諦めは死に似ている

「誕生日おめでとう、なまえ」
「ありがとうございます」

最近見つけたケーキ屋のケーキなんだけどさ!ここのケーキどれも美味しいんだよ、あ!ロウソクふぅーってするよね?!今ロウソク立てるから待ってね!なんて誕生日の私よりはしゃぎながら、大きな箱から出した美しい大きなケーキに、恋人は私の年齢の数字型のロウソクをたてだした。…この歳にもなってそのロウソクを立てられるのは少し恥ずかしい。忌々しくなりつつある数字の上でゆらゆら揺れる小さな火をふぅ、と吹き消せばなぜか目隠しもサングラスもしていない綺麗な眼を嬉しそうに細めながら、鈍い銀色が輝くフォークを手渡される。「ホールケーキこのまま食べるのって背徳感あっていいよね」と主役をほっぽってザクザク食べ進める様子に、こういうところは相変わらずだな、と苦笑を漏らした。大きなフォークの先にちょんと乗せたケーキを口に運べば、甘すぎずくどすぎない上品なクリームの味とふわふわなスポンジの感触が口内に広がり、一気に幸せに包まれた。「美味しいですね」と告げれば「気に入ってくれてよかった。カフェスペースもあるから今度行こうよ」と微笑まれて頷いた。

ふいにポケットに入れていたスマホのバイブレーション音にまさか任務じゃないだろうな、と恐る恐るディスプレイを点灯させれば、姉からだった。
『誕生日おめでとう!そろそろ結婚しないの?父様も母様も口にはしないけど心配してるよ』
内容に思わずぴくり、反応したのがわかったのか目の前でホールケーキを美味しそうに頬張る彼に「何?任務?」と聞かれるが「姉からです。誕生日のメッセージで」と返せばそっか、と途端に興味なさげにケーキへと視線が戻っていった。
中身を見られないように気をつけながら『ありがとう。結婚はしない』とだけ返してスマホを元通りポケットにしまった。すぐにまた通知を告げる音がポケットの中で響いていたが、これ以上楽しい時間を不快な気持ちにされたくないのでスマホをポケットから取り出すことはなかった。

私の恋人ー、五条先輩は、結婚しないらしい。だから私も結婚しないと決めた。







「御三家って幼い頃から婚約者とか許嫁とかいそうだよね。結婚の話とか悟はないのかい?」
「ハァ?結婚〜?絶対ヤダ。特定の女作るとかめんどくさいし、そもそも家が決めた相手とかサイアク!子供も作んなきゃなんないだろうし。そもそも結婚って制度がデメリットの塊。する奴の思考が理解できないね」
「出たよクズ。本命ができた時にこっぴどくフラれたら面白いのに」
「はあ〜〜?本命?セフレいりゃ十分でしょ。俺が誰か一人に本気になるとこ、想像できる?」

たまたま通りかかった二年生の教室の前で、先輩たちがそんな話をしているのを耳にした。その中の一人が、御三家が一つ五条家の次期当主だったので、五条家はずいぶん先輩を好きにさせているんだなと思った。禪院や加茂は相伝を継承するためいまだに時代錯誤な風習をとっていると聞くし五条の家も似たようなものだと認識していた。先輩に至っては五条家でも珍しい六眼持ちとの話だし、現当主の子供は彼だけらしいし、この時までは後継を産んで育てるのは彼の義務だと思っていた。

私の実家は、御三家と並ぶ歴史ある呪術家系の一門ではあったが、相伝の術式を継承した兄のおかげで、他の兄弟は割と自由にさせてもらっていた。呪力のあるものは呪術師になればいいくらいのもので、実家で呪術師として育ち依頼される任務を請け負うも、高専へ入学し高専所属の呪術師になろうとも、一般社会に出ても家でお手伝いとして働くもなんでもいいというスタンスで、結婚に関してもしたいならすればいい、但し生まれた子供が相伝持ちであればその限りではない、というようなもので他の呪術家系と比べれば男女差別の少ない比較的先進的な家だと思う。
威信が回復した天下の五条家も案外ウチと同じような感じなのかもしれないな、と思うと雲の上のような存在だった先輩がそれから少しだけ身近に感じられるようになった。この時はそこまで仲良くない先輩の五条家における発言力について全く知らなかったのだ。
実質強すぎる五条先輩が、五条家というか呪術家系ならではの煩わしい物事を一掃していただけ、というのを知った時は思わず笑ってしまった。

