文学者の恋A


右京の家は灯りがついていませんでしたが、玄関は鍵が開いていました。
私はそっと、音を立てないよう気をつけて中へ入りました。
一階はまるで静かでしたが、二階から物音がしたので、二階へ上がりました。
二階は階段を上がるとすぐ部屋があり、そこから人の声がしたので、私は襖を少しだけ開け、中を覗きました。
そこには右京、そして芳野もやはりいました。
二人は冷えた体を温め合うかのように肌を重ねていました。
寝転ぶ右京の上で芳野が、右京のあの、世を人を斬るあの饒舌に自分の甘い舌を絡ませていました。
私は二人がキスをしているところをずっと見ていました。どっと汗が吹き出し、冷えたはずの体はごうごうと熱く、しかし手は震えていました。
見てはいけない、見ては…。しかし私の体は動きませんでした。
そのうち右京は身を起こすと、芳野の首筋へ舌を這わせました。
芳野の着物がはだけていき、白い首も肩も露になりました。
「ん、…あ、んん…」
芳野の吐息が聞こえました。まるで耳元にいるかのようにそれは甘く響きました。
「俺は、情けねぇ」
右京は呟きながら、芳野の体に触れ、舐め、キスをしていました。
そしてついに、芳野は床に寝、右京が覆い被さりました。
「っ、痛い」
芳野が悲痛な声を上げました。右京は腰を進めながらも、芳野から目を離しませんでした。
「俺も痛ぇ」
そう言った右京を、芳野は腕を伸ばし、抱き締めました。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
芳野はまるで壊れた蓄音機のように同じ声を繰り返し出していました。
二人の息遣いは甘く、しかし切なくて、痛々しくて、艶やかで、激しいのに静かで、その光景は私にとって地獄でしかないのに、美しく、私はそこから目を離せずにいました。
「はぁ…っ、あ、右京さん、あぁ、右京さ、右京さん…っ」
芳野は繰り返し、右京の名を呼びました。
「あんまり、呼ぶな」
「右京さん…っ」
右京の目から、涙が一滴落ちました。
あの鋼鉄のように強く、いつも堂々とした豪気な右京が泣くなど、信じられませんでした。私は二人が体を重ねていること以上に驚きました。
「俺は、馬鹿だ」
「あっ、ひぁ、あ、あ、あ」
「馬鹿野郎だろう。なぁ、そう言ってくれ、芳野」
「ひ、あ…っ、あぁ……っ」
私は右京の弱々しい姿を見て、ようやく見るべきではなかったとはっきり判断することが出来、その場を立ち去りました。
ばれないようにそっと忍び込んできましたが、帰りはわかりません。もしや音を立てていたかもしれません。
私は外へ出て、二、三歩とろとろと歩きましたが、力なく、雪の道へと倒れ込みました。
雪は私の肌に張り付くように冷たく、千切れるほど熱く、しかしそんなことはその時の私にとってどうでもよかったのです。
そんなことよりも、胸の奥が苦しかったのです。
胸が締め付けられるとは、このことでした。
とても、とても、痛くて、苦しかったのです。


私はその日からなかなか物事にやる気がなく、息をするのも、瞬きをするのも面倒なくらいで、死にたいわけではなくても、生きるのが辛く思えました。
私は一生芳野に気持ちを打ち明けないと誓いました。それはつまり芳野と一緒にはなれないということで、まぁ、元より男同士では結婚は出来ないのですが、気持ちを分かち合うことが出来ないのです。触ることも、無理なのです。
私がしかしわかっていながらも芳野を好いたままなのは、芳野の方も誰かと一緒になる気はまったくないと思っていたからでした。
あるはずがなかったのです。
価値を見失うだけの恋など、芳野がするはずなかったのです。
ましてやそれが恋を嫌う右京となど、誰が思いましょう。
私は高を括っていたのです。
それがこの様でした。
私は何も口にせず、布団の中で一日を過ごし、たまに用を足す時にだけやっと布団から出るという怠けた生活を暫く送りました。
といっても私は原稿を書かなければいけないので、最初の三日程はそういった具合でしたが、ずっとそうしているわけにもいかず、布団から半身出してとぼとぼと原稿を書き始めました。
「ロード」にはあの日から行っていませんでした。
すると一週間経った頃、芳野が私の元へやって来ました。
「お酒、飲みに行こう」
芳野はお得意の、少し憂いを感じさせる笑みを見せながら言いました。お誘いとはまあ、めずらしいことでした。
私はなんと言えば良いのかわからず、そもそも口をきくのもなんだか進まず、ただ愛想笑いだけ向けました。
「痩せたね」
部屋の入口に立ったままでいた芳野は、ゆっくりと私の方へ来て、正座しました。そして袂から出した包み紙を開きました。
「お食べ」
それは砂糖菓子でした。受け取ろうとしない私の口元へ、芳野が運んできたので、小さく口を開け菓子を食べました。
「……甘い」
「良かったな」
芳野はまた笑いました。あの甘い笑顔でした。
そして私を見つめたまま言いました。
「僕を一人にしないで」
私は無言で顔を上げ、芳野を見つめ返しました。
「恋はしないつもりだけども、一人は寂しい」
芳野は、狡い男でした。卑怯でした。私の気持ちを知っていても、知らなくても、これは狡いのです。
一人にされたのは私なのに、まるで自分が被害者のようなことを言う芳野。
しかし芳野が一人で生きていけないのは事実でした。
ただ私は、恋をしないと言う芳野を信じて、頷きました。
そしてやっと、布団から出て酒を飲んだのです。

