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月だけが知っているの


※このお話にはグロ、暴力描写等が含まれておりますのでご注意ください。



 2007年9月。蜃気楼に浮かぶ夢が幕を引く。その痛快なエンディングを、空に浮かぶ月だけが見ていた。

「ちょっとー!大丈夫?」
「オ"ェェェエ…」
「もー!人の家で飲み過ぎだよ!」

 その日は名前の家で大学の友人3人と共に軽い飲み会をしていた。所謂宅飲みというやつである。一人暮らしの運命というべきか、飲もうとなると大体名前の家に集まることが多かった。
 さて、宵も更けていく。女子トークに盛り上がる4人を止めるものはいない。ついでに酒を飲むペースも緩まない。知ったばかりのアルコールの味は大人になりたての大学生の舌を虜にする。そのため、部屋はスーパーで大量に買ったお酒の残骸や、空になったツマミの袋などがあちこちに散らばって、そりゃあもう酷い有様となっていた。誰かの思いつきで作り始めた手作り餃子も残り僅かだ。しかし、すっかり冷えてしまったため誰も手を出さない。そして、部屋中がニンニクとアルコールの混じった強烈な匂いで充満している。正に悲惨な状態だ。それらを気にすることなく最高にハイな状態になっていると、隣の部屋から壁ドンを食らった。安い賃貸だ。壁は薄い。時計を見ると、なんと今日が明日になっていた。そりゃはお隣さんも馬鹿騒ぎしていたら怒るわけである。一瞬にして、理性を取り戻したバカ4人組はそっと口を噤んだ。冷静になったついでに、窓を開けて部屋の中の空気も入れ替えた。
 1人でトイレを独占してげーげーと吐いているのは、夏油との関係を応援してくれた月一で彼氏の変わる友人である。しかし、今の彼氏とは長く続いているらしく、かれこれ3ヶ月経つらしい。歴代彼氏の中でも最長だ。純愛なの、と語尾にハートマークをつけて話していたが、この吐き様は純粋な愛も冷める勢いである。

「ってかさあ、名前ってば彼氏いるらしいじゃん!しかも年下!」
「意外!年上かと思ってた!」
「最近どうなの?それなりに経ってんでしょ?」
「どうって、ぼちぼちだよ」

 ズケズケと尋ねてくる友人2人に、名前は当たり障りのない返答をした。ハイな状態であれば、あれこれと身振り手振りで話していただろうが、生憎隣からの壁ドンですっかりと酔いも冷めてしまった。後日謝罪に行った方がいいのだろうか。そんな心配事が脳裏を過る。そんなつれない態度の名前に、友人二人はなにそれつまんないとやや不満げだ。それに、名前は曖昧な笑みで返す。それがきっと今の名前と夏油には正解の選択肢と思えた。

「いいなあ!私も彼氏欲しいー!!」
「分かる!かっこよくて、優しくて、でもちょっと意地悪で、なんか放っておけないような人がいい!」
「詰め込みすぎでしょ!!」

 友人たちはまた新しいお酒を開けて、笑っている。馬鹿は繰り返すものだ。しかし、馬鹿も学習はするので、先程より声は小さめだった。
 名前はふとキッチンの近くに飾られた花瓶に目をやる。そこに、白い花はもうない。最後に貰った一輪が枯れてから、どれほど時間が経っているのだろうか。暫く顔も合わせず連絡も取れていない恋人の姿が少しずつ薄らいでいくのを感じた。それが、怖い。彼との思い出がまるで幻だったみたいに、何も無かったみたいに、いつか消えていくのが。
 携帯電話を開いてみる。着信は何も無かった。はあ、と深くため息を着く。

「名前もまだ飲みなよー」
「……うん」

 落ち込んだ様子の名前に気遣ったのか、友人の1人が缶ビールを差し出す。それは、冷蔵庫にも入れず暫く放置されていたからか、少し生温かった。ぐびぐひと喉を鳴らして飲む。苦い。好きになれそうにも無い味だが、周りが平然とした顔で飲んでいるので、名前も飲まざるをえなかった。もっと甘いのが飲みたいな、と口の先端を尖らせる。そんな名前を宥めるように、窓から入り込んできた涼しい秋の風が、火照った肌を撫でていく。それに、ほっと目を細めた。
 その時だった。ガチャ、と。部屋の中を遊び回る風と共に、扉の開く音が聞こえたのは。

