ドアを開けると、涼しくさせた部屋のソファの上に仰向けに寝っ転がった一虎くんがいた。彼は入ってきた私に気がつくとスマホから視線を上げて「おかえりー」と間延びした声で言った。
「たっ、ただいま」
 家に帰ったら誰かが待っていて「ただいま」「おかえり」と言葉を交わすということにまだ全くといっていいほど慣れていない私は案の定声を上ずらせてしまいそれを一虎くんに笑われる。
「いつになったら慣れんの、それ」
「なんのこと」
「オレにおかえりって言われること」
 オマエの恥ずかしがるツボがよくわかんねえわ、と言って「そんなとこで突っ立ってないで座れば」と身を起こした一虎くんは空いたスペースをポンポン叩いた。その様子は真の家主よりも家主然としている。私の家なんだけどなぁ。
 一虎くんと仲直りして数日後、私は彼に合鍵を渡した。渡すのはちゃんと付き合えたときだと思っていたのにその予定を早めた理由は、一虎くんがあれから毎日、たぶん一時間じゃすまないくらいもの間、家の前で私が帰ってくるのを待っているからだった。ただでさえタートルネックを限界まで引き上げていて暑そうなのにずっとこんな風にいたらこれから先本格的に夏に入ったときいつか熱中症で倒れてしまうと危惧した私は「体に悪いし一虎くんには一虎くんの時間があるんだから私のことを毎日待ってなくていいよ」と説得を試みたが彼は頑として首を縦に振らなかったので倒れられるよりかはましだからと鍵を渡す運びになったのである。なんとなく上手いこと流されたような気がしないでもないけど「ありがと」と鍵を握り締めて微笑む彼の顔がよかったので私としてはそれでもういい。
「今日忙しかった?」
「え、べつにそんなにだったけど。なんで?」
「帰ってくんのいつもより遅かったから」
「授業長引いちゃって電車乗り遅れたの」
「そ、ならいいけど」
 いいけどと言った割には何か思うところがある様子で、けれども一虎くんはそれ以上何も言うことなく私の髪に手を伸ばした。指でパシパシされて毛先が揺れる。猫じゃらしで遊ぶ猫みたいだ。
「暑そ」
「一虎くんも人のこと言えないよ。私より長いじゃん。それにタートルネックだし」
「オレは根性あるから平気」
「暑いのは否定しないんだ」
「根性あっても暑いもんは暑いだろ。これ、切らねえの?」
「うーん。必要だったから伸ばしてただけなんだけど変に愛着湧いちゃったからなぁ。なんか今さら切るの勿体ない気がして、結局そのままなんだよね」
 お客さんのなかに長い髪を引っ張るのが好きな人がいたから。ロングヘアのほうがウケがよかったから。子どものころからずっとショートやボブあたりの長さだった私が髪を伸ばしたのはそんななんとも可愛らしくない理由だった。理由がなくなってしまった今ではこの長さを継続する必要ももう無いわけだけど、なかなかに綺麗に伸びたのでばっさりやってしまうのが躊躇われて結局切れないでいる。
「一回結んでみたんだけど今までやったことなかったからかあんまり上手くいかなくて諦めた」
「じゃあオレやってやろっか」
 お試しな。もう今日はどこにも出る予定ねえし多少変になってもいいだろ、と一虎くんは手を出した。その手が意味するところがわかったのでその上にポーチから取り出した櫛を乗せる。
「ゴムは?」
「持ってない」
「しかたねえなぁ」
 一虎くんが自分のお団子をぐいと掴んだ。それは羨ましいほどにするする解け、彼の指に輪っかだけが一本残される。私は彼がやりやすいように背を向けた。
「うわっ、ふわふわ」
 一虎くんは「痛かったら言って」と一通り髪を櫛で梳いてからぐっと持ち上げるのを何度か繰り返した。途端に首元が冷気が通ってすっと涼しくなった。
「おー、いいじゃん」
「似合ってる?」
「うん。かわいい」
 振り向くとさっきまでの私みたいになった一虎くんが笑っていた。
「結び方、て言ってもそんな難しいことじゃねえけど教えてやるしゴムないならそれやるからさ、これから結んでいったら」
「え、いいの?」
「うん。オレすぐ失くすからいっぱい予備持ってるし。一本減ったところでべつに大丈夫。あ、使いかけ嫌だった? それなら明日新しいやつ持ってくるわ」
「……ううん。これでいいよ。ありがとう」
 アクセサリーでもなんでもないただの百均の髪ゴムなのになんでかわからないけど嬉しくなって私はまたからかわれないように顔を俯けた。それを「どしたの」と覗き込んできた一虎くんがぴたりと固まる。
「……オマエの恥ずかしがるツボほんとわかんねえ」
 そして、少しだけ赤くさせた顔でそうぽつりと呟いた。

愛の魔物をてなずけたい

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