とはいえ、この人のことを私は昔から特に好きでも嫌いでもなかった。実力主義者で、強くて頼りになるところ、常に努力し続ける姿勢は尊敬していた。だが、女性関係に関しては本当にドン引きするようなだらしなさで、平気で今のセフレの人数は何人だとか、自身の性事情をあけすけに語る姿を硝子先輩と一緒に軽蔑していたくらいだった。

その意識が好意的な方向に変わったのは、彼の相棒とも言える夏油先輩が一般人を大量虐殺して、高専を離れた後からだった。彼は突然人が変わったように『真面』になった。というよりは『真面』にならざるを得ないようだった。どこか焦って、強迫観念に取り憑かれたかのようにまるで夏油先輩に成り代わるように『僕』だとか『私』だとか、『敬語』を使い始め、たまに間違って粗雑な言葉を使おうとして言葉に詰まってなんでもなかったように『軽薄そうに振る舞う』。無理をしているのは明白だった。夏油先輩がいなくなったショックは計り知れないだろうに、それを誰にも悟らせないように常に気を張っているようだったーそんなの、絶対にストレスが溜まる。実際、眠る時間も全然足りていないのかサングラスで隠れた目元に酷いクマができていたし、ふとした瞬間に酷く疲れた顔をしていた。そのストレスの捌け口とも言いたげに、ただでさえ酷かった女遊びの酷さが加速した。今までは自分のテリトリー外の一般人に適当に手を出していたようだが、窓はもちろん補助監督にまで手を出すようになってこのままでは東京高専内が五条先輩の大奥になるのではと硝子先輩と共に危惧したくらいだ。さすがに、目の前で繰り広げられる日々の修羅場の居た堪れなさに黙って見ていることができなくて、でもどうすればいいのかもよくわからなくてなんとか少しだけでもストレスが取り除ければと「先輩が『僕』とか気持ち悪いんで気の許せる人の前くらいは今まで通りでいいんじゃないですか」と言い放った。驚いたようにサングラスの向こうの瞳が瞠目したのがわかったが、「何偉そうな口利いてんだよ」とすぐに昔のように悪戯に笑いながら小突かれて、そのことに酷く安堵したことを覚えている。そんな彼が今まで通りに振る舞うのはなぜか私の前だけで、ただ気の許せる後輩、私は多分彼の中のそんなポジションに収まった。それからというものの、五条先輩に頻繁に呼び出されてただ愚痴を聞かされたり、ご飯に連れて行ってもらってお酒に弱い五条先輩を潰したり、私はお酒でクダを巻きながら今日の任務がどうだ、彼氏にフラれた、みたいなどうでもいいことを話す日々を何年か過ごした。