「あれ、確か鍵は閉めたよね?」
「なになに?怪奇現象?こわーい!!」
「もう!変なこと言わないでよ!1人でここにいられなくなるじゃん!ちょっと見てくる!」

 名前は少しふらつきながらも立ち上がって、玄関に向かう。扉を開けたのは、トイレで吐いてた友人だろうか。だとすれば、あんな泥酔状態で外に出られたら危ないな、と思いながらリビングを出る。
 すると、そこにはトイレで吐いていた友人の姿はなく、代わりに大きな黒い影が立っていた。影は、名前の姿を確認すると、ニッコリといつものように笑顔を見せる。

「傑…?」
「あ、名前、お邪魔するね」

 それは、名前が先程まで想いを馳せていた恋人、夏油傑であった。彼は平然と何事も無かったかのような顔をして、久しぶり、と手を挙げた。それは、名前がよく知る恋人の姿で間違いなかった。
 しかし、不思議なことに名前は、それに妙な違和感を覚えた。いつもならば、飼い主の帰りを待っていたペットの犬のように彼の元に飛んでいって、抱きつくのが恒例だ。しかし、名前の本能がそれを強く拒否しているのだ。何故だろうか。しかし、本能を理性で考えてみても分かるはずがなかった。

「なんでここに?来るって聞いてなかったよ」
「合鍵ってこういう時に使うもんじゃないの?」
「そ、そうだけど…」

 合鍵は確かに夏油に渡している。気軽にこの部屋に来て欲しいという下心があったから。お揃いのキーホルダーをつけて、笑いあったあの眩い瞬間をふと思い出す。だが、合鍵を使う時、夏油は必ず名前の元に連絡を入れていた。なんだかんだで根っこは真面目な彼らしい一面であった。

「今友達が来てるけど…」
「いいよ。気にしないさ。だって、」

「ぎゃぁぁぁぁあああっっっ!!!!」

 すると、背後から劈くような悲鳴が響き渡った。それは、先程まで共にリビングで酒を煽っていた友人2人のものだ。何かが裂けたような、恐怖の滲んだ咆哮。そのあと、ぐしゃ、ぐしゃ、と何かを何回も潰したような音も一緒に鼓膜を揺らした。普通に生きていたら、聞くことの無いような不気味な音だ。ゾワゾワとしたものが背筋を這い回る。振り向くな。本能はそう訴えるのに、名前は友人を想う理性に従い、背後を見た。

「あ、あ、たすけ、て……!!名前、た、たすげっ……」

 鮮やかな赤に染められた友人の1人が、リビングから必死に這いつくばってこちらに向かってくる。その顔の半分は爛れたように形を崩していた。辛うじて残っている片方の目からは血と共に涙をボタボタと溢れ出させている。手がこちらに延びる。救いを求めて。名前もそれを掴もうと、手を伸ばした。
 しかし。

「お残しはいけないね。全部食べなきゃ」

 それは、酷く穏やかで、でも、冷たく突き放すような声だった。

「あ"グッッッ!!!!」

 その瞬間、名前の頬に赤い熱が飛んできた。それを認識した時には、もう遅かったのだろう。手を伸ばしたはずの友人は、名前の目の前で元の姿も思い出せなくなるほど、地面に潰れてしまっていた。それは、正しく文字通りに。肉も、骨も、内蔵も全て押し潰されて、床と一体化するみたいに、ぺしゃんこになっていた。名前が掴んでいた手だけを、唯一残して。赤い海の中で、友人だったものが静かに揺蕩う。まるで、スプラッタ映画でも見ているような気分だった。

