーモードで、挫折なんて一つも知らなくて、たぶん何をやっても成功する特別な人間だとずっとそう思って生きてきた。
生まれ持った恵まれた容姿、何をやってみても特に苦労することなくなんでもできる器用さ、頭の回転の速さ、どこをとっても自分以上に完璧な人間なんていないのだと幼少期から漠然と感じる全能感があって、それが故にできない人間のことがわからなかったし、自分以上に何かに秀でた人間と出会ったことがなかった。必然的に出会う同級生や自分の能力以下の教師や講師を軒並み馬鹿にして生きてきた。友達と呼べる友達もこいつら二人くらいで。…だって当然でしょ?なんで自分よりできない人間を尊敬できるっていうんだ。─あ、ちょっと話が逸れちゃった。そんな天狗になった僕でも、ミジュラン三ツ星は全然簡単じゃなかったし、初めて恋した相手にはこんな無様な姿晒して、神様はちゃんと僕に試練を用意してたって話なんだけど、とりあえず言わせて。


「昨日の夜に時間戻して〜〜〜〜………っ」



ずっと欲しかった三ツ星レストランの称号も、彼女の恋人という称号も得て、人生最高の一日になるはずだったのに、選択肢を誤った僕は人生最低のどん底に落ちていた。











照明が一段落ちたホールの向こう側、対面キッチンに美しく整理整頓された調理器具をノールックで取捨選択し、手際良く手を動かす男の手によって色鮮やかな野菜たちは均等な大きさに切り分けられ、新鮮な魚介類や肉も鮮やかな手つきで下処理が施されては魔法にかけられたように色鮮やかな料理へと変貌していく。入念にとられたブイヨンの香り、香ばしくも絶妙な火加減で熱される食材たちが醸し出す美味しそうな香りが室内に充満していく。営業終了後の片付けや当日の売り上げの勘定、仕入れの手続き、翌日の予約の確認を終えた従業員はその匂いに釣られてくるかのようにキッチンから料理がサーブされるカウンターで一息ついた。


「…今日試作の日だっけ」
「もう、朝悟が言ってただろう?クリスマスディナーの試作だって」
「あー、またあのクソ忙しい日がやってくるのか」
「まだ少し先だけどな、おまたせー」


無骨そうな大きな手から作り上げられたとは思えない繊細なこじんまりとした料理が煌びやかな照明に当てられたカウンターに並べられていく。その一皿一皿を吟味するように写真に残し、「食っていいぞ」とぞんざいな言葉の後から男一人、女一人が花畑のような前菜から、なんの汚れもないような真っ白なスープ、魚料理、肉料理、そして締めのデザートへと手をつけた。


「ど?」
「…うん、どれもすごく美味しいよ」
「右におなじー」
「オマエらいっつも同じ感想。もっとなんか無ェのかよ」
「私はこれ基準でワイン選ぶから別に料理にどうこう言うつもりないしね。アドバイスは夏油に頼みな」
「はは、硝子ってば私に全部面倒なことなすりつけようとしてるよね」
「あーもうこれだから馬鹿舌共は……んー!俺ってマジで天才どれもうますぎ!」
「「………」」
 

結局お前も同じ感想じゃないか、二人は同じことを考えたが言葉にはおろか表情にも出さず、柔らかく喉奥に仕舞い込んだ。


「白子か鯛なら?」
「「白子」」
「キジバトか子鴨なら?」
「「キジバト」」
「ふは、だな!」


自信満々そうで、嬉しそうな笑みを顔いっぱいに湛えた男─名を五条悟という─はずらりと並ぶ少しずつ手をつけられた料理へと無作法にフォークをぶすりと差し込んでは自身の、神が手を混んで作り上げたかのような整った口元にそれを運び、大口を開けて放り込んでいく。それを見つめる従業員であり、旧くからの友人である男女、夏油傑と家入硝子は並べられた料理がオーディションの審査を受けさせられているかのような面持ちになりながらも最終審査の意見が満場一致したことに小さく笑みを漏らした。

残るはデザート、というところで五条の浮かべる表情が軽薄なものから不満げなものに移っていった。
今までの料理の全てがまるで画家の描いた絵画のような華やかさだったのに対して、些かシンプルすぎるそれに優しくフォークを突き刺して口に運んだ五条は眉間の皺を深くさせた。


「んー、イマイチ」
「……そう?いつも思うけど十分美味しいよ」
「甘すぎてくどい」
「……俺はデザートは甘くなきゃ許せないタチなのー!!」
「んじゃそれでいいんじゃない?」
「でもこの前もクチコミサイトに書かれてたっしょー、デザートが微妙って。ミジュラン結構デザート重視してんだよなー、二ツ星は獲れても三ツ星は無理くさい」


