文学者の恋@


私は、芳野を好いていました。
芳野の家柄は私よりもずっとよく、遊びに行けば決まって甘い菓子を出されたものでした。私はその菓子が気に入っており、今でさえ芳野のために足を運んでいますが、幼少の頃は菓子目当てで芳野の家へ訪れていたものでした。
「源、おまえ、これは甘かろう」
芳野は甘いものをあまり食べませんでした。下人が菓子を出してくると「おいしい」と笑って食べるのですが、それは芳野の気遣いでした。二人きりになると決まって、私に自分の分をよこしたのです。
そしていつも、私が菓子を口に詰め込むのを見て、芳野は切なさを優しさで隠したような笑顔で「よかったな」と言うのでした。
しかし実際は、砂糖の菓子よりもその芳野の声の方が甘ったるいのです。
声だけではなく顔も、癖のある髪も、すべてが甘いのです。
芳野はいろんな者から好意を寄せられることが多いのです。それは女だけではなく、私を含めた男にもそうでした。
芳野は周りから目一杯の愛情を注がれている人物なのです。
ただ本人はそれを悲劇のように思っていました。
私は中学時代に一度、芳野が女生徒からラブレターを渡されているところを偶然見てしまったことがあったのです。
恥ずかしながらも嬉々として去っていく女生徒の後ろ姿を見ながら、芳野は私に言いました。
「僕にはなんの価値もない。ほんの少しも。好きだと言われる度に、僕は僕を嫌いになっていく」
私はその時すでに、芳野のことが好きでした。友人としてではなく、一人の男として、私は芳野を愛していたのです。恋をしてしまった苦しみから解放されるためには、いつかは打ち明けねばならないと常々考えてはいたのです。
しかしその芳野の言葉を聞いて、私はこの気持ちを隠し通すことに決めました。決して打ち明けてはならぬと、一生その禍々しい感情を殺さねばならぬと、私は心に決めたのでした。
ですから未だに、芳野は私の気持ちを知りません。

芳野は相変わらず色気のある男のまま、私は芳野に気持ちを隠したまま、二十四になりました。
私は小説を書いていました。小さな会社の小さな雑誌にひっそり載せてもらっている程度ですが、まあなんとか、生活はしていけました。
芳野の方は、小説を書いても作家にはなれませんでした。
芳野の作品で唯一好評なのは、小説の中に申し訳程度に出てくる詩でした。
話はともかく詩は良いと、詩だけを抜かれ本にされて、芳野は詩人として名を知られていました。
それは小説を書いている芳野にとってはまったく名誉なことではなかったのです。
芳野は家が良いので金には困っていませんでしたが、自分自身では金もまともに稼げないことを悔やんでいました。