「俺、お前のこと好きかも」

五条先輩からの告白はまさに寝耳に水。彼氏と別れたなら俺ー、いや僕と付き合ってよ、と捨てられた犬のような瞳で私を見つめる五条先輩に、なんとなく、もう気の置けない後輩をいじめるほどのストレスがなくなりつつあるんだろうなと思った。私は夏油先輩がいなくなってから、五条先輩をいつの間にか気にして常に目で追っていた。たぶんもうずっと、私も先輩のことを好きだった。酔った頭でここで断れば、こんな風に二人で話すことはなくなるのだろうか、と考えてひどく寂しく思ってしまい、気づいたら頷いていた。私の返事に嬉しそうに笑う五条先輩に、きゅんとしてしまったのは事実で、そこからはもう、蟻地獄に引き摺り込まれるかのように、どんどん彼に惹かれていってしまった。好き、どうしようもなく好きだ。そばにいたい。どこか不安定な彼を支えたい、ずっと、一緒にいたいなんて思うようになってしまった。
あれだけ酷かった女遊びをやめて、僕にはお前だけだよと言う。いつの間にか無理していた口調も自然に馴染んでいて、今では私の前でもすらすらと『僕』と言うようになった。彼は完全に『真面』になった。
一方私は蟻地獄に引き摺り込まれてから、彼が昔教室で堂々とのたまっていた言葉を今更思い出した。
結婚は嫌、子供は作りたくない。セフレで十分、一人に本気になることなどない…。わかってはいた。あれだけ女遊びの酷かった人だ。君以外に女はいないよなんて言いながら、他で遊ぶなんて、容易いことだろうから、きっと私以外にもまだ遊んでいる女の子はいるのだろうなと思っていた。…それでもいいと、思い込むようにしていた。
私はいつか、他の兄弟たちのように誰かと結婚して、子供を産んで、術式や呪力のある子であれば呪術師として育て、ない子であれば一般社会に出る非術師として育てる未来が自分にもあるのだとなんとなく想定していた。彼が私の隣でそんな未来を迎えてくれるなんて期待してはダメなんだとすぐに理解した。
一緒に過ごすその瞬間が楽しくて、そう、先輩の言うセフレみたいに、煩わしくなくて、執着しないように振る舞えば、嫌われないだろうか……私も結婚したいなんて思わなければ、うまくいくだろうか。結婚したくない五条先輩と、五条先輩と一緒にいたい私。私のなんとなく想定していた未来予想図さえ消してしまえば、ウィンウィンじゃないか。そう何度も心に言い聞かせているうちに、内臓のどこかが鉛のように重くなっていくような気がしたけれど、愛してるよと言われるたびに期待してしまう気持ちが死んでくれたおかげで、少し楽になれた。






「そういえばさ、みょうじ家って結婚とかうるさくないの?なまえもいい年になったし」

ふいに五条先輩はケーキを食べていたフォークを止めて私に真顔で尋ねた。姉からのメッセージもそうだが、私の誕生日にそんなことを平然とした顔で言う彼にさすがにカチンと来た。せっかく忙しい合間を縫って誕生日を祝ってもらえて楽しい気分だったのに、急に頭の上から氷水をぶちまけられたくらいのショックだった。誰のせいでいい年になったと思ってるの?と思うのと同時に、これを受け入れたのは自分じゃないか、五条先輩のせいじゃないと否定する。どっちも本音なのが余計辛くてまた胃のあたりがずっしりと重くなって、五条先輩が無造作に食べ散らかした、クリームがたっぷりのケーキを食べる気力をもうすっかり失ってしまっていた。


「兄の子供に相伝を継承している子がいたので、特に言われてないです」
「へえ、案外ゆるいよね、みょうじ家って。他の呪術家系なんて割と一人でも多く子供産めって感じじゃん?なまえは結婚したくないの?」


やけにぐいぐいと結婚の話に突っ込んでくる五条先輩に思わず見えないところで拳を握りしめた。
そんなことは悟られないように、慣れてしまった貼り付けた笑みで「結婚はしません」と宣言すると、五条先輩の、普段は目隠しで隠れている眉毛がピクリと動いた気がした。

「なんで?」
「なんでですかね。私も知りたいです」
「結婚になんか嫌なイメージでもあるの?」
「……………特に。結婚はしないと決めているだけです」

何。今日はなんでそんなに結婚のこと聞いてくるの?もしかして、私に飽きた?さっさと結婚しちまえよって思ってるの?
私の言葉につまらなさそうに「ふうん」と相槌を打った先輩は一瞬すごく不機嫌になってしまって、泣きたくなった。やだ、私誕生日に振られるの?誕生日じゃなくても辛いけど、今日じゃなくてもいいじゃない。自分の誕生日が来るたびに今日のことを思い出してしまう気がして、手が、震えた。これ以上冷静さを保てる自信がなくて、ぐちゃぐちゃになったケーキを尻目に私は席を立った。


