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潰れた花の蜜の味を君は知らない


 2007年8月。その日は、雨が酷い夜だった。まるで、誰かが泣いているようで。あるいは、誰かが世界を憎み、怒りを顕にしているようで。少し怖かったのを覚えている。
 屋根にぶつかる雨の音がやけに耳を触って、名前はなかなか寝付けずにいた。ザア、ザア、と音を立てて降りしきる雨に頭が重たく感じる。ベッドの上で何度も寝返りを打ち、目を開けては閉じてを繰り返す。夏休み中なので別に夜更かししてもいいのだが、無駄に生活習慣を崩すと、恋人の小言が煩くなるのだ。
 そういえば、数日前からメールの返事が来てないな、とふと思い出し、つい携帯電話を触る。名前の送った返事で止まって、そのまま3日が経っていた。忙しいのかな、何かあったのかな、と少し心配に思いながらも、夏油から最後に送られてきた短い文章を飽きるほどに見つめる。3日が5日になったら、もう一度送ろう。そう決めて、携帯電話を閉じた時だった。
 まるで待ち構えていたみたいに、携帯電話が音を鳴らす。突然のことにぴゃっと体を跳ねさせながらも、名前は慌てて携帯電話を開き直した。画面には、先程から想いを馳せていた恋人の名前が乗っていた。こんな遅い時間帯に珍しいなと訝しげに思いながらも、名前は電話を耳元に当てる。

「もしもし、傑、どうしたの?」
「……名前」

 それは、今空を覆う黒い雲のように、低く沈んだ声だった。何処か弱々しくて、今にも消えてしまいそうで。名前は妙に焦った気持ちになった。
 電話の向こう側からも、雨の音が聞こえる。外にいるのだろうか。嫌な予感が過ぎり、名前はもう一度彼の名を呼んだ。傑、と。

「こんな時間にすまない」
「ううん。いいよ。起きてたもん。それよりどうかした?今何処にいるの?外?」
「名前の、部屋の前」

 その言葉を聞いて、名前は弾かれたようにベッドから起き上がった。そして、慌てて玄関に飛んでいき、扉を開ける。すると、すぐそこには電話で聞いていたとおり夏油の姿が見えた。

「傑!?どうしたの!?濡れてるじゃん!」

 夏油は全身びしょ濡れの状態であった。見慣れた学ランも、雨に濡れて色を濃くしている。普段は綺麗に結われていた髪も乱雑に落ちており、たっぷりとした水分を含んでいた。艶を増したそれは首や頬などの肌に、ぺったりと張り付いている。顎から伝い落ちる水滴は止まることを知らないようだ。その手には耳に当てていた携帯電話と、少し萎れた白い花が一輪だけ握られていた。

「何してるの!風邪ひいちゃうよ!」

 夜遅い時間帯だと言うのに、名前は周囲を気にすることなくそう叫んでしまった。今が深夜であること、大きな声を出せば近所迷惑になることなんて、頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。しかし、こんな豪雨だ。夢の中に旅立っている隣人たちの耳にはどうせ雨の音しか届かないだろう。
 そして、普段であればそれを咎めるはずの夏油は何も言わず、ただ名前を眺めていた。生気の感じられぬ澱んだ瞳に、闇が見える。

「ほら、とりあえず早く入って!」

 何処か危うさを感じさせる夏油の手を引いて、名前は無理矢理部屋の中に招き入れた。どれだけの間、雨に打たれていたのだろうか。握った手は夏であるというのに酷く冷たかった。

「タオル持ってくるから待っててね」

 扉を閉める。そして、タオルを取りに行こうとした名前を、背後から伸びた手が止めた。わわっ、と声を上げても、その手の力が緩む気配はない。視界の端に白い花が地面に落ちていくのが見えた。

「傑?」

 室内は電気を消しているため真っ暗だ。夏油の姿もよく見えない。だから、彼が今どんな顔をしているのか、何をしているのか、名前の目にはハッキリと映らなかった。
 掴まれた腕を引っ張られ、そのまま抱きしめられる。あまりにも力が強すぎて、息がしづらかった。少し苦しい。そして、痛い。雨に濡れた大きな体は可哀想なくらいに冷たかった。名前の着ていた服もじわじわと伝染していくように湿っていく。濡れた黒髪から名前の額に水滴が零れ落ちた。まるで、全身を使って泣いてるみたいだ。
 名前は彼の背中に手を回して、力いっぱい抱き締め返した。その涙を慰めるように、冷たくなった体を温めるように。
 
「傑、どうかしたの?」

 その問いに答えは返ってこなかった。ただ夏油は縋り付くように、名前の体を抱きしめている。その姿は、助けを求めているようで。押し寄せる何かを必死に耐え忍んでいるようで。彼の足場がグラグラと揺れている。声にならない悲鳴が何処からか聞こえた気がした。
 恐らくだが、今の傑はこれまで見てきた中でも、一等に弱ってしまっている状態だ。どうしたらいいのだろう。自分に何が出来るのだろう。名前は必死に思考を繰り返す。必死になって掴んでくる手を無視することなんか出来るはずもなかった。意図的に、無意識的に、互いに触れないでいた、名前と夏油の間に存在する一線。それに近づけば、越えようとしたら、名前は彼を救えるのだろうか。

