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正義で腹は膨れぬ

 誰かを助けることが、誰かを傷つけることに繋がるなるなんて、この時の名前は知らなかった。彼の言うとおり、名前はただこの世の不条理を知らぬ、夢見た無知な少女だったのだ。

「苗字さん」

 後ろを振り向けば、何処か緊張したような面持ちをしたメガネの女子生徒がいた。名前と目が合うと、ビクリと体を震わせる。それに釣られて、綺麗に整えられたおさげも同じように揺れた。

「あ、君は確か……」
「この前のお礼、ちゃんとしていなかったので……」

 そう言った彼女は顔を俯かせ、視線をうろつかせる。カチカチに固まった声質とは裏腹に、焼けていないその白い肌はほんのりと淡く色づいていた。すっと差し出されたのは、可愛らしくラッピングされたクッキーの詰め物だった。食欲をそそられるような綺麗なバター色をしたもの、チョコチップが散りばめられているもの、優しい抹茶色をしたもの、チョコのソースでデコレーションされたもの。それを見て、名前は思わず、わあ!っと声を上げてしまった。
 彼女はつい先日鞄の中身を池にぶちまけられていた女子生徒だ。名前は池の掃除のついでと言って、それらの荷物を拾い上げて彼女の元に返したのだ。目の前の女子生徒の言うお礼というのは、その事なのだろう。律儀で、真面目な、いい子だ。

「いいの!?これ!!」
「貴方のために作ったので。いらなかったら、処分致しますが」
「ううん!もらう!ありがとね!!」

 ピカピカの笑顔を向けて素直に喜びを見せる名前に、眼鏡の女子生徒は安心したように胸を撫で下ろした。そして、目を伏せながら、何かを告げようと口をもごもごとさせる。貝殻のような耳が赤く染っている。名前はそれを聞こうと、身を近づけさせた。
 その時だ。

「名前!」

 背後から快活な声で名前を呼ばれる。聞き覚えのある声だ。名前が後ろを振り向くと、そこにはつい先日泣いていた金髪の彼女が笑顔でこちらに駆け寄ってきていた。廊下の窓から差し込む太陽の光を浴びて、金色の髪がキラキラと輝く。まるで、星みたいだ。

「綺羅ちゃん、どうしたの?」

 不破綺羅。つい先日空き教室で泣いていた女子生徒だ。彼女との出会いは、名前が彼女にハンカチを貸したことからスタートした。一見ギャルのような怖い見た目をしているが、話してみると意外にも気さくで優しい人物像をしている。なんだかんだで良い友達関係を築けている子である。

「これ!ありがとう!返すね!」

 彼女から手渡されたのは、泣いている彼女の涙を拭った名前のハンカチであった。ピシッとアイロンまでしっかりとかけられており、花のような甘い香りが漂っていた。ハンカチに載っている熊さんも、心做しか嬉しそうに見える。

「わざわざありがとう!もう大丈夫?」
「大丈夫!名前のおかげよ!」

 そう言ってニカッと笑う笑顔に嘘はなさそうで、名前も同じように笑みを返した。どうやら失意のどん底からなんだかんだ上手く立ち直れたらしい。チークの乗った頬にもう涙のあとは見られない。それを確認してから、名前はほっと安堵した。

「あ、そうだ!綺羅ちゃん、クッキー一緒に食べない?」
「これ?」
「うん!貰ったんだ!あ、君も一緒に食べようよ!」

 そう言って、名前はつい先程まで話していた眼鏡の女子生徒に振り返る。この時の名前は何も考えていなかった。最近仲良くなった友達とさらに親しくなりたいという気持ちと、眼鏡の女子生徒のことをもっと知りたい。そんなポジティブな感情のみで出した提案だった。
 それが、失敗だったのやもしれぬと気づいたのは、振り返った先の彼女の顔を見た時。彼女は顔を真っ青にさせ、絶望を滲ませた瞳で名前を見つめていた。皺になるほどに握りしめられているスカートが彼女の感情を表しているよう。激しい怒りを煮えたぎらせているようにも、深い悲しみに囚われているようにも思えた。

「……何が、ヒーローですか。バカみたい」

 眼鏡の女子生徒はバシン、と名前の手の中にあるクッキーを叩き落とした。眼鏡越しに水分を多く含んだ瞳がこちらを射抜く。それは、どうしてと名前を責めているように見えた。
 そして、彼女は何も言わず、名前に背中を見せるとそそくさとその場を去ってしまった。追いかけねば、引き止めねば。そう思うのに、名前は何もできなかった。追いかけて、引き止めて、どうすればいいのか、何を伝えればいいのか、分からなかったのだ。
 ただ分かることは、名前のためにクッキーを準備してきてくれたいじらしい彼女を傷つけてしまったということ。それだけだった。