「ヴッッッ……」

 思わず手を口に当てる。吐きはしなかったが、胃の中でアルコールが熱を持ってぐるぐると回っていた。映画だったら良かったのに。酔い潰れて眠ってしまった誰かの夢であればいいのに。そんな逃避を、名前の頬に沿って流れる血が強く否定する。名前の手の中に残った友の残骸が現実を突きつけてくる。は、は、と口から漏れる息の間隔が早くなった。まるでバケツの水を被ったみたいに、身体中から冷汗が出て止まらない。
 そんな名前の肩に、手が回される。慣れた感触。慣れた温もり。慣れた香り。なのに、今はそれが恐ろしくてたまらなかった。

「ね、言っただろう。気にしないでって。無能な猿たちもこうして消してしまえば、いないも同然さ」

 それはまるで、悪魔の囁きのようだった。夏油は洗濯物を干すお母さんのようにのんびりと鼻歌を奏でながら、名前の手の中にある友人を奪いさり、それを何も無い空間に投げた。床に転がるはずだったそれは、空気に溶けたかのように姿を消す。ひっ、と声を上げると、耳元でクスクスと笑う声が聞こえた。

「なんで……?なんで、こんなことを…?」

 ようやく振り絞って出てきた言葉は、なんてことのないありきたりすぎるチープな問いだった。それでも、名前は本気でわからなかったのだ。目の前で友人が無惨な姿と成り果てて死んだことも。大好きでたまらないはずの恋人が、その死に何らかの形で関わっているであろうことにも。今自分たちの身に起きている、映画や漫画みたいな惨状も。泣けばいいのか、怒ればいいのか、感情が追いつかない。名前だけを置き去りにして、状況だけがあっという間に一変している。

「驚いたな。名前もそんな顔ができるんだね。いつも笑顔ばかり見ていたから、少し新鮮だ。案外知らない一面ってのは出てくるもんなんだね。君のことならなんだって知った気になってたから、何だか自惚れてたみたいで恥ずかしいよ」

 夏油は歌うようにそうのたまうと、名前の頬に優しく触れた。汚れてるよ、と食事中に口元を拭ってくれた時みたいに、赤く濡れた頬を親指で擦り、背後からそっと唇を落とされる。いつもと変わらないやり取りだ。だからこそ、酷く怖かった。

「や、やだ…何で……」
「困ったな。名前は聞いてくるばかりだ。少しは自分で考えないとダメだよ。受験勉強も大変だっただろう」
「そんな話をしてるんじゃない!!」
「怒るなよ。酷いな。せっかく思い出話で、後腐れなく殺してやろうと思ってたのに」
「え」

 感情をなくしたかのような、平坦で低い声。それを吐き捨てられた瞬間、名前の世界は回った。いや、違う、回っているのは自分なのだ。それを認識した後すぐに、体に衝撃が走った。背中が痛い。それに耐えていると、いつの間にか体が床に倒されていることに気づいた。必死になって抵抗しようとするが、見えない何かに押さえつけられているみたいに、体は全く動かなかった。そんな名前を、男は氷のような眼差しで見下ろしている。

「何が起きたのか分からないって顔をしているね。何も見えないかな?稀にこういった場面で見えることもあるらしいけど」
「何、言ってるの…?」
「うーん、見えないのか。残念だね。やっぱり私と君は相容れないみたいだ」

 夏油は本当に心の底から残念そうに肩を竦めた。そして、まだ殺したらダメだよ、と背筋の凍るような単語を夜の闇に溶かす。恐らく名前には見えない何かに向けて呟いたものなのだろう。

「なんでって言ったね。猿と話す気は更々ないけど、恋人である名前はやっぱり特別だから教えてあげるよ」

 夏油は腰を曲げ、しゃがみこむ。そして、ゆったりとした動作で手を伸ばしてきた。
 いつも名前の頭を優しく撫でてくれていた手。指を絡み合わせ、握りしめてきた手。少し怒った時、容赦なくほっぺたを引っ張ってきた手。それが、温かな思い出たちとは違う感触で、名前の首に触れてくる。名前の知らない温度で締め上げてくる。