「…なに、どうしたの」
「帰ります」
「だめ。なんで帰るとか言うの」
「………はあ、今日はやけに突っかかってきますね」
「…話あるから」

やけに真剣な表情を浮かべた彼に、やはり別れ話かとため息をつきたくなった。

「…今日はやめてもらっていいですか?聞きたくないので」
「……………は…?」
「また、今度にしてくださ…っぐっ!」
「……帰さないから」


持ってきた小ぶりのショルダーバッグを肩にかけて今度こそ部屋から退出しようとしたら、肩を掴まれてそのまま壁に凄まじいスピードで押し付けられ、肺に溜まっていた空気が衝撃で口から飛び出ていくのがわかった。…肩と背骨を打った。痛い………。恐る恐る五条先輩を見上げれば、見たこともないほど感情の抜け落ちた顔でこちらを見ていてあまりの恐ろしさにひゅっと喉が鳴る。本能が、やばい、逃げろと言っているのがわかるが、肩と腕をあざになるくらい掴まれて、たかが一級術師の私がそんな彼から逃げ出すことなど、不可能だった。
そのあと、なぜか酷く怒った先輩にそのまま抱かれた。意味がわからなくて、いつもみたいに私を気遣う優しいそれじゃなくて行為中、一度も目が合わなかった。自分の欲を吐き出すためだけみたいな行為に、なんでこんなことになっているのかもわからなくて、もう心が折れてしまいそうだった。
全てが終わった後泣いてしまいそうで、思わず眼を閉じた。私が眠ったと思ったのか、珍しく息を切らせた先輩がとてもとても小さな声で「…好きだよ、おやすみ」と呟くのが聞こえて、今度こそ訳が分からなかった。
先輩が眠った後、堪えきれなくて背を向けて枕に顔を埋めて思い切り泣いて泣いて、気づいたら寝てしまっていて、朝起きたら彼は隣にいなかった。
任務だろうか。いつもなら任務に行ってくるね、と行く前に起こしてくれるのに、どうして。彼が眠っていたはずの場所はすっかり冷たくなっていた。









私の誕生日の後、先輩から連絡がこなくなってもうすぐ一月。今までこんな風に連絡が空いたことがなくてどんどん不安が募る。自分から連絡すればいいのに、次の連絡でそのまま別れようと言われたらどうしよう、なんて余計なことを考えていれば案の定というかなんというか任務中に怪我をした。馬鹿にも程がある。裂かれた脇腹を治療してもらいに医務室にきたら硝子先輩がずっと難しい顔をしていたので五条先輩から何か聞いているのかなとなんとなくだけどそう思った。

「…痩せたか?」
「…そんなことはないと思います」
「貧血、栄養失調。血圧も体温もかなり下がってるな。言い訳はあるか?」

点滴の準備をし始めた硝子先輩に降参のポーズをとった。

「私、先輩に振られるかもしれなくて、」
「……………は?」
「わ、!」
「あ、すまない」

スタンドに掛けようとしていた点滴をする、と落とした硝子先輩の代わりに、床に落ちる前に慌ててキャッチする。私の手から点滴を掻っ攫っていった硝子先輩は今度は採血を済ませて掛けた点滴を私につなげた。


「私が五条から聞いた話と百八十度違うぞ」
「?何を聞かれました?」
「お前に、…」

硝子先輩が口を開いた瞬間に、私のスマホが大きなバイブレーション音を立てて振動し始めた。顔を顰めて管の繋がれていない方の手で確認すれば、そこに表示されていたのは父の名前だった。硝子先輩もそれが見えていたのか「席を外そうか」というので首を振る。
久しぶりにかかってきた父親からの電話に嫌な予感がした。だが、滅多にかかってくることのない電話に、身内に何かあったのだろうかと思う気持ちもないわけではなくて、仕方なしに通話ボタンを押した。