苦虫を噛み潰したような、いつも自信満々に俺こそ頂点とでも言いたげな男の珍しい表情に夏油と家入は顔を見合わせた。


「珍しいね、悟がそんな弱気なの」
「だってデザート以外はぜーんぶ完璧だもん俺天才だし」
「……」
「そ、れ、に!オマエら二人の接客もワイン選びも完璧でしょ?俺たち最強なんだからハナから三ツ星狙うつもりだったのに去年は一ツ星で今年は二ツ星て!!!あ゛〜ッマジ悔し〜〜」
「ふふ、悟はいつもそれぐらい素直だと可愛いのに」
「………そもそもオマエのその態度こそ何とかしろ。適当に客に手ェ出したりしてるの、いつかクチコミサイトに書かれるぞ」
「はー?誘われたから誘いに乗って手を出してあげたのに褒めてもらいこそすれ貶される道理ないんですけどー!」
「誠実になれとまで言わないけれど、女性には誠意を持って接した方がいい。それに三つ星を狙うなら悟自身も変わった方がいいのは確かだね。一人称だって俺じゃなくてせめて僕か、最善は私。こんなに上品に仕上げてもらった店内でシェフの粗雑な言葉遣い、聞きたいお客様はいないはずだよ」
「あーあー、急に説教と匂わせ惚気始まったー。ウッゼーーー!」


前方から醸される穢れた気配を吸い込んだ嫌悪感で家入はオエ、とシェフに向かって舌を出して嘔吐いてみせた。夏油の方も言葉尻に含ませる自身の恋人の存在と彼女を褒める表情の甘やかさも正直言って別に聞きたくないしシンプルにうぜーのは五条に同意、と家入はぐだぐだといつもの軽口の応酬を始める五条と夏油を尻目に嘲りを含ませた息を漏らした。営業開始から日付を越えて数時間が経過した現在、唐突に口寂しくなった舌先で口元をまごつかせてから一人スタッフルームへと移動した。腰元から伸びるエプロンを手早く抜き去り、ソムリエバッジと上品なネームプレートを美しいスタイルを際立たせていた黒いワイシャツの胸ポケットから取り外し、ロッカーにかけられたロングカーディガンを羽織って帰り支度を始める。


「試食が終わったなら私は帰るぞ」
「おー、お疲れ」
「お疲れ様、硝子。気をつけて」


スタッフルームから再び店内を抜け、ひらひらと無駄に高い位置から力なく手を振る五条と出入り口までわざわざついてきて扉を開けて待っていた夏油に見送られて、家入はオープンして二年ほどが経過した旧友と作り上げた城から帰路についた。徐にロングカーディガンのポケットに手を突っ込み、目当てのものを取り出そうとしてすぐにルームシェアしている同居人から「禁煙!」と釘を刺され、最後の一箱を取り上げられたことを思い出し息を吐く。タイミングよく入ったままになっていたスマートフォンのバイブレーションが行き場のない手に振動を伝え、家入は仕方なしに小さな四角い紙の箱の代わりに薄い端末を抜き取り、ディスプレイに表示される通知画面を見て、一瞬顔を顰めた後手慣れたように通話画面に切り替えた。


『ん、硝子ちゃん、お疲れ様〜』
「まだ起きてたのか」
『んーん、さっきまで寝てたよ。たまたま目が覚めちゃってそろそろ終わる頃かと思って連絡した』
「…明日も仕事だろ、早く寝な」
『………今から飲もうよ。明日アポないしさ』
「今何時だと思ってるんだ」
『…硝子ちゃんも口寂しいからって煙草吸っちゃいたくなる頃でしょ?…早く帰ってきて』


電話口の向こうからのその言葉に家入は勝手に足が家ではなくコンビニに向かっていたことに気付かされ、電話の向こうにはバレないように頬をかいた。
端末上でのやり取りでは相手の姿なんてちっともわからないのに電話の向こうの存在が甘えた様子で自分に囁く甘言に家入は観念したようにコンビニへ向かっていた足を方向転換させた。


