喜劇が悲劇に変わる時
「ねぇ、昌也〜!!」
彼女がくるりと一回転すると、ふわりと周りに香りがばらまかれた。
「このココア飲みたいなぁ」
女の武器、上目遣い。
彼女は、未希。
未希は自分のことをよく知っている。
どんな時にどんな仕草をすればいいか、自然と頭に入っている。
「ほらよ」
「わーい、ありがとー!」
この寒い冬の中、ココアの湯気が温かい。
思わず僕は、彼女の頬に軽くキスをした。
彼女が微笑んで、僕も微笑む。
あの頃の僕らは、こんな幸せな時間がずっと続くと思っていた。
付き合って3ヶ月がたち、僕らは俗に言う倦怠期に入っていた。
そんな頃僕は、一人の女の子に告白された。
その子は、大学のサークルで知り合った後輩で神汝という。
背が低く、まるでお嬢様のような顔立ちをしていた。
白く透き通った肌に黒髪がよく映える。
大人しい、落ち着いた雰囲気を漂わせていて、男子から人気を集めていた。
僕は、彼女がいるからと断ったが、
正直付き合ってみたいと思ってしまった。
だがそれが、間違いだったのだ。
それから神汝とは、遊びに行ったり、一緒に勉強したりもした。
…キス、もした。
あの頃の僕は、神汝との時間が単純に楽しくて、彼女のことも考えず、ただ期待させるようなことをしてしまっていた。
それからしばらくたち、付き合って6ヶ月になった。
倦怠期もとっくに過ぎ、神汝のことを忘れつつあった。
「あっつ…」
僕は自宅で、悶え苦しんでいた。
なぜなら今日は、今年一番の猛暑日である。
ピンポーンと玄関のチャイムが鳴り、重い体を引きずる。
はーい、と力なく返事をしドアを開けると、そこには美人な女の子が立っていた。
よく見るとその子は神汝で、大きなトランクを持っていた。
ふと、神汝が病弱だったことを思い出し、とりあえず中へ入るように言う。
すると、彼女は少し躊躇しつつ、部屋の中に入った。
「暑かったろ。麦茶でよければ」
「…ありがと」
たぶん、限界だったのだろう。
コップにたくさん注いだ麦茶は、一気に飲み干された。
「で、何しに来たの?お泊りなら…」
「そんな訳ないでしょう」
即答されて、良いはずなのに少し悲しくなる。
「…でも、ちょっとだけここに居させて?」
ドキッ、としてしまう。
背が低いため、自然と上目遣いになる。
並の男子はイチコロだろう。
でも僕は何故か、彼女の瞳に少しの希望と大きな不安が移っていると思った。
そう、助けを求めるような…?
僕は、この変なざわめきを胸に覚えた。
しばらく話しこんでしまった。
時計に目をやると、もう二十三時になる。
しかし神汝は、すっかり寝てしまい、帰すにも帰せなくなってしまった。
まぁ、でも、人助けだと思えばいい。
そう一人で納得していると、神汝はハッといきなり起き上がった。
そして、小さな声で一言だけ呟く。
「…ヤツが来る」
その瞬間、とてつもない殺気が玄関からした。
僕が理解する間もなく、どんどん殺気が強くなっていく。
それはとても邪悪で、大きな嫉妬と愛情に包まれていた。
神汝を守ろうとしたら、一瞬にしてベランダの方へと殺気が移動した。
カーテンが風でめくれ、僕は驚愕する。
殺気の正体は、未希だったのだ。
どす黒く血で染まった包丁を手に持ち、こちらを笑顔で見ている。
神汝はガクガクと全身を震わせ、僕にしがみつく。
「昌也、だぁーいすき
だから、昌也は私だけのものだよ?」
いつもみたいに、甘えた声でそう言った。
でも次の瞬間、真夏だと言うのに空気が凍りつく。
「奪おうとする奴は、絶対許さない」
ゾッとした。
僕も聞いたことの無い、低い声だった。
未希は、ベランダの手すりからひょいっと降りて、どんどん中に入ってくる。
このままじゃ、危ない。
本能的に僕らは逃げる。
「二人共、待ってよ〜」
「いや…っ、来ないで!!」
「酷いなぁ神汝ちゃん」
恍惚とした表情が、一瞬にして恐ろしく変わる。
キッと睨むその顔は、まるで悪魔のようだった。
次の瞬間、未希の後ろから大きな翼が出てきた。
黒光りして、不吉なオーラを放っているそれは、
未希の体と釣り合わない大きさだった。
「出ちゃった!実は私、悪魔なの
」
神汝は小さく知ってる、と答える。
未希は聞こえたのか、不満そうな顔で次のセリフを言った。
「だからあなた達が死んでも、だいじょーぶ。
だってみーんな忘れるもの」
とうとう壁際に追い詰められる。
歩いてくる音は、止むことは無かった。
これが最期かもしれない、と僕らは思った。
「本当は、神汝のこと、好きだったんだ」
「嘘、言わないで」
「嘘じゃない。神汝といると、心が落ち着いた」
「…」
「それに未希のこと、知ってたから。…怖かったんだ」
そう言うと神汝は驚いて、凄く優しい声で囁いた。
「大丈夫、あなたには私がついてるから」
改めて、自分は3ヶ月前のあの日から、神汝が本当に好きだったんだなと思った。
嬉しくて、切なくて…。
もっと前に、言えば良かった。
でも、今だからこそ、お互いの本音が聞けたんだと思う。
「そろそろね…」
ずしりと、今までより大きな足音が響く。
「もう、終わりにしましょ?」
思いっきり息を吸う。
あぁ、これでこの世界ともおさらばだ。
空気すらも愛しく感じた。
でも、一番愛する人と一緒ならもういいや。
そして大きく息を吐いた。
そう思ったのに、気付いたら息をすることすら、出来なかった。
一週間後。
『マンションで、遺体の無い殺人がありました。
部屋中に血が飛び散っているのに、遺体がどこにも無いそうです。
警察は必死に行方を追っています。
また、その部屋にあったトランクから、殺された2人の身元がわかりました。
2人の名前は−』
「真船昌也、翠川神汝」
どこか懐かしさを感じるその名前たちは、頭に残っていた。
「おはよー、華汝!」
「おはよう」
「今朝のニュース見た?可笑しな話だよね〜、遺体が無いなんて」
「翠川神汝…」
「そうそう!…って、なんか華汝と名前似てない?」
言われてみると、一文字しか変わらない。
頭のどこかにはあるはずの情報なのに…
そうか、思い出した。
私、お姉ちゃんがいた…ような気がする。
その人の名前と、同じ…?
「あらら、ちゃんと消えてなかったみたい。後で消そー」
見下ろした街は、昌也がいなくなってからつまらなくなった。
「そんな訳、ないよね…」
胸がちくりと痛むけど、気にしない。
だって私が殺したから。
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