「ねえ、傑。何があったの。なんでもいい。話して。傑の話、聞きたい」

 首元に埋められていた頭が小さく震える。多分、首を横に振っているのだろう。その頭に手を持っていき、髪を梳くように撫でた。

「でも、私、傑の力になりたいよ」

 その瞬間、あれだけ密着していた身体が勢いよく引き剥がされた。掴まれた両肩からはミシミシと嫌な音を立てているのが聞こえる。ピリッと痺れるような空気が肌を刺激した。

「話して、どうなるって言うんだ?」
「傑……?」

 怒っている。かつてないほどの、怒りを、憤りを向けられている。それを、今更のように思い知ったのは、彼の地の底を這うような声を耳にした時だった。それほどまでに名前の発言は、今の夏油にとってあまりにも軽率すぎるものだったのだ。
 体の芯が冷える。生き物としての本能が警鐘を鳴らした。深淵をのぞく時深淵もまたこちらを覗いているのだ。それを、名前は知らなかった。ただ無知であった。

「何も知らない、何も見えない、何の力もない。そんな君が、私に何ができるって言うんだ」

 真っ暗な視界の中。この世の絶望を掻き集めて、グツグツと煮込んでいるかのような目。それが、猛然とした衝動を持て余し、ただただ名前を見下ろしていた。生き物としての圧倒的な格の差を感じさせられる。夏油は、名前と同じ人間じゃない。彼の手にかかれば、掴まれた肩も簡単に粉砕出来る。鼓動する心の臓も潰せる。そんな予感が、名前の中に生まれていた。
 怒っている。悲しんでいる。苦しんでいる。失望している。迷っている。今の夏油はどれに当てはまるのだろうか。夏油の言う通り、何も知らない、何も見えない、何の力もない名前には、きっと永遠に分からないのだろう。

「ごめんね」

 だから、素直に謝った。痛む肩を無理に動かし、そっと手を伸ばした。彼の目元に指を滑らせる。自分が拭っているものが、雨なのか、涙なのか、分からなかった。分からないことだらけだな。名前は思わずふっと笑ってしまった。
 すると、触れた下瞼の皮膚が小さく動いた。沸騰したような激情がすうっと音もなく引いていくのを肌で感じた。肩を掴む手が緩む。吐いた息は寒さに震えていた。名前、と呼ぶ声は何処か遠い。墨汁を染み込ませた様な黒々とした瞳に、ようやく名前の姿が映りこんだ。

「すまない。こんなこと、言うつもりじゃ、無かったんだ…」
「うん。大丈夫だよ」
「すまない、名前、すまない」

 何度も謝罪を繰り返す夏油は見ていられないくらいに、酷く可哀想だった。そんな彼の首に手を回して、抱きしめる。彼は背が高いから、名前は精一杯踵を上げて背伸びをした。夏油はそれに甘えるように背中を丸める。
 それなのに、何故だろう。いつもと変わらない行為。隙間なく強く密着した体。それでも、二人の間にはどう足掻いても埋められぬ溝が存在してならなかった。
 チリン、と。彼と出会った夏の日に耳にした、風鈴の音が何処からか聞こえる。

「名前、キスがしたい」
「うん。いいよ」

 夏油のか細い要求に、名前は当然のように頷いた。だって恋人だもの。それに、名前も今無性に夢だけを見ていられるような甘いキスをしたくてたまらなかった。
 鼻先に触れて、もっと深くと求め合うように唇を重ね合わせる。舌を擦り合わせるように絡めて、悪戯に吸って、吐息を溶かして。必死になってその背中にしがみつけば、夏油の大きな掌は名前の後頭部に触れて、より一層この口付けに溺れさせた。
 手を差し伸ばせば、届く距離に彼はいる。そのはずなのに、この手は彼の熱を掴んだ気が全くしない。それは、夏油も同じなのかもしれない。だから、こうして確かめ合うように、どうにもならないこのもどかしさを振り払うように、互いに互いを貪り合うのだ。どちらかがどちらかを食べて、1つになってしまえば、こんな思いなんてしなくてすんだのかもしれないのに。なんて、馬鹿も過ぎる妄言だろうか。

「ねえ、名前、私とのキスはどんな味がする?」
「味…?」
「例えば、吐瀉物を処理した雑巾のような味、とか」

 夏油の指が濡れた名前の唇に触れる。それは、名前には分からぬ何かを懇願するような響きを宿していた。

「そんな味はしないかな」

 寒いのなら熱を分けよう。寂しいのならいつまでもそばにいよう。人肌が恋しいのならずっと寄り添おう。怖いのなら、くだらない話をして一緒に笑いあおう。彼のためなら、なんだってしてあげたい。これが、いつか夏油のためになれると、信じていた。いや、信じるしかなかったのだ。

「………そう。それは、よかったよ」

 夏油の足が落ちていた花を踏む。ぐしゃりと音を立てて潰れたのは、花か、あるいは。