「明日仕事にならなくても私は知らないからな」
『ふふ、硝子ちゃんノリいいの最高軽くおつまみ作って待ってるね』


軽いリップノイズを置き土産に切れた通話を確認してから今度は大切なものをしまうようにポケットへスマホを仕舞い込んだ。






_

「電気切るよ、悟」
「おー」

家入が帰宅したこじんまりとしながらも、上品に、ラグジュアルに、かつ格式ばりすぎることなく仕上げられた店内の最終チェックを終えた夏油が煌々と輝いていたキッチンの主電源を落とした。出入り口の簡易的な灯りを頼りになめされた皮であつらえられたシンプルなキーケースを取り出して何連かに連なる鍵の中から最もシンプルなそれを探り当てて施錠を行う。ガシャン、鍵がきちんと引っかかった感覚と閉まった音を確認して錠を引き抜き、ひやりと冷たいドアノブを握ってきちんと鍵がかかっていることを確認した夏油が夜半にも関わらず芸能人ばりのサングラスをあつらえた五条に向き直った。


「お待たせ」
「んー、」
「夜は冷えるね」
「……んー、」
「サングラスかけてスマホ見ながら歩くの危ないよ」
「……………ん」


五条から返ってくるあまりにやる気のない生返事にこれは話しかけるだけ無駄だと判断した夏油は五条が歩く隣に連れ合いながら一応人通りがまばらとはいえ五条が人にぶつかったりあらぬ方向へ行ってしまわないよう気を遣いながら慣れた道を歩いた。
器用な五条は結局誰ともぶつかることも躓くこともなく目的地である見慣れた鼠色のタイルがびっしりと埋め込まれた、各部屋の窓が等間隔に並んだ外から見ても部屋の狭さがうかがえるマンション前に到着していた。エレベーターさえない古いマンションの、自分の部屋の位置をなんとなく見上げた夏油は、そろそろ引越し時だろうか、なんて考えながら交際が始まったばかりの恋人のことを思い浮かべる。
幼馴染三人で経営しているレストランはまだ世界的なレストランの総評を行うレストランガイドに二つしか星を授けられていないが、既に予約の取れない人気店となっているし、懐も割と温まっている。何かあった時のために、と自身の家賃を削って貯金をしてきた夏油ではあったが、さすがにエレベーターのないマンションの四階に愛おしい女性を連れてくる勇気がなかった。彼女であれば、「運動になるね」くらい言ってくれそうだが、そういう問題ではない。男は好きな女には格好つけたいものなのだ。玄関開けてすぐにキッチンがお目見えする1Kのマンションではなく、広い廊下、脱衣所なんかがあるセパレートの二人で入っても心置きなく愛し合えるバスルーム、かつ間接照明なんかが雰囲気をもたらしてくれる寝室のある素敵マンションに招いて素敵な夜を過ごしたい。今までなら頃合いのラブホテルで済ませていたそれ。気にならなかったことが途端に気になる自分自身に恋は盲目だと苦笑を漏らした。

それじゃあ、と五条に声をかけようとしたところでいつの間にかあれだけ注視していたスマホではく五条の真剣な双眸がこちらに向いていることに気づいた夏油は先程しまったキーケースに伸ばした手を中途半端なところで留めた。


「傑、明日仕入れオマエに任せていい?」
「?いいけど、悟はいいのかい?」
「オマエ目がいいから大丈夫。信用してる」
「─…どうしたんだい、」
「仕込みの時間までスイーツ巡りしてくる」
「─ああ、成程。うん、わかったよ。任せて」


夏油は周りからいつもどこか浮いていた完璧超人な旧友のこういうところをいたく気に入っていた。ある程度なんでもできるし、やろうと思ったことは人が努力してようやくできるようになったことが大抵すぐできる五条は、それに驕らず常に最善を尽くす。そも、この何でもできる男が生涯の仕事に『料理人』を選んだのも『フレンチ』を選んだのも一筋縄ではいかなかったということに面白さを見出したかららしいし、一人で何でもできてしまう男が、一人では完結しない仕事を選んだところも実に面白い。きっと『デザートの出来』について納得できていないだろうことはさっきのやり取りでわかりやすいぐらいだった。五条の頭の中は常に新作のレシピや食材の掛け合わせなんかで埋め尽くされていて、正直なところ他が介入する余地がないのだ。先程は家入にゴミでも見るような目で見られていたが、確かに女性に真摯に向き合うことはしないけれど仕事に一途な五条に信用されていると面と向かって言われれば、こちらとしてもやる気に満ちるというもの。─「がんばってね」と微笑めば「硝子がもっと食いてえって言うデザート作ってやるよ」と息巻く五条の様子に夏油は心底楽しそうに笑った。まさかこんな風に見送った男が数日後に「俺、運命の出会い果たしちゃったかも」なんててっきりいいレシピでも思いついたのかと思いきや『恋の』運命の相手を見つけてくるのだから、人はいつ変わるのかわからないものである。─それはもちろん、自分も含めて。






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