それから私たちは前からそうだったように「ロード」のカウンターで酒を飲みました。毎日毎日飲みました。
夕方から深夜までずっと呑み通すという、いい身分の生活でした。
しかし不思議なことにその間右京は一度も顔を見せませんでした。
芳野とも会っていないようでした。
一度みち子さんと右京の話をしていた時に、右京は今詩を書くのに没頭していると右京の仲間内の一人が言っていたので、私たちはさすが天才だと、ただその程度に捉えていました。
様子を伺いに行けば良いものを、私は右京の家には二度と行きたくなかったので、それもしませんでした。
芳野にも様子を見に行くよう言うことも出来ませんでした。

雪が溶け、春が近づいてきても、右京は姿を見せず、とうとう二十八歳という若さで、亡くなりました。
自殺でした。催眠剤を致死量服用したのです。
信じられませんでした。
あの自信家の天才が、気を確かに持った男が、自ら命を絶つなんて、そんなことが起こるわけありませんでした。
私が最後に見た右京はあの雪の日の泣いている姿でしたから、あのいつもの芳野に突っかかっていくところなどは、大分目にしていませんでした。
あの豪気な姿を見ることは、もう永遠にないのです。
私もみち子さんも、右京の仲間も、皆が絶句した中で、芳野だけは違っていました。いえ芳野も右京の死には驚いてはいたのですが、私たちとは何か違いました。芳野は右京の死を伝えられた時、驚いたあとに「そうか…」と言ったのです。まるで「やっぱり」と言っているような気がしました。芳野は右京が自殺するのを知らなくても、予想はしていたのかもしれません。

「右京さんの詩集は見たかい」
いつもの「ロード」からの帰り道に、前方を歩いていた芳野が思い出したように言いました。
右京が自殺する前に書いた詩集が世に出ました。私はまだ読んでいなかったので首を振ると、芳野は懐からその詩集を出して私に渡しました。
「あげるよ」
借りるつもりだったのですが、芳野はそう言ってまた歩き出しました。
右京の最後の詩集。私なんかより芳野が持っているべきだと思った私は、歩を速めて芳野に並びました。
「ちゃんと返すよ」
芳野は私に目を向けませんでした。
「いいんだ。これは、君が持っていてほしい。この詩を見ていると、なんだか………」
芳野は最後まで言わずに口を閉じました。私も、何も言いませんでした。

私は自宅でその詩集に目を通しました。
右京の詩はまったく今までとは違い、まるで別人のような詩でした。
世論を斬り裂く鋭い詩はどこにいったのか、すべての詩が恋についてうたわれていたのです。
切なく甘い苦しい恋が、うたわれていました。
あの恋嫌いの右京も、恋をしていたのです。
右京の考えを根本的にねじ曲げるような人物がいたのです。
右京は恋をしたから、死んでしまったのでしょう。
「男も結局、恋に殺されるんです」
芳野が言った言葉がふと思い浮かびました。あの時同調した右京はすでに、恋をしていたのかもしれません。
右京が恋に殺されたのはわかりましたが、右京と芳野の関係がなんだったのかは、未だにわかりません。


私たちは今年で四十五になりました。私も芳野も独り身です。
私は一途なことにまだ芳野が好きで、そして中学生の頃に誓った通り、そのことは告げていません。
芳野もあの日言った通りに、恋をしていません。
芳野はすっかり有名詩人になりました。小説家からあっさり詩人へとなったのは、右京への尊敬の念からかもしれません。
お互い忙しくなりましたが、「ロード」で飲み合う日々は変わりません。
芳野は老けても色気のある男で、未だに若い女からよく好かれています。
「芳野のおじさまったら、全然相手をしてくれないのよ」
客で来る若い女に言われて、芳野は笑います。
「恋をするとね、死んでしまうよ。君も気を付けた方がいい」
頷く女の目がすでにとろけて芳野を見つめているのだから、おかしなもんです。
頑なに恋をすると死ぬと言い続ける芳野。右京も恋をする前は、こうだったのかもしれません。
ただ右京はもっとわかりやすい人間だったように思います。素直な人間だったはずです。
わからないのは芳野です。これだけ長く一緒にいても、まったくつかめないのです。ふわふわして、行動が読めないのです。
おそらくずっとこのままの調子で、死ぬまでこの生活が続くでしょう。
恋をしない芳野。恋を隠す私と、恋に殺された右京。
皆恋に生きてきました。
それは切なく、虚しく、苦しく、脆く、醜く、惨たらしく、儚く、しかし甘酸っぱく美しいもの。
皆恋に恋し死んでいくのでしょう。
私にとっての恋は芳野で、右京にとってもそうでした。私と右京の人生のすべては、芳野でした。

私は甘く笑いながら酒を飲む芳野を眺めていました。
芳野を見るたびに、右京の詩を思い出します。

 君の瞳を見つめたら
 君の睫毛に触ったら
 君の鼻先潰したら
 君の口に重ねたら
 君の舌を絡めたら
 君の手強く握ったら
 君の首筋なぞったら
 君の膝で眠ったら
 君の姿に恋したら
 君のすべてを欲したら
 どうか僕を殺してほしい

 綿毛の君へ



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右京荘介(1906〜1934)
埼玉生まれ。戦争や政治、世論をうたった詩が多いが、想い人への気持ちを綴った『綿毛』が代表作として知られる。

芳野七雄(1908〜1955)
東京生まれ。日本語を美しく遣った作品が多い。主に詩人で知られるが自伝小説『雪解け』も有名である。代表作は他に『生涯』『恋と酒』など。

谷源一郎(1908〜1956)
東京生まれ。当時連載していた『火照る』を書き上げた後、病死した友人を追うように自殺。『世界よりもあなたを』『薬屋』など現代においても愛されている作品が多い。


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