『息災か』
「ーはい」
『そうか』
いつも簡潔に要件を話す父のまごつく様子に不信感を覚える。
「要件はなんですか?」
『ー、お前に見合いの要請が来た』

明日の正午だ。準備があるから朝実家に寄れ、振袖はこちらで用意している、等々こちらの返事も聞かずすらすらと紡がれる父の言葉に目の前が真っ暗になった気がした。

「……え?あ、明日?」
『ー母さんもお前のことを心配している』

これは決定事項だと私の言い分の一つも聞く耳持たない様子に思わず拳を握りしめた。

「交際している方がおりますので」
『ー?何を言っている』
「お見合いはできないと言っているんです」
『見合いの相手が誰だかわかっているのか?』
「…どうでもいいです。知りたくもないので」

硝子先輩が息を呑んでいるのがわかった。いつも感情が表に出ない先輩だけど、珍しく目を見開いて驚いているようだった。私は私でそれだけ伝えて父からの電話を一方的に切った。今更、お見合い?そういえば誕生日の姉からの『五条さんとは結婚しないの?』という連絡を無視していたことを思い出した。別れたと思われたのかな。
ーいやだ。五条先輩以外の人と結婚なんてしたくない。なんで結婚したくないの?なんて私の方が聞きたい。先輩が結婚したくないなら私だってしたくない。それだけだ。
私のことを愛している、好きだと言うのに、私との将来のことなんて一度たりとして五条先輩の口から出たことがなかった。結婚はデメリットしかないという彼を思い出す。そりゃあ、結婚に魅力がないんだからそんな話題出るわけない。呪術界を変えたいんだと将来を語る五条先輩の見据える未来に自分がいないかもしれないことにいつも傷ついていた。
傷ついていることすら見ないふりをしていた傷が、もはや誤魔化すことができないくらい痛みだしていた。放ったらかしていたから、傷はぐちゃぐちゃに膿んでいて、治るのには相当時間がかかりそうだ。胸がじいんと重くなって、次第にあちこちの内臓が重みを増したような気がして、吐き気がして、頭が痛くなってきた。
好きだよと言いながら私に触れる五条先輩を見ると、嬉しいのに泣きたくなる。苦しい。どうしてこんなことになったんだろう。いつの間にこんなに好きになっていたんだろう。
いっそ好きな気持ち全部消えてしまって、ただの先輩が気の許せる後輩だった頃に戻りたくなった。

電話を切ってすぐ頭を抱えた私に硝子先輩が何か言おうとしていたが、「ごめんなさい、今は、そっとしておいてください」といえば、落ち切った点滴を黙って外してくれた。「気をつけて帰れよ」と言う硝子先輩は私を心配そうにしてくれていたけど、今はありがとうございますという言葉すら言えそうになかった。
『必ず来るように』『明日の朝迎えをよこす』と続け様に来る父からの連絡で、ああ、本当にこれ決定事項なんだ、私お見合いするんだ、なんてどこか冷静な頭がそんなことを考えていた。







スマホで何度も五条先輩の名前をタップして、ホーム画面に戻って、メッセージアプリに文字を打って、消して、というただの無駄でしかない時間を一晩中繰り返した。
「お見合いすることになりました。さようなら」
「五条先輩以外と結婚したくありません、私と結婚してください」
全く意味の違う言葉を交互に入力して、だけど送信することは終ぞできなくて、一睡もできずにやってきた実家。お見合いなんてする顔色じゃない。とりあえず顔を出して、このブッサイクな顔色見たら相手の方嫌になるんじゃないかなと安直な考えを頭によぎらせる。
だるい体に総刺繍の重すぎる振袖を着付けられてこの歳になってこんな華やかな振袖ってギャグでしょなんて思いながら着物だけが煌びやかで浮いている自分を見てみると、自分の顔色の悪さがより強調されて笑えてしまう。
私の顔色を見て悲鳴を上げた女中によって、幽霊または落武者のようだったそれはいったいどこにいってしまったんだという完成度に引き上げられて、腕前に感嘆すると同時にこれじゃあ直接口上で断るしかないじゃないと文句を言いたくなった。