「あーーー、ごめん。名前、うちのせいだよね」
「え?」
「……もしかして、まじで気づいてない?」
「何が?」

 綺羅は心底申し訳なさそうに眉尻を下げて、名前に謝罪を告げる。しかし、名前はその意図がさっぱりと掴めなかった。すると、綺羅はぎょっとしたような顔をしたあと、気まずげにその視線を宙に彷徨わせた。

「あの子、ーーー篠田凛の鞄を池に落としたのうちらだからさ」
「え」
「あ、やっぱり気づいてなかった感じ?だよねえ。あの場面を目の当たりにした後なのに、やけに優しく慰めてくれるなって不思議に思ったもん」

 綺羅は地面に落ちたクッキーをひろいあげる。それを悲しげに見つめて、名前の手元に戻す。へらっと笑った顔は、何処か痛ましく、強がっていることがわかった。

「分かってるんだ。悪い事をしたってことは。今更謝ったところで許されることではないことも。本当にダメな人間だよね。だから、きっと男にも、友達にも捨てられるんだよ」
「違うよ!それは、違う!」
「もう、名前に関わるのやめるね。あの子のこと、これ以上傷つけたくないし」

 じゃあね、ありがとう。そう言葉を残して、綺羅は去っていった。ふわりと金髪が寂しげに揺れる。それを、名前はひたすら見送った。
 手のひらには、割れて崩れたクッキーだけが取り残されていた。それを何とか取りこぼさぬようにと、名前はただただそれをぎゅうっと握りしめた。





 こんなことになるはずじゃなかった。そう何度心の中で呟いたことだろうか。
 名前はただ助けたかっただけだ。池に荷物を落とされて呆然としていたあの子も、周囲に裏切られて泣きじゃくっていたあの子も。かっこいいヒーローのように、あの二人を助けて、笑顔にさせたかった。本当にそれだけなのだ。しかし、実際では名前の軽率な行為により、2人を傷つけてしまった。それは、どう視線を逸らそうが、どれほど考えを巡らそうが、紛れもない事実であった。
 頭の中で六道の声が鳴り響く。それは、名前を責めるように、現実を知らしめるように、何度も、何度も。同じ言葉を並び立てるのだ。

"君の描く綺麗な世界はきっと誰かを救う。ああ、でも、きっと誰かを傷つける。無知とは恐ろしいものです"

 上機嫌に弧を描く薄い唇が吐き出す毒。うっとりと細められた瞳に足元を絡め取られそうだ。は、は、と細かく息を吐く。体に力が入らず、ずるりと手から何かが零れ落ちる。それは、池の水を跳ねさせ、再び泥の中へと身を沈めていった。恐らく池の中にあった落し物の一部だろう。跳ねた水が名前の額を汚す。それを、服の袖でゴシゴシと拭った。
 池は一向に綺麗にならない。こんなにもゴミを拾い上げているのに、毎日掃除をしているのに、濁りは消えない。いつもならばどうと思わないだろう。どんなに時間をかけても名前は気にせず毎日掃除に取り掛かっていたはずだ。しかし、センチメンタルに陥った今の名前からしてみれば、それさえもまるでお前のせいだと、お前には何もできやしないのだと嘲笑われているかのように思えた。とんだ被害妄想だ。しかし、この時の名前は馬鹿真面目にそう信じきっていた。
 池の中で立ちつくす。泥の中のゴミを拾い上げることもなく、ただぼんやりと濁った水面を見つめていた。それに大した意味などなかった。

「随分と意気消沈しているみたいだ」
 
 すると、今は聞きたくないような、しかし心のどこかでは望んでいたかのような、そんな声が聞こえてきた。緩慢な動きで背後を見やる。そこには、予想通り六道の姿があった。
 池の近くに置いた名前の鞄の横に優雅に座り込んでいる。その手には、崩れたクッキーの袋があった。今はそれを見るのが辛くて、カバンの奥底に閉じ込めていたはずだ。なのに、名前に見せびらかすようにその手に乗せているものだから、本当に油断も隙もない男である。

「クッキー作りに失敗でも?案外繊細なんですね、君」
「……私のことなんだと思ってんの?」
「腹は立ちますが、チョコを貢いでくれる女としか」
「思ったより最悪な印象だった!!」
「嘘ですよ」