私たちはよく二人で「ロード」というバアでお酒をちびちび飲んでいました。
とくに約束をしていなくても、どちらかが先にいて、どちらかが後に来て、結局はカウンターに二人並んでいました。
ある日芳野が酔っ払いながら、文句を吐き出しました。
「僕はねぇ、詩人じゃない。詩なんか書きたくないんだ。そもそもあの詩はあの小説があってこそで…。とにかく詩なんてもんは、まったく、いいもんじゃない」
酒は飲むくせにそう強くはない芳野が言うことに、私は普段から相槌を打つだけでしたが、その日はいつもとは違いました。
私の相槌よりも先に、バン、と机を叩く音がしたのです。
私たちは例によってカウンターで飲んでいたのですが、そこではなく、奥のテーブルから聞こえてきました。
見れば四人組の中の一人が顔を険しくしながら立ち上がって、私たちの方へ近付いてきました。
男は芳野の胸ぐらを掴みました。
男は芳野より背が低くて、顔も幼くて、こどもが怒っているだけのように見え、それはまぁ不格好なものでした。しかし男の怒った表情には凄みがありました。
「お前、今なんだって?詩なんか書きたくないたぁ、どういうことだ!」
その時は知らなかったのですが、その男は右京荘介でした。有名な詩人で、私も右京の詩集を持っていました。
右京の周りにいた者たちも、なんらかの形で世に作品を出している者たちでした。
その場は右京の仲間内の一人が仲介に入ったので大した喧嘩にはなりませんでしたが、右京はどうしても芳野と話をしたかったらしく、酒を持ってカウンターへ移動し、芳野の隣へ座りました。
右京は自分の名を名乗ってから芳野の名を尋ねました。芳野が名乗ると、右京は芳野のことを知っていたようでした。
「おれはお前の詩を見た。なんだいありゃ。詩に文句を言えるほど、お前は詩をわかってんのかね」
「僕は、小説を、書きたいんです」
見た目とは裏腹に、右京は強気で、芳野は気弱でした。
芳野は不満そうな顔をしていました。こんなに芳野を責め立てる者など今までいなかったのです。
「お前の詩は綿毛だ。詩がそれなら、小説なんか知れてらぁ」
芳野は今にも泣きそうな顔をして、左手で着物を皺になるくらい強く握り、しかし右手では酒をちびちび飲んでいました。
「なにやってんだ、酒だ」
右京は自分の酒がなくなると、気付かずに飲んでいた芳野に注ぐようグラスをわざと大きく音を立て芳野の前に置きました。
芳野はおどおどしながら右京に酒を注ぎました。
「荘介さん、あんまり芳をいじめてあげないでね」
様子を見ていた「ロード」のオーナー、みち子さんが言いました。
右京は次に私に目を向けました。
私は軽く頭を下げ、名乗りました。
右京は跳ねた泥を見るような顔をしました。
「あんたは好きに書いてらぁいいよ」
そう言って右京は芳野が注いだ酒を口にすると、また芳野に絡んでいきました。
私は絶望しました。右京のその言葉は本心から出たものでした。
実際小説を書いて金を稼いでいるのは芳野ではなく私なのに、右京は私になんの価値も見出ださなかったのです。
確かに右京の目は素晴らしいのです。右京の詩は世論をも斬るような鋭い詩で、芳野が綿毛なら、右京は風を切る鷹の羽のようでした。
芳野は右京に見込まれたのでしょうが、私はとくに、なにもなかったのです。無関心なのでした。
己より下の者が何をしてようとも関係がない、それは当然のことでした。

その日から、バアで会うたびに右京は難癖付けて、しかし楽しそうに芳野に話し掛けていました。
芳野はいつも右京に対してはおどおどしていました。
しかし、「俺は恋が嫌いでね。てことは女もだ。奴ら、恋に生きて恋に殺されてるだろう。馬鹿げてらぁ」と右京が言った時には「しかし、男はいつも、女に狂わせられるんですよ。調子も、人生も。というと、男も結局、恋に殺されるんです」と珍しく自分の意見を言いました。
右京はどう反応するかと、またあの時のように取っ組み合いが始まるのではないかと、私は見ていたのですが、右京もまた珍しく静かに酒をちびりと飲んで、「違いねぇ」と呟くように言いました。
「ロード」で酒を飲み合う日々はずるずると、二年も続いていきました。
その間、私たちの年齢以外はとくになにも、目に見えて変わるものはありませんでした。

ある日、いつものように私は「ロード」で酒を飲んでいました。
その日客は少なくいつもより静かでした。私はみち子さんとぽつぽつと話していました。そしてなんとなく、言ったのです。
「今日は芳野も右京さんも来ないみたいだね」
私の言葉にみち子さんはきょとんとしました。
「二人ならあなたより先に来たわ」
私は驚きました。みち子さんは聞かずとも二人の様子を話しました。
「二人ともいつもの席で飲んでたけど、荘介さんが出ようかって芳に言ったのよ。あの二人、案外仲良いのね」
私はなんだか、嫌な気持ちになりました。胸の奥がざわざわと、陰りを見せ、非常に落ち着きがなく、そわそわしました。
みち子さんはまたなにか雑談を始めましたが、私の耳にはとくに届きませんでした。私はグラスに入っていた酒を飲み干して、音を立てて置きました。
「どうしたの」
「急用を」
私は席を立ち、壁にかけてあったコートを取るとバアを後にしました。
その時の私はただ焦りしか感じていませんでした。私がじたばたしたところで、どうしようもないことなのに、右京にとっても、芳野にとっても、下にいる私が何をしようとも、まったく関係がないというのに、私はとにかく雪の中をひたすら歩いたのでした。
私ははじめ無意味に、芳野の家へ向かっていたのですが、途中道を変え、右京の家へ足を運びました。一度酔っ払った右京を、家まで送り届けたことがあったので、その時の記憶を頼りに進みました。今思うと、そのまま芳野の家へ向かっていれば良かったのです。
そうしたら私は地獄を見なくて済んだのです。


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