「生き方を決めたんだ。私は、猿たち(君たち)が嫌いだ」

 それが、夏油の本音だった。ボロリ、と眦から涙が零れ落ちる。滲んだ視界の中で、夏油は楽しげに笑っていた。
 何故こんなことになってしまったのだろう。何処で間違えたのだろう。何が正解だったのだろう。酸素の足りない頭で一生懸命考える。でも、そんな簡単に答えが出ていたら、きっとこんな結末を迎えてはいなかったのだろう。
 知らぬふりをしていた、彼との間にできた溝。そこから這い出た闇に息を止められる。ああ、それならば。これは、夏油のせいではなくて、自分のせいなのだ。友人が死んだのも、夏油を助けられずおかしくなってしまったのも、今自分が死にかけているのも。全部、全部、何も出来なかった自分が悪い。自業自得だ。名前はそう大笑いしたくなった。

「大丈夫。猿は猿でも君は特別だよ、名前。君の死は私の大義となる」

 そして、名前はやっぱり馬鹿であった。死に目になって、夏油がずっと隠していた何かにようやく触れられたのだから。嫌われてでも触れておけばよかったと。それを後悔するよりも、やっとだと嬉しく思う自分を自覚して、五条が名前を評した「イカれた女」に納得した。だって、こんな目にあっても、名前は変わらず夏油のことが好きだった。たまらなく、一途に、馬鹿みたいに、好きなままでいられたのだ。
 笑うと目尻にできる小さな皺が好き。几帳面に切られた丸い爪が好き。名前と呼ぶ、甘い声が好き。指通りのいい綺麗な髪が好き。笑い上戸なところが好き。ついつい口に出し過ぎちゃうところが好き。普段は物腰が柔らかくて穏やかなのに、案外喧嘩早くて、少し短気なところが好き。怒ると口が悪くなるところが好き。でも、名前と喧嘩した時は先に折れてくれるところが好き。嘘を嘘だと言うところが好き。自分は隠し事をしているのに、相手には隠し事を許さないところが好き。自分の弱さを見せずにいる不器用なところが好き。
 あげても、あげても、キリがない。こんなに好きって出てくるものなのかと、自分でも引いてしまうくらいだ。相当イカれてる。でも、それが、名前の本音だ。

「ぐ、ぅ…でも、私、好きだよ、傑のこと」

 すると、ひゅっと。息を飲む音が聞こえた。首を絞める手が小さく震える。それに、はて、と疑問に思った。また夏油を傷つけるような何かを言ってしまっただろうか。最後くらい、彼のためになれることをしたかったのだけれど。やっぱり上手くいかないなあ、と。名前はどうしようもない自分に落胆した。

「状況分かってるのかな、名前。君、殺されるんだよ、私に。死ぬの、怖くないの?」
「…は、っ…こ、怖いけど、傑のこと、好きじゃなくなる方が、怖い…っ」

 見開かれる切れ長の瞳。その仕草が猫みたいで好きだったな、なんて脳天気なことを考える。また好きが溢れているようだ。でも、死ぬ前だしいっか、とすぐに開き直った。恋する乙女は案外強いのかもしれない。

「ハハ、本当に名前は面白いね」

 夏油は笑う。いつもみたいに大口を開けて、肩を震わせながら。でも、その顔は今にも泣き出しそうにも見えた。
 手を伸ばして、その目元を指でなぞる。冷たい感触はない。でも、この時になってようやく、彼の涙に触れられた気がしたのだ。

「サヨウナラ、名前。私の永遠の夏。私の好きな人」

 ぐっと首に力を込められる。それと同時に、唇を重ねられた。
 カサついた柔らかな感触に目を閉じる。こんな時でも、彼とのキスは気持ちがよくて、好きだという感情が冷えていく胸にじんわりと熱を灯した。いくら彼に望まれたところで、雑巾みたいな味がするなんて言えないな、と。ちょっとだけ泣いてしまった。
 永遠だと信じていた夏が、終わりを迎える。秋の月はきっと綺麗だ。