「顔色が悪い、大丈夫か?」

支度の終わった私の顔を覗き込む父に思わず顔を顰めた。心配するなら見合いを今すぐ中止してくれと言ってやれば父の顔が解せないとばかりに物語ってくるので私は思わず舌打ちをつく。未だ厳しい顔をする父に連れられるがままやってきたのは何度か五条先輩ときたことがある料亭で、ついに私は喉元まで吐き気が迫り上がってきた。
いつも通される個室に向かう給仕の方の後ろをついていく。部屋まで同じだなんて最悪以外の何者でもない、全速力でどこかへ消えてしまいたい。
…ダメだ、無理だ。やっぱり五条先輩以外と結婚なんて、したくない。一生独身でいい。いつか捨てられても、もう一人でいい。あの襖を開けた瞬間に、顔も見ずに断ろう。五条先輩には、この前のこと、謝ろう。嫌な態度とってすみませんって、好きですって言おう。
着物の締め付けのせいか重みのせいか、それとも睡眠不足、食欲不振のせいか昨日の任務で怪我をしたせいかその全てのせいか、遂に視界がチカチカと点滅し始めて、ふらついた。あ、ダメだ倒れる。着物の重みのせいで受け身を取るのも億劫だった。このまま頭打って記憶喪失にでもならないかな、なんて非現実的なことを考えながら点滅する視界の中でぶつかることになるだろう木目をただ見ていた。


「なまえ!」

父の叫ぶ声が聞こえたと思ったら、いつもの個室の襖がスパンと勢いよく開いたのが視界の端に見えた。何かに抱きとめられたかと思えばふわりと香った大好きな人の香りに驚いて薄目を開ければ、わたし同様正装をした五条先輩が悲しそうな表情を浮かべているのが見えた。なんで、そんな顔してるんだろう。私がお見合いするって聞きつけて来てくれたのかな。お見合いなんてするなよ、僕と結婚しようよ、って言ってくれないかな。都合の良い恋愛脳が都合の良い妄想をしている。

「そんなに僕と結婚するの嫌だ?倒れるくらいだとは思わなかった。ごめんね」

五条先輩が何を言っているのか一つも意味を理解できなくて、思わず顔を顰めた。

「こんな方法取ってごめん。でもどうしても、お前と結婚したくて、家同士の約束なら、お前も断れないかもって思ったんだ。でも、そこまでお前が嫌なら、もう諦める。この前も、酷いことしてごめん。朝、起こしたら別れるって言われるかもって怖くて逃げた」
「どういう、こと…?」
「あの日に、お前にプロポーズするつもりだったんだ。だけど、結婚したくないって言われて、僕との将来考えてないんだって思ったらカッとなって、ほんと、ごめん」

頭がガンガンして、五条先輩が言っていることが頭に入ってこない。もうこれ以上理解するのは難しくて、意識を手放した。





眼を覚ませば、高専の医務室で私は再び腕に管を繋がれていた。吐きそうなほどの頭痛と倦怠感は薄れ、視界と思考がクリアに戻っていることに安堵した。

「起きたか」
「硝子、先輩」
「はあ、全く。振袖姿のお前の診察は骨が折れたぞ」

ちらり、と隣のベッドを見れば、綺麗に折り畳まれた振袖やら帯やら小物が揃っていて、私は今日実家に行く時に着ていた服を着させられていた。そういえば見合いの前に倒れたことを思い出して、面倒をかけてしまったな、と反省する。

「すみません、えっと、私なんでここに…」
「倒れたお前を五条が連れてきた。ったく、お前たち、肝心なことを話さなさすぎだ。なまえ、五条と結婚は嫌か?」
「五条先輩と、結婚?」
「今日は五条とのお見合いだっただろう」
「は?」

五条と結婚、五条とのお見合い?硝子先輩の言葉が意味はわかるのに理解ができない。そして、倒れる直前の五条先輩の言葉を思い出して、頭が混乱する。


「どういう…?五条先輩、結婚はしたくないんじゃあ…?」
「は?僕そんなこと一言も言ったことないけど」


突然聞こえたその声に肩をびくつかせながら振り返ると、そこには不機嫌そうな顔をして、左頬を真っ赤に腫れ上がらせた五条先輩が、いた。ーーーは???