 六道は悪びれる様子もなく、クスクスと笑う。こちらを見つめる無機質な瞳は名前の内側まで全てを見透かしているようで、なんだか恐ろしく思えた。何故だろう。この前あった時はそんなこと1ミリだって感じなかったのに。

「六道くんの言ってた通りだった。私、助けたつもりになってたけど、助けられてなかった。逆に傷つけてた」

 だからだろうか。ぽつりと、案外素直に言葉は漏れた。まるで、懺悔をするかのように。許しを乞うように。
 その呟きを耳に入れたであろう六道は口を閉ざしていた。ただこちらを静観している。言葉を選んでいるのか、何を考えているのか、名前には分からない。だが、六道の綺麗な顔を今はまともに見ていられる気がせず、名前はやはり水面をじっと見つめることしか出来ずにいた。

「例えばの話ですがーーー」

 どれだけの時間が経ったのかは分からない。もしかしたらものの数秒かもしれないし、何時間もかかっていたかもしれない。しかし、名前にとっては永遠に近いような長い時間だったと言えよう。それを経て、六道はようやく口を開いた。

「彼女たちが君の目の前でまた同じような目にあっていたとしましょう。さて、君はどうする?」

 まるでこちらを試すような物言いだ。名前がふと顔を上げると、片方だけ見えている湖面のような瞳は彼の手にある崩れたクッキーを眺めていた。その目に浮かぶ感情は果たしてなんなのか。この池のように濁りきった状態の心と目ではそれを見定めることは出来ない。

「もし、あの二人が同じ目に遭ってたら、」

 荷物を池にばらまかれた眼鏡の女子生徒は呆然としながらも打ちひしがれている。綺羅は周囲の裏切りに塞ぎ込みしくしくと泣いている。そんな2人を、名前は。

「きっと、もう1回助けるよ」

 名前は何度だって池の中に沈んだ荷物を引き上げるし、何度だって頬を伝う涙にハンカチを差し出すだろう。例え、それが2人を傷つけることになったとしても。また同じような後悔と罪悪に心が苛まれようとも。名前は馬鹿みたいに同じことをする。ヒーローとしてこの手をそれぞれに差しのべる。

「ええ、そうでしょうね」

 名前の答えに、六道は小さく笑った。これが正解なのかどうかは分からない。しかし、六道は何処か満足気だった。いや、安心したかのようというべきか。

「正義は万人を救いません。救われるのはその正義に同意を示したものだけだ。その同意を示す者が多かった存在を、人はヒーローと呼ぶのでしょうね」

 六道は手の中にあるクッキーを1枚取り出す。チョコチップの混じったクッキーだ。

「私の正義は間違ってたのかな」
「知りませんよ、そんなこと」
「六道くんは?私の正義、どう思う?」
「僕は優しいので、傷ついた心にさらに塩を塗るような発言はしません」
「答え、言ってるようなもんじゃん」

 さく、と。音を立てて、六道はクッキーを齧る。もぐもぐと白い頬が上下する。人離れした美しいかんばせが、何かを頬張っている時だけは何処か親近感を湧かせる。ぺろりと薄い舌が唇を舐めた。

「互いの正義が相違することなんて、よくある陳腐な話ですよ」

 六道はなんてことないかのようにそう言った。空は青いと、そこに浮かぶ雲は白い、と。当たり前のことを言うみたいに。あまりにも簡単に言うものだから、名前はなんだか拍子抜けしてしまった。君の今抱えている問題なんて、誰にでもよくある話なのだから気にするな、なんて。そう言いたかったのかなと想像するのは、些か前向きがすぎるだろうか。

「六道くんって慰め方下手だね」
「慰めてませんからそれは仕方ありませんね」
「泣きついていい?」
「結構。君、臭いもの」

 六道はバクバクとクッキーを食べる。人のものなのに遠慮がない。もう少し甘い方が良かった、なんて。見た目の割に彼は結構甘党だ。これがギャップというものなのだろうなあ、と名前はここでようやく声を出して笑えた。
 彼が名前の憂鬱な気持ちまで全部まとめて噛んで、飲み込んで、消化してくれているみたいで。名前はなんだか心が軽くなった気がした。
 
「やっぱり六道くんは優しいよ。ありがとう」

 そうお礼を告げると、六道は珍獣を見るような目をこちらに向けて、心底嫌そうに顔をゆがめた。