「なん、ですか、その、顔」
「…………黙秘」
「ぶっ…くく…お前の父親に殴られたらしいぞ」
「は、」
「無下限で防がず反転術式も使わないでそのままにしておくとはお前も可愛いところがあるじゃないか」
「硝子それ以上余計なこと言ったら殺す」

途端にお口に両手の人差し指でバッテンのポーズを作った硝子先輩。さっきから頭に入ってくる情報が一つ一つうまく噛み砕くことができずに頭上で上滑りしているような感覚だった。なに、つまり、どういうこと?

「ねえ、なまえ、さっきの、僕が結婚しないってどういうこと?」

五条先輩は真剣な表情をしているのに、左頬が腫れ上がっているせいで気を抜くと笑ってしまいそうだった。

「高専、時代に、先輩方が三人でお、お話ししてるところに遭遇、しました。」
「……笑いたいなら笑えよ」
「すみません、ぶふふっ、何て顔してるんですかー!!五条先輩がそんな酷い顔してるの初めて見ました…!」
「はー?殴られてもナイスガイに決まってるでしょ?それより高専時代に話してたって何?」
「覚えてないんですか?結婚やだ、家が決めた相手とかサイアク、結婚するやつの思考が理解できない、セフレいたら十分とか言ってましたよ!そのせいで私結婚すること諦めてたんですからね!」
「言ってたな。私も覚えている。なんだ、五条の自業自得じゃないか」
「んなこと言ってたー?記憶にないし無効だね。なんだ、結婚したくないって言ってたの僕に気を遣ってくれてたの?早くいいなよ。僕無駄に傷ついてなまえに酷いことしちゃったじゃん。お父さんに殴られたのも無駄じゃん」
「は??私は先輩の言葉にずっと傷ついてたんですけど!!!!」
「十年以上前の言葉なんて時効に決まってんでしょ。人間変わるんだよ。」


ふふんと偉そうにする五条先輩に呆れて硝子先輩を見れば「こいつは昔からこういう奴だろ。結婚考え直した方がいいぞ」と五条先輩に鋭い視線を送っていた。


「でもさー、あんな風に弱ってるところに付け入ってきてその気にさせて、他の女全部精算させたくせに、仕方ないから付き合ってあげますみたいな態度だし、挙げ句の果てにプロポーズしようとしてる男に向かって結婚したくない、話聞きたくない、今日は帰るなんて言うんだよ?!全然捕まえさせてくれないお前の方がひどいでしょ。」
「それは確かにそうだ。なまえ、責任とって五条と結婚してやれ」
「さっきから硝子先輩言ってること二転三転しすぎです!どっちの味方なんですか!」

ギロリと信頼していたはずの硝子先輩を睨みつければ「お前らが結婚しようがしなかろうがどうでもいい」とさらりと言われてしまいあんまりだと項垂れてしまいたくなった。


「で?僕と結婚する?」

腫れ上がった顔で、少しだけ緊張した面持ちで私にそう尋ねる五条先輩は、私に告白した時と同じように、捨てられた犬のような顔をしていた。それに思わず笑ってしまう。…それにしても、五条家の当主殴りつけるなんて父様やるじゃん。少し見直した。怪訝そうにしていたのも、解せないといった顔をしていたのも合点がいった。なんで交際してる二人がお見合いなんてするのか疑問だったんだろうな。父にも母にも後で謝っておかなければ。


「私でよければ、結婚してください」


ホッとしたように笑う五条先輩に「セフレで十分って言ってましたけど、浮気ってしてないですよね?」と聞いたら「そんなに僕の愛を疑うなんて愛し足りてなかったみたいだね」と恐ろしい表情で微笑まれた。言葉を間違えたらしいことに気づいたのは、翌日目が覚めて全身の筋肉痛に苛まれてからだった。



ユニ様、今回はリク企画へご参加くださりありがとうございました!
女好きだった五条と名家出身夢主にお見合いの話が来るも相手は五条だった!切甘夢ということでびっくりするほどすれ違わせてみたら想定していた二倍くらい話が長くなってしまって申し訳ありません…!ご期待に添えているといいのですが…!
素敵なリクエストをありがとうございました。


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